03 道真公の生い立ち
道真公の生い立ち
参考:平凡社発行「菅原道真」
〈学問の家「菅原氏」〉
天応テンオウ元年(781)から延暦エンリャク九年(790)までに,土師ハジ氏の四腹(氏族)と
呼ばれた人等が,菅原,秋篠,大枝オオエの三氏に改姓したのは,天応元年四月,土師氏を
外父母に持つ山部親王が即位して桓武天皇になられたと云う,土師氏に執って又とない
機会を捉えたものでありました。その先頭に立ったのが菅原氏の開祖となった古人フルヒト
でした。
古人等の提出した改氏姓の請願文には,この時点における土師氏の地位と,その困難
を突破しようとする彼等の思想的立場が表明されています。その文面は,氏族の始祖野
見宿禰の功業を挙げ,それに発する氏族伝来の業務は本来吉凶相半ばしていました。諱
辰キシンには凶を掌り,祭日には吉に与っていました。とは云うものの現在は,凶儀のみに
関わることを不満とし,今のままでは祖業の本旨にも背くとして,居地に因って菅原と
改姓することを願ったのでした。
翌年,秋篠宿禰のときも全く同じ趣旨に拠りますが,現在古墳の名によって総括され
ている巨大な墳墓が次々と造営されていた時代には,葬送の行事そのものは粛然として
為されたでしょうけれども,朝廷や貴族の威信をかけた壮大な土木工事でした。およそ
吉儀や凶事と云う観念の枠から食ハミ出るような,膨大な人員と物量を動員するハレの事
業であったのです。ところが,簿葬への移行と仏教の受容による一部の階層の火葬の開
始により,土師氏が面目を発揮したそのような舞台は,急速に消滅し始めたのでした。
また,貴族層の葬儀に仏教が関与し,死者の追悼と回向エコウが多く僧侶と云う専業の宗
教者によって執行されるようになりますと,土師氏が祖業として為して来たことの意味
は,この面においても矮小化されることになります。これに加えて,律令制による中央
集権国家の確立は,天皇の主宰する神権政治の意識を貴族等の間に,より強めることを
意味しました。朝廷の諸儀式は何れも,神のよさしの随々マニマニに行う神事とされました。
それを強化するために導入された儒教思想は,陰と陽だけでなく,吉と凶と云う二項対
立の観念操作によって現象を整序する精密な論理をもたらしました。必然的に朝廷の諸
事は吉儀中の吉儀として,あらゆる凶事を忌み避ける風が次第に顕著になりました。
少し詳しくは,僧道鏡の台頭によって頂点に達した天平テンピョウ以来の仏教政治が頓挫
トンザした後,奈良時代末の光仁・桓武の両朝廷は,日本伝来の神祇信仰が,別けても儒
教の思想と論理によって補強され,強く意識された時期でした。例えば大化前代以来,
中臣ナカトミ氏と並んで朝廷の祭事を担当してきた忌部インベ氏は,平安時代の初頭に,その
氏名の表記を忌部から斎部へと改めています。「いむ」とは霊威なり霊験を前にして忌
み慎むことで,それ以上の意味は本来含まれていませんでした。それを「忌む」と表記
しますと凶事を忌み避けることを連想し,斎の方は吉儀としての神事・斎戒の意味にな
ったことを示しています。としますと,土師氏の祖業は本来吉凶相半ばしていましたが,
今は凶儀にのみ与るように観られていると云う天応元年の古人等の請願文自身が,それ
までと違って儒教的教養を次第に蓄積し,吉凶とか陰陽と云う対立概念を操作しながら
伝来の祭儀典礼の整序を始めたこの時代の中央貴族等の思想動向の,最先端を示すもの
と云えましょう。
それにしても,奈良時代を通じ,土師氏の中央官人としての地位は,決して高いもの
ではありませんでした。諸陵寮ショリョウリョウの頭となり,諸国の守に任じて従五位上に進む
のが精々セイゼイでした。後には諸陵寮の頭にさえ進めず,助に止まる状態でした。祖業に
泥ナズむ限り,彼等の氏族としての頽勢タイセイは明らかなのです。ここに至って,入唐ニットウ
留学の後,大宝律令の制定に参画した土師宿禰甥とか,養老五年(721)皇太子時代の聖
武天皇(在位724〜749)の侍読ジドクとなった土師宿禰百村,神亀ジンキ八年(724)遣新
羅大使になった同じく富麻呂等の経歴は,土師氏の一族が纏まって祖業と訣別した後,
進むべき道を示す心の拠りどころになったことでしょう。
土師氏からの離脱の先頭に立ち,新しく菅原氏の開祖となった古人は,官位は遠江介
トオトウミノスケ五位下に留まりましたが,桓武カンム天皇(在位781〜806)の侍読として儒行ジュ
コウの世に高かったと伝えられます。恐らくその脳裏には,土師氏の辿った前述の歴史は
十分に意識されていたことでしょう。古人が学問に心を傾けたのは,理由のあることで
した。菅原氏はその当初から学問の家として出発し,そのことに氏族の再生を賭けてい
たと云えましょう。
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