12a わが国の神話「神武東征」
 
 [東への道]
 
〈不思議な大刀タチ〉
 
 さて、兄五瀬命を失った悲しみを振り切り、神倭伊波礼毘古命カムヤマトイハレビコノミコトは、更
に南を大回りして、遂に上陸、奥深く密林に覆われた中を進んで、熊野の村に到着され
ました。
 すると、一息吐く間もなく、早速に怪しげな気配が身辺に迫って来ました。見たこと
もないような大熊が、再三に亘って、ちらりと姿を見せては消え、見せては消えしてい
るうちに、何時の間にか行方を暗ましてしまいます。
「さては、荒神アラガミの化身でもあろうか。用心しなくてはならぬぞ。」
 そう気付いた途端、忽ち霧に巻かれるように大熊の毒気に当てられます。神倭伊波礼
毘古命を始め、頼みの兵士たちが悉く、気を失って倒れてしまいました。
 この時、高倉下タカクラジと名乗る男が、一振りの大刀タチを持って駆け付けます。
「もしや、天つ神の御子ではござりませぬか。」
 男は、神倭伊波礼毘古命が横になって居られる処に跪ヒザマヅき、恭しくその大刀を差
し上げました。
と、命ミコトは俄に目覚め、
「おう、よくも長い間寝てしまったものじゃ。」
と仰せられました。命がすっくと起き上がり、大刀を受け取られますと、不思議や、熊
野の山に潜む荒々しい神々は、自然ヒトリデに残らず斬り斃されてしまいました。
 
 それまで毒気の当てられていた兵士たちも皆、ぱっと跳ね起きました。
「これはどうしたことじゃ。一体このような大刀をどうして此処に?」
 命は尋ねられた時、高倉下は深く一礼して申し上げました。
「私の夢枕にお立ちになられた天照大御神アマテラスオホミカミ、高木神タカギノカミの二柱の神様が、
御命令を下され、建御雷神タケミカヅチノカミをお呼びになり、
『葦原の中つ国は、酷く騒がしいようであるぞ。何としたことか、我らが遣わした神の
御子たちが、悉く病気に悩まされているらしいわい。その中つ国は、専らそなたが平定
した国ではないか。されば、建御雷神、直ぐに天降りして、騒ぎを鎮めよ。』
と、仰せられたのでございます。すると、建御雷神は、
『いえいえ、私が参らなくても、只管ヒタスラにその国を薙ぎ平らげた大刀がありますので、
これなる佐士布都神サジヌツノカミ、またの名を甕布都神ミカフツノカミ、布都御魂フツノミタマと申す大刀
を遣わしましょう。この大刀を、高倉下のものである倉の頂ムネに穴を空けて、そこから
中に落とし入れることに致します。』
と、お返事申し上げる(この大刀は、後の石上イソノカミ神宮に納められることになります
)。
 さて、今度は建御雷神が高倉下の私に向かって、
『こう云う訳じゃから、朝目が醒めたら早速その大刀を執って天つ神の御子に差し上げ
よ。』
と、御命令を下されたのです。ですから、私は夢の教えのままに、今朝起き抜けに内ウチ
の倉を見ますと、夢は正夢でございました。この大刀を授かりましたので、只今このよ
うに差し上げた次第でございます。」
「おう、流石刀剣ツルギの神と聞こえた戦神イクサガミ、建御雷神のお力よ。」
 高倉下の申し開きに、神倭伊波礼毘古命は深く頷ウナヅかれました。
 
〈熊野の奥地へ〉
 
 高倉下タカクラジから受け取った大刀タチを見入り、不思議な思いに駆られていますとき、
今度は、神倭伊波礼毘古命自身のお耳に高木大神タカギノオホカミのお言葉が、篤トクと教え諭す
ように伝わって来ました。
『天つ神の御子よ。此処より奥地は危険に満ちているぞ。無闇ムヤミ矢鱈ヤタラに踏み込んで
はならぬ。荒々しい神共が、わさわさと待ち伏せておるわい。そこで今、天上の国から、
八咫烏ヤタガラスを遣わす。されば、その八咫烏が首尾良く道案内を致すであろう。その後
に付いて参るが良かろう。』
「はっ。」
 目を見開いて、遥かな天を見上げますと、正しく一羽の八咫烏ヤタガラスが矢のように舞
い下りて来ます。
「いざ、ご案内致しましょう。」
 八咫烏は、颯爽と先頭に立ちます。
 命ミコトの軍勢は、大神に教え諭された通りに後に続きました。
 
 程無く、吉野川の川下に到着します。
 そのとき、筌ヤナ(ウケ)を作って魚を捕っている人を見掛けましたので、命は早速近付い
て尋ねてみました。
「お前は、誰か。」
「私は国つ神で、贄持子ニヘモツノコと申す者、名前の通り神やその御子たちに食べ物を差し
上げるのをお役目と心得ているものでございます。」
 この国つ神は、後に阿陀アダの鵜飼ウガヒの先祖となられる方です。
 さて、贄持子のお陰で食料を補給出来た命の軍勢は、更に奥地へ入って行きます。と、
思わぬことに、尻に尾のある人が、渾々と湧く泉の中から出て来ました。泉は一際きら
きらと輝いています。
「お前は、誰か。」
と、そっと声を掛けます。
「私は国つ神で、名前を井氷鹿イヒカと申します。」
 答は、さらさらと返って来ました。これは、吉野首ヨシヌノオビトらの先祖となる神。
 
 良い泉に恵まれ、更に山深く踏み入れて行きますと、又もや尾の生えている人に出会
いました。この人は不思議なことに、目の前にそそり立つ大岩を押し分けるようにして
現れましたので、命は思わず目を見張ってお尋ねになりました。
「一体、そなたは誰か。」
「はっ、私は国つ神、名前を石押分子イハオシワクノコと申します。只今、天つ国の御子であら
せられるあなた様がお出でになると聞きましたので、急ぎお迎えに上がりましたもので
ございます。」
 後に吉野の国巣クズの先祖となる石押分子の出迎えに、命はいよいよ力を得ました。
 これからは、大木の生い茂り、処々深い穴を穿った険しい岩の道も物ともせず踏み進
んで、早くも奈良の宇陀ウダの地にお着きになりました。そのような難路を越えて来たこ
とから、其処を宇陀の穿ウガチと呼ぶようになりました。
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