28a キリスト教
 
〈イエスの教え〉
 キリスト教においては,信徒は「私はこのように信じます」との信仰告白を通して示
されるべきとされています。
 それでは,キリスト教の教えの真髄としての,黄金律オウゴンリツ(根本的倫理観)と呼ば
れる「山上の垂訓(説教)をご紹介します。
 
 イエスは山の上でこのように話されました。
 「こころの貧しい人たちは,さいわいである。天国は,彼らのものである。
 悲しんでいる人たちは,さいわいである。彼らは,なぐさめられるであろう。
 柔和ジュウワな人たちは,さいわいである。彼らは地をうけつぐであろう。
 義に飢えてかわいている人たちは,さいわいである。彼らは,あきたりるようになる
であろう。
 あわれみぶかい人たちは,さいわいである。彼らは,あわれみをうけるであろう。
 心の清い人たちは,さいわいである。彼らは神を見るであろう。
 平和をつくり出す人たちは,さいわいである。彼らは神の子とよばれるであろう。
 義のために迫害されてきた人たちは,さいわいである。天国は彼らのものである。
 
 あかりをつけて,それを桝マスの下におくものはない。むしろ,燭台ショクダイの上におい
て,家の中のすべてのものを照らさせるのである。そのように,あなたがたの光をかが
やかせなさい。そして,人びとが,あなたがたの良いおこないを見て,天におられるあ
なたがたの父をほめたたえるようにしなさい。
 『目には目を,歯には歯を』と言われていたことは,あなたがたの聞いているところ
である。けれども,私はあなたがたに言う。もし,だれかがあなたの右のほおを打つな
ら,左のほおも向けてやりなさい。『隣人トナリビトを愛し,敵を憎め』と言われていたこ
とは,あなたがたの聞いているところである。しかし,私はあなたがたに言う。敵をも
愛しなさい。天の父は,悪い者の上にも良い者の上にも,太陽をのぼらせ,正しい者に
も正しくない者にも,雨を降らせてくださるからである。
 良いおこないを,人の前で見せないようにしなさい。ほどこしをするときには,ひそ
かにしなさい。あなたの父は,かくれたことを見ておられて,むくいてくださるであろ
う。
 あなたは祈るとき,自分の部屋に入り,とびらをしめなさい。そして,このようにい
のりなさい。
 
  『天にいますわれらの父よ,
  み名があがめられますように,
  み国がきますように。
  みこころが天におこなわれるとおり,
  地にもおこなわれますように。
  私たちの日ごとの食物を,
  きょうもおあたえください。
  私たちに罪をおかした人を,私たちがゆるしましたように,
  私たちの罪をもおゆるしください。
  私たちを試みにあわせないで,
  悪い者からお救いください。』
 
 あなたがたは,さびついたり,虫が食ったりするするようなこの世に,宝をためては
ならない。それよりも,さびつかず,虫も食わない天に,あなたがたの宝をためなさい。
何を食べようとか,何を飲もうとか,何を着ようとか,毎日のくらしのことをあれこれ
思いなやんではいけない。あなたがたの天の父は,食物や,飲むものや,着るものが,
あなたがたに必要であることをごぞんじで,あたえてくださるであろう。すべて求める
者はあたえられ,また,さがす者は,それをみいだすであろう。
 人々びとがしてほしいと望むことを,人びとにしてやりなさい。
 正しくない教師たちに気をつけなさい。その人たちは,羊の皮を着てあなたがたのと
ころに来るが,その内側はおおかみである。
 私のことばを聞いたら,注意してそれにしたがいなさい。私のことばを無視する者は,
砂の上に家を建てる者のようである。雨が降り,洪水がおしよせ,風がふくと,その家
はこわれてしまう。その土台がしっかりしていないからである(マタイ福音書より)」。
 
 このようにイエスは,これらの教えの開陳を通して「人にしてもらいたいと思うこと
は何でも,あなたがたも人にしなさい」,「これらの言葉を聞くだけで行わない者は,
愚かな人」と動機付けているのです。
 
〈イエスの復活〉
 キリスト教を世界宗教へ発展させる土台を築いたパウロは,「コリントの信徒への手
紙一」において,次のように述べています。
 「キリストは死者の中から復活した,宣べ伝えられているのに,あなたがたの中のあ
る者が,死者の復活などない,と云っているのはどういうわけですか。死者の復活がな
ければ,キリストも復活はなかったはずです。そして,キリストが復活しなかったのな
ら,わたしたちの宣教は無駄であるし,あなたがたの信仰も無駄です。更に,わたした
ちは神の偽証人とさえ見なされます。(中略)そして,キリストが復活しなかったのな
ら,あなたがたの信仰はむなしく,あなたがたは今もなお罪の中にあることになります
」。
 
〈洗礼〉
 洗礼とは,新たにキリスト教会の信徒となる者が教会において受ける(受洗)のこと
で,聖なる宗教的儀式を云います。
 新約聖書には,「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて,罪の赦しを得させるために『悔い
改め』の洗礼を宣べ伝えた。(中略)彼はこう宣べた。『わたしよりも優れた方が,後
から来られる。(中略)わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが,その方は聖霊で洗
礼をお授けになる』。そのころ,イエスはガラリヤのナザレから来て,ヨルダン川でヨ
ハネから洗礼を受けられた」。
 なお,悔い改めとは,「人間は生まれながらにして罪人ツミビトである。その罪を罪とし
て自覚し,神のもとに招かれるため心をあらためること」を云い,罪人ツミビトとは,「神
にそむき,神の掟をおかす者」とされています。
 
〈旧教と新教〉
 旧教(カトリック教)とは正統教義を奉ずるキリスト教で,ローマ教皇を首長に仰ぐ
ローマ・カトリック教と,その支配に服しないギリシア・カトリック教(ギリシア正教
)とに大別されますが,普通前者を指します。
 プロテスタント(新教徒)とは,16世紀の宗教改革に端を発したキリスト教の諸教義
・諸教会の総体,即ち新教を奉ずるキリスト教の一派を云います。
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