02 菅公先祖
 
                菅公先祖
 
                         参考:平凡社発行「菅原道真」
 
[菅公先祖]
 
〈相撲と埴輪〉
 菅原道真公の曾祖父古人フルヒトは,元は土師宿禰ハジノスクネと称しました。奈良時代末の天
応テンオウ元年(781)六月二十五日,遠江介トオトウミノスケ従五位下であった古人は,同族の道長
等十五人と一緒に,即位して間もない桓武天皇(在位781〜806)に願い出て,氏の名を
その居地に因んで「菅原」と改めることを許されましした。
 その地菅原とは,菅原寺(喜光寺キコウジ)のある平城右京三条二坊の辺りの菅原の里,
今の奈良市西郊の垂仁陵スイニンリョウに近い菅原町に当たると考えられています。古人等の改
姓名の願書には,氏の遠祖として野見宿禰ノミノスクネの名を挙げています。野見宿禰は当麻
蹶速タイマノケハヤとの力競べに勝って垂仁天皇に仕え,後に垂仁天皇の皇后日葉酢媛命ヒバスヒメ
ノミコトの葬儀に埴輪ハニワを作り,殉死者に代えるよう提案した人物として知られています。
土部連ハジノムラジ(土師連)の名はこれに因るものと伝え,後に天武天皇(在位673〜686
)のときに賜姓され,土師宿禰を称することになりました。
 野見宿禰と当麻蹶速の力競は,周知のように相撲の起源と云うことになっています。
『日本書紀』はこの話を垂仁天皇七年七月七日の条に挙げ,聖武天皇(在位724〜749)
の天平テンピョウ六年(734)七月七日条を文献上の初見(『続日本紀』)として,王朝時代
に相撲節会セチエが七夕の行事であったことの起源とされています。しかし,蹶速が脇骨カタ
ハラホネ(肋骨アバラボネ)を踏み折サかれたと伝えられていますように,本来力技でなく,力
闘の伝承なのです。例えば大国主尊の国譲りに反対した息子の建御名方タケミナカタ神が,高
天原タカマガハラから使者として遣って来た建御雷タケミカズチ神と力競べし,若葦ワカアシを採るよ
うに掴み潰して投げ捨てられ,信州の諏訪まで逃げて降参したと『古事記』に伝えられ
る物語などと,同じ種類の話と考えられましょう。
 
 蹶速との力競べに当たって,野見宿禰は出雲国から召し出されたと云い,そのときの
使者は倭直ヤマトノアタエの祖長尾市ナガオイチであったと云います。倭直は後に大倭オオヤマト宿禰を
称し,長尾市を祖として大倭国造クニノミヤツコに任じ,累世ルイセイ,倭大国魂ヤマトノオオクニタマ神を祀
った大和の土着の氏族です。一方,『播磨ハリマ国風土記』は揖保イボ郡の条に,土師弩美
ノミ(野見)宿禰が大和から本拠の出雲国へ通う途中,この地において死んだと云う話を
伝えています。
 その地は揖保川西岸の日下部野クサカベノで,弩美宿禰が此処において病を得て死んだと
ころ,郷国の出雲から人が遣って来て,沢山で立ち並び,河原の石を手渡しに運んで墓
を造りました。そのため,この地を立野と呼ぶようになり,その墓を出雲墓屋と呼ぶと
あります。今の兵庫県の播州平野西部揖保川に沿った竜野市竜野の地の地名説話と観ら
れています。
 大和と出雲の二国に跨るこの種の祖先伝承が,史実をどれほどに反映しているのか一
切不明です。後に道真公を生んだ菅原氏が土師氏の中において占めていた位置とか,そ
の菅原氏が他の土師氏の同族と,どのような形において前述の祖先伝を共有していたの
か,今となっては探る手がかりもないと云われています。
 
〈土師の里〉
 奈良時代,土師氏の主流は四つの支族から成っていました。
 先の天応元年(781)の土師宿禰古人等の誓願に続いて,翌年の延暦エンリャク元年(782)
五月二十一日に,少内記正八位上土師宿禰安人等六人が,古人等と全く同じ理由で秋篠
アキシノと改めることを願って許されています。この秋篠については,平城京右京三条の菅
原の里の北,秋篠寺のある京北の秋篠と観る説と,今の大阪府藤井寺市になっている河
内国志紀郡道明寺辺りとする説とがあります。後者について,道明寺の地を土師とも秋
篠とも呼んだと云う所伝はありますが,確証はありません。ただ『日本後紀』弘仁コウニン
二年(811)三月二日条に,河内国の人土師宿禰常磐トキワに秋篠朝臣アソンの賜姓シセイがあっ
たとあり,河内に秋篠姓を名乗るものもあったことは確認できます。
 この河内の道明寺一帯は,今も「土師の里」などと呼ばれ,土師氏の有力な居地の一
つと観られています。道明寺は元土師氏の氏寺であったと云います。
 
 また『続日本紀』に拠りますと,桓武天皇(在位781〜806)は延暦エンリャク九年十二月一
日,外祖母の土師宿禰真妹に正一位を追贈し,土師の氏姓を大枝オオエ朝臣と改めさせまし
た。同月三十日には,先に菅原宿禰,秋篠宿禰と改めていたものも,大枝と同じく朝臣
を称することを許されたとあります。そして,土師氏には元々四腹(支族)あり,桓武
天皇の外祖母の家はそのうちの毛受モズ腹で,大枝朝臣はこの毛受腹に与えられ,他の三
腹が秋篠朝臣となったり,菅原朝臣を称することになったと記されています。
 この毛受腹の毛受は,仁徳・履中陵を中心とする中期の大古墳群のある泉の百舌鳥モズ
(大阪府堺市)を指し,道明寺から西琳寺のある古市の地が,応神陵を中心とする古市
誉田コンダ古墳群に隣接するのと対応しています。そして大和の菅原は垂仁陵に近く,秋
篠は成務陵,神功皇后などのいわゆる佐紀楯並の中期古墳群に付随しています。野見宿
禰の埴輪作りの伝承の示す通り,土師宿禰は元土師連として多くの土師部を率い,陵墓
の造営と葬送のことに関与していた形跡が濃いと考えられます。土師氏の四腹と呼ばれ
るものの居地が,河内から大和にかけて所在する最も巨大な古墳群と深い関係が認めら
れるのも,理由のあることと云えましょう。
 
〈土師から菅原へ〉
 『日本書紀』には,土師氏が天皇や皇族,朝廷の喪葬ソウソウに関与した記事は多い。こ
の伝統は可成り強固なものであったらしく,各氏の多くが旧来の職掌から次第に分離す
るようになった奈良時代においても,諸陵寮ショリョウリョウを始め,喪葬関係の役職に土師氏
が就いている例は『続日本紀』に多く観られます。『喪葬令』にも三位以上の官人と,
皇親の喪事に土部が参与すると定められています。
 これ以外に土師氏は古くから,大和朝廷の軍事と外交面において活躍したことが伝え
られています。『日本書紀』に拠りますと,壬申ジンシンの乱に当たっての活動もさること
ながら,崇峻天皇即位の前年(587),穴穂部アナホベ皇子等の誅伐チュウバツに,佐伯サエキ連や
的イクハ連など,大和朝廷の軍事を担当したことで知られている氏族と一緒に,土師連が派
遣されています。外交面においても,記録の確実になった推古朝以後においても,新羅
や唐との関連においてその名が見えます。
 
 土師氏が軍事的性格を有していたことについて,この氏が陵墓築造に深い関係を持っ
ていたことから説明されています。例えば壬申の乱の直前,近江朝廷は山陵造営を名目
として,美濃・尾張の人夫を集めているとの風説が大海人オオアマ皇子(後の天武天皇)側
に伝わったと云う話があります。土木工事などに集めた人夫に武器を与え,そのまま軍
隊に編成することは容易だったでしょう。陵墓築造に関係の深い土師氏は,従って軍事
力動員にも長じていたと云えましょう。
 しかも,土師氏が多くの人夫を動員して築造したと認められます陵墓は,後には巨石
を組み合わせて築かれる横穴式石室墳でした。それには高度の技術が要求され,いやで
も大陸文化の摂取に熱心にならざるを得ません。鍛師カヌチシ,画師,薬師クスシなど,氏の名
に師の字を含むものは大陸文化と関係の深い氏族が多い。土師氏が土部と云う名を持ち
ながら土師とも称するのは,この氏が大陸文化と関係の深いことを示すとされます。そ
して,この土師氏が外交面に起用されることが多かったのも,こうした側面から説明さ
れています。
 そして律令時代になりますと,前述のような土師氏の伝統的な職掌と,それに伴う地
位は,大きな変動を受けることになりました。その根本は,大化改新に当たっての薄葬
令ハクソウレイに始まる古墳築造の廃絶です。このことの持つ物質的・精神的な変化の社会的
意味は,測り知れないものがあります。土師氏はその大転換の波を真正面から被ること
になったのです。
 律令的官人制度が整えられるにつれて,特殊な技術や職掌を持つ大和朝廷の伴造トモノミヤ
ツコであった諸氏族は,何れも似たような立場にありましたが,特に土師氏の場合は,墓
制と云う人の死後に関する信仰の問題に直接関わるだけに,思想的により深刻なものが
あったでしょう。それを切り抜けるためには,従来にもまして大陸文化を,陵墓の築造
と云った技術の面に留まらず,学問と思想の次元にまで高めて吸収する必要があります。
奈良時代の最末期になされた土師から菅原への改姓は,そうした努力の蓄積が,次第に
氏族の将来に新しい道を見出し始めたことの現れと解せらるのです。

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