117 菅家後草〈種菊〉
 
                  参考:太宰府天満宮学業講社発行「菅家後草」
 
〈種菊〉     −  菊を種う
青膚小葉白牙根     青膚セイフの小葉、白牙の根
茅屋前頭近迫軒     茅屋バウヲク前頭近く軒に迫る
将布貿来孀婦宅     布を将モッて貿アガナひ来る孀婦サウフの宅
与書要得老僧園     書を与へて要め得たり老僧の園
非曽種処思元亮     曽って種うる処元亮ゲンリョウを思ふに非ず
為是花時供世尊     是れ花時世尊に供せんが為なり
不計悲愁何日死     悲愁ヒシュウ何れの日か死せんことを計られざれども
堆沙作堰荻編垣     沙を堆ウヅタカくし堰セキを作り荻を垣に編む
 
 蒼い茎、小さな葉、牙のような白根の付いた菊の苗を、草屋の前庭軒場近くに植えた。
この苗の一半は寡婦の家から布と換えて来たもの、一半は手紙で老僧の花園から頒けて
貰ったものだ。
 私は菊にはあまり趣味がなかったので、愛菊家淵明は尊敬する人物ながら、彼を慕っ
て菊を植えてみたこともなかった。今度とてこれを植えるのは、他に何もないのでせめ
てこの菊なりと仏様にお供えしようとしてである。一期の極まり明日をも知れぬ身とて、
この菊が咲くまで生きておれるものかどうかも分からぬが、まずまず、土を盛り上げ、
堰を作り、荻で囲んで、出来るだけの手入れはしようと思うと。
 この詩になると、いよいよ諦観に近い心境に達している。
 「元亮」は東晋の陶潜の号、別に淵明・五柳先生・靖節先生の号がある。彼の詩に「菊
を釆る東籬の下、悠然として南山を見る」とか、「秋菊佳色有り、露に邑(手偏+邑)
ひて其の英を綴(綴の糸偏の代わりに手偏)トる」とか、菊を愛好する佳句が多い。宋の
周惇頤は愛蓮の説の中で、菊を愛する淵明の清節を賞している。帰去来の辞・桃花源の記
・五柳先生伝等、世に愛誦せられている。
 
 
〈山僧贈杖。有感題之〉 − 山僧杖を贈る。感有って之に題す
昔思霊寿助衰羸     昔は思ふ、霊寿レイジュの衰羸スイルイを助けんことを
豈料樵翁古木枝     豈樵翁セウヲウ古木の枝を料ハカらんや
節目含将空送老     節目セツモク含み将モッて空しく老を送る
刀痕削着半留皮     刀痕削り着きて半ば皮を留む
扶持無処遊花月     扶持して花月に遊ぶ処無し
抛棄有時倚竹籬     抛棄テッキ時有ってか竹籬に倚す
万一開眉何事有     万一眉を開くも何事か有らん
暫為馬被小児騎     暫く馬と為して小児に騎ら被シめん
 
 昔は老年になったら、霊寿の杖を突いて霊果を得ようとは思っていたが、まさか樵翁
の用いるような古木の枝を杖にしようとは、思いも掛けぬところだった。
 「霊寿」は漢書の願師古の註に拠れば、「霊寿は木名。師古曰く、木、竹に似て枝節
有り。長さ八九尺、周り三四寸に過ぎず。自然に杖節に合するあり。削治を用いざるな
り」とある。
  − 今度山僧から贈られた杖は、節目も露アラワな荒削りの杖で、皮も未だ半分付いてい
る。此処では杖に縋スガって逍遥することもないので、竹の垣根に立て架けて置いてい
る。万一、今の愁の消ゆる日が来るとしても、この衰え果てた身には、外出も覚束ない
ので、まあまあ子供等の竹馬代用に借して置こう。
 もし「万一眉を開かば何事か有る」と訓めば、万一赦免せられて都に帰ることがある
とすれば、その時は再び栄位に就くだろうから、霊寿の杖も意の如くなろうので、こん
な杖の用事はないとの意になるが、通釈の方が勝ると思った。
 
 山僧は太宰府鎮護の七大寺中のどれかの寺僧であろうが、とにかく、このようにして
公を慕い厚意を示す者も現れ始めた。「桃李もの言はず、下自から蹊を成す」の如くで
ある。
 
〈二月十九日〉  −  二月十九日
郭西路北賈人声     郭西路北、賈人コジンの声
無柳無花不聴鴬     柳無く花無く鴬を聴かず
自入春来五十日     春に入ってより来コノカタ五十日
未知一事動春情     未だ一事の春情を動かすを知らず
 
 郭の西、路の北にあたって、物売りの叫び声が聞こえるだけで、桜もなく梅もなく、
鴬の音も聞かぬ我が配所は、春になってから五十日も過ぎるのに、一つも春らしい気分
を起こさせるものもない。殺風景なことよ。
 都の春を歌った和歌に、
 
 見渡せば柳桜をこき混ぜて 都は春の錦なりけり
 
がある。古今集にも入っているが、素性法師の有名な歌だから、恐らく公は在京時代か
らご承知であって、この和歌が念頭にあって作られたものかと思える。
 「春に入ってより来五十日」は立春以来とすれば六十日にもなるが、概数を言ったも
の。
 
 公の筑紫での詠に次の和歌がある。
 
 谷深み春の光のおそければ 雪につゝめる鴬の声(新古今集)
 
 公の谷の深さは底知れず、何時の日にか春光達し、天日を仰ぐことであろう。
 また、
 
 みちのべの朽木の柳春くれば あはれ昔と忍ばれぞする(新古今集)
 
 芽の吹くこともない自分を、生きの良イい柳と対比して詠われたものである。
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