ちょっとしたコラム      
              
 03.3.29付


伊藤智仁(ヤクルト)、防御率0点台のきらめき

 1992年秋のドラフト会議でヤクルト・オリックス・広島の3球団から1位指名された三菱自動車京都の右腕・伊藤智仁は、抽選の結果ヤクルトスワローズの交渉権獲得が決まった。伊藤は同年夏のバルセロナ五輪で3試合に登板して2勝0敗、18イニングで実に27奪三振という快腕ぶりを見せ、社会人No.1投手の評価を受けていた。

 年が明けて93年シーズンが開幕した。伊藤は一軍登録から漏れてファームでのスタートとなった。そのイースタン開幕戦となる4月10日の巨人戦でいきなり先発。7回を投げて5安打4失点の敗戦投手。同様に二軍スタートとなった巨人のルーキー・松井秀喜に1号本塁打を喫している。
 この後、中4日で15日の西武戦に先発。今度は9回を4安打無四球9奪三振で見事な完封勝利。首脳陣は一軍昇格にゴーサインを出し、結局二軍では2試合1勝1敗、防御率1.13の成績で一軍入りする事となった。

 一軍初登板は4月20日の阪神戦。先発して7回を10奪三振2失点の力投で初勝利を飾る。自らの3打点と荒井の満塁ホームランの7点をバックに余裕の7回降板だった。しかし、その後はしばらく勝ち星から遠ざかる。リリーフ登板が2度あるなど、まだ先発投手として全幅の信頼を寄せられていたのではない事がわかる。4月29日の広島戦では2本塁打を浴びて3失点KO。しかし、この試合以後の10度の先発ではそのうち9試合を1点以下に抑えるスーパーピッチングを展開することになる。

 5月16日の中日戦で約1ヶ月ぶりの2勝目。完封目前の9回途中に降板したものの、3回裏の1点を守りきる3安打ピッチングは見事だった。続く23日の中日戦は打線の援護もあり5回降板ながら3勝目を飾る。28日の横浜戦では中4日で先発。2−2の同点で延長戦に入り、伊藤は12回まで投げて高津と交代。15奪三振の力投も報われなかった。

 6月に入るとその右腕はさらに切れ味を増した。3日の阪神戦で3安打9奪三振の初完封勝利。9日の巨人戦では三振の山を築いた。5回まで12奪三振のハイペース。そして9回裏に16個目の三振を奪いセ・リーグタイ記録となった。しかし、直後の打者・篠塚にサヨナラ本塁打を浴びマウンドに膝を付く・・・。1点の援護もないまま、またも力投は報われなかった。それならば点を与えなければいいのだろう、とばかりに続く16日の阪神戦は5安打完封。この試合は6点の援護があったが、次の試合からまた厳しいスコアが続く。

 22日の広島戦は0−0で延長戦に入り、10回裏にハウエルの本塁打でサヨナラ勝ち。我慢の投球を続けた伊藤は10回を投げ抜き3安打12奪三振で6月3度目の完封を成し遂げた。延長戦を投げ抜いた伊藤だったが、中4日で27日の阪神戦に起用された。ここでも打線の援護は4回表の1点のみ。伊藤はまたもスコアボードにゼロを並べ続けたが、3試合連続完封目前の9回裏、和田にタイムリーを許して実に28イニングぶりの失点。1−1のまま試合は延長戦へ突入した。結局同点のまま13回で伊藤は降板し、勝敗は付かなかった。どんどん小さくなる防御率はついに1点を割って0.99となった。
 6月は5試合で3勝1敗、49回2/3を投げて自責点2の防御率0.36という好成績。見事に月間MVPに輝いた。

 2試合連続の延長戦を含み、ここ6試合で61回2/3と1試合平均10イニング以上も投げていた伊藤の疲れはピークに達していた。野村監督も13回を投げた疲労を考えて4登板ぶりに中6日の休養を伊藤に与えた。7月4日の巨人戦に登板した伊藤は前回同様に巨人打線を抑え込んだ。しかし、またしても打線の援護なく0−0のまま9回を投げ切った。その裏の攻撃で再びハウエルにサヨナラ本塁打が飛び出し、伊藤は完封で7勝目を挙げた。最近6試合で実に4完封であり、防御率は驚異的な0.91をマークしていた。しかし、これが1993年、伊藤智仁の最後のマウンドであった。

 ヒジ痛を起こした伊藤は戦列を離れて治療に専念したが、シーズン中の復帰は叶わなかった。6月以降の成績は6試合で58回2/3を投げて自責点2、実に防御率0.31であった。伊藤を欠いてもチームは優勝し、日本シリーズでも前年敗れた西武を4勝3敗で下して15年ぶりの日本一に輝いた。
 伊藤は実働3ヶ月にもかかわらず、124票を集めて新人王に選ばれた。実働期間の短さを補って余りある内容が高く評価されたのだった。

<1993年・一軍登板成績>
  チーム勝敗   伊藤勝敗 投球回 安打 三振 四死球 自責点 防御率 被本塁打
4/20 阪神○7−2 先発 ○1勝0敗 7 8 10 4 2 2.58  
4/25 横浜○6x−5 救援 3・1/3 2 2 2 0 1.74  
4/29 広島●1−4 先発 ●1勝1敗 4・1/3 6 5 4 3 3.07 江藤、前田智
5/4 中日○6−1 先発 8・2/3 8 11 2 1 2.31  
5/12 横浜○6−1 救援 2 1 0 1 0 2.13  
5/16 中日○1−0 先発 ○2勝1敗 8・0/3 3 8 4 0 1.62  
5/23 中日○11−1 先発 ○3勝1敗 5 5 5 2 1 1.64  
5/28 横浜○3x−2 先発 12 8 15 6 2 1.61  
6/3 阪神○4−0 完封 ○4勝1敗 9 3 9 2 0 1.37  
6/9 巨人●0−1x 完投 ●4勝2敗 8・2/3 8 16 4 1 1.32 篠塚
6/16 阪神○6−0 完封 ○5勝2敗 9 5 9 1 0 1.17  
6/22 広島○1x−0 完封 ○6勝2敗 10 3 12 2 0 1.03  
6/27 阪神△1−1 先発 13 7 13 1 1 0.99  
7/4 巨人○1x−0 完封 ○7勝2敗 9 3 11 2 0 0.91  
                     
  93年成績計 14試合 7勝2敗 109 70 126 37 11 0.91  

 ヒジ痛は当初の予想以上の重症だった。94年・95年と棒に振り、結局伊藤の復帰は96年になった。97年にはストッパーとして再起し7勝19セーブでカムバック賞を受賞。翌98年は5年ぶりに先発ローテーションに戻り、防御率2.72と好投したが勝ち運に恵まれず6勝11敗と大きく負け越した。99年、00年と右足内転筋痛など体調が万全でない中で連続して8勝を挙げるが、01年は左足の故障でわずか1試合の登板に終った。

 02年も一軍どころかファームの試合にすら登板出来ずに一年が終った。伊藤は秋のコスモスリーグで再起を賭け、10月24日の近鉄戦でマウンドに上がった。562日ぶりの実戦登板を果たしたが、わずか9球を投げて右肩亜脱臼を起こしリタイア。この結果により球団から一度は戦力外通告を受けるが、伊藤自身の強い希望により、大幅減俸と引き換えに現役続行を勝ち取った。

 ラストチャンス・・・。周囲もそして何より伊藤自身がその事をよく理解している。迎えた2003年は怖いもの知らずだったルーキーイヤーから丁度10年目のシーズンだ。あのきらめきの投球を再び見せてほしい、そう願いつつ復活の時を待つ。

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