03 普段の食
参考:鹿角市発行「鹿角市史」ほか
〈主食 − 米〉
主食には、米・麦・粟・豆(大豆)・黍キビ・蕎麦・稗ヒエなどがあり、それに準ずるものとし
て馬鈴薯ジャガイモ・薩摩芋サツマイモ・南瓜カボチャなどがある。
往古から米は、わが国の基盤をなす主食である。わが国の食の文化・伝統、そして全て
の食材、あらゆる料理は、「米」を中心に据えて、それに呼応する形で調達され、彩ら
れてきたのであった。
玄米を白米にする精米の程度は、各家庭によって異なるが、通常の流通米は白く精米
した「白米」であった。近隣の家に慶弔などがあるときは、相互扶助として白米を持参
し、その家に招待又は手伝いでご馳走になるときのご飯も白米であった。このときの奉
加帳・留帳などにも、「一、白米○升 何某様」と記入したのである。
終戦前後の白米は、八分つきであったと云われている。
主食の米にはいろいろなものを混ぜ、それをご飯(カデ飯とも)として食していた。
大根・蕨ワラビ・秋田蕗フキなどの野菜や山菜を混ぜたと云う。
△粟・稗
米に粟や稗などの穀物を混ぜることは、通常の農家では普通であった。米とこれらの
穀物とを混ぜる割合は、各家により、またその年の稲作など五穀ゴコクの作柄(豊凶)に
よっても異なった。五穀とは古くは「いつくさのたなつもの」とも云い、米・麦・粟・豆・
黍(又は稗)の五つの穀物である。
米と粟の割合は概ね、商家や鉱山では米1升に粟は茶碗1杯、農家では粟が3,4割
〜半々、また7割など様々であった。
粟飯の炊き方は、粟に水を入れて掻き廻し、浮いた芥ゴミや殻を流して笊ザルにとる。
一方、研いでおいた米を強火で炊き、沸騰したら粟を上に載せて20分位弱火で蒸し上げ
る。又は米と粟とを混ぜて水に浸し、一緒に炊き、煮立ったら掻き混ぜ、弱火で蒸すの
である。これは稗飯・麦飯の場合もほぼ同じである。
ほかに麦飯、高黍タカキビ(たかきみ)や玄米など、大正時代には輸入米である「南京米
ナンキンマイ」も食べたのである。
△蕎麦ソバ・麦など
カッケ(ソバカッケ)とは、蕎麦を殻付きのまま擂り鉢で摺り、湯を入れて掻き廻し、
それを延ばして二寸角とか四寸角又は三角に切ったもので、それを茹で、葱ネギ味噌や大
蒜ニンニク味噌で食べ、また味噌汁やスマシ汁にも入れた。
粥餅キャモチとは、蕎麦粉の滓カスと残りご飯の雑炊を入れて練り、棒状にしたり千切った
りしてもので、味噌や大蒜味噌、干菜ホシナ(大根などの葉を干したもの)汁に入れたり、
大根の絞り醤油で食べた。
カマス餅(叺カマスの形をした餅状のものか)や団扇ウチワ餅は、炉端の灰の中で焼き、熱
いうちに食べた。粥干キャボシは、これを凍らした干したもので、お八つや間食用、備荒食
とした。
ほかに小豆バット(バッタとも)や蕎麦バット、蕎麦団子、蕎麦切りなどがあった。
蕎麦切りとは普通、鶏や雉出汁の醤油味の蕎麦のことで、掛け蕎麦や盛り蕎麦にして食
べたとも云う。十和田山根の芦名沢にある観音様のお祭りの蕎麦切りは、地元婦人会の
手作りで美味しく有名であると云う。
素麺ソウメンや饂飩ウドンは専ら来客用で、蕎麦切りより上等の食べ物であった。素麺はお
盆には必ず食べたものであった。
麦粉(小麦粉か)を水で練って小さくまとめ、味噌汁やスマシ汁に入れたのをヒッチ
ミ(トッテナゲとかスイトンとも)と云い、よく食べたと云う。
米の粉でシトギ餅や団子、重湯オモユ、ダンス(餅)、ヘチョ餅(ヘソ餅)などもよく作
った食べた。
このほか代用食として、馬鈴薯、薩摩芋、南瓜などを蒸かしたり、煮たりした常食、
夜食、お八つとして食べた。
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