06a 配所の生活と死
〈安楽寺葬送〉
太宰府に在る間,道真公は一向ヒタスラ念仏と読経に専念し,その合い間に筆を執り,詩
を詠じたと伝えます。そして死の直前にそれらの詩稿を集めて封緘フウカンし,都に居る紀
長谷雄の下に送りました。長谷雄は道真公が遣唐大使に任ぜられたときに副使を命ぜら
れ,道真公が最も親しくした学問上の後輩でした。長谷雄は封を開き,天を仰ぎ地に伏
して嘆息したと云います。『菅家後集コウシュウ』一巻の名で今に伝えられるものです。
それは『菅家文草カンケブンソウ』十二巻に比べて量は少ないが,珠玉の詩編が収められ,
先に引用しましたように,それを通して太宰府における生活が偲ばれます。『文草』収
録の詩は少年の日から権勢の絶頂に在った時期までのもので,技巧を凝らし,中国の詩
学を十分に学習し,それを身に付けた上で才気に満ちたものと云われます。文の方も多
くの人に依頼されて代作した上表文や願文・序文の類ですが,詩の方も「応制」と云い,
宮中の内宴などにおいて天皇の命に応じ,その場で詠じたものが多い。道真公は人と交
わりながら筆を執り,立所タチドコロに詩を創り文を為すと云うことを目標に自らを訓練し,
それに熟達した人であったのです。
そうした宮廷広間から放逐されたとき,道真公は太宰府の配所において弧絶した自分
一人と対面することになったのです。恐らく学に志して以来,公の全生涯において初め
ての体験であったでしょう。公は居館と定められた処から殆ど外に出ず,観世音寺カンゼ
オンジの鐘声が聞こえるとか,都府楼トフロウの瓦が見えると云うような,外界から訪れる僅
かな便り,音や光に全神経を集中し,そこに自らの詩心を研ぎ澄ましたと云われます。
そうした『後集』の詩を遺すことによって,『文草』に収められた数多くの詩文にも生
命が付与されたと云えましょう。
配所における生活の当初は,帰京の日の早からんことを念じましたが,延喜エンギも二
年(902)になる頃には,道真公自身,次第に復帰を諦めるようになりました。仏事と詩
作によって心を支えても,急速に健康を害し始めました。胃を傷め,不眠の夜が続き,
脚気と皮膚病にも悩まされたようです。延喜三年正月には病篤く,他国において死んだ
ものは骸骨を故郷に帰す例がありましたが,自分はそれを願わないと遺言したと伝え,
二月二十五日,齢五十九歳を以て生涯を終えたのです。
所伝に拠りますと,都から一緒に下向していました門弟の味酒安行アマサケノヤスユキなるもの
が,数人の供と一緒に太宰府の東北,御笠ミカサ郡の四堂の辺りに葬ろうとして,遺骸を牛
車ギッシャに乗せて行く途中,車が急に動かなくなりました。「此処に埋めよ」との意向と
考え,其処を墓所としました。四堂を四寺と伝えるものもあって判然としませんが,味
酒安行はその墓所を守り,翌々年の延喜五年その地に祠廟シビョウを建てました。更に五年
後の延喜十年(或いは延喜十五年),安行に手によって御墓寺の安楽寺が建立されまし
た。これを太宰府天満宮の始まりと云っております。
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