30a イスラム思想1
コーランにおいてはアッラーは人間に「恩恵を与えて下さる方」で,この神の恵みに
対して,人からは感謝が要求されます。イスラムにおいては神の与えてくれる恩恵に対
して感謝すること(シュクル)が基本的な宗教的態度です。この反対に人が神に高慢であっ
たり,感謝を忘れるときは神の罰,怒りが降ろされるとされます。イスラムにおいては
「不信」とは「忘恩」と云う意味であると云われる訳です。
例えば,日常の挨拶において「アッサラーム・アライクム(あなたの上に神の平安あ
れ)」を交わした後,無事を問い合いますが,自分が無事のときは「アルハムド・リッ
ラーヒ(アッラーに賛えあれ)」と答え,「自分が無事なのはアッラーのお蔭です」の
意味を表現します。良いことがあったときは,相手の人に感謝するよりも神に対して感
謝するのです。「感謝」は人に対してでなく神に対してのみ捧げられなければならない
と,彼等は考えるからです。
例えば,子供の病気の治療に対する感謝は,その親は医師に対してではなく,神に感
謝を捧げるのです。イスラムは徹底して神中心的なのです。
また,アッラーは人のする善行・悪行を全て見ており,人間が死んで復活するとき,
人間の最高の審判者にもなります。人間はやがて神の裁きを受けると云う思想について
は,後述します。
以上がアッラーのイメージですが,この神を具体的に,或いはシンボルとしても一切
図像化したりすることは禁じられます。およそどの宗教においても,聖なるものは聖な
るために隠されるのが常ですが,特にイスラムにおいてはアッラーの図像化や偶像化は
「偶像崇拝」の否定上,およそ有り得ないことなのです。アッラーはコーランにおいて
は天上において大きな椅子に座っておられると云う示唆がありますが(二,二五六),
それ以上に視覚的イメージは示されておりません。預言者マホメット自身もアッラーを
目のあたりに見てはおらないのです。コーランは極めて聴覚的であって,視覚的ではあ
りません。ただ,この世の「神の徴シルシ」の自然や天国・地獄のリアルな描写は別です。
これはマホメットが啓示を授受したときの幻覚が幻視型より,優れて幻聴型であったこ
とにもよるとされています。
〈神の語コーラン − 神の顕現〉
コーランはアラビア語によって書かれたイスラムの根本聖典で,正しくはクルアーン
と読みます。イスラムの思想においては,神が人から全く隔絶しているのだすれば,人
はおすがりしようとして神の意向,指示を一体どのようにして確実に知ることが出来る
のでしょうか。神について人の側からは知ることが出来ないとするならば,神の側から
自らの意志を人に指示する啓示の降下の形を執ることになります。こうして,イスラム
においては神の側から,預言者マホメット(ムハマンド)に一方的に降下された語がこのコ
ーランであり,この啓示が引き続いてヒジュラ(622年のメッカからメディナへの移住)
以後は,メディナにおいて預言者に降下されたと考えられております。この断片的な啓
示を集録した書がコーランです。
キリスト教においては神の自己顕現は,イエスの人格とその働きとすますが,イスラ
ムにおいては神がそのような人格ではなく,神の導き(フダー)が言語としてコーランに
現れたと考えるのです。イスラムにおいては神が自身の意志を示す方法は,神の語であ
る啓示を預言者に降ろす以外には有り得ないからです。こうして,両宗教を比較します
と,コーランは聖書と並ぶのではなく,コーランと並ぶのはイエスになります。仏教に
おいては,仏陀の教えがコーランに並べられるでしょう。
クルアーンの元の意味は「誦むもの」,「唱えるもの」です。それは記述されたもの
を「読む」ように読まれるよりも,類のない絶妙な詩に節を付けて「朗読」,「吟唱」
するように誦まれ,唱えられるのです。その文体には,そうしたリズムと調子が備わっ
ており,そのように誦まれると深い感動が伝わってくるとされています。
コーランの文体は,アッラーが直接預言者に語りかける形を執っています。つまりコ
ーランの書は,「神の言葉」そのものの記録になっているのです。また,コーランの言
葉は啓示である以上,人の手によって創られたものとは考えられないのです。抑も,人
の考えは啓示に入り込んではいけないのであり,人の考えが入ると啓示でなくなってし
まうからです。
コーランは全て神からの啓示であり,「神が語った」と云う前置きを付けてコーラン
の句が引用されます。ですから,コーランの作者はマホメットと云う人間であると云う
答は,信仰上は正しくないのです。イスラム教徒にとってコーランの作者とは,正マサし
くアッラーと云う神であるのです。もし「預言者が語った」と前置きしますと,それは
コーランとは別の宗教的文献ハディース(マホメットの言行録)のことになってしまいます。
ハディースはコーランを補助する重要なもので,預言者の作品と考えられます。
従って,コーランは人間マホメット自身が語ったものでは決してなく,マホメットの
口を借りて語られた神の語であり,他者性が明白です。コーランの中において「われ」
と云う一人称は,マホメットが云っているのではなく,アッラーが「われは」と云う形
によって自ら述べているのです。宗教心理的に観ますと,この現象はマホメットが神憑
り状態に入って,つまり天子ガブリエル(ジブリール)がマホメットに憑依して平常の意識
を失い,恰もアッラーによって語るように強いられて語り出した言葉がコーランなので
す。マホメット自身も,これらの啓示を神からのものとして疑いませんでした。
コーランの体裁は全一一四章に分けられていて,各章はスーラと呼ばれます。最初の
序章(ファーティハ)は,切実に神に救いを求める祈りの章として置かれたもので,イスラム
教徒の礼拝のときに,何時も唱えられる美しい祈りの句です。この章は七つの節(アーヤ)
から成ります。
慈悲深く慈愛あまねきアッラーの名をもって,
一 賛えあれ,アッラー,現世・来世の主,
二 慈悲深く慈愛あまねき神,
三 審判の日の主宰者。
四 汝をこそ我らはあがめ,汝にこそ救いを求める。
五 願わくば我らを導いて真直な道を辿らせ,
六 汝の怒りをこうむる人々や踏み迷う人々の道でなく,
七 汝の嘉する人々の道を歩ませ給え。
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