ちょっとしたコラム      
               
04.7.10付


野田(オリックス)、日本新の1試合19奪三振

 野田浩司は92年オフに阪神タイガースからトレードでオリックスに移籍した。87年ドラフト1位で阪神に入団した野田は球威はチーム1と評価されながらも、阪神での5年間では二桁勝利は90年の11勝があるだけ。通算でも35勝52敗、勝率.402と大きく負け越していた。チーム自体が弱かったとは言え、この5年間のチーム勝率.420よりもまだ野田の勝率は低い。持っている力を存分に発揮出来ていないという印象のある阪神時代だった。

 そんな野田だったがオリックスのユニフォームに袖を通すと、それまでの鬱憤を晴らすような活躍を見せた。素質を開花させた野田は、移籍1年目にいきなり17勝を挙げて最多勝利投手になったのだ。防御率はリーグ3位の2.56、そして奪三振が209個でチームでは実に25年ぶりの200奪三振を達成した。ハイライトは7月4日の近鉄戦。8回に石井に2ランを打たれて完封は逃したが日本記録にあと1と迫る16奪三振を記録した。野田はそれに先立ち4月21日にも同じく近鉄を相手に15奪三振の完投勝利を記録していた。年間2度の15奪三振以上は史上初の快挙だった。

 それまでは91年の143個が最高だったが、野田の奪三振増加はフロックではなかった。続く94年も193イニングで213奪三振。三振奪取率は前年の8.36から9.93に大幅アップしていた。野田はこの年も大記録を残した。8月12日、相手はまたしても近鉄だった。しかも前日まで破竹の13連勝中と乗りに乗っている近鉄打線だったが、野田の前には三振の山を築かれた。3番・ブライアント、4番・石井の両主砲合わせて7打数6三振。終わってみれば日本タイ記録の17三振という数字が残っていた。16三振以上は延べ13回目だったが、一人で2度は野田が初めてであった。

 そして移籍3年目となる95年の公式戦が開幕した。2年連続チーム勝ち頭の野田だったが、開幕投手はベテラン佐藤に譲り4月2日の第2戦に先発した。打線の援護がなく勝ち星は逃したが、ロッテ打線に対して7回2/3を投げて10奪三振の1失点と上々のピッチングだった。
 2試合目は9日のダイエー戦。7回を6安打2失点3奪三振でシーズン初勝利。続く15日の西武戦は3回途中で8失点KOされ敗戦投手となった。

 この年4試合目の登板となったのが4月21日、千葉マリン球場での対ロッテ3回戦だった。前の西武戦で無様な投球でノックアウトされた後だけに、野田はより一層の気合を入れていた。
 野田はロッテ戦にはパ・リーグ移籍以来無傷の6連勝、うち3試合が完封勝利と抜群の相性を誇っていた。この年最初の対戦でも好投しており、いいイメージでマウンドに上がる事が出来た。
 また、海に近いため風が強い事で知られる千葉マリンスタジアムであったが、この日も強い風が吹いていた。ホーム方向からの向かい風は野田の決め球であるフォークの威力をより一層アップさせた。

 1回、2回とヒットを1本ずつ許したもののアウトは全て三振。3回2個、4回2個、そして5回も連続三振の二死から四球とヒットでピンチを招いたものの、4番・フランコを3打席連続の三振に斬って取り5回が終って実に13奪三振となった。6回はインカビリアの1個だけでこの試合初めて1イニング1三振に終った。しかし、7回はすぐさま愛甲・五十嵐・山下と三者三振に仕留めて再びペースアップ。山下からの三振でついに日本タイ記録の17奪三振を達成した。

 1962年5月24日の足立光宏(阪急)と1990年4月29日の野茂英雄(近鉄)に並ぶ、自己2度目の17奪三振。しかも、まだ試合は7回。2イニングを残しての日本タイ記録に新記録への期待はいやが上にも高まった。8回の先頭打者はこの日のスタメンで唯一三振を喫していなかった平野。だが野田はこの平野から三振を奪い、ついに18奪三振の日本新記録を達成した。
 8回を終って散発4安打、毎回の18奪三振。先発投手がこれだけの投球を見せながらもオリックス打線が野田に援護した得点は2回表の福良のタイムリーによる1点のみだった。

 9回裏、奪三振記録に完封で花を添えるべくマウンドに上がった野田だったが、先頭の初芝にセンター前ヒットを打たれる。続くインカビリアは三塁ゴロに打ち取ったが、7番の平井にセンターオーバーの三塁打を浴び、ついに1−1の同点となった。完封から一転して一打サヨナラのピンチを迎えた野田は満塁策を取り山中、平野との勝負に出た。これが功を奏して、山中を浅いライトフライ、そして平野からこの試合19個目の三振を奪ってピンチを切り抜けた。

 試合は延長戦に入ったが、オリックスは10回裏から平井が登板。結局その10回にサヨナラ負けを喫して野田の新記録は勝利を伴わなかった。しかし、これ以後のオリックスは投打が噛み合い、阪急時代の84年以来11年ぶりの優勝を成し遂げる事となる。

<95年4月21日・野田に対するロッテ打線の打撃内容>
      1 2 3 4 5 6 7 8 9
1 樋口 三振   三振   三振        
  山下             三振    
  山中                 右飛
2 平野 右安   二ゴ   四球     三振 三振
3 遊三 三振   右安   右安     三ゴ  
4 フランコ 三振   三振   三振     三ゴ  
5 初芝   三振   三振   左飛     中安
  走左 西村                  
6 インカビリア   中安   三振   三振     三ゴ
  西岡                  
  南淵                  
7 平井   三振   四球   三ゴ     中三
8 愛甲   三ゴ失   投ゴ     三振   四球
9 定詰   三振     三振        
  打二遊 五十嵐             三振   四球

 95年の野田は最終的に3年連続二桁勝利に3年連続200奪三振と見事な活躍を見せた。特に3年連続200奪三振はドラフト制後では他に江夏豊(阪神)、鈴木啓示(近鉄)、野茂英雄(近鉄)の3人だけである。にもかかわらず、同時期にその野茂と伊良部秀輝(ロッテ)がいたため1度も奪三振王になれなかったのは不運であった。

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