園内、御成座敷から池の土橋を渡り、すぐ右手に「しのぶ塚」(左)が、その先に「狂言塚」(右)があります。内容については写真をクリックしてください。

 このページのバックを彩る「黙阿弥好み」の河竹黙阿弥が、初代河竹新七を偲んで建立したのが「しのぶ塚」です。
 この碑では、初代が「法界坊」でお馴染みの荵売〈垣衣戀寫繪(しのぶぐさこいのうつしえ)〉の浄瑠璃を初代中村仲蔵のために作ったことをたたえています。一説には、この碑の下に初代自筆の「双面」の本が埋められたともいわれています。

 また、「荵売り」の持つ籠は、百花園の「春の七草籠」とそっくりです。そこには、江戸時代、この付近が江戸近郊の野菜供給地域でお百姓さん達が手提げの付いた竹籠に野菜を入れ、江戸のまちに売りに行ったことがわかります。その籠に土を敷き、七草を植え込み、初春の贈り物としたことは、現在でいえば、産直の保冷輸送のように、鮮度を保つ最も良い方法だったのです。

 「狂言塚」は幕末から明治の歌舞伎脚本作者であった二代目新七=河竹黙阿弥の業績を称えた碑で、黙阿弥の作品は「三人吉三(さんにんきちざ)」「鼠小僧」「島鵆月白浪(しまちどりつきのしらなみ)」など三百五十余篇にのぼっている。

 これらの演目の多くの舞台が墨田区内だったように、区内には、歌舞伎に関わるエピソードが色々なところにあります。

 最初に法界坊を演じた中村仲蔵が脚光を浴びたのは、墨田区内、柳島の妙見様からの帰り道に出会った浪人の姿から、忠臣蔵山崎街道の定九郎の役作りをしたことが評判となったことからです。

 また、百花園の地域は、寺島といわれましたが、団十郎はこの地に住んでいたことから、姓(本名)を寺島と名乗るようになったといわれます。