11 [海よりの御子]
 
〈渚ナギサの産殿ウブヤ〉
 
 さて、海の神である綿津見神ワタツミノカミの娘の豊玉比売命トヨタマビメノミコトは、その後、自ら
思い立って、遥々火遠理命ホヲリノミコトの居られる葦原の中つ国を尋ねて来られました。
「おう、よくぞ、此処まで来られましたな。」
 丁度海辺に出ていた命ミコトに迎えられます。姫は、早速申し上げました。
「私は、疾トウうに身篭もっておりましたが、いま、早くも出産の時になりました。そこ
で、よくよく考えましたが、天つ神の御子は、深い海原で産んではならないと覚りまし
た。ですから、こうして慌ただしく出掛けて参った訳でございます。」
「そうか。では、直ぐに産殿ウブヤを調えねばなるまい。」
 そこで、命ミコトの指図のまま、この海辺の渚に、産殿が建てられます。屋根は、茅カヤの
代わりに、特別に鵜ウの鳥の羽を集めて葺かれることになりました。
 この屋根が、まだ全部葺き切れないうちに、お産の時が迫って来ました。待ち切れな
くなった豊玉比売命は、急いで産殿に入られました。
 そして、もう直ぐにも御子が生まれそうになったとき、付き添っている火遠理命に、
訴え掛けるように申し上げました。
 
「余所ヨソの国の者は、誰でも必ずお産のときは、その生まれ育った本モトの国の姿になっ
て、子供を産むものでございます。ですから私も、その固い仕来シキタリに倣ナラい、本の姿
に戻って産みたいと存じます。どうかその間、私をご覧にならないでこださいまし。」
 火遠理命は、言葉を差し挟む間もなく、豊玉比売命云う通り産殿の外に出たものの、
何やら腑フに落ちないものがありました。
(可笑しいことよの。)
 命ミコトは、産殿の隙間から、密かに中を窺って、その時を待ちました。
 すると、何と驚いたことに、忽ち姫の姿がもうもうとした妖気の中に消えてしまいま
した。
 と、見る見る八尋ヤヒロもある大和邇オホワニの姿に変身して現れた姫は、尾を振り立てて、
激しく床を叩いては、のたうち回っています。
(何ともはや、怖ろしいことぞ。)
 火遠理命は、目の前でまざまざと見せつけられた光景に、肝を潰さんばかり、慌てて
逃げ出してしまわれました。
 
 産殿の中の豊玉比売命は、こっそり外から覗かれていたことを感付くと、驚きは元よ
り、その上に堪らなく恥ずかしい思いに沈み込まれました。
「あれ程お願い申し上げたのに、こうなりました限り、致し方もございません。」
 産まれ出て来た御子をその場にそっと置きますと、豊玉比売命は、
「私は、海の中の道を拓いて、あなた様と末長く往き来したいと思っておりましたのに、
私の本の姿をご覧なされた今、最早取り返しも付かない残念なことにございます。それ
もそれ、恥ずかしくて、ただただお恨みしたい気持ちで一杯です。もうこれまでとお思
い下さい。」
と、繰り返し呟ツブヤき零コボし、遂に葦原の中つ国と海の神の国との境を、ぴったり塞い
で帰ってしまわれました。
 このようなことがあって後、渚の産殿に産み残された御子は、天津日高アマツヒコ日子波限
ヒコナギサ建鵜葺草葺不合命タケウガヤフキアヘズノミコトと名付けられました。
 
〈恋の残照〉
 
 さてさて、葦原の中つ国との道を自ら閉ざしてしまわれた豊玉比売命トヨタマビメノミコトは、
その後、何時になっても、あの覗き見された産殿のことが忘れられず、ただにお恨み申
していましたが、心の奥では、それにも増して夫の火遠理命ホヲリノミコト恋しさが、火のよう
に燃え盛り、堪え切れない思いに駆られる日々を送っていました。
 そこで思案の末、御子をお育てすると云う理由を付けて、妹の玉依毘売タマヨリビメを遣わ
すことにしました。
 その時、火遠理命に、想いを篭めた歌を差し上げることにしました。密かに妹の姫に
持たせました。
  赤玉は緒ヲさえ光れど白玉の 君が装ヨソヒし尊くありけり
  (赤い玉は、その中を通っている緒まで光って美しいけれど、それにもまして、白
  玉のようなあなた様のお姿は、ご立派で美しいことでございます。)
 豊玉比売命の恋しさ余っての一首を送られた夫の火遠理命も、恋する心は一つのもの、
次のようなお歌を返されました。
  沖つ鳥鴨カモ著ドく島に我が率寝イネし 妹は忘れじ世のことごとに
  (沖合いに居る鴨が一杯群れる島、その遥か彼方の綿津の宮で、私が一緒に寝た、
  愛しいそなたのことは忘れもしない。私が生きている限り。)
 
 その後、火遠理命は、葦原の中つ国を治める日子穂穂手見命ヒコホホデミノミコトとして、日
向の高千穂の宮に、五百八十年もの長い間居られました。御陵は申すまでもなく、その
地高千穂の峰の西にあります。
 次に、火遠理命と、豊玉比売命との間に産まれた天津日高アマツヒコ日子波限ヒコナギサ建鵜葺
草葺不合命タケウガヤフキアヘズノミコトは、やがて成人して、その叔母に当たる玉依毘売と結婚さ
れます。
 そして、お生まれになった御子の名は、五瀬命イツセノミコト、次に稲氷命イナヒノミコト、次に御
毛沼命ミケヌノミコト、次に若御毛沼命ワカミケヌノミコトの四柱です。
 この四番目に生まれた若御毛沼命は、別の名を豊御毛沼命トヨミケヌノミコトとも、更に神倭伊
波礼毘古命カムヤマトイハレビコノミコトとも申し上げました。
 また、三番目の御毛沼命は、海の波に乗って、遥か彼方にある常世トコヨの国にお渡りに
なられました。
 二番目の稲氷命は、亡き母の豊玉比売命の本モトの国を慕って、あの海の神の宮殿のあ
る海原にお入りになられました。

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