03 神の生成
神の存在を、現実の存在世界との関係で、どのように位置付けられいるのであろうか。
即ち神の本質理解に関することである。
神話ではその発端部分がそのことを語っている、即ち『古事記』の場合、次のように
語り始めている。
天地初発之時。於高天原成神、名天之御中主神。次高御産巣日神。次神産巣日神。此
三柱神者。並独神成坐而隠身也。
この書を本格的に研究した最初の国学者は、本居宣長である。彼は、神話に述べられ
てあることが、歴史上の事実(実事)であると理解した上で、この世界に虚空、つまり
一物も存在と呼べるものが無かった時のあるのを想定し、或いは発想している。天地を
始め万物は、産巣日神ムスビノカミの働きによって生成されると考えた。従って産巣日(産霊
ムスビ)の存在する以前に、「何かが在る」訳ではない。この論理によって彼は、「初め
に造化三神の坐ましたことを古事記が述べている」と理解したのである。
しかし、これには論理的矛盾がつきまとうと考えられる。産巣日神ではない天之御中
主神アメノミナカヌシノカミが、何故最初に出現されるのか。そしてまた、産巣日神ご自身は、一体
どのようにして出現したのであろうか。
前掲の『古事記』開巻劈頭の文章は、「天地、初めて発ヒラけし時、高天原タカマノハラに成
り坐せる神」云々と、読むことが出来る。天地が開けるとは、ある物が天と地とに別れ
ることを意味している。その天が高天原と呼ばれているのである。
『古事記』を編修した太安萬侶はその序文で、「かの混元すでに凝りて気象未だあら
はれず、名も無く為ワザも無かりしかば、誰れか其の形を知らん」と述べている。即ち天
地(乾坤アメツチ)の分かれる以前に、既に一物の在ったことを示唆しているのである。本
居宣長は、この文章は漢文で書かれているために、漢意の所産として排除、或いは無視
したものと考えられる。
この『古事記』の序文と、『日本書紀』の関係部分において、伝承のズレはないとさ
れる。
即ち古典神話である記紀では、まず存在(或いは存在世界となるべき原質)が在り、
それを物実モノザネとして神が出現された、ことを述べているのである。
これに対してキリスト教が信仰的に継承した『創世記』では、「神、はじめに天地を
創り給へり」と云う言葉で、神話が語り始められている。この場合の神は、いわゆる創
造主、造物主なのである。即ち何の材料もなしに、一切を創ったと云うことである。こ
の業ワザは、神にのみ可能なことであって、人間の能力を超越している。存在世界の一切
は神のよって造られた被造物であるので、当然に相対的で有限なもの、つまり滅びに至
るものであり、人間は死ぬことになる。これに対して神は、創造主としてこの被造物世
界を超越しており、一切の存在に先立って存在していた「既存者」であるので、始め無
く終わり無き永遠の存在、即ち絶対者なのである。また存在世界を超越していると云う
ことは、「世界外存在」であることを意味している。
ところがわが国の神道神話では、存在が「所与」であって、造化の三神も、その存在
を物実としてなった、と云う発想を示している。
古典神話をよく読んでみると、神の出現には三つの類型ある。
第一は「成る」神である。『古事記』の場合、造化三神から神世七代までの神々、火
之夜芸速男神を生みました故に美蕃登ミホト焼かれて病み臥コヤし坐しし間、伊邪那美神の多
具理、屎クソ、尿ユマリを物実として成りました神々など。
第二が、岐美二神の美斗能麻具波比によって御子神と「生まれ」ました神々。更には
そのその神々の御子たち。
そして第三が「出自不明」の神々で、例えば黄泉国の黄泉神や予母都志許売、或いは
高天原の天手力男神・天宇受売神や、大国主神伝承に語られる稲羽之八上比売等々であ
るが、厳密には前二者の何れかに分類される。
このうち「成る」であるが、この言葉が使われるとき、必ず先行する物実が示されて
いることを考えれば、それは恐らく、物実に潜在し、或いは物実そのものゝの霊力が、
顕在化することを意味していると考えられると云う。
日本人は、現存在世界を離れて、神を発想することが無かった。神を祭るときにも必
ず依代を立てる、つまり神は「この世」に存在していることを理解しているのである。
わが国の神(神々)は、成るか、生まれるかによって、この世に発現するのであり、
本来、神道には超越神は坐まさぬのである。
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