07a 怨霊から御霊へ
 
〈笙の窟〉
 道真公の怨霊の活躍によって政治的な利益を得たのは,時平の弟忠平でした。忠平の
二男師輔モロスケも,道真公と親しかった右大臣源能有ヨシアリを母方の祖父に持ち,忠平,師
輔の父子は道真公の霊を慰め,その祭りに熱心である程時平の門流の後退を早め,政権
の基礎を固めました。反対に時平の長男保忠は,承平ジョウヘイ六年(936)四十七歳のとき
大納言・右大将で死去しましたが,病床において物の怪に執り憑かれ,僧侶の読む薬師
経に「宮毘羅クビラ大将」とあるものを,「我を縊クビる」と聞き,驚いて絶命したと云い
ます。
 
 道真公の長男高視タカミ以下は,延喜六年許されて本官に復しました。高視は間もなく死
去しましたが,その子文時は文才を以て聞こえ,式部大輔タイフ・文章モンジョウ博士となり,
三位に進んで菅三品カンサンポンと呼ばれました。菅原氏は大江氏と並ぶ学問の家として,文
時のとき再興されたのです。そして北野社の創祀される頃,太宰府の道真公の廟所安楽
寺に初めて別当職が置かれ,道真公の子淳茂アツシゲの二男平忠がこれに任じ,天暦テンリャク
元年(947)安楽寺の二番目の建物である東法華堂を建立したと伝えます。
 一方忠平が晩年のとき右大臣になった師輔は,忠平の死後十年過ぎた天徳テントク三年(
959)北野社に殿舎を建増し,神宝を献じました。北野社も太宰府の天満宮も,十世紀中
頃にその姿を整えました。特に北野社は,摂政・関白の職が師輔の系統に固定するにつ
れて,藤原氏の氏神である春日社に準じ,菅原氏と併せて摂関家セッカンケの守護神のように
観られることになりました。こうした形になるまでには,藤原氏を始めとする貴族以外
に,より広く庶民の間に信仰を拡大する動きがあったのは云うまでもありません。
 
 例えば,天慶テンギョウの乱の直後に書かれたと観られている『将門記ショウモンキ』には,乱
を起こした平将門タイラノマサカドが新皇を称するに当たり,軍中に居た巫女が神がかりして八
幡大菩薩の使者と云い,我が位を将門に授けると述べ,その位記イキは道真公の霊が書い
たと云っているのです。
 また『扶桑フソウ略記リャッキ』に引用されている『道賢上人冥途記メイドキ』は,その名のと
おり道賢と呼ぶ修験僧の冥界見聞記です。それに拠りますと,天慶四年八月,吉野金峰
山キンプセンの奥にある岩窟(笙ショウの窟イワヤ)において修行中に気絶し,執金剛神シツコンゴウシン
の導きによって蔵王権現ザオウゴンゲンの住む金峰山浄土に連れて行かれました。其処にお
いて太政威徳天と名乗っている道真公の霊に巡り会い,多数の眷属神ケンゾクシンを従える威
徳天の強烈な霊威を見せられます。中でも延長八年(930)の清涼殿の落雷を始めとする
雷の災害は,威徳天第三の使者火雷天気毒王カライテンキドクオウの為すところとあります。
 道賢は冥界からの帰途,地獄の苦患クゲンを受けている醍醐天皇とその側近の霊に会い,
現世に戻ったら卒塔婆ソトウバを造立して回向エコウしてくれるよう,摂政の忠平に告げてほ
しいとの伝言があったと記しています。忠平が朱雀天皇の摂政・関白として政権を担当
した時代は,いわゆる承平・天慶の乱が起こり,社会的不安や動揺の繰り返された時期
でした。そうしたことに乗じ,御霊神としての道真公の霊の猛威を説き,貴族等だけで
なく,より広く民間に信仰を広めるものの多かったことが知られるのです。特に東国の
平将門の乱の渦中にまで,道真公の霊が現れるのは,その信仰の規模が早くから予想以
上に大きかったことを示しているのです。

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