118 菅家後草〈夜雨〉
 
                  参考:太宰府天満宮学業講社発行「菅家後草」
 
〈夜雨〉   −  夜雨
春夜漏非長     春夜漏ロウ長きにあらず
春雨気応暖     春雨気応マサに暖かなるべし
自然多愁者     自然に愁多き者は
時令如乖艮(獣偏+艮) 時令乖ソムき艮(獣偏+艮)モトるが如し
心寒雨亦寒     心寒うして雨も亦寒し
不眠夜不短     眠られずして夜短かからず
失膏槁我骨     膏カウを失ひて我が骨を槁コウし
添涙渋吾眼     涙を添へて吾が眼を渋シフす
脚気与瘡癢     脚気と瘡癢シャウヨウと
垂陰身遍満     垂陰スイイン身に遍アマネく満つ
不啻取諸身     啻タダに諸コレを身に取れるのみにあらず
屋漏無蓋版     屋漏って蓋オホふ版イタ無し
架上湿衣裳     架上衣裳を湿し
篋中損書簡     篋中ケフチウ書簡を損ず
況復厨児訴     況イハんや復厨児チュウジ訴ふ
竃頭爨煙断     竃頭サウトウ爨煙サンエン断つことを
農夫喜有余     農夫は喜び余有り
遷客甚煩懣     遷客は甚だ煩懣ハンモンす
煩懣結胸腸     煩懣胸腸を結ククり
起飲茶一椀     起って茶一椀を飲む
飲了未消磨     飲み了って未だ消磨せざるに
焼石温胃管     石を焼きて胃管を温む
此治遂無験     此の治遂に験シルシ無し
強傾酒半盞     強ひて酒半盞ハンサンを傾く
且念瑠璃光     且瑠璃光ルリクワウを念じ
念々投丹欸     念々丹欸タンクワンを投ず
天道之運人     天道の人を運らす
不一其平坦     一に其れ平坦ならず
 
 この詩の題は、類聚本には「雨の夜」とある。五言の古調十四韻の詩。
 
  − 春の夜は長いと云う程でもない。また春雨の今宵は暖かである筈なのに、自分の
ように愁の多い者に対しては、季節さえも背くものなのか。心が寒いため春雨の夜も温
かには覚えず、眠れぬので夜が長く覚えてならぬ。
 「漏」は、古えの時刻を図るのに漏刻(水時計)を用いていたことから水時計のこと。
  − 自分の五体は骨の髄まで精気を失っているのに、涙だけは不思議に涸れずに絶え
ず流れるので、目が泌みて痛い位だ。然も脚気と瘡癢カサのため、全身は醜く水腫れさえ
している。たゞに身体に水気が多いばかりでなく、雨漏りするのに穴を塞ぐ板さえない
ので、屋内までもが − 架上の衣裳は湿り、篋ハコ中の書は傷んでいる。
 加えるに炊事係は、竈カマドの火も燃え着かぬとて悔やんで来る。農夫は慈雨だと喜ぶ
この雨も、流されの身には煩悶の種である。煩悶の末は呼吸苦しくなるので、台所に行
ってお茶一杯を飲むのだが、お茶位で今度は胃が痛み出す始末、慌てゝ温石オンジャクを入
れるのである。この温石療法も結局効き目が見えぬので、麻酔剤にと、好みもせぬ酒半
盞を飲み込むと共に、薬師瑠璃光如来の御名を唱えて、この苦患を救い給えと心底篭め
て念ずるのである。
 あゝ人の運命は天の思し召しと云うが、私には何と辛い運命を与えなさったのか。
 
 この詩に拠れば、公は脚気と瘡癢と、胃痙攣みたいなものを併発されたらしい。
 生苦に加えるに老苦あり、病苦あり、無残な御境遇である。
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