104 菅家後草〈読開元詔書〉
 
                  参考:太宰府天満宮学業講社発行「菅家後草」
 
  − 延喜元年 − 
 
〈読開元詔書〉 −  開元の詔書を読む
開元黄紙詔     元ゲンを開く黄紙カウシの詔セウ
延喜及蒼生     喜を延べて蒼生サウセイに及ぶ
一為辛酉歳     一は辛酉シンイウの歳の為なり
一為老人星     一は老人星ラウジンショウの為なり
大辟以下罪     大辟タイヘキ以下の罪
蕩滌天下清     蕩滌タウテキして天下清し
省徭優壮力     徭エウを省きて壮力サウリキを優イウし
賜物恤頽齢     物を賜って頽齢タイレイを恤アハレむ
茫々恩徳海     茫々たる恩徳の海に
濁有鯨鯢横     濁り鯨鯢ケイゲイの横はる有り
此魚何在此     此魚何ぞ此ココに在らん
人道汝新名     人は道イふ汝が新名なりと
呑舟非我口     舟を呑むは我が口に非ず
吐浪非我声     浪を吐くは我が声に非ず
哀哉放逐者     哀しい哉、放逐せらるる者
蹉它(足扁+它)喪精霊 蹉它(足扁+它)サダとして精霊を喪ウシナふ
 
 昌泰四年七年十五日、延喜元年と改元された。従って、以下元年中の詩十五篇は、今
までの詩と同じ年次の作である。改元の理由は詩中に述べられている。
 さて詩の意味は ― 四年七月十五日、「昌泰」の元号を「延喜」と改める旨の黄紙の
詔が下った。「延喜」とは、御一人ゴイチニンのお喜びを延べて万民に及ばされようとの、
深い御仁愛のお心からの命名であろう。この改元の理由は、一つは今年昌泰四年が革命
が行われると信ぜられている辛酉の年であるがためであり、今一つは、老人星ロウジンショウ
と云う瑞星が現れたためであると、新元号を賀し、改元の消極・積極の二理由を挙げた。
 
 「黄紙の詔」は、詔勅は黄檗キハダで染めた紙を用いた故に云う。順徳天皇の禁秘抄に、
「勅書は(黄紙に書す)唐の太宗貞観より之を始む」とあり、江戸時代には、黄紙とは
公文書の別名になっていた。
 「辛酉の歳」。易エキに拠れば、辛酉シンイウの歳と甲子コウシの歳には革命が起こると云う。
当時三善清行キヨツラは厚くこれを信じ、昌泰三年意見封事を奉り、公にも辞職を奬めたこ
と、及び公の配流は、この迷信から急激に決定した事情は、既出の「意を叙ぶ一百韻」
の条で述べている。改元略記経には「辛酉を革命と為し、甲子を革命と為す」とあって、
我が朝でもこの干支エトに当たれば、概ね改元する慣わしであった。
 
 「老人星」は、中国で「寿老人」と呼んで崇拝する星のことである。「老人星」は、
南極に近い竜骨座のA星カノブスの唐名だと云う。日本略記の昌泰三年十二月十一日の
条に、老人星が現れたとの記事が見える。また同書に、延喜元年九月九日重陽の宴の勅
題は、「寿星南極に見ゆ」であったとの記事もある。
 凶事があれば改元し、慶事があれば改元するのは、長い間の慣例であったが、この時
は、吉凶二つの事情が絡んで改元したのであった。
 「大辟以下の罪」。大辟は思い刑、死刑のこと。大宝令に拠れば、苔チ・杖ジョウ・徒ズ・
流ル・死シの五刑があった。
 
 「徭を省きて壮力を優し」。徭とは賦役ブヤクのこと。賦は、調庸及び義倉、諸国の貢
献の物などを云う。大宝令に拠れば、調では、正丁は年に絹ならば八尺五寸、糸ならば
八両、塩ならば三斗・・・・・・を納める。次丁はその半分、中男はそのまた半分と規定して
いる。役については「正丁の歳役は十日。・・・・・・次丁二人は正丁に同じ」とあり、京に
出て無報酬で官に奉仕する体税である。
 「茫々たる恩徳の海に、濁り鯨鯢の横はる有り」。恩徳を海に喩えて、恩徳の普く行
き渡るこの国土に、逆心ある巨魁がいる意。「鯨鯢」は雄鯨オクジラ雌鯨メクジラ、共に小魚
を捕らえて喰うところから首悪の意味に用いる。
 
  − 改元と共に、死刑以下の罪人は大赦されて天下に罪人絶え、壮者は賦役を免除さ
れ、老人は物を賜って憫れみを受けるなど、御仁慈至らぬ隅もない。係る有り難い国土
に住みながら、国民の中に、謀反を企てる不逞の輩がいると云う。そんなことは信じも
されぬことなのに、意外にも、道真よお前がその人だと言うではないか。
 いみじき浮言ではある。自分はどうして、左様な野望を持ち、左様な策動をしようぞ。
しかし、濡衣ながら罪せられて放逐された者の痛ましさよ。抗弁することもならず、あ
まりのことに忙然自失するばかりであると、西陲にあって改元を祝すると共に、その改
元の動機は公自身から出たとのことを聞かれ、限りない憂悶に沈まれた詩である。
 
 「不出門」にあっては、総ては天なり命なりと観じ、ひたすら不平不満を放抛しよう
と覚悟された公であった。
 左降の時からこの罪名は聞かされた。しかし、それが虚構であることは藤氏自身が知
っている筈である。追放した後は、藤氏もあゝ自家を守るためには致し方ない処置だっ
つたとは云え、公には済まぬことをしたとの、反省があるものと考えておられたに相違
ない。
 宇多上皇様の絶えざる救命運動も拝察出来る。
 
 山わかれとびゆく雲のかへり来る かげ見るときぞなほたのまるる(大鏡・新古今)
 
 こういう御期待も持たれた公であった。
 
 心だに誠の道にかなひなば 祈らずとても神や守らむ
 
 この歌は四季物語にあるが、太宰管内誌の著者伊藤常足は、「必ず後の人のしわざな
るべし」と疑っている。真偽は知らないが、公の精神は如実に現れている。自分が省み
て清浄潔白だから、神の加護と、政敵の反省で、再び都に帰れることもあろうかと、希
望を抱いておられたのである。
 然るに、政敵は依然反省していない、冷腸である。いよいよ自分達の非を蔽おうとし
ている。今度の改元の詔書にまで、明らかに、具ツブサに詠っている。帰京の望みは絶た
れたと感じた。茨の鞭の厳しさよ。
 
 夕されば野にも山にも立つけぶり なげきよりこそ燃えはじめけれ(大鏡・万代集)
 
 冤罪を嘆く、なげ木の煙は絶える時がない。
 
 天の下かはけるほどのなければや 着てし濡衣ひるよしもなき(大鏡・拾遺集)
 
 慟哭の極みである。
 然も、この詩を読むに、汚名を口惜しがる気持ちは見えるが、人を恨む素振りは見え
ない。 
 
  人を待つ寛
  己を持する厳
 
 君子の心である。
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