26b 聖書の紀元/新約聖書の虚と実
〈預言者イエスからキリストへ〉
「あなたがたが見ていることを見る目は,さいわいである。あなたがたに言っておく。
多くの預言者や王たちも,あなたがたが見ていることを見ようとしたが,見ることが
できず,あなたがたが聞いていることを聞こうとしたが,聞けなかったのである(ルカ
福音書)」。
「邪悪で罪深いこの時代にあって,わたしとわたしの言葉を恥じる者にたいしては,
人の子もまた,父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに,その者を恥じるで
あろう(マルコ福音書)」。
「誰でも人の前でわたしを受け入れる者を,人の子も神の使たちの前で受け入れるで
あろう。しかし,人の前でわたしを拒む者は,神の使たちの前で拒まれるであろう(ル
カ福音書)」。
「わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら,神の国はすでにあなたがた
のところにきたのである(マタイ福音書)」。
「盲人は見え,足なえは歩き,らい病人はきよまり,耳しいは聞こえ,死人は生きか
えり,貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は,さいわいであ
る(マタイ福音書)」。
このようにイエスは,自己を「神からつかわされたもの」,天からやってくる「人の
子」として語っています。このことが問題なのです。イエスを受け入れることは,イエ
スの言葉だけを受け入れるのではなく,イエスが神から使わされた者として語っている
ということ,そのことを事実として,いや単なる事実以上の,歴史を変革する決定的な
出来事として受け入れることを意味していました。この要求の前に立たされ,決断を求
められたとき民衆は戸惑い,躓ツマズく結果となったのです。現に大きな躓きであったか
らこそ,更にイエスはこう語ったのです。
「わたしにつまずかない者は,さいわいである(マタイ福音書)」。
最初の教会は,こうしたイエスの求めに対して,決断を以て応えた人々の集合体 −
信仰共同体として成立しました。福音書の原型は,この時,民衆の決断の中に,キリス
ト論的信仰告白として,最初の萌え芽を見出しました。
伝承の最古の層に映し出されたイエスの言葉は,彼が一人の優れた預言者であったこ
とを,明確に表現しています。しかし,決してそれだけではありませんでした。何故な
らイエスの言葉には,終始一貫メシヤの響きがこめられているからです。彼は,来るべ
き「時」が満ちて,神の支配が開始されたことについて語ります。悪霊は退散し,らい
病人は浄められ,死人は甦ったことについて語ります。
重要なことは,そのように語る彼自身が,実は神から使わされた者として語っている,
という事実なのです。この事実の承認こそが,キリスト論成立の核であり,そこにキリ
スト教誕生の秘密があったのです。
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