07 怨霊から御霊へ
怨霊から御霊へ
参考:平凡社発行「菅原道真」
〈怨霊オンリョウの活躍〉
無実の罪を晴らすことも出来ないまま太宰府において死んだ道真公の怨霊が,公を貶
オトシめた政敵に祟タタり,多くの天地異変を起こしたことは有名で,「北野縁起」に拠りま
すと,話は道真公の死の直後から始まっています。特に道真公配流の張本の時平が,三
十九歳の働き盛りで死去したのは,道真公が死んで六年後の延喜九年(909)でした。こ
れは怨霊の復讐最初のものとされていますが,後世の史書・縁起類は別として,当時の
記録には未だ道真公の怨霊のことは見えません。公の怨霊についての記述が文献に初め
て現れるのは,『日本紀略』延喜二十三年三月二十一日条において,この日皇太子保明
親王が二十一歳の若さで死去したのは,「菅帥カンノソチの霊魂宿忿シュクフン」の仕業と世間に
おいて噂しているとあります。
続いて四月二十日醍醐天皇は詔して,道真公の官を元の右大臣に戻し,正二位を追贈
し,併せて道真公を左遷した昌泰四年(延喜元年)正月の詔を破棄しました。また閏ウルウ
四月には長雨と疾疫鎮圧のため年号を延長と改められ,大赦の令が発せられました。醍
醐天皇の道真公の怨霊に対する畏怖イフの念は,道真公の宿忿を慰撫するための具体的な
行動となって現れる程になりました。
道真公が死去して二十年を経過した延喜の末年には,道真公の生前とは事情は大きく
変わり始めていました。延喜九年に時平の死んだ後,延喜十四年,弟忠平が右大臣にな
っていました。忠平は道真公と親しかったし,二人の後ろ盾の宇多法皇は仁和寺ニンナジに
おいて健在でした。一方醍醐天皇の下に結束していた反道真派は,道真公と時平と云う
二人の当事者の死により,自ずと解体することになりました。道真公左遷の決断が拙速
に過ぎたのではとの反省が,醍醐天皇の周囲に醸成されたのも不思議ではありません。
道真公の怨霊が時平の係累に祟り,天皇も責任を免れないとの説は,こうした雰囲気
の中に現れました。道真公の復官と贈位,左遷の詔の廃棄は,それの公認を意味してい
ます。次いで延長三年(925)は春から天然痘が流行し,皇太孫の慶頼ヨリヨシ王が僅か五歳
で亡くなりました。保明親王の御息所ミヤスンドコロは時平の娘の仁善子で,慶頼王はその所
生の皇子でしたから,道真公の怨霊は時平の子孫や縁故者,更には醍醐天皇にも祟るだ
ろうとの噂は,一段と真実味を持ち始めたようでした。
そして延長八年六月二十六日,旱天が続くので諸卿が殿上に侍して請雨の件で会議し
ていたところ,俄ニワカに雷鳴し,清涼殿西南の第一柱に落雷しました。殿上の間の東北隅
に座っていた大納言藤原清貫キヨツラと右中弁平希世マレヨ等が震死し,紫宸殿に居ました右兵
衛佐美努忠包ミヌノタダカネ等が髪を焼かれるなどして死亡しました。醍醐天皇はこの事件に
激しい衝撃を受けて病床に着き,咳病を患って病勢を募らせてしまわれました。死期を
悟られた天皇は,九月二十二日に寛明親王に譲位(朱雀スザク天皇),左大臣の忠平に摂
政のことを依託し,二十九日四十六歳を以て崩じました。
〈北野社創祀〉
恐らく醍醐天皇は,道真公の怨霊の祟りで落命させられるであろうと自ら予感し,そ
れが病勢を悪化させたものと推測されます。周囲の人も,そうしたことが十分に有り得
ると考えました。そして道真公の怨霊が雷神と結び付き,やがて天満天神の名で祀られ
るようになりますのも,この延長八年の内裏落雷事件から事が始まったようです。
奈良末・平安初頭以来,朝廷上層部においての政争は,桓武天皇の皇太弟早良サワラ親王
を始め,多くの失脚者を生みました。それらの人等の怨霊は,道真公の場合と同様に,
政争当事者等の間において早くから活動しましたが,そのうちあるものは宮廷の枠を越
え,平安京民の間において噂されました。特に京中を巡視する六衛府の舎人トネリや検非違
使ケビイシ,東市・西市の役人などには,中央・地方の民間の有力者等が,獲得し始めた在
地においての権益を保持するために競って任官し,彼等はその職務を通じて自らの地歩
を拡充しようとしていました。
この種の人等は,従って朝廷上層部の政争に極めて敏感であり,それを巡って発生す
る政界の事件(醜聞)を,京中の庶民にもたらす格好の媒体となりました。失脚者等の
怨霊はこれらの人の手によって御霊と呼ばれ,社会化されました。御霊は,政争の当事
者に祟るだけでなく,天変地異を起こし,流行病の元として社会的な畏怖の対象となり
ました。生前に高い地位にあり,この世に残した怨みが大きい程,御霊として猛烈な力
を発揮すると信じられ,それを慰撫する祭りが御霊会ゴリョウエの名で民間に発生しました。
御霊会としては貞観ジョウガン五年(863)五月,平安京の神泉苑において行われたもの
が有名です。それは民間において為されていました祭りを中央政府が公認し,勅令によ
って実施された最初の例で,王公卿士ケイシが庶民と一緒に参加しましたが,この祭礼を執
行したのは,日頃京中の住民とも縁の深い近衛府でした。道真公の怨霊も,全く同じ手
順で御霊となり,雷神を駆使し,強烈な託宣タクセンを下す神として,古くから雷神を祀っ
た由緒のある大内裏西北の,北野に祀られることになりました。
所伝によりますと天慶テンギョウ五年(942)七月,右京七条二坊に住む多治比文子タジヒノ
アヤコ(奇子)と云うものに天神(道真公)の託宣があり,生前に親しく遊覧した北野の右
近馬場ウコンノババに自分を祀れとの由でした。初め文子は自分の家に祠ホコラを構えて五年程
過ぎましたが,神託の程も出し難く,これを北野に移しました。その頃近江国比良宮の
禰宜ネギ神良種ミワノヨシタネの男子で七歳になる太郎丸にも同じような託宣があり,良種が朝
日寺の最鎮(珍)等と協力して北野に社殿を建てたのが北野社の初めと云います。
多治比文子の住んだ右京七条二坊は,平安京の西市のある処です。文子はその名から
して,市の市神に仕える巫女ミコであったと考えられます。それに北野の右近馬場とは,
右近衛府の舎人等の練兵場のようなもので,そうした処に祀れと文子に下された託宣の
背後には,人の集まる市において活躍する巫女等と,市を巡察する衛府の舎人等の間に
あった密接な関係が示されています。道真公の怨霊はこれらの人等の手によって一般の
信仰を集め,祀らなければ恐ろしい災害をもたらすような,天神の名を持つ御霊神の一
つに仕立てられたものと考えられるのです。
[次へ進んで下さい]