26a 聖書の紀元/新約聖書の虚と実
 
〈福音書の冒頭〉
 ところで,マルコ福音書を除く,マタイ・ルカ・ヨハネ福音書の冒頭は,何れもナザ
レ人ビトイエスが神の子であることを立証する,神話的叙述によって始められています。
 ヨハネ福音書の場合,その冒頭の一節は次に引用するあまりに有名な,光の子の神話
論的表象によって始められています。
 「初めに言コトバがあった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神
と共にあった。すべてのものは,これによってできた。できたもののうち,一つとして
これによらないものはなかった。この言に命イノチがあった。そして,この命は人の光であ
った。光はやみの中に輝いている。そして,やみはこれに勝たなかった」。この短い数
節に全てが語り尽くされています。それは光の子,キリスト・イエスの勝利の物語なの
です。
 
 ところがマルコ福音書の場合は違います。そもそもマルコ福音書には,神の子誕生物
語や,復活のイエスの不思議な顕現物語がないのです。
 マルコ福音書は,福音書中の最古の伝承資料であるという事実のの故に,19世紀に隆
盛をみたいわゆる「イエス伝」神学では,ナザレのイエスの生涯は専らこのマルコ福音
書を基礎にしていました。
 この枠組によると,イエスの活動は,バプテスマのヨハネが捕らえられた後,ガラリ
ヤを中心に開始されました。イエスは言います,「時は満ちた,神の国は近づいた。悔
い改めて福音を信ぜよ」と。
 イエスは,民衆に向かってこの世の終わりの間近な到来を訴え,罪の悔い改めを迫っ
たのです。しかし民衆はイエスの言葉を理解しません。寧ろ民衆はイエスの奇跡に喝采
し,専ら驚異と不思議だけを期待しました。イエスは絶望し,ガラリヤを離れ,カナン
の異邦人地域に向かいます。この間,イエスの奇跡の評判は益々民衆の間に広まります
が,しかしイエスがメシヤ=キリストであることは,固く秘められたままです。イエス
は時の到来を待っていました。ですからペテロが,「あなたこそは救い主キリストです
」と告白したとき,イエスは寧ろ,そのことが,人にもれることを懸念して,厳しく弟
子達を戒めました。
 一方,危険は刻々近づいていました。イエスはエルサレム入りを目前に,死を予感し,
初めて弟子達に,自分がメシヤであることを,そして人々に捨てられ殺されて,三日後
に甦ることを告白します。しかし弟子達には通じません。イエスは,ユダヤの律法に対
する違反と冒涜の罪の故に,律法学者,祭司長など,ユダヤの権力者の反感を買い,弟
子の一人ユダの裏切りによって,ローマ官憲の手におちます。イエスは,人々の前で初
めて公然とメシヤ宣言をします。ユダヤ最高法院は,十字架の極刑を宣言し,イエスは
絶望的な叫びを残してゴルタゴの丘で息絶えました。
 翌々日,週の初めの日(日曜日),女達がイエスの死体に香油を塗るために墓に近づ
いたとき,墓は既に空でした・・・・・・。
 
 しかし20世紀初頭,「メシヤに関するイエスの言葉は,正確な歴史的伝承ではなく,
マルコ記者の神学的創作に過ぎない」ことが明らかとされました。
 
〈伝承と創作との間〉
 福音書に限らず,一般に口承文学に関して,ある物語が口から口へ伝承されて行く過
程において,最も変化を受けやすい部分は,物語の様式や全体の構造ではなく,寧ろ細
部の附随的部分であると云われております。それは,人間の好奇心と結合したイマジネ
ーション(想像)の結果ですが,好奇心と云うものは,常に物語の核心よりもその細部
の明細化に向かって働く傾向を持つからなのです。
 
 福音書には,いわゆる「山上の垂訓」と呼ばれるイエスの説教が記されています。
 イエスの病気なおしの評判を聞きつけて,遠方からやってきたおびただしい群衆が溢
れていたと云います。
 マタイ福音書では,弟子達と群衆とを二段構えに設定しています。
 「イエスはこの群衆を見て,山に登り,座につかれると,弟子たちがみもとに近寄っ
てきた。
 こころの貧しい人たちは,さいわいである。天国は彼らのものである。
 悲しんでいる人たちは,さいわいである。彼らは慰められるであろう。
 柔和な人たちは,さいわいである。彼らは地を受けつぐであろう。
 義に飢えてかわいている人たちは,さいわいである。彼らは飽き足りるようになるで
あろう。
 憐れみ深い人たちは,さいわいである。彼らは憐れみを受けるであろう。
 心の清い人たちは,さいわいである。彼らは神を見るであろう。
 平和を実現する人たちは,さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。
 義のために迫害される人たちは,さいわいである。天の国は彼らのものである」。
 
 この幸福の教えは全部で八つあるので,「八福の教え」とも呼ばれます。
 ルカ福音書では,イエスは初め山上で祈っておられ,それから山を下って平地に立た
れ,そこで大群衆に取り囲まれて説教されたということになっています。この場合は,
これを「山上の垂訓」とは呼ぶことはできません。
 
 この説教に関して,ルカ福音書には「人々があなたがたを憎むとき,また人の子のた
めにあなたがたを排斥し,ののしり,汚名を着せるときは,あなたがたはさいわいだ」
とか,「わたしを主よ,主よ,と呼びながら,なぜわたしの言うことを行わないのか」
などとありますが,このような言葉は,不特定多数の群衆への言葉というより,イエス
の特定の弟子達への言葉として相応しいものです。
 そのため,マタイ福音書ではこの矛盾を回避するために,前述のように二段構えの工
夫を凝らした,手のこんだ明細化が行われたと云ってもよいでしょう。
 
 何故このような明細が行われたのでしょうか。この明細化によって,原始キリスト教
という名の「弟子達」,最初のキリスト教徒の小さな群れが彷彿と浮かび上がってくる
のです。
 彼等は,周囲の敵意に満ちた世界の中で,絶えず彼等を攻撃し,結束の分断を謀るユ
ダヤのパリサイ人ビト,律法主義者,それに憎むべき偽ニセ預言者の煽動から群れを守り,
敵対者との論議に打ち負かされないための,明確な原理を手にする必要に迫られていた
のです。
 パリサイ派とはユダヤ教の一派で,モーセの律法の厳格な遵守を主張し,これらを守
らない者は汚れた者として斥けました。イエスはその偽善的傾向を激しく攻撃したと云
われています。
 こうしたキリスト教徒の共同体の切迫した必要性に応じて,イエスの言葉は結集され,
形を整えて提示されました。それが,「山上の垂訓」なのです。「山上の垂訓」は,教
団生活のいわば生活綱領であり,新しいプログラムであったのです。イエスの言葉は,
こうした視点から再生されたのでした。
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