108 菅家後草〈叙意一百韻〉
 
                  参考:太宰府天満宮学業講社発行「菅家後草」
 
〈叙意一百韻〉 −  意を叙ノぶ一百韻イン
 
(一)
生涯無定地     生涯は定地無し
運命在皇天     運命は皇天に在り
職豈図西府     職は豈西府を図らんや
名何替左遷     名何ぞ左遷に替カハれる
貶降軽自芥     貶降ヘンカウせらるること芥アクタよりも軽く
駈放急如弦     駈放クハウせらるゝこと弦ゲンよりも急なり
典(立心偏+典)赧顔逾厚 典(立心偏+典)赧テンタンしては顔逾々イヨイヨ厚く
章狂踵不旋     章狂ショウキョウして踵クビス旋メグらさず
 
 この詩は、左降の宣旨を受けてから太宰府到着までの危険・心労・屈辱から、配所に充
てられた南館の荒廃と生活の不自由さ、左遷についての感想、太宰府官人の腐敗、老荘
を憧れる心境、配所で過ごした夏季と秋季とに於ける自然の景とそれへの感想、五十年
間の回顧等を、興奮と悲涙とで綴った、二百句から成る百韻の五言古詩であるが、余り
に長いので便宜十段に分けた。
 
 公は言う − 
 人の一生の運命は不安定で、朝アシタ、夕を図られざるもの、それは一に天帝の思召のま
ゝに左右せられるものである。左遷せられて太宰権帥になるなどとは、夢にも思わぬと
ころであった。
 今、あの当時を回顧すると、塵芥チリアクタよりも軽々しくぽいと捨てられ、追い立てられ
るようにして京を放逐されたことではある。あまりの事にただ赤面し、慌てふためくば
かりであった。
 「典(立心偏+典)赧」は恥じ入って赤面すること。「章狂」は周章狂惑、慌てて取
り乱すこと。
 
(二)
牛岑(三水偏+岑)皆坎穽 牛岑(三水偏+岑)ギウシンは皆坎穽カンセイ
鳥路惣鷹亶(亶偏+鳥) 鳥路は惣て鷹亶(亶偏+鳥)ヨウセン
老僕長扶杖     老僕は長トコシへに杖に扶タスけられ
疲驂数費鞭     疲驂ヒサンは数々シバシバ鞭を費やす
臨岐腸易断     岐ギに臨んで腸断へ易く
望闕眼欲穿     闕ケツを望んで眼穿たんと欲す
落涙欺朝露     落涙は朝露を欺き
啼声乱杜鵑     啼声テイセイは杜鵑トケンを乱る
街衢塵羃々     街衢ガイク塵チリ羃々ベキベキ
原野草千(草冠+千)々 原野草千(草冠+千)々センセン
伝送蹄傷馬     伝デンには送る、蹄ヒヅメの傷める馬
江迎尾損船     江には迎ふ、尾ビの損ぜる船
郵亭余五十     郵亭イウテイ五十に余り
程里半三千     程里三千に半す
税駕南楼下     駕を税トく南楼の下
停車右郭辺     車を停トドむ右郭イウカクの辺
宛然開小閣     宛然エンゼンとして小閣を開き
覩者満遐阡     覩ミる者遐阡カセンに満つ
嘔吐胸猶逆     嘔吐オウトして胸猶ほ逆サカラひ
虚労脚且戀(病垂+戀) 虚労キョラウして脚アシ且マた戀(病垂+戀)ヤむ
肌膚争刻鏤     肌膚キフは争ふて刻鏤コクラウす
精魄幾磨研     精魄は幾ばくか磨研マケンせる
信宿常羇泊     信宿シンシュク常に羇泊キハク
低迷即倒懸     低迷して即ち倒懸タウケンす
村翁談往事     村翁ソンヲウは往事を談じ
客館忘留連     客館に留連リュウレンを忘る
妖害何由避     妖害エウガイは何ぞ避くるに由ヨシあらん
悪名遂欲蜀(益偏+蜀) 悪名は遂に蜀(益偏+蜀)ノゾかれんと欲す
未曾邪勝正     未だ曾カツて邪は正に勝たず
或以実帰権     或は実を以て権ゴンに帰す
 
  − 斯くして弦を放れた矢よりも早く京を追われたが、なお私の行道ユクテには、絶えず
危険と奸策が設けられていて、生命の危険を感ずることも屡々であった。
 「牛岑(三水偏+岑)は皆坎穽、鳥路は惣て鷹亶(亶偏+鳥)」。「牛岑(三水偏+
岑)」は牛の足跡の溜まり水。「鷹亶(亶偏+鳥)」は鷹と隼ハヤブサで、どちらも小鳥を
捕らえて殺すことから、誅逐の力ある者に喩える。左伝に「礼無くして其の君を干オカす
者を見れば、之を誅すること鷹亶(亶偏+鳥)の鳥雀を逐ふが如し」とある。この二句
は牛の足跡の溜まり水位に思っていると、それが事実は生命取りの落とし穴であり、無
心に小鳥の飛び行く道には鷹や隼が待ち伏せているの意味で、行く処至る処に敵の奸策
が設けられていることに喩えている。
 
 左遷に至るまでの事情も、文字通り詩の通りであったが、茲は追われて都を出る時、
わざと道路に穴を掘って車を転覆させようとしたり、石を車に投げ込むような、迫害を
加える者がいただろうと想像されるので、そんな類タグイを指すのであろう。竹田出雲作
の「菅原伝授手習鑑」は、勿論後世の作ではあるし潤色も多かろうが、公が途中刺客に
襲われる場面や、一夜の宿を追い立てられる、痛ましい場面を描いている。同書中に、
河内の土師ハジの里なる道明寺 − 菅原累代の菩提寺で、時に伯母覚寿尼も住んでいた 
− に立ち寄られ、警固の武士共が出発を急き立てるのを無情と思われて詠われたと云
う、
 
 なけばこそ別れを急ぐとりの音の 聞えぬ里のあかつきもがな
 
の歌は、公の作であるか否かは不明であるが、この種の伝説は各地に残っている。
 
  − 忠僕白太夫は七十五の老躯とて、気は丈夫でも、杖に縋スガって早く歩けず、馬は
疲れ果てて、鞭打っても中々進まない、それを警固の武士ははしたなく罵ノノシって急き立
てるので、はらはらしながらも道の捗ハカドらぬもどかしさ。岐路を通過するに連れて、
いよい都と遠離る悲しみに、
 
 君が住む宿の梢をゆくゆくも かくるゝまでにかへり見しはや(大鏡・拾遺集)
 
と眼のほぐる程見つめたことである。
 落つる涙は朝の露よりも繁く、嗚咽の声は杜鵑の啼声にも似て血を吐くばかり。砂塵
もうもうと立ち込むる町を過ぎ、草茫々の野を行くに、太政官から布告があったことと
て、駅ウマヤで蹄の傷んだ馬しか与えられず、渡し場では半壊の舟。
 「伝には送る蹄の傷める馬、江には迎ふ尾の損ぜる舟」。公の流さるゝ時、太政官か
ら諸国に達した文書に、「・・・・・・山城摂津の国、食馬を給することなかれ。路次の国も
また宜しく之に准ナゾラふべし」とあるので、途中は完全な舟馬は与えられなかったこと
が分かる。
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