16 罪と祓の信仰
 
 神道の宗教的性格を理解する上で、何故倫理戒律が、この信仰伝統では主要な関心事
とならなかったのであろうか。その理由の一つに、神道が人間を神の生みの子と信じ、
その存在を在るがまゝに受容する姿勢のあるが故であることは、既述したとおりである。
 しかし、それだけに、理由の全てが集約される訳ではない。
 神道は元々、民族(同族)共同体の中で培われてきた自然宗教である。従って倫理の
基本は、共同体存立の理念と、現実の成長発展にこそ向けられていたのである。それは
「大祓詞」に挙げられた天津罪・国津罪の内容が、これをよく物語っている。
 
 「大祓詞」(『延喜式』)の成立当時は、律令制に基づく「律」によって、法的に処
理されていることは疑いない。従って神道において罪の問題が考えられるとき、われわ
れが注意しなければならないのは、罪の細密な内容分析よりも、むしろ、その解除とし
ての「祓ハラエ」のことに関することである。
 
 そもそも神々への信仰がある限り、如何なる罪穢も、祓戸の大神等からさすらい失い
給うことになるので、今更祓のことを採り上げる必要性はない。にもかかわらず、祓の
信仰が成立するのは何故であろうか。
 またもし、祓儀礼で一切の罪穢が除去され、信仰者の側における自律の姿勢が無視さ
れるなら、それ自身、祓を呪術化することになってしまう。罪の裁きを受けることなく、
神前に立つことになるからである。
 
 祓の儀礼が成立する根拠について、最初に神学的な論議を展開したのは、小野祖教で
はなかろうか。
 即ち、人間の性は、これを善なるものとして捉えている。従って罪穢は外部からもた
らされるのである。その主体は、悪神としての禍津日の神である。その故に祓の儀礼に
よって、「今日より後は、罪と云う罪はあらじ」との信仰が成立するのである。
 
 小野はこれを二つの段階に分け、その第一過程が歴史的には祓具(法律的には刑罰制
度)、第二過程が宗教的祓によって身を罪穢から守り、常に神の前に立ち得るものとし
ての自己を保とうとする信仰的姿勢が示されている、とする。
 
 しかしこの考えは、人間性を善悪二分論にすることを前提としている。
 禍津日の神を悪神とする信仰は正しいとしても、悪が道徳的水準レベルで問題とされる
限り、神道では、全ての神は善でもあり悪でもあると云うことになろうからである。何
故なら、全ての神は、和魂と共に荒魂をも有しておられる。人間の魂の働きも同様であ
る。常に善をなすとは限らない。
 
 大祓詞には、「国中に成り出む天之益人らが過ち犯しけむ雑々クサグサの罪事」とし、罪
穢は禍津日の神からのみもたらされるものではなく、人間もまた、犯すことを否定する
ことは出来ない筈である。その意味で、人間の性は、倫理水準レベルでもし問うとすれば、
もとより「中性」とするのが正しいと考え得る。今日の人間科学の一つ、心理学の立場、
また道徳論とも、その点では同調し得るのである。かくてこそ、人間の責任問題も、初
めて問い得ることになるであろう。
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