11 記紀二典
 
               記紀二典キキニテン
 
                     参考:大法輪閣発行三橋健氏編「神道」
 
 ▼神道の神典シンテン
 神道には、他の世界宗教のようないわゆる聖典はありませんが、神典と呼ばれるもの
があります。神典とは神々の事跡や神事を記した書籍のことであり、神道の本質や理念
が語られています。
 即ち神典とは神道における聖典のことですが、神典は神道古典、神道書とも呼ばれ、
またかつては神書、神経、皇典、本書、国典、経書、教典などとも呼称されていました。
 神典と考えられます書籍には枚挙に暇イトマがありませんが、一つの目安として大倉精神
文化研究所編集輯「神典」があります。この書籍には、「古事記」「日本書紀」「古語
拾遺」「宣命センミョウ」「中臣寿詞ナカトミノヨゴト」「令義解リョウノギゲ(抄)」「律(抄)」「
延喜式(抄)」「新撰姓氏録ショウジロク」「風土記フドキ」「万葉集(抄)」などが収められ
ています。またそのほかの書籍の中において、神典として扱えるものとして、「先代旧
事本紀センダイクジホンギ」「類聚三代格ルイジュサンダイキャク」「海部氏系図」「八幡愚童記」「新
撰亀相記」「高橋氏文」「天書」「神別記」などがあり、また注釈書として「祝詞」「
延喜式神明帳」「中臣祓ナカトミノハラエ」などが参考になります。このほか、各神社に伝えら
れています縁起や祝詞なども、神典としての役目を果たします。
 本書は、「古事記」及び「日本書紀」について述べてみます。
 
 ▼国学者の神典観
 四大国学者とは、荷田春満カダノアズママロ・賀茂真淵カモノマブチ・本居宣長モトオリノリナガ・平田
篤胤ヒラタアツタネの4人の学者を言います。この四大国学者は何れも「古事記」と「日本書紀
」の、特に神代巻の研究を通して、神道の道理を究明しようとしました。彼らの研究態
度は、その後も多くの国学者や神道学者等に受け継がれて現在に至っています。なかで
も神道を信仰する人々は、「古事記」「日本書紀」を根本聖典として重視し、この二書
を「記紀二典」と呼び、またときには「御記」「御紀」などと尊称してきました。
 これら「記紀二典」は、何れ劣らぬ重要な事柄を収めておりますので、本居宣長は「
うひ山ぶみ」の中において、この記紀二典の神代巻を繰り返して読むことを薦めていま
す。また宣長は「古事記伝」の中においては、「記を以て、あるが中の最上カミたる史典フ
ミと定めて、書紀をば、是れが次に立タツる物ぞ」と述べております。つまり「古事記」を
第一の古典に定め、「日本書紀」を第二に置くとしており、その理由は「日本書紀」は
漢文で書かれており、「漢籍意カラブミゴコロにのみなづみて、大御国の古意イニシヘゴコロを忘れ
はて」ているからだと言っております。
 ところが宣長が最上の神典と認めた「古事記」には、神道という語を見い出すことは
できません。神道という語が初見するのは「日本書紀」です。神道の語の有無によって、
神典たる価値の優劣は決められませんが、「神道」という語が用いられているか否かは、
「古事記」と「日本書紀」の性格を知る上で重要であり、神道を学ぶ者にとっては、や
はり関心事の一つです。
 
 ▼「記紀二典」の成立
 「古事記」は序において、編修に関わる経緯や目的などを述べています。それに拠れ
ば、天武天皇の頃、諸家は帝記及び旧辞キュウジを持っていましたが、それらは最早正実と
違い、自家に利益するための虚偽を加えていました。そこで天皇は偽りを削り、実を定
めて、正しい帝記や旧辞を後世に残そうと、稗田阿礼ヒエダノアレに帝皇の日継及び先代の旧
辞の誦習を命じました。しかし天皇はその完成をみないうちに崩御ホウギョされました。そ
の後、元明天皇は太安万侶オオノヤスマロに、阿礼の誦習する帝紀、旧辞を撰録して献上するよ
う命じました。安万侶は詔ミコトノリの通り、それらをこと細かに採り拾い、上中下の三巻に
分け、和銅五年(712)正月二十八日に撰進したとあります。
 一方、それから8年後、元正ゲンショウ天皇の御代に「日本書紀」は出来上がりました。
これについては「続日本紀ショクニホンギ」の養老四年(720)五月二十一日の条に、これより
先に勅を奉じて日本紀の編修に従事していました舎人トネリ親王は、それが出来上がったの
で紀三十巻、系図一巻を撰進したと記しています。このうちの紀三十巻が現存の「日本
書紀」ですが、系図一巻は早くに紛失したようです。また「日本紀」を古くは「日本紀
」と称していたことも分かりました。
 このように「日本書紀」の編修は、天武十年(681)から39年もの長い年月をかけて
完成したものであり、日本最古の正史として、いわゆる六国史リッコクシの筆頭に置かれるも
のです。そこに用いられています資料は「古事記」の比はでなく、帝紀、旧辞のほかに
諸家に伝えられた記録、地方に伝えられた物語の記録、個人の手記、寺院の縁起、そし
て中国の古典や歴史書、百済の記録など数多くのものが収められております。
 次に文体の違いですが、「古事記」は和漢混交分で書かれていますが、「日本書紀」
は、中国及び中国人を対象とするなど対外的な意識を以て、公的な漢文体により書かれ
ています。このことは、書名に「日本**」という語を使用するなど、そこに自国意識
を昂揚しようとする編修者らの意図を窺うことができます。
 
 ▼記紀二典の活用
 二典の性格については、「古事記」は対内的を目的として書かれており、「日本書紀
」は対外的意図を以て書かれています。そして「日本書紀」は公的、国家的乃至自国意
識の強い、あるいは政治的色彩の濃厚な書籍なのです。この「日本書紀」に、日本固有
の民族宗教を意味する「神道」という語が初見されるということは、この語がその頃対
外的な用語として使用されていたことを示すものです。従って対内的な「古事記」に「
神道」という語が見られないのは当然のことでしょう。
 正史である「日本書紀」は、その後も重視され、平安時代、そして鎌倉時代にも神道
家に依って、度々宮中などにおいて、特に日本書紀の神代紀の講義が行われております。
 一方「古事記」は、長い間ほとんど注目されませんでしたが、寛政十年(1798)、宣
長が「古事記伝」を著しますと、その中において、「古事記」にこそ神道の道理がある
と説きました。その後、特に神代巻の研究が進められ、「古事記」が第一の神典とみな
されるようになりました。

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