53a 神話伝説に見る日本人の死生観
 
〈日本人の宗教観と神話の伝統〉
 神話に現れた日本人の考え方は、宗教としての神道の習俗及び観念の中に受け継がれ
ています。其処にはまず、自然の精霊(いわゆるgenius loci,山・川・海・森などの場所
と結び付いた霊的存在)に対する信仰が見出されます。自然は、汎神論的な霊力(マナ
)に満ち満ちたものです。その霊的次元には更に、死者の霊や、より霊格の高い神々も
存在しています。万有霊魂説(アニミズム)の世界とも云えます。此処では、自然信仰
と人格神への信仰、それに死者への畏敬は重なり合っていて区別し難い。
 
 このような世界観は、世界の諸民族の神話に伝えられている原始社会の宗教的観念と
共通した性質を示している、と言ってもいいでしょう。其処には、人類の宗教的感情に
見られる太古的な普遍性と呼ぶことが出来るような、一般的な特性が示されています。
歴史的に見た場合、日本人の宗教観の一つの特徴は、このよな原始の時期に由来する観
念や習俗が、その後高度な文明宗教を受け入れたにも拘わらず、殆どそのままに保存さ
れて行ったところにあります。換言しますと、神道的習俗や観念に現れた考え方は、様
々な歴史的変化を遂げながらも、今日まで民族社会の集合的無意識の構造を形作ってい
るのです。
 
 文明時代に入って日本人が受け入れた宗教は仏教と儒教ですが、政治的志向や現世の
倫理に重点を置く儒教は、わが国の文化的伝統が形作られた飛鳥・奈良・平安の時代に
はあまり大きな思想的影響を及ばせませんでした。これに対して仏教(特に密教)は、
底辺の神道的習俗や観念と融合することによって、わが国の宗教的伝統の基本を形作る
ようになります。いわゆる神仏習合です。数多くの如来・菩薩から低い魔神デモンまでを
包括した密教の曼陀羅マンダラ的世界像は、神道の汎神論的多神教の世界観と適合しまし
た。また密教がもたらした仏教的修行法の体系は、シャマニズムと結び付き、人々の霊
的要求に答える行者が、民衆を導く精神的指導者として登場します。役行者や空海から
始まって、近代の民衆宗教の教祖たちに至るわが国の宗教的選人エリート(支配者層)の系
譜は、これを示しています。
 
〈生の世界と死の世界の連続性〉
 美術史の観点から見ますと、わが国の神々は、明確な像イメージを持たないところに一つ
の特徴があります。奈良時代に仏像の影響を受けて神像が造られたことはありますが、
この習慣は定着せず、間もなく消滅しました。神社の御神体とされているのは、自然の
山や島、或いは神の存在を象徴的に指示する依代ヨリシロ(鏡、幣帛など)しかありません。
このことは言うまでもなく、イスラムのような偶像崇拝を禁じる思想に因るものではあ
りません。これは、「神カミ」を形なき力において捉える神話時代の汎神論的マナイズム
(超自然的力)の考え方が強固に存続したためであると思います。
 
 シャマニズムと結び付いたアニミズムの立場では、人と神の関係は連続的であって、
一神教のように思想的原理によって区別されることはありません。仏教はこのような考
え方を否定しませんでした。仏教で云う如来とは、超越的な真理の次元に達した覚者で
あって、元来は人間でした(釈迦も阿弥陀仏もそうである)。従ってわが国の宗教的伝
統では、霊格の高い人間は、自然に神とされて行くようになります。怨霊を神として祀
る習慣は平安時代から始まりますが、怨霊は強い霊的呪力を現世に及ぼす存在ですので、
慰撫し、祭り、崇拝することによってそれは逆に現世の人間を加護する存在に変化する
のです(天神信仰はその好例です)。
 
 キリスト教やイスラム教のような絶対神を立てる一神教では、神と自然(自然は神が
創造した)の間には明確な区別があり、従って人と神の関係はその意味において非連続
となります。従ってこれらの一神教では神の支配する天国の像イメージは明確で、人間界と
は全く別の次元に属します。死者の霊魂は信仰に導かれることによって、この異次元の
天国に至ります。わが国の宗教で来世を特に強調したのは、平安時代に起こった浄土信
仰です。ただし源信に代表される平安の浄土信仰は美的で、明確な極楽浄土の像イメージを
持っていましたが、親鸞になりますとその像イメージは明確さを欠いてきます。わが国の民
衆信仰の伝統では、死者(祖先)の霊は多くの場合、生者の世界に近い自然(山や海な
ど)の中に住んで、生者を見守っているものと信じられています。柳田國男が見出した
民俗信仰の世界はこのようなものです。其処には、神話時代以来の汎神論的マナイズム
と霊的アニミズムの伝統がなお生きているのを見ることが出来ると思います。
 
 日本人の死生観は、何らかの形でこのような宗教的伝統と関係を持っています。此処
では生の世界と死の世界、現世と来世は明確な論理によって断絶することがなく、心理
的に連続しています。従って其処では、死を外からやってくる致し方のない運命として
受動的に受け入れるのではなく、能動的に自らのものとするところに、自己の生の価値
と意味を確認しようとする態度が生まれて来ます。死の覚悟において、死を我がものと
するところに、人間として生きることの価値を見出すのです。このような考え方は、無
常観を強調したわが国の禅の伝統(例えば道元)などによく現れて来るのです。禅僧や
禅の居士(俗人修行者)の遺偈イケ、例えば利休の場合などを見れば、このことが頷ける
と思います。中世の武士たちが死に際、例えば戦場で死に面したときの振る舞いを何よ
り重視したのも、同じことです。このような考え方の伝統は、極端な表現ですが、「武
士道とは死ぬことと見つけたり」と云う『葉隠』の言葉に、そしてまた近世から近代の
乃木希典大人や三島由紀夫に至る自刃の系譜にも、ある形で受け継がれています。
                           (原執筆者:湯浅泰雄氏)

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