72 菅家文草〈月夜見梅花〉
 
                参考:太宰府天満宮文化研究所発行「菅家の文華」
 
 − 中央官僚前期 − 
 
〈月夜見梅花〉 −  月夜梅花を見る
  于時年十一。厳君令田進士試之。予初言詩。故載篇首。 − 時に年十一。厳君田進
  士をして之を試みしむ。予初めて詩を言ふ。故に篇首に載す。
月耀如晴雪     月の耀カガヤきは晴れたる雪の如く
梅花似照星     梅の花は照れる星に似たり
可憐金鏡転     憐れむ可し、金鏡転じ
庭上玉房馨     庭上テイジョウに玉房ギョクボウの馨カオれるを
 
 十一才の時、島田忠臣の試験に答えたもので、これが初めての作詩だとある。
 
お月様はきらきら輝く雪みたい。
梅の花はぴかぴか光る星みたい。
ああ素敵、空にはお月様の光が眩クルメき、
庭には梅のいい匂いが漂っている。
 
 
〈臘月独興〉   −  臘月ロウゲツ独興ドクキョウ
  于時年十有四 − 時に年十有四。
玄冬律迫正堪嗟     玄冬律リツ迫セめて、正に嗟ナゲくに堪へたり
還喜向春不敢余(目偏+余) 還カエって喜ぶ、春に向ひ敢て余(目偏+余)ハルカならざる
            を
欲尽寒光休幾処     尽きんと欲する寒光、幾イズれの処にか休する
将来暖気宿誰家     来らんとする暖気、誰が家にか宿る
氷封水面聞無浪     氷は水面を封じて、聞くに浪なく
雪点林頭見有花     雪は林頭に点じて、見るに花有り
可恨未知励学業     恨むべし、未だ学業に励むことを知らずして
書斎窓下過年華     書斎窓下、年華ネンカを過すを
 
早ハヤ冬の日も残り少なく、今年も逝かんとする歎かしさ、
されど春遠からじと云う嬉しき面もあり、
尽きんとする冬の陽は、今後何処で休息するやら。
来らんとする春の陽は、今誰の家に宿っているやら。
氷は水面を閉ざして、聞けども浪の音なく、
雪は梢にくっ付いて、花かと見える。
悔しきことよ、学業に精も出さずて、
ただ書斎に閉じ篭もるのみで、うかうかと年月を過ごすこと。
 
 前聯の「尽きんと欲する寒光、幾れの処にか休する。来らんとする暖気、誰が家にか
宿る」の対句は、日月季節を旅人に見立てた表現で、先例は李白の「春夜桃李の園に宴
するの序」の中に、「天地は万物の逆旅ゲキリョ(宿屋)にして、光陰は百代の過客(旅人
)なり。」とある。
 後聯の「氷は・・・・・・雪は・・・・・・」の対句は、和漢朗詠集巻五冬の部に採られている名
句で、
 
 雪ふれば木ごとに花ぞ咲きにける いづれを梅と別きて折らまし(古今、紀友則)
 
の風情である。
 
 
〈残菊詩〉  −  残菊の詩
  十韻于時年十六 − 十韻時に年十六。
十月玄英至     十月、玄英至り
三分歳候休     三分、歳候サイコウ休す
暮陰芳草歇     暮陰、芳草歇ツき
残色菊花周     残色、菊花周アマネし
為是開時晩     これ開く時の晩オソきが為なり
当因発処稠     当マサに発ヒラく処の稠チュウなるに因るべし
染紅衰葉病     紅に染みて、衰葉病ヤみ
辞紫老茎惆     紫を辞して、老茎惆シボむ
露洗香難尽     露洗へど香尽し難く
霜濃艶尚幽     霜濃けれど艶尚ほ幽カスカなり
低迷馮砌脚     低迷して、砌脚セイキャクに馮ヨり
倒亜映欄頭     倒亜トウアして、欄頭ラントウに映ず
霧掩紗燈点     霧掩オオひて、紗燈シャトウ点じ
風披匣麝浮     風披ヒラきて、匣麝コウジャ浮ぶ
蝶栖猶得夜     蝶栖スみて、猶ほ夜を得エ
蜂採不知秋     蜂採トりて、秋を知らず
已謝陶家酒     已に陶家の酒を謝す
将随麗(麗+邑オオザト)水流 将に麗(麗+邑オオザト)水レキスイの流れに随はむ
愛看寒咎(日冠+咎)急 愛イツクしみ看る、寒咎(日冠+咎)カンキ急なるとき
秉燭豈春遊     燭を秉トる、豈アニ春遊のみならんや
 
十月 − 冬の季になり、
この冬は陽気も衰休の期トキである。
陰雲の陽ヒに芳カグワしい草も枯れ果てたが、
菊だけは、尽スガれた色で咲き残っている。
それと云うも、菊は開花の時が遅く、
それに密生して咲くからであろう。
枯れかかった葉は赤茶け、
古びた茎は紫も褪アせた。
さりながら、朝な朝な露しとどに結ぶも香りは失ウせず
霜深く置くも艶色は消えぬ。
或いは重く垂れて、砌石ミギリイシの辺ホトリに、
或いは仆れかかって、欄干の辺りに、
霧垂れ込めては、白き練絹ネリギヌに包まれた燈火の如く(黄菊)
風渡っては、麝香ジャコウの香りを撒き散らしたかのよう。
蝶は未だに花間を夜の宿とし、
蜂はなおも花間に蜜を求めて飛んで、秋の過ぎたも知らぬげ、
既に重陽の節の菊酒は過ぎたが、
菊水を飲んで長寿の縁ヨスガとしたい。
暮れやすい冬の日差しの中に、しみじみと残菊を憐れぶ。
燭を執って夜遊ぶのは春夜に限ろうか。
 
 「已に陶家の酒を謝す。」「陶家」は中国南北朝の陶淵明のこと。南史隠逸伝に「陶
潜、彭沢の令と為る。印綬を解きて職を去り、帰去来の辞を賦し、以ってその志を表は
す。九月九日、酒無し。宅辺に出でて菊の叢中に坐す。之を久しうして、王弘の酒を送
りて至るに逢ふ。即ち就いて酌み、酔うて後に帰る」とある。
 「将に麗(麗+邑)水の流れに随はむ。」謡曲菊慈童で著名な故事。即ち中国南陽の
麗(麗+邑)県を流れる谷川の水を飲む者は、皆長寿を得たが、それは水源地に大菊が
咲き、その露が水に流れ込んでいるためであると云う。「麗(麗+邑)県」は謡曲では
「れっけん」と訓み、菊慈童の出典になった太平記巻十三では「てっけん」と訓んでい
る。
 「燭を秉る、豈春遊のみならんや。」魏の文帝の「古人燭を秉って夜遊ばんことを思
ふは、良マコトに以ユエあるなり」を採る。李白の「春夜桃李の園に宴するの序」にも見え
る。冬の日は短い故、残菊を賞するにも、燭火を点して夜を日についで賞したいと思う
のである。
[次へ進む] [バック]