30 イスラム思想1
 
               イスラム思想
 
                      参考:大阪書籍発行「イスラム思想」
 
【イスラム思想の原点】
 
〈「神」中心主義の思想〉
 イスラム思想の原点は,何時の時代においても啓示の語コーランのお導き(フダー)
と,預言者マホメットの樹立した規範(スンナ)の二つであり,イスラム教徒は自分の
生活が,その原点に沿っているか,それとも逸脱していないかどうかを内省し,そこに
関心を向けてきました。現在においてもイスラム教徒は,何時も本当の信徒とは何か,
自分達が現実に置かれている社会に,理想的なイスラムが実現しているかどうか,現在
あるイスラムが原点のイスラムから遥かに懸け離れてしまっているのではないかと,絶
えず自問していることを見落とすことは出来ません。
 そこには,「衰退し」,「逸脱した」現実を真のイスラムの原点に戻そうとする発想
方法が常に働くことになります。これが,原点復帰を志向するイスラム復興運動の発想
法と云えましょう。特に一九七〇年以降の急激な開発によって社会内部に新しく大きな
格差が生じ,これに直面して権力側のナショナリズムや既存の社会主義では対応が困難
となり,民衆的イスラム復興運動のうねりが高まっています。
 
 元々イスラムの発想には,イスラム以前のアラブ族の「ジャーヒリーヤ時代」,つま
り「無明時代」,或いは「異教時代」とイスラム出現後の歴史を区分する前後の二分法,
宗教地理的なイスラム世界(ダール・ル・イスラーム)と非イスラム世界(ダール・ル・ハルブ)との区分
法,「信」(イーマートン)と「不信」(クフル),「真」(ハック)と「誤謬」(バーティル)の対立,
本来の規範(スンナ)と逸脱(ビドア)の内部緊張など,本来のものとそうでないものを二
分する発想法が働いており,自分達の原点の真理が,それに対立するものに優越して勝
利すると観る世界観があります。更に基本的なことは,宗教における一神教とそうでな
い宗教,アッラーのみへの信仰・儀礼とアッラー以外のものへのそれが厳しく区別され
ることです。其処には,諸宗教間の原理的対立を認めないわが国の風土とは異質の一神
教の原理が貫いています。わが国の宗教的風土は,仏教も含めてどちらかと云いますと
「人間」中心主義的で,また,現代においてはこの傾向が著しいのですが,これと対照
的にイスラムは明確な「神」中心主義の宗教です。
 
 まず,神の実在はイスラムにおいては何の疑いもない自明の事実として前提されます。
 云うまでもなく,彼等の信ずる神は,唯一の至高神アッラーです。彼等の信仰告白(
シャハーダ)においては,「アッラー以外に神はない」と証言します。このように,全世界
(現世と来世)に万物を創造し,全知全能を以て支配する唯一神アッラーだけを認め,
それ以外の神の存在(ガイルッラー)は一切否定されます。イスラム以前のアラブ族は,多く
の精霊や神々の類を漠然とした高神アッラーと共に信仰し,儀礼を行っていましたが,
イスラムの出現により,アッラー以外のこれらのアラブ族の半独立的な守護霊を一切否
定し,また,それらの神々をアッラーに結び付けることも否定しました。例えば,アッ
ラーの子の神とか,アッラーの娘である女神(アッラート),アッラーを産んだ母神のような
存在は,コーランの句,「告げよ,『これぞアッラー,唯一なる神,永劫不滅のアッラ
ーである。子もなく親もなく,並ぶものなき神である。』」(第一一二章,一−四節。
以下,コーランの引用箇所の指摘は章と節の数のみを列挙する)において否定されてい
ます。真の信仰はアッラーに全ての真心を捧げ尽くすこと(イフラース)で,その反対が「ア
ッラーに並ぶ神を認めること」(シルク)であり,これが「不信」に相当します。
 
 アッラーは自分に並ぶものに帰することは絶対に許されない。だが,それ以外の行為
 であるならば,神は嘉ヨミするものに赦しを与える。しかし,アッラーに並ぶものを信
 ずるものは大罪を犯したことになる。(コーラン 四,五一)
 
 コーランにおいてはアッラーに「伴侶」(シルク)を認めるものは「多神教の徒」(ムシュ
リク)と呼ばれ,一神教のイスラムにおいては許されません。この語は当時のメッカの敵
対者を指していました。こうして,アッラーとそれ以外の存在がまずはっきり区別され
ました。
 同じようにイスラムにおいては,宗教の世界と世俗の世界とを区別する二分法の考え
方もありませんし,キリスト教のように教会と国家を二分する方法も採りません。世俗
も国家も全てアッラーの一元的な支配下に置かれます。キリスト教の「カイサル(皇帝
)のものはカイサルに」のように,統治を地上的支配者に委せるようなことはありませ
ん。カイサルはアッラー以外のもので,アッラーを信じながら地上的権力に服従したり,
皇帝崇拝したりすることは矛盾すると考えられています。また,宗教を個人の良心の問
題に限定して,国家や公共機関から切り離す近代の世俗主義の考えもイスラムには馴染
みません(ただし,トルコは世俗主義を採用しています)。政治と宗教を切り離すわが
国の基本的立場も,イスラムのこの立場と相容れないと解釈することが出来ます。
 イスラムの原則においては,我々が近代国家の原則と認めている宗教と政治,宗教と
法,宗教と公的生活が,それぞれ二つの別々の領域を作るのでなく,不可分の全体と観
るのです。そこにおいては宗教から独立した国家とか,宗教から切り離された公的生活
や法は,本来の在り方に反することになるのです。宗教から国家,政治,法を原理的に
独立させたり,急に肥大化させようとしますと,それに反対して直ちにイスラム復興運
動が出てくるのです。
 
 アッラーは唯一の主であると共に創造主であり,天地全てを創造され,全生態系の中
において人間もその被造物と云うことになります。最初の人間アダム(アーダム)は土から
作られ,神の息を吹き込まれて人間に成ったと語られ(コーラン 一五,二八),その後の人
間は同じく土を原料として精液→凝血→肉→人間の順序で作られたと啓示されています
(同 四〇,六九ほか)。
 なお,コーランには旧約聖書の創世記(祭司資料に属する)のように,言葉による創
造の考え方も現れます。即ち,アッラーが「『なれ!』と命ずると,その言葉によって
それが『なった』」(コーラン 三,五二ほか)と云うようになります。また,創造の期間
は同創世記においては六日間で,その後,創造主は一休みされますが,コーランには創
造の期間は定められておらず,神は天地を初めに創造して配置を定められた後は,引き
続いて創造作用と維持を続けていると考えられているのです。
 
 こうして,この世において生起するものは全て神の意志によって起こるとみなされ,
神の意志は不断の創造作用,神の力として常に働いていると考えられています。どのよ
うな出来事も,神の意志の働きとみなされるのです。例えば「インシャーアッラー」と
云う言葉がありますが,これは「もしアッラーそう意志するならば(そのように成るで
しょう)」の意味です。これは悪いことの予想のときではなく,中立的か,寧ろ良いこ
とへの期待の場合について云うようです。通常これは本人の責任回避のために使われる
印象を与えますが,しかしこれを発する信徒は,自分も努力しますがそうならない場合
も起こるのは神の意志なら避けられない,と云う善意でもって使うのです。物事全ては
アッラーの意志に従って起こり,人間の力は及ばないと云う表明なのです。
 その言葉が未来のことについて表明されるのに対して,現在と過去のことについて「
アッラーのご意志によってそうなっている」と,良いことについて表明するときは「マ
ーシャーアッラー」と云います。例えば,小さな子供を可愛いと云って褒めるとき,た
だ「可愛いですね」とだけ云いますと,悪魔(ジン)が嫉妬するので,このようなときに
は必ず「アッラーがそう望んだとおりに」と云うことばを一緒に付け加えなければなら
ないのです。一種の魔除けの表現方法で,これも悪魔の妬みに対して,アッラーの意志
の力を認めたものなのです。
 
 宗教の定義に「絶対帰依の感情」(シュライエルマッハーの言葉)と云う言葉ありますが,「イ
スラム」の語義に「全てを捨ててアッラーの帰依する」があり,人間はアッラーの意志
にひたすら従わなければならないとされているのです。こうして,神と信徒との関係は
「主」(ラップ,マーリク)と「奴隷」の関係として表されます。信徒とは主の意志に従うも
のだからです。なお,信徒=奴隷の語は,アラブのキリスト教徒の間において既に用い
られておりました。
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