PAGE 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11

◎ 虚無僧尺八の表裏を探る−2 ◎

臨済宗寺院との末寺縁組み

 虚無僧が自分たちを世間に認知させた第二の方策は、自分たちの集団を仏教教団の中にいわば潜り込ませたことです。虚無僧は本来乞食の集団で、仏道修行は方便のようなものだったのでしょう。しかし、それではお上の「浪人狩り」の手から逃れられません。そもそも、ただの浮浪者の集まりでは、雨露を凌ぐ家もありません。そこで、虚無僧の発生からしばらく経って、各地に虚無僧寺というものが作られたようです。

 虚無僧寺の本寺として有名な明暗寺・一月寺・鈴法寺について言えば、明暗寺は寛永年中(1624〜43)に民家を手に入れて作られたと伝えられています。寺を作ったと言っても、おそらく、勝手に寺と称したのでしょう。初期の明暗寺の地所は、わずか三十九坪という猫の額のようなものだったそうです。青梅の鈴法寺は、当時の住職月山養風が、昔武士だった頃の知り合いで、帰農して青梅の霞村を開墾していた吉野織部之助から土地と井戸を寄進され、川越から引っ越してきたそうです。青梅に行くと、今でも旧吉野家の住宅が文化財として保存されており、当時の記録も残っています。虚無僧の歴史には眉つばものが多いのですが、これは確からしいです。一月寺についてはいろいろ伝説があるようですが、確かな話は分かりません。

 虚無僧寺と言っても、このように、ただ勝手に寺と自称しているだけで、いつ、どこの親寺から誰が印可を受けて独立したなどという事跡はまったくない。しかし、ただの普化宗では世間的に幅も利かないし、隠れ切支丹ではないことを保証してくれる親寺もない。こんなことでは、いつ、お上に怪しい宗教団体として眼を付けられるか分かりません。虚無僧たちが、どこかしっかりした親寺を見つけて、自分たちの寺をその末寺としたいと望んだのは自然でしょう。そこで彼らは、自分たちの宗祖の普化と縁の深い臨済宗の寺院を頼り、その末寺になる方策を考えました。

 普化宗寺院の臨済宗寺院への末寺縁組みは、『覚え三ヶ条』のお墨付きが交付された1677(延宝五)年から二十五年ほど経った元禄の終わり頃から始まったようです。明暗寺は、和歌山県の由良にある興国寺という寺をターゲットにしました。興国寺は今もありますが、行ってみると、広大な境内を持つ臨済宗の名刹で、開山の法燈国師は金山寺味噌を中国から日本に紹介したことでも有名ですが、そんなことより、亀山上皇も帰依した名僧だったそうです。

 明暗寺から興国寺に末寺証文を提出したのが1703(元禄十六)年、興国寺から明暗寺に本寺証文が交付されたのが、その二年後の1705(宝永二)年です。これも経過はよく分かっていないのですが、1688(元禄元)年の頃から、法燈国師と明暗寺の関係を示す偽の系図などを用意して興国寺に説明に行くなど、そうとうな無理をして興国寺を騙したらしい。興国寺も嘘を承知で、さらに上の大本山の京都妙心寺に内緒で明暗寺を末寺にしたらしい。その証拠に、妙心寺から興国寺に、「明暗寺は興国寺の末寺ということになっているらしいが、こちらの末寺帳には載っていない。どういうことなのか」などと問い合わせがあって、ごたごたが起きたりしています。

 明暗寺は興国寺の末寺になる交渉がまとまるまでは、普化宗という肩書きは一時引っ込めたのではないかと私は推測します。しかし、いったん末寺の立場を手に入れてしまうと、臨済宗の末寺でありながら、堂々と普化宗の総本山を名乗るようになりました。また、興国寺の末寺には違いないが、末寺の中でも特別扱いを要求して、大本山の妙心寺にまで手を煩わせたりしています。これもずいぶんいい加減なことですが、江戸時代というのはそういう時代だったのでしょう。江戸時代は封建社会であり、自治を社会支配の基本とした体制だったので、そういうことが有り得たのでしょう。現代でも、お菓子屋などで、「元祖」とか「本舗」などという呼称をよく見掛けますが、特に社会的に害がない限り、あまりその真偽は問いません。それと似たようなものでしょう。

 ともかく、これによって、従来、世間からは名もなき暮露、薦僧、あるいは虚無僧の集団としか見られていなかった自分たちの普化宗を、とにもかくにも仏教の一宗一派として社会に通用させる形を整えたのでした。

 他の寺についても事情は大体同じで、一月寺は臨済宗の万満寺という寺を親寺とし、鈴法寺は近くの青梅街道沿いの東禅寺を親寺としたようです。ただしこれは明確には分かりません。

 『覚え三ヶ条』のお墨付きの獲得と臨済宗寺院との末寺縁組み、この二つによって虚無僧は生活面においてほっと一息ついたことでしょう。彼等は武士でありながら寺社の特権を手に入れ、武士としての体面を保ちながら乞食をする権利を持った訳です。しかもこれは、庶民の乞食ではありません。庶民の乞食は町奉行の管轄下なので、おとなしい物乞いしか出来ません。「右や左の旦那さま」と言って土下座するしかなかった訳です。しかし、虚無僧は僧籍を持つ身分なので、寺社奉行の管轄下となり、基本的には教団内の自治が認められていました。簡単に言えば、役人は虚無僧には手出しができなかったのです。

 虚無僧は刀を持つことは表向きの規則では禁止されていましたが、懐剣は禁止されていませんでした。また、尺八はいつでも武器になりました。さらに「穴の開いていない長い尺八?!」を西陣織の袋などに入れて腰に差していることもありました。これは「添え竹」と言って、刀の代わりだったそうです。虚無僧が門口に立って托鉢し、「公儀御用のため、少々旅費を工面して欲しい」と低い声で言ったかどうか知りませんが、ともかく御布施を強要されると、庶民は小額の銭や米を与えて早々に追い払うというような態度は取れなかったでしょう。そういう訳で、虚無僧の托鉢は実際には「ゆすり」に近く、民衆に嫌われたようです。

普化宗の縁起の創作

 第三の方策は、普化宗の縁起を創作というか、捏造したことです。虚無僧たちは臨済寺院との間に末寺縁組みをして、自分たちの寺を臨済宗の末寺ということにした。しかもそれだけでは飽き足らず、さらに一月寺・鈴法寺・明暗寺などは「普化宗本寺」、「触頭」、「普化宗総本山」などと自称した。となれば、その普化宗なる教団が、いつ、どのようにして生まれたか、その由緒由来、仏教で言うところの「縁起」がなければならない。

 普化宗総本山などなどを名乗ったのは、お菓子屋が「本舗」を名乗るようなものだと前に書きましたが、普化宗の場合は、単に「箔を付ける」とか、「見栄を張る」とかいうことではなく、もっと大きな理由があったと考えられます。つまり、虚無僧寺が禅寺で、虚無僧が禅僧だというのでは都合が悪い。やはり、明暗寺は普化寺で、虚無僧は普化僧であるとしなければ世間に説明できないようなことが沢山あったのです。早い話が、虚無僧は頭を丸めていません。また、表向き帯刀はしていないにしても、懐剣や尺八などで武装しています。その上、普通の禅僧のように朝早くから起きて読経・座禅・禅問答などの修行はしません。また、普化寺には檀家もなく、だから檀家のための法事もしない。さらに、仏法を真面目に勉強しているようには見えないし、現に、民衆に説法、つまり布教活動もしない。それどころか、普化寺の中では、平気で酒を飲んだり博打をしたりしている。極端な例では、寺の土地や什物を質に入れたりする者さえもいる。これは虚無僧の立場からすれば当然のことでしょう。なぜなら彼等は、僧という身分は「一時の隠れ家」で、自分たちは本来は「勇士」だと自覚しているのですから。

 しかし、自分たちはそれでよくても、世間から見ると、こんなおかしな話はありません。町奉行、つまり警察の権限の及ばない寺の中で、不特定多数、しかも顔ぶれさえ一定しない浪人たちがいつもたむろし、あやしげな生活をしている。お尋ね者を匿ったりもしているらしい。寺社奉行から頂いたお墨付きがその社会的存在を認めているといっても、そんな乱れた生活は認めていません。虚無僧たちのそのような不審な行状は、いったいどのような由緒由来によるものなのか。今の言葉で言えば、歴史的・宗教的根拠は何なのかという疑問が出されるのは当然です。となれば、虚無僧たちは、それを何らかの形で世間や幕府に説明する必要があるでしょう。聞いた側が十分納得するかどうかはともかく、取り敢えず相手に示す材料がなくては困ります。虚無僧と普化宗はこのように始まり、このような事情で、このような目的のために昔から今に至るまでこのような生活をしている。それを「説明」というか、「正当化」する「物語」が必要になるのです。その「物語」が「普化宗の縁起」ということになります。

 虚無僧は『普化宗』を名乗って尺八を吹いていました。普化が唐代に実在した禅僧である事は既に述べましたが、そもそも、虚無僧と普化とはどういう関係があるのでしょうか。

 江戸初期の1614(慶長十九)年までに書かれた『慶長見聞集』(三浦浄心)には、尺八を吹く「虚無」と呼ばれる人物が「われいにしへは四姓の上首(武士)たりといへ共、今は世捨て人となる。然れども、先業をかへり見、貧賎をなげかずして、仏道の縁に取り付き、宗門に思ひをすまし、内に所得なく、外に所求なく、身を安くして普化上人の跡をつぎ、一代教門の肝心、出離解脱の道に入り、修行をはげますといへ共、…」と話したことが記録されています。ここに既に「虚無僧−尺八−普化」という三者のつながりが成立している事は注意すべきでしょう。しかし、歴史の事実としては、「虚無僧−尺八」というつながりは存在しますが、「尺八−普化」、「普化−虚無僧」というつながりは存在しません。つまり、普化は尺八を吹かなかったし、また、虚無僧とは何の関係もありませんでした。この「尺八−普化−虚無僧」というつながりを作ったのが、普化宗の縁起の創作です。ここでは、いくつかの縁起の中から代表的な「虚鐸伝記」を取り上げましょう。

虚鐸伝記

 普化宗の縁起は数種類ありますが、代表的なものは明暗寺の由来を説明した「虚鐸伝記」です。これは、遁翁という人が語ったことを山本守秀という人が筆記して解注を施した「虚鐸伝記国字解」という本の体裁をとっています。尺八のレコードやCDの解説でおおよそを知っている方も多いと思いますが、話の内容は案外複雑なのです。そこで、できるだけ簡単に要約します。

 唐代初期(日本の平安時代初期)の中国に普化という僧がいた。臨済宗の宗祖である臨済義玄(?〜867)の後見のような仕事をしていたが、奇行が多かった。普化はいつも鐸(『臨済録』では、鈴)を振りながら市中を歩き回り、

明頭来明頭打  (みょうとうらいやみょうとうた)
暗頭来暗頭打  (あんとうらいやあんとうた)
四方八面来旋風打(しほうはちめんらいやせんぷうた)
虚空来連架打  (こくうらいやれんかだ)

という四句の偈(げ)を唱えていた。

 その頃、張伯という人がいて、「管」をもって普化の鐸の音を真似た。この「管」とは尺八の事と考えられます。普化は鐸を振ってその音で衆生に仏法の真理を示したのですが、張伯は普化の禅風を慕い、同じことを尺八を用いてした、ということでしょう。そこでその尺八を虚鐸(鐸の音を吹く笛)と呼びました。つまり張伯は中国における尺八禅の祖ということです。その張伯の十六代目の子孫に張参という人がいて、張伯の尺八禅を受け継いでいた。これは日本の鎌倉時代の中頃です。張参は、その頃日本から留学に来ていた学心(覚心とも言う。後の法燈国師(1207〜1298))に、それを教えた。学心は尺八を吹く四人の中国人の居士(出家していない仏法修行者)を連れて日本に帰り、紀州由良に西方寺(後の興国寺)を建てて住んだ。たまたま日本人の寄竹という人がいて、宇治に朗庵という庵を建てて住んでいたが、居士のうちの一人から尺八禅を習った。この寄竹が後の虚竹禅師であり、古伝三曲の作曲者であり、かつまた、日本における虚無僧の祖である。その弟子の第二世明普が京都に明暗寺を建てた。

 この話が、興国寺と明暗寺の本末関係を根拠付けるために明暗寺(虚無僧)の側が捏造したものだということは、今では定説になっています。前半の普化の話は、臨済の事跡をまとめた「臨済録」(中国では1120年刊行、日本では1320(元応二)年刊行)という本に書いてあることをほとんどそのまま引用・解説したものです。後半については、興国寺の側で開山の法燈国師の事跡を書いた「鷲峯開山法燈円明国師行実年譜」というものがありますが、その中には張伯や尺八の事や四人の居士と寄竹の話は一切ありません。つまり、作者の虚構と思われます。その他にも矛盾点がいくつかあります。しかし、『虚鐸伝記国字解』が偽書であるからと言って、この本は読むに値しないものでしょうか。私はそうは思わないのです。

 だいたい、宗教の縁起物語には、眉つばのものが多いというのは常識です。よく知られた、キリストの出生の事情や聖書に書かれた奇跡の数々などがよい例です。キリストの母マリアは処女だったとか、キリストが湖の上を歩いたとか、癩(らい)病の患者を瞬時に直したとか、数え上げたら切りがありません。しかし、聖書の奇跡を科学で論難しても、キリスト教の理解にはつながらないでしょう。こういう話は、その非科学性や不合理性を指摘しても意味がないのです。大切な事は、それが事実であったか否かということではなく、そのような縁起のストーリーがその宗教について何を説明しようとしているかを読み取る事でしょう。宗教は心の問題として考えなければ、本当に理解したことにはなりません。そのようなストーリー、吉本隆明風に言えば共同幻想を作り出し、その幻想の中で生きた人々の心のあり方、生のあり方を考える事の方が大切でしょう。虚無僧の歴史を考える時も、このような視点が必要なのです。ですから、ここで、この縁起からうかがえる虚無僧の心と生活とはどのようなものか、それを考えてみましょう。

                                        NEXT PAGE