08 神徳の展開
神徳の展開
参考:平凡社発行「菅原道真」
〈正義の神〉
恨みを呑んでこの世を去ったものの霊魂が,その相手方に祟るのは怨霊です。そうし
た範囲を超え,その霊の猛威が社会的な畏怖イフの対象になり,生前に関係の無かったも
のまで害を受けるとき,これを御霊ゴリョウと呼んで区別しています。道真公の霊は,明ら
かに死後間もなく御霊となり,御霊神と呼ばれるようになりました。
しかし前述の『道賢上人冥途記』の記述に拠りますと,事態は更に一歩を進めていま
す。例えば落雷による災害は第三の使者火雷天気毒王の仕業であると云っているように,
諸々の天地異変も災害も皆,道真公の眷属神であり,随従神の起こすところとなってい
ます。道真公はその名も太政威徳天として,それらの悪神・邪神を統御する神となって
いるのです。と云うことは,道真公の霊を神として祀り,その怒りを鎮めるならば,そ
の配下の悪神の所業も治まることになります。道真公の霊は,この世に災厄をもたらす
単純な意味での御霊ではなく,それを抑え,統御してくれる頼みがいのある神へと進み
始めたと云えるでしょう。
江戸時代の随筆類を観ますと,ある人が生前虫歯に苦しみ,その死後に虫歯の痛みを
止める神さまに成ったとか,酒の上での失敗によって身を滅ぼした人が,その死後禁酒
を助ける神さまに成った,と云う話は多い。民間信仰のうち,はやり(流行)神の名に
よって総括されているもののうち,この種の例は多くあります。これは江戸時代に特徴
的なことではなく,この時代に文献記録が急速に増加し,些細な民間信仰の話でも文字
に記録される機会が多くなったからで,同じようなことは,何時の時代にも繰り返され
たのでしょう。
道真公について観ますと,その霊が恐ろしい祟り神でなく,悪神を統御する霊異神に
成長すると,その次は道真公が時平の讒言ザンゲンに遭い,生前に冤罪に苦しんだことか
ら,そうした悪を止め,正義を守る神に成るのは後世の民間信仰の論理から観て,当然
の過程なのです。鎌倉時代の初めに編集された説話集である『撰集抄』には,文章博士
の橘直幹タチバナノナオモトと云うものが無実の罪で流されようとしたとき,北野社に祈請して
示現を蒙り,無実を証明出来たと云う話があります。この種の説話は縁起類に多く語ら
れています。
中世には三社託宣タクセンと呼び,八幡大菩薩,天照大神,春日大明神を,それぞれ正直,
清浄,慈悲の神としましたが,北野天神は正義の神でした。近い時代まで裁判のときに
願を掛け,訴訟に勝てるよう祈願する人も多い。悪神統御の霊異神は,敵に廻すと恐ろ
しいが,味方にすれば頼もしい正義の神と成ったのです。
〈渡唐天神〉
道真公の文雅の才と学問の深さは,生前既に令名が高いものでした。公の死後,御霊
神となって霊異の強大さが喧伝された後,道真公晩年の悲劇や政争に関する生々しい記
憶が薄れますと,その学識と文才を敬慕する念が特に貴族等の間に高まりました。道真
公の霊の御霊神としての威力は十分に認めながら,そこに文道の神としての神徳が加わ
りました。
文献において知られます最初の例は,寛和カンナ二年(986)慶滋保胤ヨシシゲノヤスタネの「菅
丞相廟に賽する願文」に見えます。北野社は翌永延エイエン元年(987)初めて官幣に与り,
そのときの一条天皇の宣命センミョウに「北野に坐します天満宮天神」とあり,天満大自在テン
マンダイジザイ天神とか太政威徳天など様々な名で呼ばれた道真公の霊も,この頃公式に天
満宮天神と呼ばれ,神格の安定が始まりましたが,そうした中において,保胤の願文は
天神を以て文道の祖,詩境の主と云っているのです。
慶滋保胤は,道真公の孫で菅三品カンサンポンと呼ばれた文時の弟子です。院政期に学者と
して著名な大江匡房オオエノマサフサは,承徳ショウトク元年(1097)と嘉永カエイ元年(1106)の二度,
太宰権帥ダザイノゴンノソツに任じて赴任しました。道真公の場合は,名は権帥で実質は配流
であったのと異なり,匡房は正官として政務を執り,その間に夢想を得て安楽寺・太宰
府天満宮の神幸式ジンコウシキを始めたと伝えます。匡房の曾祖父匡衡マサヒラが寛弘カンコウ九年(
1012)に北野社に奉った願文に,公を文道の大祖,風月の本主と云っています。大江氏
は菅原氏と並ぶ文章道の家です。北野,太宰府の廟社は忠平の門流に固定した藤原摂関
家セッカンケの庇護ヒゴと,貴族文人の尊信を得て,次第に学問・文事の神としての神格を獲
得し始めました。
やがて中世になりますと,詩文のことが禅僧の僧侶の多く荷担するところになり,彼
等の間に詩文の神としての天神信仰が広まりました。室町時代に五山の禅僧の間に云い
出された渡唐(宋)天神の話は,その代表です。所伝によりますと,鎌倉時代の仁治ニン
ジ二年(1241),京都東福寺の開山聖一国師ショウイッコクシ円爾エンニ弁円ベンエンが宋から帰って
九州博多の崇福寺ソウフクジに住したとき,夜に道真公が現れて禅を問いました。国師は,
自分の師である宋の径山キンザンの仏鑑禅師無準師範を師とするよう答えましたところ,直
ちに渡宋して禅師に参禅し,衣鉢を受けて帰り,再び国師の前に現れて,与えられた法
衣を見せたと云います。
この話に基づいて多くの渡唐天神の像が描かれました。手に梅の小枝を持つ中国風の
文人像で,天神信仰の一側面を示しています。
〈芸能の神〉
道真公が学問・詩文の神とみなされ始めますと,当然能書ノウショであったに違いないと
云うことになります。いま道真公の筆と云われる手蹟で確実なものはありませんが,既
に平安時代の末に道真公の神筆と云うものが在りました。正暦ショウリャク四年(993)道真公
に正一位・左大臣が追贈され,曾孫の菅原幹正が勅使として太宰府に派遣されたとき,
神前に供えた位記イキに七言絶句が現れたと伝えられます。これを神筆と呼んで太宰府か
ら太政官に返納し,下記局ゲキキョクに収めたのを,保元ホウゲンの乱の主人公藤原頼長などが
見たと云って,日記に書き留めているのです。
空海と小野道風,道真公を入墨道ジュボクドウの三聖と呼ぶこともありましたが,一方和
歌においては中世になりますと,道真公は柿本人麻呂カキモトノヒトマロ,山部赤人ヤマベノアカヒトと
並んで和歌三神,また歌聖とも呼ばれました。このようなこともあったのでしょうか,
藤原定家も北野社に参詣し,自分の歌一巻を奉納しています。また人麻呂と道真公の画
像を掛けて拝礼することもなされました。やがて連歌が盛んになりますと,連歌会の席
に天神の名号の軸や画像を掛けると云うことも始まりました。
法楽ホウラクとは,神仏の前において講会を営み,楽を奏して供養することですが,北野
社における法楽は聖廟法楽と呼び,有志が寄って和歌や連歌を奉納することでした。早
くに鎌倉時代の元久ゲンキュウ元年(1204),北野社の社頭において歌合ウタアワセが行われてい
ますが,室町時代における神前での月次ツキナミ連歌は恒例となりました。天神が生前に進
んで冤罪を受け,衆生シュジョウに代わって悩みを承けたと云う代受苦の信仰も起こり,神
恩奉謝のために貴賎を問わず参集し,和歌・連歌を献じて,法楽としました。この時期
に,ご神徳の一段と上昇した跡は著しい。
足利義満は明徳メイトク二年(1391),北野一万句興行を為し,また足利義教ヨシノリの夢想
の発句による千句通夜興行も有名です。この義教が永享エイキョウ三年(1431)北野会所にお
いて連歌会を催したのが,北野社の連歌会所の初見で,高山宗砌ソウゼイが会所奉行に任ぜ
られています。宗砌の次が能阿ノウア,また宗祇ソウギも一時これに任じました。応仁・文明
の乱の後,十五世紀末頃に会所奉行は会所別当と改められ,猪苗代兼載イナワシロケンサイが任命
されました。北野社の,正月及び四季に行われる年間計五度の千句連歌の料所として近
江国八坂庄があり,連歌会所に属するものに山城国東松崎郷内の田地三町がありました。
有名な『二条河原落書』に「在々所の歌・連歌」とありますが,各地の連歌の座は,
天神信仰と深く結ばれていました。大和国山辺郡都介ツゲ郷(現在の宇陀郡室生村)の染
田ソメタの天神に,南北朝時代から天神講があり,名主ミョウショ等の連歌会のあったことは,
よく知られています。文明ブンメイ十二年(1480)の宗祇の『筑紫道記ツクシノミチノキ』には,太
宰府天満宮の連歌会所のことが見えます。また,同じ室町時代に北野社において舞楽が
なされ,右近馬場に桟敷を設けて勧進猿楽があり,貴賎を問わずに見物したのでした。
桃山時代には,出雲阿国オクニが念仏踊り,歌舞伎踊りを演じたこともあり,京中の町衆の
成長につれ,北野社の社頭も庶民の群参する場所の一つになったことが知られます。
その間に,天正十五年(1587)十月一日,豊臣秀吉が行った北野大茶湯は,北野社に
とって記念すべき行事でした。秀吉は,拝殿において自ら点茶して神前に献じ,境内に
茶席を設けて天下の数寄スキ人を集め,貴賎に拘わらず参入を許して,神慮を慰めました。
こうしたことを契機として,道真公を神として敬慕する天神信仰は,次の江戸時代を
通じて庶民の間に広まり,そして現在に到ったと考えられるのです。
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