119 菅家後草〈題竹床子〉
 
                  参考:太宰府天満宮学業講社発行「菅家後草」
 
〈題竹床子〉   −  竹の床子シャウシに題す
彦環贈与竹縄床     彦環ケンクワン贈り与ふ竹縄チクジョウの床シャウ
甚好施来在草堂     甚だ好し、施ウツし来って草堂に在るに
応是商人留別去     応マサに是れ商人の留めて別れ去りしなるべし
自今遷客看相将     今より遷客看て相将シタガふ
空心旧為遥踰海     空心クウシン旧フりたるは遥に海を踰コえたるが為なり
落涙新如昔植湘     落涙新なるは昔湘ショウに植えたるが如し
不費一金得唐物     一金を費さずして唐物を得たり
寄身偏愛慣風霜     身を寄せて偏へに愛アハレむ風霜に慣れんことを
 
 監視付きの身ではあるが、この地にも公に心を寄せる者がぼつぼつ出て来た。先に山
僧が居た、百姓屋の子供も居た、そして今度は新たに通事の李彦環が現れた。此処は、
大陸との交通の要衝であるから、官制にも太宰府に「大唐通事」が置かれることになっ
ている。今、福岡市郊外に曰佐オサ村がある。「おさ」は通釈の古名であるので、此処ら
に通釈が居住していたと想像される。彦環が公に贈り物をしたのは、公の詩名を尊敬し
てのことか、その徳を慕ってのことか不明であるが、この竹の床子は甚イタく喜ばした。
白楽天にも縄床に腰掛けて賦した詩があるので、これだけが配流されての取り柄と思わ
れたであろう。
 
 彦環が送り届けて呉れた竹の床子を草堂に据えたところ、中々似付かわしい。この床
子は恐らく唐の商人が彦環の許に置き去りにして行ったものだろうが、今日以後は自分
の傍に置くことになった。
 つらつら考えるに、この床子も自分の境涯に似ていることだ。この竹の内部が古びて
いるのは、故郷から遥々海を越えて来たためであろうし、また、この竹の斑点が涙をこ
ぼした痕かのように見えるのは、故郷を恋い慕うからであろう。
 自分は一金をも費やさないで、この得難い唐物を手に入れ得たのは嬉しい限りだ。今
後は、この床子に身を寄せて愛イトオシみ、同じ境遇のこの床子が、風霜に傷むことから護
ってやろうと思う、と優しい心遣いの表れた詩である。
 
 「落涙新なるは昔湘に植えたるが如し」。博物誌に「尭の二女は舜の二妃たり。湘夫
人と曰ふ。舜崩じ(蒼野にて)二妃啼きてを涕を揮ひ、湘竹尽く斑点す」とあるによる
ので、尚書に拠れば、いわゆる娥皇・女英の尭の二女が夫の舜を慕い、湖水に投じて死ん
だが、その時涙を注いだ湘水の辺ホトリの竹は斑を生じたと云う。この湘君・湘夫人は湖水
の神として祀られている。伝説に過ぎないが、後世文人の好題目になっている。
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