06 配所の生活と死
 
              配所の生活と死
 
                         参考:平凡社発行「菅原道真」
 
〈御賜の御衣〉
 昌泰四年(901)正月二十五日,右大臣兼右大将でありました道真公の左降により,大
納言源光が右大臣に,醍醐天皇の外祖父藤原高藤の子の定国が中納言で右大将を兼ねま
した。
 翌々日,道真公を太宰府に送る使いは左衛門少尉善友益友ショウジョウヨシトモノマストモ,それに
左右の兵衛各一人と定められました。出発は二月一日,承和ジョウワの変に大宰員外帥ソツに
左遷された藤原吉野の例に倣い,「道中の国々から食・馬を給することなし」との厳命
がなされました。廃立を企てたとされた以上は当然の処遇なのでした。
 道真公左遷の報を聞いた宇多法皇は,直ちに内裏に赴きましたが左右の諸陣が警固し
て通しません。法皇は草座ソウザを諸衛の陣頭に敷いて終日庭上に御しましたが誰も門を
開けず,晩景になって本院に還御したと伝えます。道真公の左遷が確実な証拠に基づく
処断でありましたなら,宇多法皇と醍醐天皇の対面をこれ程強引に遮断することはなか
ったでしょう。道真公の方も完全に潔白であると立証出来る程の根拠はありませんが,
時平側は前章に述べましたような状況証拠の下,もしやと云う疑心暗鬼を重ねて,醍醐
天皇の最終決断を引き出したものと観られています。
 
 宮廷政治の世界においては,屡々肉親の兄弟が最も恐ろしい政敵に転化します。貴族
中の貴族である時平は,貴族特有の自衛本能をによって,宇多法皇の下に弟忠平と道真
公の提携の実現するのを予見し,それを未然に防ぐための攻勢防御の挙に出たのでしょ
う。宇多天皇が道真公一人だけに相談し,敦仁アツギミ親王(後の醍醐天皇)を皇太子に定
め,有力な皇親・賜姓源氏の反発や動揺を未然に防止したのと,発想の筋道は等質なの
です。しかし道真公左遷の決断が拙速に過ぎたのではとの疑念がその後,醍醐天皇の記
憶に永く残ったのも事実でした。後述の通り後年,天皇が道真公の怨霊の出現にあれ程
悩まれたのは,左遷の決断の拙速に過ぎた思い出と,自らの立太子と即位が他ならぬ父
皇と道真公の協力の結果であった事実との重なり合いに因っています。
 
 ともあれ,道真公は左遷された年の晩秋九月九日に,
 
 去年の今夜、清涼に侍す。秋思の詩編、独り断腸。恩賜の御衣、今ここにあり。奉持
 して毎日、余香を拝す。
 
との詩を詠んでいます。よく知られていますように,前年の昌泰三年の重陽の内宴に,
「秋思」の勅題に詩を賦して奉ったことの思い出なのです。左遷された昌泰四年は七月
に延喜エンギ元年と改められていましたが,公が奉持したと云う御賜の御衣の余香は,公
自身の全生涯の余香でもあったのです。"断腸"の文字は学に志した少年の日から,延喜
元年のその日までの全てに掛けられていると云えましょう。
 
〈天拝山〉
 「北野縁起」に拠りますと,道真公は太宰府に在ったとき,自分に罪のない旨を祭文
に書き,近くの高い山に登って七日七夜,無実の罪を天に訴えたところ,その祭文は空
高く何処までも飛んで梵天ボンテン宮に到り,道真公自身は天満大自在天テンマンダイジザイテンと
成ったとあります。
 その山を天拝山テンハイザンと呼び,道真公配謫ハイタクの官舎であった南館ナンカン − 榎社エノキ
シャから南々西に見える山の頂において祈ったと伝えています。恐らく太宰府東北の宝満
山ホウマンザンの,竈戸カマド神社とその寺坊を中心に,天拝山の辺りも行場のうちにして平安
時代から活躍してきた修験者シュゲンジャの間において,何時の間にかこのことが云い出さ
れたものでしょう。しかし,道真公の太宰府においての日常は,こうした伝説が発生し
ても不思議でない状況にあったのです。
 
 太宰府の配所へは,道真公は年少の男女だけを伴い,妻室と年長の女子は京に留まり
ました。男子は『政治要略』などに拠りますと,成年して任官していた長子の大学頭高
視タカミは土佐介スケに,式部大丞ダイジョウ景行カゲツラは駿河権介に,右衛門尉ジョウ景(兼)茂
は飛騨権掾ジョウに,秀才(文章得業生)淳茂アツシゲは播磨ハリマにと,父子は五ケ所に居地
を分かたれました。その党与と観られました右近衛中将源善は出雲権守,右大史ダイシ大
春日晴蔭は三河掾,勝諸明スグリノモロアケは遠江権掾,源厳は能登権掾にと左降されました。
道真公の門弟で諸司にあるものも全て追放されるとの噂まで広まり,京内は騒然としま
した。このとき三善清行は時平に書を送り,「道真公の門人はその教えを受けただけで、
今度の謀議に与ったものではありません。これまで放逐しては人心を失う元になる」と
諌めて,累が門人にまで及ぶのを止めました。
 
 清公キヨキミ以来の菅家廊下は,道真公の失脚によって学派としての機能は喪失しました。
三善清行はそれを見定めた上で人望を集める挙に出たものと観られています。道真公は
これらを背後に聞きながら,太宰府に下りました。足下の大地の裂ける想いであったで
しょう。京の留守宅からの便りにせよ,「家書を読む」と題した七言律詩は,その内面
の事情を物語っています。
 
 消息寂寥セキリョウたり三月余。便風ビンプウ吹き着く一封の書。西門の樹は人に移し去ら
 れ、北地の園は客をして寄居せしむ。紙に生薑ショウガを裹ツツんで薬種と称し、竹に昆布
 をこめて斎儲サイチョと記す。妻子の飢寒を言はざるは、これ還って余の懊惱オウノウせんこ
 とを愁ふるが為ならん。
 
 主を失った留守宅は,思い出の多い庭木に人手に渡し,屋敷の一部に他人を寄住させ
ました。にも拘わらず主の身を案じ,薬用の生薑と神事に用いる昆布とを,遠く京から
送ってきました,と云う意味です。そして道真公は,京から伴ってきた男の子を配所に
おいて失っているのです。
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