04 神霊と自然
 
 神の生成について論ずるとき、神は物実と分離して論ぜられない。神祭りのときは普
通、御神体とされる物実は、あくまでも神の依代ヨリシロであって、祭られるのは神の御霊
ミタマである。霊魂タマシイと物とは、果たしてどのような関係なのであろうか。
 
 『日本書紀』神代巻の下に、天孫が葦原中国に降臨されようとするとき、この国は蛍
火の輝く神や邪神アシキカミによって満たされていただけでなく、草木までがみなよく言語
モノイう状態であったとされている。
 また『古事記』中巻、景行天皇の条では、伊服岐イブキ山の神を捕らえようとされた倭
健命が、牛ほどもある白い猪に打ち惑わされ、それが神避サりの原因ともなっているが、
その白い猪を、古事記は「神之正身ムザネ」であったと伝えている。これが物と霊との関
係を考えさせる事例であろう。このことの理解のために、まず自分自身の物質観念、或
いは自然観を問い直してみる必要がある。
 
 前述の旧約『創世記』において、人間だけは、同じ神の被造物でありながら、神の似
姿に造られ、神から息吹を吹き込まれて「生ける」ものとなったとされる。それは、そ
れ以外の存在が、動植物をも含めて、みな法則に支配される(たとえ動物であっても本
能と云う法則に支配される)存在であるのに対して、人間だけが、自己の行動を選択し
得る、主体性を持った存在であることを意味している。法則によって生きる存在は、そ
の法則を知ることが出来さえすれば、それを支配することも可能なのである。故に神は、
アダム(=人)に向かって、「汝、自然を治めよ」と命じたのである。西洋近代の自然
科学的発想は、正しく、このように自然観から展開したものなのである。それは、生物
と無生物とを分けはしたが、全て(ときには人間をも含めて)を自然とみなして、法則
的に理解しようとしているのである。区別された世界の全ての物は、人間と同じような
情動を持ったり、また人間に感応するものとは考えられていない。
 
 一方わが国の神話伝承においては、この国土と人とは、共に神の生みの子として認識
されている。従って人は自然と共感し、自然の懐に抱かれて心の安らぎを覚えることが
出来るのである。ときには、そこに聖なるものを見出し、畏敬の姿勢をさえ示すのであ
る。
 一例として『万葉集』には、
 日の本の大和の国の鎮めとも、います神かも、宝ともなれる山かも駿河なる、不尽の
 高峰は見れど飽かずかも(長歌・三一九)
とある。
 山などの自然は、人間の生活にとって、その生命の営みを可能にする大きな働きを持
っている。そこに、神霊を感じ取ってきたのである。従って、霊と物とを区別すること
は、極めて難しい。突き詰めれば、全てが霊であり、同時に物でもあるのである。
 
 自然崇拝と云う観念は、唯一絶対の創造主を信ずる立場の者が、法則に支配された「
物」に過ぎない存在を、神の如く礼拝する信仰の在り方を、同じ唯一神を信ずる同朋に
理解させようとして用いた観念である。このことは、自然を人格化し、或いは神格化し
て礼拝する行為であると云う、この言葉の意味によって露呈されている。
 
 一体、この世の中において、神でない「もの(物)」を、神として礼拝する「もの(
者)」が存在するだろうか。
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