呂明賜(巨人)、衝撃のデビュー9試合7本塁打
87年秋、台湾球界から1人の強打者が日本プロ野球の門を叩いた。尊敬する台湾の英雄・王貞治が監督を務める巨人に入団したそのバッターの名は呂明賜。現地読みでは「ルー ミンスー」という発音だが日本語読みで「ろ めいし」と呼ばれたその男は翌年6月、衝撃的なデビューを飾る事になる。
台湾球界ではスラッガーとしてその名を轟かせていた呂だったが、当時の一軍外国人選手枠は2人。この年から入団のメジャー100勝投手、ビル・ガリクソンと来日5年目を迎える主砲、ウォーレン・クロマティが在籍していた巨人では第3の外国人という位置付けで、88年の開幕からファーム暮らしを余儀なくされた。しかし開幕から打率.344をマークしていた好調のクロマティが6月13日の阪神戦で久保投手から死球を受け左手親指を骨折。ファームで打ちまくっていた呂が急遽一軍に呼ばれる事となった。一軍昇格までのイースタン成績は31試合で12本塁打、打率.387という見事な数字だった。
クロマティの骨折から一夜明けた14日のヤクルト戦に早速「6番・ライト」で先発出場。第1打席にギブソン投手から史上24人目の初打席本塁打となる1号3ランを放つ豪快なデビューを飾った。その後も毎試合ヒットを放ち、4試合目の中日12回戦からは5番に上がった。クリーンナップにも気後れすることなく、この試合で2号ソロと3号3ランを放ち、初の猛打賞も記録した。さらにその勢いは続き、6月21日まで3試合連続本塁打。22日の大洋戦は初のノーヒットに終るが、25日のヤクルト戦では2度目の1試合2本塁打。特に2本目は9回裏に飛び出した劇的なサヨナラ2ランだった。この日までデビューから9試合を終え7本塁打を量産、打率も.333をマークしていた。この時点で約5.1打数に1本塁打のハイペースであった。
前年にデビューから本塁打を打ちまくり、球界を騒然とさせたボブ・ホーナー(ヤクルト)でさえデビュー9試合目では6本塁打であった。現役バリバリの大リーガーをも凌ぐペースでホームランを量産する恐るべき打者の出現に、ファンとマスコミは色めきたった。特にマスコミ攻勢は物凄く、呂は取材に追われる日々となりプライベートな時間は失われた。引き換えに知名度は瞬く間に全国区となり、その名が連日紙面を飾った。
9戦7本塁打の後は6試合ホームランからは遠ざかったが、7月5日・6日の中日戦で計3本塁打を放ち17試合目で二桁の10号本塁打に到達した。17日の大洋戦では原辰徳がスタメンを外れた事もあり、ついに4番打者に起用された。
打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 備考 | ||
6月14日 | ヤクルト10回戦 | 4 | 1 | 1 | 3 | 1号3ラン |
6月15日 | ヤクルト11回戦 | 4 | 2 | 0 | 0 | |
6月17日 | 中日11回戦 | 4 | 1 | 0 | 0 | |
6月18日 | 中日12回戦 | 5 | 3 | 2 | 3 | 2号ソロ・3号2ラン |
6月19日 | 中日13回戦 | 4 | 1 | 1 | 1 | 4号ソロ |
6月21日 | 大洋11回戦 | 4 | 1 | 1 | 1 | 5号ソロ |
6月22日 | 大洋12回戦 | 4 | 0 | 0 | 0 | |
6月23日 | 大洋13回戦 | 3 | 1 | 0 | 0 | |
6月25日 | ヤクルト14回戦 | 4 | 2 | 2 | 3 | 6号ソロ・7号2ラン |
合計 | 36 | 12 | 7 | 11 | 打率.333 |
一躍人気者になった呂はオールスターにも出場。直前になってオールスター規定の外国人枠が2人から3人に広げられる措置が取られ、特に名指しはなかったものの呂のオールスター出場に向けた救済措置である事は明らかであった。しかし、一軍での連戦と連日のマスコミによる取材攻勢に呂は疲れていた。オールスターは3試合とも先発出場したものの計7打数ノーヒットと冴えない成績に終った。それより先、ジュニアオールスターにも選出されていたため、呂は掛け持ち出場となっていた。疲労が蓄積して休みたい時期に4試合もの一軍・二軍オールスター戦に出ていたのである。
8月に入ると呂の打棒は目に見えて精彩を欠いた。月間の打率は.241で期待された本塁打はわずか2本。9月も低迷は続き打率はさらに悪化して.206に終った。結局6月の.333をピークに毎月打率は下がり続けた。クロマティはシーズン中の復帰を果たせず、7月に吉村が靭帯断裂の重傷で戦線離脱した事もあり呂は休むわけにはいかなかったのだ。疲れていて体調が万全でなくとも、打撃不振のままでも試合に出場し続けなければならなかった。デビューの日から閉幕までチーム70試合中69試合に出場。途中交代7試合、代打出場3試合で残り59試合はフル出場であった。
6・7月は115打数で12本塁打(9.58打数に1本)のペースが8月以降は159打数で4本塁打(39.75打数に1本)と急激にペースダウン。各チームのマークは厳しくなり、容赦ない内角攻めが呂を見舞った。打てなくなると、当然の如く「フォーム改造」と取り組まされる事となり、自分のフォームを見失ったまま打席に立ち続けた呂は復調する事なく1年目のシーズンを終えた。
試合 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 打率 | |
6月 | 12 | 48 | 16 | 7 | 11 | .333 |
7月 | 21 | 67 | 19 | 5 | 11 | .284 |
8月 | 24 | 87 | 21 | 2 | 8 | .241 |
9月 | 19 | 63 | 13 | 2 | 8 | .206 |
10月 | 3 | 9 | 1 | 0 | 2 | .111 |
計 | 79 | 274 | 70 | 16 | 40 | .255 |
1年目は尻すぼみだったが、一時的とはいえ大活躍した事で2年目以降に期するものはあった。翌89年は王監督が退団し、藤田元司新監督が就任した。クロマティは開幕から4割ペース打ちまくり、呂は18試合の出場に留まった。それでも打率.282で2本塁打を放った。
3年目の90年、ガリクソンに代わって入団したブラウン外野手は故障がちで70試合にしか出なかったが、呂にはほとんどチャンスが与えられず7試合の出場のみ。ファームでは89年・90年とも3割と二桁本塁打を記録しているだけに、88年後半の印象から「呂はファームでは打てても、上では通用しない」と首脳陣が決め付けていた節さえ伺える。
翌91年はついに一軍出場ゼロ。チャンスが与えられず、糸が切れたのかファームでも打率.253と不振に終った。結局この年限りで日本プロ野球から去った呂だったが、翌年からは故国台湾プロ野球でプレーして主力打者として活躍した。
試合 | 打数 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 四死球 | 三振 | 打率 | ||
88 | 一軍 | 79 | 274 | 70 | 12 | 0 | 16 | 40 | 4 | 33 | 43 | .255 |
二軍 | 31 | 111 | 43 | 不明 | 不明 | 12 | 34 | 3 | 21 | 10 | .387 | |
89 | 一軍 | 18 | 39 | 11 | 0 | 0 | 2 | 6 | 1 | 1 | 7 | .282 |
二軍 | 60 | 222 | 74 | 10 | 0 | 15 | 57 | 5 | 38 | 24 | .333 | |
90 | 一軍 | 7 | 13 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | .308 |
二軍 | 64 | 220 | 71 | 13 | 0 | 10 | 45 | 3 | 31 | 23 | .323 | |
91 | 一軍 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
二軍 | 52 | 186 | 47 | 12 | 0 | 9 | 35 | 2 | 19 | 18 | .253 | |
通算 | 一軍 | 104 | 326 | 85 | 12 | 0 | 18 | 46 | 5 | 35 | 52 | .261 |
二軍 | 207 | 739 | 235 | 不明 | 不明 | 46 | 171 | 13 | 109 | 75 | .318 |