05 神の定義と多神信仰
 
 現存在世界において、その存在の中に潜む「命の力」、或いは存在の示す働きを神と
見なすとすれば、全ての存在を霊的なものとして捉えていることになる。しかし、神道
は汎神教ではない。事実、全てのものを神と呼んでいる訳ではない。それでは、「神」
とは一体、どのような存在を云うのであろうか。
 神についての定義としては、本居宣長の説が的を得ている。
 
 「さて凡そ迦微カミとは、古の御典等フミドモに見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を
祀れる社に坐す御霊ミタマをも申し、又人はさらにも云はず、鳥獣木草のたぐひ海山など、
其のほか何にまれ、尋常ヨノツネならずすぐれたる徳コトのありて、かしこき物を迦微とは云
なり。すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功しきことなどの、優れたるのみを云に非
ず、悪きも奇しきものなども、よにすぐれてかしこきをば、神と云なり。(『古事記伝
』三之巻)」
 
 神は、その神威・稜威イツによって感得されて来た。その「力」が、常に人間にとって都
合の良い関係においてのみ発動されるとは限らない。従って、神を御霊ミタマとして認識す
る場合、その有益(正)の稜威を和魂ニギミタマ、無益(負)の稜威を荒魂アラミタマとして、畏
み恐れて来たのである。また、人に幸福を与える神の霊魂としての幸魂サキミタマ、神秘性を
もたらす奇魂クシミタマを合わせて四魂とする説もあるが、これらの霊魂は実体として、或い
は独立して存在するものと捉えられるものではない。それは神名の場合と同様に、あく
までも人間の側からの認識であるのである。
 
 多神教と云う概念は、いわゆる西洋における一神教の史観からの見方である。神道が
多神教であるが故に、一神教とは異なるとの観点(偏見)は当を得ていない。
 神について、これを真理と云う概念に置き換えて考えてみたらどうであろう。真理は、
全ての人にとっての課題である。真理は、情動によって生ずる自己の理性の混乱を沈静
化させる働きをも持っている。
 
 さて一神教の信仰は、ある事柄に関する理解について、真理(又は真実)は一つしか
ないと考える。従って一方が正義であれば、他方は不正義であると断定する考えである。
つまり一神教文化圏での議論は、常に絶対の真理を求める傾向が支配的である。
 これに対して、日本人はどうか。例えば争うに至るには、双方に原因がある、と云う
考え方である。事物の働きには、必ず正負両面の作用があり、正だけを採り上げて、負
を見捨てることは、事の真実を把握していないとする真理観があるからである。
 
 わが国の真理観は、一神教のそれとは発想の相違、在り方の違いがある。例えば伊邪
那岐・伊邪那美の二神は、国生みの最初に失敗されて御子水蛭子ヒルコを生まれた。高天原
タカマノハラの中心神格で最高至貴の神とされる天照大御神でさえ、弟神建速須佐之男命の御
心を察することが出来ずに、宇気比ウケヒに問うて負けておられた。
 大小強弱の神々がありながら、これを信仰する日本人は、強大なる神のみら祀って、
弱小の神々を排除することはして来なかった。
 即ち絶対の神、全知全能の神は坐まさない。そこに神道信仰の特質がある。
 
 このことは神々の、個別存在の持つ「命の力」に、聖なるものを観ているからではな
いであろうか。それは超越的な唯一神の前に、現存在的な世界での個別が持つ存在性を
無視して、全てが本質的に平等だとする存在認識の在り方と、根本的に異なるものであ
る。神道は、個別の持つ個別性にこそ、「神」を観ていると言い得る。神々の個別存在、
即ち各々がかけがえのない「生命イノチ」だからである。
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