106 菅家後草〈九日口号〉
 
                  参考:太宰府天満宮学業講社発行「菅家後草」
 
〈九日口号〉 −  九日口号コウゴウ
一朝逢九日     一朝九日に逢ふ
合眼独愁臥     眼を合せて独り愁臥シュウグワす
菊酒為誰調     菊酒誰が為に調へん
長斎終不破     長斎チャウサイ終に破らず
 
 この詩は、九月九日の重陽の佳節に、口ずさんだ五言絶句である。
 「重陽」とは、九の陽数が重なるところから来た名で、別に「菊節句」と云うのは、
この日菊酒を飲み、或いは菊綿や菊花で肌を撫でて、長寿を祈る慣例があったからであ
る。その起源については、次のような伝説がある。周(中国)の文帝は若い頃、人相見
に占わせたところ、十五年後には死ぬと知らされ大いに悲しんだ。時に彭祖ホウソと云う者
が居た。彼は周の穆王ボクオウの侍童であったが、罪を得て麗(麗+オオザト)県に流さ
れ、此処で菊の露の流れ込む川水を飲んで仙人になり、今では八百余歳になるのに、容
貌は少年の如くであった。彼は文帝のために麗(麗+オオザト)県の菊を献じ、之を服
した帝は七十の齢を保つことが出来たとの伝説により、漢代から菊を酒に浸して飲むこ
とが行われた。
 我が朝でもこの日は、宴を催した。「菊花の宴」と云う。朝廷では紫宸殿を飾り、天
皇出御、皇太子王卿参入して殿上に着き、博士を召して勅題を賜うて文を作らせる。や
がて御膳が出て天皇以下祝わせられる、艶アデやかな舞妓が舞を奏する、講者が文を講
じ、内弁宣命を誦し、群臣拝舞、禄を賜う例であった。
 
 朝、床の中で目覚め、ふと、今日は九月九日であることを思い出した。重陽の佳節 −
 菊花の宴 − 舞妓の奏 − 勅題応製等、世にあった頃の、きらびやかに晴れがましい姿
が、走馬燈のように駆け巡るけれど、今の我にあっては何かせんと思うので、起き出る
のも物憂く、独り床の中に目を閉じて愁に耽フケっている。
 さて起き出したものゝ、ために長寿を祈る者もおらぬので菊酒も造らず、従って今日
までの長い物忌みを破らなかったのは、果たして喜ぶべきことであろうか、さてさて無
残な佳節であったと。
 
 
〈九日十日〉   −  九日十日
去年今夜侍清涼     去年の今夜清涼セイロウに侍す
秋思詩篇独断腸     秋思の詩篇独り断腸
恩賜御衣今在此     恩賜の御衣今此ココに在り
捧持毎日拝余香     捧持して毎日余香を拝す
 
 「不出門」の詩と共に、公の崇高な大精神の発露として、最も人口に膾炙した詩であ
る。
 前日の重陽の日の朝以来、公の脳裏を往来するものは都であった、宮中であった。
 今でこそ配流の苦しみに沈んでいる、そのために怨みたい人もいない訳ではない。し
かし、一年前までは冥加に過ぎるまで幸福であったと考える。自分を陥オトシイレれた藤氏一
派の者までが、懐かしく思い出される気持ちであった。
 特に天子様 − 道真は露程も天子様をお怨み申す気を起こしたことはなかった。天子
様は、勿体ないが、孫のように可愛いとさえ思っていた。
 今上を皇太子に定めるについては、宇多上皇は道真だけを召して謀られたし、また、
御譲位の折も、矢張り道真だけに事前に御相談になられた。十三才のお若い今上を、く
れくれ指導せよとも命ぜられていた。天子様はまた、御父上皇から授けられた、いわゆ
る「寛平の遺誡」の旨を、決してお忘れ遊ばされなかった。それには次のように戒めら
れていた。
 
 左大将藤原朝臣(時平)は功臣の後なり。その年少しと雖も、已に政理に熟す・・・・・・
 また已に第一の臣たり。能く顧問に修めてその輔導に従へ。新君之を慎めや。
 右大将菅原朝臣(道真)は是れ鴻儒なり。深く政事を知る。朕選んで博士と為し、多
 く諫正を受けたり。仍て不次に登用し、以てその功に答ふ。加ふるに朕前年東宮を立
 つるの日、たゞ菅原朝臣一人とその事を論定し、その時共に相謀る者一人も無し。・・
 ・・・・総じて之を言へば、菅原朝臣は朕の忠臣たるのみにあらずして新君の功臣か。人
 の功は忘るべからず。新君之を慎めや。
 
 道真はこれを口ずさむ毎に、上皇様の限り無い御信頼に、殆ど歔欹(歔欷キョキか)しそ
うになると共に、お若い天子様が、「爺や、爺や」と呼ばれ、事細大となく意見をお聴
き遊ばす御寛厚御寵愛に対しても、老の眼に涙ぐむのであった。天子様の御態度は、御
父上皇様のお諭しがあったからそうすると云うのでなく、義理を超越された純粋なもの
であられたことを、道真は直ジカに感じていた。「天子様それは余りに勿体のうございま
す。」道真は絶えず、こう心中で泣いて叫んだものであった。
 その天子様への感激は、筑紫に流されてからとて、少しも変わっていない。変わった
と言えばお側に居らぬだけに、案じ申し上げることが深くなった位だ。昨日の重陽の日
以来、特に天子様のことを思い続けて、この「九月十日」の詩を詠んだことであろう。
 
  − 去年昌泰三年の今宵には、自分は右大臣右近衛大将として清涼殿の王座近くに侍
御していたが、「秋思」の勅題に対して、私の上タテマツった詩は、一人断腸の想いを篭め
た悲しい詩であった。
 
 丞相ジョウショウ年を度ワタる幾たびか楽しめる思
 今宵に触れて自然に悲しむ
 声寒き絡緯ラクイ(クツワムシのこと)は風の吹く処
 葉落つる梧桐ゴドウは雨に打つ時
 君は春秋に富み、臣は漸く老ゆ
 恩は涯岸ガイガン無く、報ずること猶ほ遅し
 知らず、此意何ぞ安慰せん
 酒を飲み、琴を聴き、又詩を詠ず
 
 君は御年未だ十六才、臣は早や五十六、果てしなき御恩を蒙りながら、報ずるの日は
余年幾ばくもないと思えば、私はただただ悲しゅうございますと、他の人とは打って変
わって悲涙の詩を上ったのであった。すると天子様には殊の外御感じ遊ばされ、宴終わ
るや、御衣さえ賜ったのだが、その御衣は、今度筑紫に下るにも身に著けてあり、毎日
捧持しては、果てしなき御恩寵に感泣するのであると。
 
 うみならずたゞよふ水の底までも 清き心は月ぞ照らさむ(大鏡・新古今)
 
 この人にしてこの和歌あり。千載の下、人口に膾炙するも宜なりと言うべきである。
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