04a 自然の化学工場
〈果物の香りの謎〉
リンゴの細胞膜に変化が起こっている間に,細胞の内部では酸が無気呼吸で作られる
アルコールと結び付いて,香りの高いエステルを作り出します。このようにして,リン
ゴは益々強い香りを放つようになってきます。
リンゴの実験結果から,メロンやパイナップルのような非常に大きい果物の場合を推
測してみるのも面白い。メロンやパイナップルが,果物の中で最も香り高いのは,その
大きさと関係があります。つまり,果物が大きくなればなる程,その中心部の酸素が少
なくなり,それだけ無気呼吸が盛んに行われるようになるのです。
無気呼吸が盛んになれば,リンゴの例で分かるように,炭酸ガスとアルコールが無気
呼吸の割合に応じてより多く作られます。従って,大きな果物は非常に大量のアルコー
ルを生産し,それが細胞内の酸と結合してより多くのエステルを作り出します。こうし
て,他の多くの小さい果物より高い香りを放つようになるのです。
果物とアルコールと言えば,ブドウと葡萄酒がすぐ連想されます。舌と鼻を一寸使っ
てブドウを試してみましょう。そうすると,熟したブドウには多量の糖と多少の酸があ
ることが分かります。しかし,その割には熟したリンゴ程香りがありません。このテス
トから,ブドウそれ自身には殆どアルコールが含まれていないと判断できます。
ところが,ブドウを押し潰して,その果汁を大桶に入れ,ある種の酵母を加えると,
糖が発酵してアルコールができます。このアルコールが果汁に含まれている酸と結び付
いて,初めてあの葡萄酒特有の芳香が生まれます。
最初からブドウ自身に強い香りがあるのではありません。葡萄酒の種類によって独特
の香りがいろいろあるのは,ブドウの果汁に含まれている酸の種類がブドウの品種によ
って違うからです。その上,酵母の種類によって作り出されるアルコールに,エチルア
ルコールとかその他いろいろ微妙な違いのあるアルコールを生じます。当然,作り出さ
れるエステルに独特の相違が生まれ,できた葡萄酒はそれぞれ特有の香りを放つように
なります。
〈リンゴは何故赤い〉
熟した果物からは,もっといろいろな化学的知識を取り出すことができます。色の変
化を観察することから,細胞内の変化を知る重要な手がかりを掴ツカむことができます。
果物を彩っている色素の出現や消失は,目で確認することができます。しかしその場
合に忘れてならないことは,一つの色が他の色を隠している場合がある,ということで
す。
例えば,黄色の色素は蒼い色素に隠され,その結果両方の色素は互いに影響し合って
見た目には緑色に見えます。植物の葉が最もよい例でしょう。葉では黄色のカロチノイ
ド色素が青緑色の葉緑素によって隠され,明るい緑色を呈しています。一般に葉は,カ
ロチノイドと葉緑素の割合によって,黄色から暗緑色まで様々な色合いを示します。
大抵,果物の色は未熟のときは緑色です。つまり,葉緑素を多量に含んでいるからで
す。リンゴでは品種により,十分熟しても緑色のものや,熟せば黄色や赤色になるもの
があります。ある種類のリンゴが黄色に色付く原因の一つは,果皮の細胞にあった葉緑
素が消失して,隠されていたカロチノイド色素の色が現れてくるからです。
このカロチノイド色素は,最初からリンゴの果皮の細胞に含まれており,たまたま隠
されていたのすぎないのです。決して,新しい色素が発生したのではありません。カロ
チノイドは葉緑素や,糖や,タンニンや,その他大抵の化学的成分より化学的に安定で
あるため,後まで残っているのです。
しかし,リンゴの赤い色はカロチノイド色素によるものとは違います。アントシアニ
ンという新しい色素が作り出されたために,赤く色付くのです。アントシアニンは,ゼ
ラニウムやケシの花弁の赤い色とも深い関係のある色素です。アントシアニンの出現は,
植物の細胞内の化学物質について,更にいろいろなことを教えてくれます。カロチノイ
ドや葉緑素は細胞内の色素体に含まれていますが,アントシアニンは細胞液に直接溶け
ています。この相違は,アントシアニンという色素を説明する上で重要なことです。
アントシアニンを抽出するは,リンゴの皮を煮れば簡単にできます。水が煮たってく
ると,リンゴの皮は端の方から赤色が消えていきます。それは煮沸シャフツによって細胞が
一つ一つ壊され,その細胞液からアントシアニンが逃げて行くからです。一方,リンゴ
の皮を煮た水は無色に見えるが,其処にはちゃんとアントシアニンが含まれているので
す。その証拠に,酢かその他の酸を加えてみれば忽ち桃色に変化します。同じような実
験をゼラニウムやケシの花弁で試してみても同様の結果が得られるでしょう。
このことから,次のようなことが分かります。いろいろなアントシアニンは,酸があ
れば桃色か赤色を呈します。この事実から逆に類推していくと,細胞液は酸性であると
いう結論も得られます。つまり,細胞液が酸性であるからこそ,其処に溶け込んだアン
トシアニンは赤い色を示すのです。
リンゴの細胞が酸を含んでいるということは,特別に新しい発見ではありません。そ
のことは誰にでも舌で分かることです。ただここで重要なことは,酸の存在する処が細
胞内の細胞液である,ということをはっきり証明できたことです。この知識を元にして,
更に深く細胞の内部構造を明らかにすることができます。それは超顕微鏡的な目でも見
ることのできない世界ですが,化学反応から得られる手がかりを道しるべとして探求す
ることができます。
そこで,もう一切れリンゴの皮を料理して,どんな化学的変化が起こるかを観察して
みましょう。リンゴの皮をいきなり煮え立っている湯に落としてみますと,それは赤か
ら紫色に変わり,やがてその色も消えてしまいます。アントシアニンは酸では赤くなる
が,アルカリでは紫色になるという性質があります。
このことから,リンゴの皮に含まれいてるアントシアニンは,沸騰した湯で急激に細
胞が壊されるとき,ほんの僅かの間であるが,何らかのアルカリに晒されるということ
が分かります。これを推し進めて考えますと,細胞の今一つの構成要素である原形質は
弱アルカリ性ということになります。従って生きた細胞には弱酸性の細胞液と弱アルカ
リ性の原形質を隔てる仕切があるに違いありません。このように簡単な実験でも,鋭く
観察することによって,細胞の入り込んだ内部構造についていろいろ知ることができま
す。
〈紅葉の化学的な仕組み〉
果物が熟するときに起こるのと同じ変化が,葉でも見られます。秋の紅葉です。一口
に紅葉すると言ってもいろいろあります。スズカケノキの葉が黄色になるのは,主とし
て葉緑素が消滅するためです。一方,カシやブナの葉は茶色になるが,これは主として
傷付いたり死んだりした細胞が酸化するためです。丁度リンゴの切れ端を空気に晒した
りして置くと,茶色になるのと同じ作用です。アカガシ,アカカエデ,ウルシ,アメリ
カヅタ,モミジバフウの鮮やかな赤や紫の色は,全てアントシアニンによります。
身に凍みるような秋冷が急に訪れた後の,からりと晴れた秋の一日,見事な紅葉の美
しさに目を見張ることがあります。これは木の葉の中にアントシアニンが大量に生産さ
れたためです。アントシアニンの生産には,非常に強い日光と多量の糖が必要です。従
って木の葉が一斉に紅葉するのは,急な寒さが糖を葉に引き止め,其処に晴れた陽射し
が存分に降り懸かるからです。秋の木の葉が,ある年に限って驚く程見事な訳は,こん
なところにあるのです。
これまでは舌で味わったり,鼻で匂いを嗅いだり,目で色を見たり,火を使って料理
するなど,簡単な方法によって植物の化学的成分を調べ,実に多くの知識を得ることが
できました。但し,それだけでは十分とは言えません。植物の体内で起こる多くの化学
変化には,見ることも嗅ぐこともできない気体の吸収や放出を伴うため,どうしても本
格的な化学実験室とか生理実験室での研究が必要になります。
[次へ進んで下さい]