102c 菅家後草〈読楽天北窓三友詩〉
 
 御即位の始めにこの苦杯を嘗められた宇多天皇が、いたく藤家の専横と朝権の衰微を
嘆かれ、これを抑制されようとされたのは当然のことで、されは基経の死後はまた関白
を置かず、若年の時平を抑えるために公を抜擢重陽されたのは、この阿衡の紛議に公を
知られ、その功を徳とせられたによると考える。
 公は任満ちて京師に帰るや、直ちに昇段を許され、蔵人頭に任ぜられて宮中一切の事
を掌るばかりでなく、式部少輔・左中弁から右京大夫を兼ね、寛平五年には参議に任ぜら
れ、式部権大輔を兼ね、左大弁を兼ね、更に転じて勘解由長官から春宮亮を兼ぬるに至
った。それ以後とも公の栄進が如何に張目に価するかは、次に抄出する公卿補佐を一見
するならば、思い半ばに過ぐるものがあろう。
 
 寛平六年               寛平七年
左大臣従一位 源融(73)       左大臣従一位 源融(74)
右大臣従二位 藤良世(73)      右大臣従二位 藤良世(74)
大納言正三位 源能有(50)      大納言正三位 源能有(51)
中納言従三位 藤時平(24)      中納言従三位 藤時平(25)
       源光(49)              源光(50)
       藤諸葛(69)             菅道真(51)
権中納言従三位 藤国経(67)     権中納言従三位 藤国経(68)
参議正四位上 藤有実(38)      参議従三位 藤高藤(58)
       源直(65)             藤有実(39)
  従四位上 源貞恒(39)        正四位上 源直(66)
       藤保則(70)        従四位上 源貞恒(40)
       藤有穂(57)             藤保則(71)
  従四位下 源湛(50)              藤有穂(58)
       菅道真(50)        従四位下 源湛(51)
非参議従三位 藤高藤(57)             源希(47)
                          源昇(47)
                   前中納言従三位 藤諸葛(70)
 
 公が参議に任ぜられて公卿の末席に列なったのは寛平五年四十九歳の時で、その頃藤
原氏の棟梁時平は中納言の末席にいたので、その間に七人を置く。翌六年には、前表の
ように時平は中納言になったので、二人の距りは九人になる。然るに、翌七年十月二十
六日、公は七人を抜いて、時平と同じ中納言になり、その間は一人になったが、その光
をも寛平十年には追い抜いている。
 光は仁明天皇皇子、国経は贈太政大臣長良の長男、高藤は醍醐天皇の御母胤子の父、
有実は贈太政大臣冬嗣の孫、直は右大臣常公の三男、貞恒は仁明天皇の皇子である。
 門閥格式を貴んだ時代に、藤源二名家を飛び越え、やがて儒臣として吉備真備以外に
かつて例のなかった右大臣に至り、右近衛大将を兼ね、更に関白の密旨をさえ蒙ったこ
とが世上に洩れたのだから、藤氏一派の驚愕・嫉視・憎悪は明らかである。
 更に藤氏が勢力を恣ホシイママにする時代にあっては、藤氏に縁故のない者、藤氏に睨まれ
ている者、藤氏の横暴を憤る者が、結束とまでは行かなくとも、一脈相通ずるところが
あって、密かに藤氏の滅亡を願い、進んで打倒を意図するようになるのは、自然の勢で
あろう。
 
 藤氏一派が、宗家の嫡流、人臣第一の左大臣時平を陽に棟梁と仰げば、反藤氏一派は、
これと比肩するに幾チカい、一代の碩学、高潔の人格、別して上下の信頼の厚い公を蹶起
ケッキさせて、首領に仰ごうとするのも、これまた自然の勢であろう。そして藤氏一派は、
公が反対派の首領であるかに疑い、或いは公あるが故の反対派の策動を嫌い、もし公に
して一度蹶起せんか、その鬱然たる勢力、熟達の思慮は、我が党を危うくせんと畏怖し
たことも、自ずから理解される。こうして公は、迷惑千万にも危険な地位に身を置かれ
た。
 
 公は身の程を知っていた。危険な地位を察した。公は権力主義者ではなかったから、
摩擦を起こしてまで成り上がりたいとは思わなかった。現に右大臣に任命された時、「
臣は将相の貴種にあらず、宗室の清流にもあらず、儒林より出でし身の、昨日までの官
位すら過分至極なるに、ましてや大臣の位など思ひもよらず。斯くしては人心必ず従容
せず、鬼瞰キカン必ず睚眦ガイサイを加へん。伏して願はくば、陛下高く聖鑑を廻らして、早
く官を罷めしめ、以て衆庶の望みを失ひ給ふことなからんことを。」と、誠惶頓首して
謹上すること三度に及んでいる。その文はたゞ形式的に字句を連ねて慣例的に拝辞する
ものとは、大いに異なっている。帝は三度目の辞表を御覧になると公を召され、「何故
に斯くまで辞することの堅きや、汝は朕を捨てんとするか」と、御憤りの色さえ現され
たと云う。
 帝がこの時公の辞意をお許し遊ばされたならば、後の悲劇は生じなかったろうし、ま
た、公が一身一家をより愛したならば、或いは病と称し、或いは出家するなどの策を用
いて、奸策カンサクから逃れる術もあったであろう。公は、英雄主義者、権力主義者ではさ
らさらなかった。後出の詩にもあるように、悠々自適して文人的な御生活を慕われるお
気持が強かった。しかし、あまりにも誠実・謹直であられたのである。身の危険を明察し
ながらも、天子様の御期待には背き得なかったのである。
 
 藤氏一派は乗ずべき機会を狙った。時に当代の宏才、文章博士三善清行キヨツラは、易の
盲信者で、昌泰四年二月は革命の期に当たるとの意見封事を建白し、同時に公に対して
は、速やかに退避せられよと勧告して来た。意見封事を建白するのは未だいゝし、咎む
べきことではないが、その革命の張本人は貴下だ、引っ込むが良いでしょうと言うに至
っては、どうかしている、そうですかと引っ込む訳には行かない。勿論公は拒否した。
 これは藤氏一派に口実を与えた。清行はかつての公の教え子であるが、この後藤氏に
走り、藤氏はこれを利用して、盛んに革命説を流布させて、人心をおののかせ、公への
信頼を殺ソぐに努めた。藤氏の造言は悪辣を極め、顕アラワに毒牙を呈した。曰く、公は自
分の女婿で皇弟であられる斎世トキヨ親王を擁立して帝位に就かせ、自分が天下の権を恣に
しようとしているのだ。曰く、公は自分を最も寵用する宇多上皇の復位を企てているの
だと。すると、日月よりも明らかな彗星が、直ちに禁門指して入るのを見たとの奇異を
語る者がある。それに符節を合するかのように、昌泰四年の元旦に日食の天変があった。
清行は、もう徴験は発したと声明を出す。時平・光等の重臣が相次いで奏上する。斯くて
は衆口金を溶かし、周囲尽コトゴトく公に不利になった。
 
 斯くして帝王革命に先立つ数日の一月二十五日、勅使大納言藤原清美・職事中将忠包
等は公の館に来たり、筑紫下向の宣旨を伝えた。後二日の二十七日には、四人の子も連
坐して流されることに決まったのである。政治要略には左降の宣旨を次のように載せて
いる。
 「右大臣菅原朝臣は、翰林より俄に大臣に上りて、止定の分を知らず、専権の心あり。
佞蹈(言扁の蹈)の情を以て上皇の御意を欺惑す・・・・・・廃立を行ひ、父子の志を離間し、
兄弟の愛を破らんと欲す。詞は順にして心は逆、是れ皆天下の知る所なり。宜しく大臣
の位に居らしむべからず・・・・・・。」
 この罪名は、あまりに酷ヒドい。宣旨に抗議することは出来ないが、あんまりだと、公
は動顛するばかりに愕いた。この忌まわしい罪名故に、配所での公の懊悩は深刻である。
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