12 わが国の神話「神武東征」
 
 [東への道]
 
〈海路洋々〉
 
 神倭伊波礼毘古命カムヤマトイハレビコノミコトと、その兄五瀬命イツセノミコトの二柱の神は、高千穂の
宮にあって、力を合わせ国を治めて来られましたが、あるとき、じっくりご相談なされ
ました。
「神倭伊波礼毘古命よ。この国は、何処まで広がっているものであろうな。日向の地は、
南を直ぐに海に通じて、国の端に在り過ぎるようだ。そこで、遠く離れた国の果てまで、
天下平穏に治めるには、何処へ参ったら良いものであろうな。」
「そのことでしたら、日の昇る東の方を目指して行くに限ります。必ずや都と定めるに
相応しい処を見付けることが出来ましょう。」
 宮を遷すことに、弟の命ミコトの賛成を得た五瀬命は、やがて、選りすぐった大軍を従え
て出発しました。
 
 日向を後に、福岡地方の筑紫ツクシの国に向かう途中、大分に入り、ひとまず豊国トヨノクニ
の宇佐に到着されました。
 ここでは、土着の宇佐都比古ウサツヒコ、宇佐都比売ウサツヒメの兄妹が、川の流れの中から岸
の山まで宮柱を伸ばした、豪勢な足一騰アシヒトツアガリの宮を建てて迎え、ご馳走を差し上げ
ます。
 序でこの地を移り、筑紫の岡田の宮で一年、更に後に安芸アキとなる阿岐アキの国の広島
まで上られ、此処の多祁理タケリの宮では、七年もの間滞在されました。
 更に岡山へと進み、吉備キビの国の高島タカシマの宮には、八年も落ち着かれましたが、東
への道は、未だ未だこれからでした。
 
 此処より海路を執り、一段と気勢を上げて船出して行きます。
 暫くして、潮の流れの早い速吸門ハヤスヒナドに差し掛かります。ふと前方を見やります
と、亀の背中に乗って釣りをしながら、両手を羽ばたくように合図をして、命ミコトたちの
船を歓迎しているらしい者が目に入りました。
 神倭伊波礼毘古命は、近くに呼び寄せて尋ねてみます。
「お前は、誰かな。」
「はい、私は国つ神でございます。」
「ほう、それならば、船の通う海の道を知っているであろうな。」
「よくよく存じております。」
「それでは、私に付き添って仕える気持ちはないか。」
「喜んでお仕え申し上げましょう。」
 そこで命は、国つ神の釣り人に棹を渡し、こちらの船に引き入れます。
 この男は、早速槁根津日子サヲツネヒコの名を賜って、お仕えすることになりました。後に、
大和の国造クニノミヤツコの先祖となる方です。
 槁根津日子の水先案内で、愈々海路洋々、何時しか船団は大阪湾に入りました。
 
 その波の荒い浪速之渡ナミハヤノワタリを遣り過ごすと、静かな入り江になります。間もなく
青雲アヲグモの白肩津シロカタノツの港に停泊されました。
 このとき、登美能那賀須泥毘古トミノナガスネビコ、その名のように臑スネの長い大男が、大軍
を寄せて待ち構え、戦いを挑んで来ました。
 さてはと、命の軍勢も、それぞれ船の中の楯を執って応戦します。以来この地は、楯
津タテツと呼ばれるようになりました。今は、日下之蓼津クサカノタデツと呼び名を変えていま
す。
 さて、この戦いの最中、五瀬命は、お手に登美毘古トミビコの放った鋭い痛矢串イタヤグシの
矢を受けてしまわれました。
 その時命ミコトは、はっとして、
「私は、日の神の御子であるのに、日に向かって戦いを進めていた。これは、真に良く
ないことよ。そのため、想わぬ痛手を負うてしまったわ。今からは回り道をして、背中
に日を受けて敵を討つことにしよう。」
と、固く決意され、直ちにずっと南の方より迂回路を執って軍を進められました。
 
 やがて、大阪湾を下がった血沼海チヌノウミにお着きになったとき、そのお手の血を洗われ
ます。この地名は、その時名付けられました。
 更に南へと回り、和歌山は紀国キノクニから流れ出た紀ノ川の川口に近い男之水門ヲノミナトに
船を着けられます。
 そのとき、五瀬命のご様子が俄に変わられます。いきなり天を仰ぎ、
「あのような賎奴ヤッコから受けた傷のために死んでたまるか。」
と雄々しく叫ばれるなり、よろよろっとされたと思う間もなく、遂にお亡くなりになり
ました。
 その男らしい命ミコトの最期のお姿を偲んで、この水門は男水門ヲノミナトと呼ばれるように
なった訳です。命の御陵は、紀国キノクニの竃山カマヤマ、今の和歌山市内にあります。
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