12 仏教
 
                 仏教
 
                   参考:三笠書房社発行「『宗教』がわかる」
 
〈仏教の誕生〉
 仏教は西暦紀元前6,5世紀頃,インドの釈尊によって説かれました。この時代は,
多くの自由思想家が輩出した時期でもありました。
 それまでのインドの伝統的思想及び宗教的権威は,アーリア人によって守られていま
した。
 紀元前1200年頃,西トルキスタンからヒンドゥー・クシュ山脈を越えてインドに移住
してきたアーリア人は,ヒンドゥー教の基である,神々への讃歌の書『リグ・ヴェーダ
』を生み,その神学的根拠付けによって,カースト制度など,今日に通ずる社会規範や
生活信条を構築していきました。
 その後,このヴェーダ思想を継承し発展させる文献が集成され,紀元前1000年頃には,
祭祀の書『ブラーフマナ(梵書ボンショ)』が成立,同800年頃に智恵の書『古ウパニシャ
ッド(奥義書オウギショ)』が成立しました。
 これらの思想的背景に基づいて構築されたアーリア人社会も,紀元前6世紀頃にはガ
ンジス河とジャナム河流域の広大な地域に進出することで,先住民との間に共同社会が
醸カモし出され,ヴェーダ聖典の権威が揺らぎ始めました。釈尊を始めとする自由思想家
が誕生したのは,正にそんな時代であったのです。
 
 これらの自由思想家達は,従来の思想及び思想家の権威の破壊を主張し,階級的・思
想的に如何なる拘束も受けず,何れの四姓(カースト)からの出自もみられ,自己否定
や思想否定をもしたのでした。彼らの哲学は形而上学的には虚無論,認識論的には不可
知論,実践哲学的には快楽主義に陥ることが多かったと云われています。このような背
景の中で仏教が誕生したため,「仏教はヒンドゥー教の改革派」と位置づけられました
が,教団内ではカーストを否定し,平等な関係を樹立したと云われています。
 
〈仏教の開祖〉
 釈尊は,今日のネパールのターライと呼ばれる地方で,其処に住む釈迦族の王族の長
子として生まれました。父はスッドーダナ(浄飯ジョウボン)王,母はマーヤー(摩耶マヤ)
夫人で,無憂樹ムユウジュという樹の下で生まれたと云われ,生まれたとき釈尊は,四方に
7歩歩いて,右手で天を左手で地を指し,「天上天下テンジョウテンゲ唯我独尊ユイガドクソン」と
唱えたと伝えられています。
 釈尊は王族の太子として何不自由なく成長し,父の邸ヤシキのほかに春・夏・冬用にそれ
ぞれ別邸があるという恵まれた生活振りであったと伝えられています。
 このような生活風土にあったため,元々思索的であったとされる釈尊は,人生の意義
について深く思い悩むようになり,29歳のとき,妻子や家族等を残して城を出,全てを
放棄して出家しました。
 その後,苦行を重ねても悟りを得られぬことを自覚してこれを放棄しました。35歳に
なって菩提樹(インドボダイジュ)の下で端座タンザしていたとき,遂に悟りを開いたのでし
た。
 この座において,最上の悟りに至ることを決意した釈尊は,まず世俗の世界(欲界)
を支配するマーラ(魔王)を降伏させるために力を注ぎました。この釈尊の決意を知っ
たマーラは,釈尊に戦いを挑みます。最初は魔王の娘達による誘惑,次いで魔王の軍勢
による攻撃,最後は世間的権力への誘いと続きましたが,これらの戦いの全てに釈尊は,
慈悲の心によって勝利を収めました。
 この悟りによって「仏陀」となった俗名シッダールタは,このときからシャーキャ族
(釈迦族)出身の聖者ショウジャを意味する釈迦牟尼世尊シャカムニセソン(略して釈尊)という尊
称で呼ばれるようになりました。
 成道後,釈尊は四十余年間各地を遊行ユギョウして伝道に明け暮れる生涯を送りました。
 釈尊の遺体は荼毘ダビ(火葬)に付され,主に八つの部族に分骨されてストーパ(舎
利塔)が造られ崇拝されたと伝えられています。
 
〈教団の成立〉
 しかし釈尊は,仏陀としての自覚に立ち,自分が発見したこの真理を説くことの躊躇
トマドいを覚えました。それは,「自分が悟りを得て,初めて究めることのできたこの最
上の法が,世間の人々に受け入れられるだろうか」という心配があったからです。この
法を説いたとしても,貪ムサボリと瞋イカリと痴オロカサの三毒にまみれている世間の人々の理解
を得ることは困難であろうと思われたのでした。
 この釈尊の躊躇いを重く受け止めた梵天ボンテンは,釈尊の前に進み出て,法が説かれれ
ば悟る者が必ずいること,逆に正しい法が説かれなければ,誤った法が世間を罷り通る
ことを申し上げ,説法を促されました(梵天勧請カンジョウという)。
 
 そこで釈尊は決意し,出家当時の修行の仲間5人を前に最初の説法(初転法輪ショテンホウ
リンという)を行いました。この説法の中で釈尊は,中道の教えとして「世の中には二つ
の極端がある。一つは,欲望の赴くまま快楽に耽ること。二つは自分で自分を苦しめる
ことに熱中すること。この二つは共に無益なことであり,仏陀はこの二つの極端を捨て
て中道を悟った」という教えです。四諦シタイの法門(仏教の基本となる四つの真実)とし
て苦諦クタイ・集諦ジッタイ・滅諦メッタイ・道諦ドウタイを説きました。苦諦とは,この世は様々な
苦に満ちているという真実(一切苦の認識),その苦の原因が渇愛や執着にあるという
真実(苦の原因の探究),それらの欲望を断ち切った状態が苦滅の境地であるという真
実(苦滅尽の境地),この苦滅に至るためには八つの正しい道(修行方法)を歩むこと
という真実,を云います。
 ここに最初の弟子が生まれ,仏・法・僧と「三宝」が揃ったので,仏教が教団として
成立しました。
 その後釈尊は,「比丘ビク(男子の僧)たちよ。衆生の利益と安楽のため,世を慈しむ
ため,遍歴に出よ。同じ道を二人して行くな。初めも中道も終わりもよい,内容も表現
も備わっている法を説け」との伝道宣言を発し,布教活動が開始されたのでした。
 
〈仏教の教義〉
 仏教には,他の教えと識別する旗印として「法印」と呼ばれる部門があり,それを三
法印・四法印と呼んでいます。三法印とは,諸行無常ショギョウムジョウ(この世に常なるもの
はない = 万物は流転するとの真理)印・諸法無我ショホウムガ(全ての物事は,原因と条件
によって成立し,それと隔離した実体性はないとの真理)印・涅槃寂静ネハンジャクジョウ(前
二者の二つの真理を体得し,欲に捉われた執着心を捨て去れば,本当の平安な境地が訪
れるとの真理)印を云い,この三つの真理が含まれていれば仏教であると認められます。
また,諸行無常印と関連する一切皆苦イッサイカイク(この世のあらゆる存在は苦であるとの真
理)印を加えて,四法印とすることもあります。
 この三法印の基底に流れる教義の基本的な立場として,「縁起エンギ説」があります。
それは,一切の存在の在り方(相依相関性)を根本的に明かしたものです。教典ではこ
れを「これあるときかれあり,これ生ずればかれ生ず。これなきときかれなく,これ滅
すればかれ滅す」(因縁生起インネンショウキという)と表現します。
 そして「初転法輪」の説法において釈尊は,この縁起説に基づいて「四諦の法門」を
説いたのです(前述)。
 また,釈尊を含めて過去の七仏が共通して説かれた教えとして,「諸々モロモロの悪をな
さず,諸々の善を行い,自らの心を浄くする。これが諸仏の教えである」(七仏通戒偈
シチブツツウカイゲという)があります。
 大乗仏教の時代に入ってからは,六波羅蜜ロクハラミツ(忘己利他を身上とする,菩薩が実
践すべき六種の徳目)の行や仏性などが説かれていますが,要は仏教の縁に連なる一人
ひとりがこの世の真実の在り方に目覚めて,仏になる道を専心歩むための教えというこ
とができます。
 
〈釈尊の入滅〉
 釈尊は沙羅双樹サラソウジュ(2本のサーラ樹)の元に身を横たえて,入滅しました。涅槃
を目前にして,釈尊は二つの基本的な教えを遺されました。
 一つは,後世の仏教者が「自燈明ジトウミョウ(自帰依ジキエ),法燈明ホウトウミョウ(法帰依)
」の遺訓として尊んでいる教えです。釈尊は,仏教者の寄る辺について「今でも,私の
死後でも,誰でも」自らを頼りとして,他人を頼りとせず,法を頼りとして,他のもの
を頼りにしないでいるなら,最高の境地にあることを説かれました。
 もう一つが,臨終の言葉で,「諸々の事柄は過ぎ去るもの(無常)である。怠ること
なく精進しなさい」。これが釈尊説法の締め括り(要訣)でした。
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