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◎虚無僧尺八の表裏を探る−1 ◎

虚無僧の実像

 尺八を吹く人で、虚無僧というものに憧れを抱いている人は多いことでしょう。風の吹くまま尺八を吹きながら諸国遍歴の旅。天蓋と呼ばれる深編笠に顔を隠し、虚無僧寺を渡り歩き、天下御免の托鉢修行。町奉行の配下や諸藩の役人が見咎めて誰何しても、胸に下げた偈箱の「明暗」の二字を指差せば手出しは無用。悠々と尺八を吹きながら立ち去るのみ。そこに我々が想像するのは、自照しつつ流浪する孤独で自由な精神です。吉川英治を始めとして、多くの時代小説の作家が虚無僧をロマンチックなものとして描いています。それだけではありません。尺八奏者にとって、虚無僧は尺八本曲の作曲者でもあります。私たちがこの上なく愛する尺八音楽の神髄である本曲、その淵源は虚無僧にあるのです。虚無僧を研究することは私たち自身がどこから来たかという問題を認識しようとすることにほかなりません。私たちが虚無僧の本当の姿を知りたい、そして尺八音楽を生み出した虚無僧の心を知りたい、と考えるのは当然のことでしょう。

 
ところで、そのような興味から虚無僧の歴史を調べてみると、その実像があまりに悲惨で陰惨であるのに驚かされます。結論を一言で言えば、虚無僧とは武士の乞食であり、無法者です。それをお話する前提として、虚無僧が生まれた時代と社会的背景について考えてみましょう。虚無僧が生まれたのは戦国時代から江戸時代にかけてです。それ以前に、「薦僧」というものはありました。簡単に言うと「薦を被った乞食坊主」というようなもので、建前上武士でなければなれなかった虚無僧とは異質な面があります。虚無僧とまったくつながりがないという訳ではないのですが、ここでは詳しい話は省略します。

虚無僧発生の社会的背景

 虚無僧が生まれた直接の原因は、大名たちの間で熾烈な戦いが繰り返された戦国時代が終わり、大勢の浪人が出たことです。戦国時代とは、徳川幕府によって太平の世が開かれる1603(慶長八)年までのおよそ百年間を呼びます。関ヶ原の合戦が紀元1600(慶長五)年で、大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡したのは、その15年後の1615(元和元)年でした。この期間を通じて、日本中におびただしい数の浪人が生まれ続けました。武士の半数がリストラされてしまったようなものだから、再就職した者もいたでしょうが、新たな仕官先が見つからず、暮らしに困った武士は大変な数だったと思われます。江戸時代になると、役人による不逞浪人狩りなども諸国で頻繁に行われました。浪人たちは、このような社会情勢の中で深刻な生活の危機にさらされました。しかし、生活に困ったからといって、彼らは武士の身分を捨てる訳にはいきません。いつか再仕官する日を期して、貧しい暮らしに耐えなくてはなりませんでした。一時しのぎのための「アルバイト」であっても、おおっぴらに商人や職人の仕事をしたりすることも、身分上、体面上できません。長屋の奥で傘張りの内職をしたり、寺子屋の師匠などをして暮らす浪人もいたでしょうが、そんな大人しい人ばかりではなかったでしょう。そういう中で、ごく貧しく、また、真面目に内職などする気のない浪人たち、いわゆる不逞浪人の中から虚無僧という社会集団が生まれたと考えられます。

 徳川幕府が成立した1603(慶長八)年から25年経った1628(寛永五)年、この頃世の中には戦国の空気が残り、治安はまだ不安定でした。こういう中で、虚無宗とか自然宗とかいう教団らしきものが存在し、全国で十六派を数えるに至ったこと、また、それに属する人々は薦僧、古無僧、虚無僧、暮露、虚無などと呼ばれ、漂漂浪浪の暮らしを送っていたことが、『興国寺文献』の中の『一糸和尚述也』という文書から察せられます。

 いくら暮しに困っても、武士は自分を乞食と名乗ることは体面上できません。そこで、宗教に名を借りて托鉢を名目に布施を乞い、実質的な乞食生活を送っていたと想像されます。

宗門改めと本末改め

 江戸時代の初期には虚無僧に対する行政側の組織的な取り締まりや法的規制はなかったようです。虚無僧たちは、いわば勝手に宗教、それも多くの場合、「普化宗」という宗派を名乗り、自由に托鉢をしていたのでしょう。「普化」とは、中国唐代に実在した禅僧です。普化と虚無僧のつながりについては、後で考える事にします。しかし、ここに彼等にとって実に容易ならぬ事態が起こりました。それは幕府が打ち出した「宗門改め」と「本末改め」です。これは一連の切支丹禁教と1637(寛永十四)年〜38(寛永十五)年の島原の乱の後始末の一環として実施されたもので、寺院の本末関係や、それに帰属する檀家を明確化することを狙いとしています。いわば寺院の戸籍を作ることで、隠れ切支丹や胡乱な宗教集団を社会から排除することを目的としていました。このころ徳川幕府は太平の世の統治の基礎固めとして、武家諸法度や公家諸法度の整備を急いでいますが、宗教界に対しても、統制・管理の政策を打ち出したのです。ちなみに、この政策は「智恵伊豆(知恵出づ)」と呼ばれた松平伊豆守信綱が発案したものだそうです。

 このような上からの動きに対して、取り締まられる側はどう対応したか。その全体像は分かりません。しかし、虚無僧たちはさぞかし困ったことだろうと想像されます。なぜなら彼らは自分たちで勝手に普化の思想を慕う宗教集団を名乗っていただけで、いつ、どういう指導者が、誰から印可を受け、普化の仏法を受け継いだというような歴史的事実は、何一つ示せなかったからです。まったく存在しなかったから、当たり前ではありますが。そこで、彼らは苦肉の策として、結果的に極めて知能的にお上の取り締まりを免れる仕掛けを作り上げました。その仕掛けとは、自分たちの都合で勝手に作った普化宗という教団を、正式の仏教教団として世間、並びに「お上」に認知させることでした。これはおよそ四つの方策がありました。それを年代順に並べると、

1.寺社奉行の公認の獲得―――1677(延宝五)年
2.臨済宗寺院との末寺縁組み−1700(元禄十三)年〜1750(寛永三)年頃
3.普化宗の縁起の創作――――1705(宝永二)年頃
4.『慶長の掟書』の偽造―――1751(宝暦元)年頃

でした。これらについて、順に説明して行きましょう。

寺社奉行の公認の獲得

 江戸開府から74年も経った1677(延宝五)年六月、武蔵の国青梅の鈴法寺から、虚無僧寺の詳細な内規を記録した文書が、寺社奉行に自発的に提出されました。(資料によっては、一月寺と連名で出した形になっているものもあります。)これは『往古の掟十七ヶ条』または『先師十七ヶ条』と呼ばれています。これはその名の通り、「昔からの教えによって、虚無僧は次のような条文を行動の規範として生活しています」という一種の上申書です。この時、鈴法寺が虚無僧社会の中でどういう地位にあったか、つまり、虚無僧集団を統率する代表の資格で提出したのか、それとも、ただの一虚無僧寺として提出したのか、それは分かりません。ともかくも、その内容は、

  公儀の御法度を守れ。
 
諸国の国法を守れ。
 
朝夕の読経をきちんと勤めろ。
 
喧嘩をしてはいけない。
 
宿泊先で酒を飲んだり博打をしてはいけない。
 
夜、歩く時に大声を出してはいけない。

などなどです。くどいようですが、これは鈴法寺から虚無僧集団への命令ではなく、『往古』から『先師』によって虚無僧たちに与えられている規範です。しかし、虚無僧寺である鈴法寺や一月寺、また、その他の虚無僧寺の住職や役僧たちは、この規範を虚無僧たちが守るように指導する立場にあった事は当然でしょう。

 読むと、現代人から見ても当たり前のような、細々とした注意事項が書き並べられています。こういうことが書かれているということは、虚無僧がそれに反する行為をしていたということを逆に示しています。しかしこれを提出した鈴法寺としては、虚無僧たちは世間に迷惑をかけないように、こんなに立派な規範を守るよう努力しているとお上にアピールする狙いがあったのでしょう。

およそ八十年後に偽造されたと推定される『慶長の掟書』との関係で、特に注意すべき条文を挙げると、

一 国法に背き到来の者、其の理有るに於いては、異儀なく早速返すべきの事。

 (虚無僧は国法(諸国の法律)に従う、となっています。『慶長の掟書』では、虚無僧は国法を超えた特権を持つ、というように変わっていきます)

一 弟子ら大小持つべからず。もし亦、他の虚無僧之を持つに於いては、留め置き、急度(きっと)師匠に断るべき事。

 (初期の『慶長の掟書』には、虚無僧は刀を持たないという条文はありません。この条文は、弟子に限って刀を持つ事を禁じているようにも読めるのですが、それもどこまで守られていたかは分かりません。また、いざという場合は、尺八を武器にしたということもあったようです。刀を持っていない虚無僧が刀を持っている虚無僧を見つけた時、「留め置き」とありますが、こちらは非武装なのに、どういう手段で「留め置」いたかも疑問です。)

一 江戸吹入りの虚無僧之れ有るに於いては、慥(たしか)に其の師匠虚無僧の名を聞き、急度(きっと)師に断り、追ひ却すべき事。

 (虚無僧というものは、日本全国どこへでも自由往来が認められていたというのは『慶長の掟書』での作り話で、実際にはこの条文のように、封建的地方分権の政策に従っていたのでしょう。)
 その他、当時の虚無僧の実態がうかがわれる条項を紹介すると、

一 寺建立の時、十方の檀那寄進して之を立つと雖(いへど)も、結構美麗に及ぶべからざる事。

 (当時虚無僧寺は貧乏で、普通の寺院のように檀家もなく、法事もしませんでした。ましてや多額の寄進をしてくれるパトロンなどあるはずもありません。「美麗に及ぶべからざる事」などという指導はあらずもがなです。貧乏な人が、「私の家は代々の家訓で、どんなに金があっても贅沢はしないことになっています」と言うのと同じで、この条項は格好付けでしょう。)

一 寺地質物に入れ、奢侈すべからず。付けたり、四壁を荒らし、竹木を伐るべからざる事。

 (寺の土地を質に入れたり、羽目板や竹木を伐って燃料にしてしまう虚無僧がいて困る、ということです。他宗の僧侶は絶対にこのようなことをしなかったとは言えないにしても、このような注意をわざわざ明記しなければならないとは、当時の虚無僧集団というものが宗教集団とは異質な、統率の取りにくいものであったことが想像されます。)

 さて、以上のような鈴法寺(または鈴法寺と一月寺)の上申に応えて、同じ年の十二月、寺社奉行は次のような文書を交付しました。これは『覚え三ヶ条』または『延宝の御掟(御法度)』と呼ばれるものです。全文を掲載してみましょう。

    覚え

一 本寺の住職は其の末寺并(ならび)に本寺の弟子仲間衆評を以つて器量を選び、之を相立つべし。縦(たと)い由緒有りと雖も、師弟子相対を以つて、後住契約并(ならび)に遺状之を立つべからず。末寺住職に於いては其の寺の弟子ども相談の上本寺に窺(うかが)い、之を居置くべき事。

  (本寺末寺の住職相続の方式を定めたものです。普化宗内の自治を認めています。)

一 弟子契約の儀、其の人を改め、慥(たしか)なる証人を取り、之を極(き)むるべく、大法に違背せる追放人等抱へ置くべからざるの事。付けたり、虚無僧の作法、古来相定の通り、本寺より弥々(いよいよ)念入れ、急度(きっと)申し付くるべき事。

  (弟子契約をする時は、しっかり身元を確かめ、大罪を犯した追放人などは抱え置いてはいけない。また、虚無僧の作法は、古来からの定め通り、本寺がしっかり管理する事。これも自治を認めています。)

一 末寺并(ならび)に弟子中、一宗の法令に背き、仕置きの時、小科の者は本寺に断じ、指図に任すべく、大科の輩(やから)は奉行所に達し落着之を申し付くる、理不尽の働き仕るまじく候事。

 (普化宗内の刑罰執行は、微罪は内部で処理させ、大罪は奉行所に届けさせる。これは江戸幕府の自治支配の一般的方式です。)

右の条々堅く之を相守るべし。若(も)し之に違背するに於いては、曲事と為すべき者なり。   延宝五年巳年十二月十八日
                      大田摂津守 御印
                      板倉石見守 御印
                      小出山城守 御印
                   虚無僧諸派
                       本寺中
                       末寺中


 末尾に当時の寺社奉行三人の署名と捺印がある点にご注目ください。これで普化宗は、国家公認の宗教団体として『お墨付き』を得たことになりました。宛先が、『本寺中末寺中』となっていて、寺の名前が明記されていないため、この文書も偽造の疑いがあるという説もあります。しかし、例えば鈴法寺が偽造したものなら、宛先を「本寺中」とは書かずに「虚無僧本寺(或いは「普化宗本寺」)鈴法寺」などと書くでしょう。当時、というか、江戸時代を通じて、寺社奉行は虚無僧本寺がどの寺であるか、はっきり認識していなかったようです。虚無僧本寺を自称した寺で有名なのは鈴法寺と一月寺(両本寺)、明暗寺の三つですが、どの寺が本寺か、はっきり決着がついたことはありません。

 ともかく、この『覚え三ヶ条』の交付を受けたということは、虚無僧の歴史の上で、きわめて重要な意味がある出来事と言えるでしょう。それまでは普化宗は、公的に認知されていない集団でした。自分たちで勝手に普化宗を名乗り、尺八を吹いて托鉢をする、私的な修行者、宗教者の雑然たる集合体に過ぎなかった。社会的に何の拠り所もない、いわば身分証明書を持っていない人たちの集まりでした。しかし、このお墨付きを頂いた今や、普化宗は公的に認知された、合法的な宗教団体ということになりました。もう、「浪人狩り」におびえる事はなくなったのです。虚無僧たちがこの『覚え三ヶ条』を『延宝の御掟』と呼んで重視したという話も、成る程とうなづけます。

 さて、このようにお上がお墨付きを下し置かれたのは、虚無僧が「古来相定の通り、本寺より弥々(いよいよ)念入れ」する、つまり、自分たちが自発的に提出した『往古の掟十七ヶ条』を忠実に守り、しおらしく行動する事が条件だったはずです。しかし、この条件は守られませんでした。虚無僧たちは、いったんお上のお墨付きを手に入れると、その約束を守るどころか、お墨付きの権威だけを振り回しました。この約八十年後には、徳川家康公が虚無僧に特権を与えたと称する『慶長の掟書』を偽造し、さらに社会にのさばるようになったのです。

 考えてみると、『往古の掟十七ヶ条』は、『覚え三ヶ条』という魚を釣り上げるために仕掛けられた「毛ばり」だったのでしょう。鈴法寺は、巧妙な方法で幕府からお墨付きを引き出したとも言えます。お上を偽る不届き者として処分される危険を冒してまで、虎穴に入って『十七ヶ条』を提出し、『覚え三ヶ条』という虎児を得たのですから、虚無僧界において、たいへんな手柄を立てたと自慢したことでしょう。普化宗本寺を自称したのも、そういう事情が背景にあるに違いありません。

 また、幕府の方も、それ以後はこの鈴法寺と下総小金の一月寺を通して虚無僧に訓令を出すようになります。これは、この二寺が普化宗寺院の『触頭(ふれがしら)』として扱われたことを意味します。触頭とは、御触れを出す時の連絡網のトップという意味です。これは、この二寺が比較的江戸に近かったことにもよるのでしょう。しかし、二寺の方は、これを自己流に解釈して、『普化宗両本寺』を名乗るようになりました。PTAの電話連絡網のトップの人も、やはり、格式が高いのでしょうか?!

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