あたたかな雪・
第三章
そうして、お互いの死を怯える毎日が続いた。
私たちは、どちらかが死ぬことを怯え、死によって分断される不幸を怯えた。
かけがえのないものは必ず、そんな方法で失われる。
それは自然の摂理ではあったけれど。
私たちはそれを受け入れる事もできず、ただただ怯えるしかなかったのだ。
そんなある日、麗子さんがやってきた。
何度もチャイムを鳴らされて、しょうがなしにドアを開けた私の目の前に、彼女は
うっすらと汗を浮かべて立っていた。
きれいな顔だ。リキッドのきつめのアイラインを目の上と下に入れている。だがそ
れは汗ににじんではいない。完璧なウォータープルーフなのだろう。
その完璧なメークが、効果的に彼女の顔を際だたせている。
すごい美人だ。だがおそらくセールスレディではないだろう。セールスにしては品
がありすぎる。
私は彼女が発するオーラのようなものをあびて、しばらく呆然とその美しい顔を見
つめていた。
彼女は、はずむ呼吸を少し整えて、それから私に言った。
「ここにネズミはいますか?」
ネズミの知り合い? 意外な気がする。でもどうしてこんなところまで?
私は何も言えずに、ネズミの方を振り向く。麗子さんの声に、ネズミはドアの方を
見ていた。
「ネズミ!」麗子さんは叫んだ。
「やっぱりここだったのね、すっごく探したのよ」
麗子さんに中に入ってもらってもいいかとネズミは聞いた。
別に構わない、私がそういうと、ネズミは彼女を招き入れ、テーブルにつかせてか
ら私に紹介した。
「麗子さん、前からいろんな相談にのってもらっていたんだ。何度かお店で花を買
っただろ。僕はあれをもって麗子さんのところに通っていた」
そう言われて麗子さんは、自信ありげに笑った。
彼女には、目に見えないモノを見る力があるんだ、とネズミは言った。それはいろ
んな形で現れる。たとえば悩んでいる人の胸が黒く見えたり、病気や死など、その人
に降り懸かりそうな不幸を漠然と予感したり。
「それを信じられない人にとっては、たいした能力でもないかもしれないけれど」
と麗子さんは言った。
「私はそれを予感して、教えてあげる事ができるの。悩んでいる人の話を聞いてあ
げたり、共感する事によって心を癒してあげたり。ただそれだけ。あくまで、ひとり
ひとりの心の中を、自分の力で癒したいと思っているだけなのよ」
それでも彼女は、その力を買われて養子縁組をしていた。現在の彼女の父は、ある
宗派の教祖に当たるという。三十代前半と見られる彼女の風貌から、「結婚」ではな
くて「養子」という言葉がでた事が私には少し不思議だった。
彼女はネズミの事を心配して探した。以前からあった心の黒いもやが増大している。
そしてネズミ自身が、どこが違う場所で、自分の気の流れを止めている事を感じたと
いう。
「なにかよくない事が起こったと思ったの。だから、心を集中させて、ここを探し
あてたのよ」
私は驚くと同時に、納得もした。彼女にはその力がある。そう思わせるものが、彼
女のりんとした顔だちからあふれるようにたちこめていたのだ。
(麗子さんの話)
「ナツさん。けっしてあなたのせいではないわ。ただ、あなたの中にあるものが、
ネズミの心の黒い部分にあまりにも似通っていたの。でもこんなふうにしていてはダ
メ。あなたたちが閉じこもっているから、黒いもやが増大していくのよ。流れをつく
るのよ。誰かと話して、風を吹かせるの。そうすれば、少しずつ流れだすわ。話すこ
とがないのなら私のことを話してくれればいい。私を知る事によって助かる人だって
たくさんいるのだから。
私には心のどこに黒いものがたまっているかが見える。私は、そこにぐっと手を突
っ込むの。多少は苦しむ人もいるけれど。それでもそうすると黒いもやが流れて、み
んな心が軽くなった、もう大丈夫ですって言うの。
最初は自信がなかったけれど、その言葉を聞いて思ったの。私に見えているのは、
人の心の流れなんだって。不思議でもなんでもないのよ。実際に見えているのだから。
黒いもやがなくなれば、軽くなるのは当たり前なの。だから、これは絶対に治るもの
なのよ。
そりぁもちろん、最後まで信じきれない人だっているわ、科学の力で解明できない
ものは、なにひとつ信じられないかわいそうな人。でも根本的なところで思いっきり
すがりつけない人は、また同じ間違いを犯してしまう。しっかりと私やお義父様を頼
って、信じてくれれば、必ず解決できるものなのよ。信じようとする、人本来の心を、
打ち消してしまってはダメ。なんとか治そうと、力を込めて私たちを信じて欲しいの。
頼ってくれなくては治せない、それができなければ、私の力は及ばないわ、ナツさん、
あなたにはそんな馬鹿な事をして、私につらい思いをさせないでほしいの。
でも。今、それよりも、私が一番つらいのは」
麗子さんは、少し顔を曇らせて唇をきっと結んだ、ように私には見えた。
「私たちの事をまだ知らずに、自分ひとりで悩んでいる人が、何人もこの世にいる
っていう事なのよ」
何か、ずん、と感じるものがあった。この人は、救う事をのぞんでいるのだ。何よ
りも誰よりも強く、人を救いたいと思っている人なのだ。
彼女の話した事は、こんな簡単な言葉でしかない。でも、それを越えるものがきっ
と心の中にあるのだろう。そのオーラは優しく私たちを包んだ。きっとどこかに拠り
所がある。だから何も心配する事はない。そんな気持ちにさせてくれた。
それはすごい感覚だった。聞いていてどきどきした。心の中に羽が生えて、そのま
ま飛んでいけそうな気持ちになった。じっと聞いているネズミの顔も、今までとは違
って、ぐっと落ちついている。今までけっして信じなかったスーパーな力を目のあた
りにして、私はただただ引き込まれていくばかりだった。
「ネズミ。弱気になっては駄目。お義父様のところへ行くといいわ。お義父様は、
一度も会ったことのないあなたたちの事を、自分の子供のように心配していらっしゃ
るの。あなたと何度も話したけれど、あなたはしばらくたつとまた、闇の方へ歩いて
いってしまう。そういうものには必ず原因があるものなの。先祖の事とか家の成り立
ちとか、あるいは生まれ育った土地とか。おそらくすごく強い力があなたたちを引き
込んでいるのね。残念だけど、そんな過去に遡った事までは、私にはわからない。で
もお義父様は、厳しい修行をかさね、どんなものにも打ち勝つ素晴らしい力を備えて
いらっしゃる、きっとそれを追い払ってくださるわ。お義父様のところへ行って、助
けを求めなさい。わかったわね」
麗子さんの言葉に、ネズミは無言で頷いた。
その姿は、神の言葉をすべて無条件に受け入れる、純朴なひつじ飼いの少年を思わ
せた。
ネズミは麗子さんが帰ったあとも、ずっと座ったままだった。
少し心が躍るような感動を味わった私とは違い、ネズミは静かだった。
僕を救ってくれるのは麗子さんだと思っていた。とネズミは言った。
彼はおそらく私に会う前から、こんなふうにうちにこもり、そのたびに麗子さんに
助けてもらっていたのだろう。見放された、と思ったのかも知れない。
煙草を買ってくる。煙草なんていつもは吸わないネズミは、そう言って外にでた。
さて、と私は声を出して、そして驚いた。ここのところ独り言なんて言った事なか
ったからだ。
身体が何かをしたがっていた。自発的に動きたいと欲していた。これが麗子さんの
力なのだろう。私は何かをしたいと今、切実に思っている。
アサミの家の番号を回す。麗子さんが言っていたように、話す事がなければ、麗子
さんの事を話せばいい。この、はやる気持ちをうまく伝えられれば、アサミもきっと
麗子さんを好きになるはずだ。私たちを不安から救ってくれる人、その存在を知れば、
不安は半分以上消え去ってくれる。それを知った瞬間の感動を、私はアサミにも知っ
て欲しかった。
アサミは驚いた。いつ電話してもいないから心配したとも言った。(私たちは家に
いてもほとんど電話をとらなかった。)お店を訪れ、仕事を辞めた事も知っていた。
私は少し怖じ気づく。自分から切断した回線を、また繋ぎ返すのはちょっと骨の折
れる作業だと思ったからだ。
「ごめんね、心配かけて。でも今は元気よ」
「ネズミも一緒なの?」
「今はちょっと出かけてる。でもだいたいはここにいる」
「そうなの」
安堵とも不安ともとれる言い方。その言葉に後ろめたさを感じ、そしてまた自分を
かりたてる。そう、伝えたいと思うことがあるのよ。その気持ちだけが私の回路をつ
なげていた。
「一体どうしたの。この前三人で会ったときは元気だったのに。あれから何があっ
たというの。ナツがこんなになるなんて、なんだか信じられないのよ」
「本当にごめん、私たち、なんだかすごく落ち込んでしまって。迷路に入り込んで
いたみたいなの。でも、今は大丈夫。ちゃんと出口を見つけたから」
「出口?」
「そう。すごい人に会ったの。麗子さんっていうの。彼女はすごいのよ。私たちを
見つけだし、そして導いてくれたの」
私は麗子さんの事を喋った。彼女がいかにすごい存在なのか、ありとあらゆる修飾
を使って。だけどどんな言葉も、彼女の存在自体には及ばない、それを感じ、心をせ
き立てながら、私は麗子さんの事を伝えようと熱っぽく喋った。
「アサミ、今度一緒に麗子さんのところに行こう。本当にすごいのよ、なんだか身
体が軽くなって、そのままどこへでも飛んでいけそうな気分になれるの。この気持ち
をあなたにも味わってもらいたいの、私だけそんな気持ちでいるのが、惜しい位なの、
あなたにもそれを知って欲しいのよ」
「それは、良かったわ」アサミはそう言うと、少し考えてからつけ加えた。
「悪いけど。私はその人と会おうとは思わない。うまく言えないけれど。なんてい
うか、私は、その人に感動させて欲しくはない。うーん、よくわからないけれど、一
時的にその人のすばらしさを感じたとしても、私自身は、変われない気がするの。う
ん、変われなくてもいいし、変わりたくないと思っているのよ。そう、人から何かを
もらうより、すでに私の中にあるものを育んでいきたいだけなの。麗子さんだからそ
う思うんじゃない、誰かがそんな話をしてきしても、私はそう答えると思うわ」
「麗子さんは宗教じゃない、ただ私たちを治そうとしてくれているの。それに、こ
んなに強く引き込まれるのには原因があるのだと言っていた。私は知りたいの。何の
災いがあって、こんな目にあってしまうのか。それを私は知りたいのよ」
「宗教であろうとなかろうと、そんなこと関係ないのよ。ただ、私は誰かにそうい
うふうにして、乱されたくないだけ。ただ、それだけなのよ」
私は溜息をついた。アサミはそれを繕うように話を続けた。
「でも、ナツが元気になって良かったと思っている。これは本当よ。その点では麗
子さんにも感謝している。でも、だからといって、全てを共有できるわけではないの
よ。だから今回は、私はパスするわ、でも、忘れないでね。私はナツの事が大好きだ
から」
深い沈黙が回線を包む。私の気持ちは、アサミに拒否されている。私は、言いよう
のない悲しみに襲われる。
「ねえ、ナツ。モンティの事だけど」
沈黙のあとにアサミがこう言った。
「私ずっと考えていたの。何の災いがあって、モンティがあんなになってしまった
んだろうって。あまりに早く運を使いきってしまったのかなとか、何かにとりつかれ
てしまったのかなとか。でも、そんなふうに、人の死に理由をつけるのは、自分が弱
いしるしなんだと思うようになったの。それは死者にたいして、とっても失礼な事な
のよ。たぶん。みんなただの偶然なの。何が悪いというわけではないの。原因なんて
何もないのよ、悲しいのはしょうがないけれど、哀れむほどの不幸ではないのよ。何
かにとらわれた人間が死ぬのではない。とらわれているのは、生きている人間の、た
だの弱い心だけなのよ。私、今はそう思っているの」
「そうよ、私は弱いからとらわれてしまっているのよ。だから、そんな自分を変え
たいの。アサミには一郎がいるから。もっと自分を変えたいって気持ちがうまれない
のよ。私には何もない。自分自身を愛する自分さえもいないの。だから、私は変わり
たいと思う。こんな気持ちはアサミにはわからないのよ」
深い溜息。
「それじゃ、私は何も言えないわ。でも、私はナツが好き。それだけはけっして忘
れないでね」
アサミはそう言って電話を切った。
私は今衝動的に言った言葉を反復する。
そう、自分自身を愛している自分がいない。
ネズミの事は好きだと思うが、ネズミの事を愛している自分自身を愛していない。
だから、ひとつの言葉で否定される事で、全てが揺らいでしまうのだ。
奈落、という言葉を思い浮かべる。
奈落の底に突き落とされた気分だ。
麗子さんは、確かに幻想なのかもしれない。
だから、のっかるの事ができたとしても、何かのきっかけでそこから振り落とされ
てゆく。
現実から振り落とされたよりもずっと激しいそのリバウンドに、私は身もだえする。
自分を信じずに、自分以外のものを信じようとした罰だ。
あえぎ、苦しみ、やがて空虚が襲ってくる。
私はうつろになる。うつろに膝をかかえて、心が石のようになる。
ひとりで石になり、冷たい汗を、身体いっぱいにかいていく。
ドアが開いた。
キャスターマイルドを持ったネズミが、私の前に立ちはだかった。
「やっと自分を決めることができた。ナツ、ふたりで暗闇から抜け出そう、麗子さ
んの言うように、お義父さまの所へ行こう。そこで、きっと元気になろう。それが、
一番いいんだ」
ネズミは私の手を握る。
だが、すでに私の体温は、どこか遠くの場所に抜け落ちてしまっていた。
「どうして、一緒に行かないんだ、麗子さんがきたときは、ナツだってそのつもり
だったんだろう?」
ネズミが言う。
あの日から、もう何度も繰り返し、この言葉を浴びせられている。
だが、身体は石のままだ。けっして動かない。心は、何ものにも揺り動かせられな
い。
ネズミの指が、私の肩にかかる。
「な、一緒に行こうよ、このままここにいても、どうしようもないんだから」
私は目を伏せる。否定する言葉を言う気力もなくなってしまっている。
その指が、肩を激しく揺さぶる。
身体は揺れるが、身体の芯がけっして揺れない。
耳に聞こえるその言葉は、認識できるけれど、はるか遠くで発せられているような
ものにしか思えない。
いつか雑誌で読んだ、ダイエットのリバウンド効果の話を私は何となく思い出して
いた。
必死の思いでダイエットしても、身体はまたもとの栄養を欲しがる。もとに戻ろう
戻ろうと食べ物を欲した結果、身体はダイエット以前の体重を上回ることになる。
今の私と同じだ。なんとか麗子さんにしがみつこうとした結果、もとの自分以上に
どうしようもない自分を抱え込んでしまっている。
自分の愛していない自分。もうひとりの自分でもなんでもない。たったひとりの自
分。その事がより一層私を空虚にした。
私は、ただひたすら、石になるしかなかった。
ネズミはそんな私を罵倒したりなだめすかしたりして、腰をあげさせようとした。
自分一人でお義父様の所へ行っても何にもならない。ナツと一緒に治さなければ意
味がないのだとも言った。
だけどもけっして、言い争いにはならない。
私はいつもあいまいにうなづくだけ。それでも私は、この場所からどうしても、動
く事ができなかった。
そんな ある日、麗子さんから電話があった。
電話口にでたネズミがしきりに、はい、という言葉を繰り返し、電話が切れたあと
に彼が言った。
「来週お義父様の会の研修会があるんだ。泊まり込みの研修。絶対にいく価値があ
るって麗子さんが言ってた。ナツとふたりで来て欲しいって。行こう、ナツ。もう、
待てないんだ、一緒にいこう。いつまでこのまましておくつもりだ」
言葉が出ない。
そんな私をネズミは力強く抱きしめた。
「おれは、駄目なんだ。ナツが一緒じゃないと駄目なんだ。おれ、ひとりじゃ、何
も出来ない。ナツが一緒にいて、一緒に感動してくれないと、何も出来ないんだ。お
れは自分に自信がない。自分でこれが正しいと思っても、ナツに、正しいと思っても
らわないと、絶対に正しいとは思えないんだ」
彼もまた、自分自身の愛し方を知らないのだ。自分の心の欲するものでさえも、信
じられないかわいそうな人間。だがそれは、私だって一緒、なのだから。
肩に回したネズミの腕が小さく震えていた。小刻みの、微妙な振動。ネズミは泣い
ていた。隠そうともせずに、流れるままにまかされたネズミの涙。
その涙が悲しくて、私も泣いた。
ぼろぼろと、あふれるものをこらえきれずに泣いた。
だけども、それでも何も言えない。一緒に行こうとも、けっして言えない。
ああ、なんて女だ、私は。
なんて、くだらない、なんて、最低の女だ。
私たちはただ、ふたりで抱き合って泣く事しかできなかった。
何も言えぬまま、長いこと泣いて、泣きつかれて、ぼろぼろになって二人で眠りに
落ちると、麗子さんが現れた。
暗闇のなかにいるのに、麗子さんの顔は、くっきりと輝いていた。
部屋の中だと思っていたけれど、しばらくしてそれが、私の夢の中だという事に気
づく。
あいかわらずきれいな顔だ。くっきりとした、自信ありげな顔。その顔いっぱいに
微笑みを浮かべて、麗子さんは言った。
「ネズミは悲しんでいるわ、ずっと一緒にいるあなたなら、痛いほどわかるわよね。
なのに、なぜ、ネズミと一緒にお義父様のところへ行かないの」
柔らかく、優しい声。それは、自分の愛する子供を心配する、母親の声のように甘
美だった。
「前にも言ったわよね。信じなきゃだめなのよ。疑いの気持ちもためらいも全て捨
てて、私たちの胸に飛び込むの。そうしてくれさえすれば、いつだってあなたを救っ
てあげる自信があるの。それが私たちの力なのよ。さあ、何も考えずに、こっちにい
らっしゃい」
麗子さんが私の手を引いた。
その手の冷たさに、私は悲鳴をあげそうになった。氷のように冷たい。ひんやり、
なんてものではない。冷たさが痛さに変わるほどの冷たさだったのだ。
そうして、張り付いた氷のようにその手が離れない。振りほどこうともがくが、麗
子さんは強く引っ張る。
私は身体ごと、そっちへ追いやられる。
駄目。拒否しなければ。
そう思うが、みるみるうちに身体の力が抜けていく。
いや、やめて。
そう叫びたい。
だけど、言葉の代わりに、無意味な空気が、口からひゅーひゅーと漏れるだけだ。
いつしか唇も動かなくなった。
力はすべて抜け落ちた。
麗子さんのパワーの前にひれ伏すしかない。
そう思うと、緊張も恐怖もすべてなくなった。
ああ、降伏するというのは、こういう事か、とぼんやりと思った。
絶対に勝てないものの前にひれ伏す、あきらめにも似た心地よさ。
その脱力した心地よさに身体が包まれていく。
そうか、やっぱりこうなってしまうんだな、私はおぼろげながらそう思う。
連れていってくれるなら、それでもいい。自分で決められなかったから、麗子さん
がこう決めたんだ。
ネズミだって、喜ぶだろう。
彼と私はそこで、安楽を見い出せるのかもしれない。
そんな事を考えながら、私は麗子さんに引っぱられていった。
その時。
遠くから声が聞こえた。
「やめなさいよ!」
女の子の声。女性ではない、小さな女の子。その子の声が叫んだ。
「卑怯よ。眠っているんだから、抵抗できるわけないじゃない。そんなところへ入
りこんで、勝手に連れていくなんて、あなたとっても卑怯だわ」
麗子さんが立ち止まる。かっと目を開いて。鬼のような目をして。彼女は言った。
「邪魔しないで。彼女は自分でついてきているだけなのよ」
「眠っているから抵抗できなかっただけじゃない。自分の能力をそんな事に使うな
んて、あなた、最低だわ」
「何を!」
麗子さんが叫んだ。
女の子は、私たちの前に仁王立ちしている。
その子に私を奪われまいと、麗子さんの手が私に巻きついた。蛇の手だ。いや、手、
ではない。麗子さん自体が、大蛇になって私をとりかこんでいる。
冷えるような、冷たいうろこの感触。
ぞっとして、身体がすくみあがる。
それを待っていたかのように、女の子が叫んだ。
「ナツ、拒絶しなさい、身体中の力を振り絞って、いやって叫ぶの。そうしないと
あなた、このまま取り込まれてしまうわ」
大蛇は女の子にとびかかった。大きな口が、首筋へと襲いかかる。
女の子はその口を離そうとする。駄目だ。大きさが、まるで違う。
女の子が呻く。とても苦しげに。
それを麗子さんが見逃すわけがない。
今度は女の子に大蛇が巻きついた。首を締め上げられ、女の子の身体が宙に浮いて
いる。
私の声はすくんでいる。
何もできない、彼女を助けられない。
呆然とする。
「ナツ、何しているの。あなたの意思が必要なのよ、あなたが拒絶するの、はやく、
声をあげなさい、嫌だって言うの、身体全体で拒絶するのよ」
意思よ、戻れ。
本当の私の気持ちよ、私の中に戻れ。
麗子さんの声が、それを遮る。
「あなたは、私と行くのよ。もう決めたんだから、それでいいの」
「違うわ、ナツ。ナツ、今しかないの。このままじゃ一生、自分の言葉が話せなく
なるのよ」
意思よ、戻れ。
言葉よ、心の奥から、沸き上がれ。
身体全体の力を振り絞って、その力をぶつけろ。
そうしてやっと、激しい言葉が炎のように私の口から飛び出した。
「いや! いやよお。私は、行かない。ここにいる。絶対に行かない。その子を離
して、離してちょうだい」
大蛇がこっちを振り返る。
そこに一瞬のすきが生まれた。
女の子がなにか叫んだ。聞いたこともない呪文だ。
そうして、その両手が大蛇を突く。
激しい閃光が飛び散る。
女の子の身体から、狂った花火のように、いくつもの閃光が発射される。
大蛇は、怒りと苦しさにのたうち回っている。
だが、それでも女の子の身体を離さない。
それを見て私には、言いようのない怒りがこみあげてきた。
ためらいの気持ちも、もう今はない。
その言葉を爆弾のように大蛇にあびせる。
「消えて、麗子さん、消えなさい。あなたには、ついていかない。あなたを憎んで
いる。あなたの力なんていらない。私の前から消えて、消えてなくなるのよ!」
女の子の身体が、その言葉にフュージョンした。
身体全体から、激しい火花を放出する。
大蛇はのたうちまわった。
大きな身体をくねらせて、世界中の景色をうねらせるほど激しく。
苦しさにおおきく開かれた口に、女の子の砲弾が激しくぶつかる。
火花が飛び散る。
大きな爆発音。
衝撃に大地が揺れる。
大蛇の身体がふっ飛び、破片が飛び散った。
ばらばらと音をたて、いくつもの破片が飛び散っていった。
終わった。
大蛇は消えた。
女の子は、それを確認すると、ほうっと肩で息をついた。
そうして、そのまま。
すうっと、私の視界から消えていった。
朝はとても静かにやってきた。
あの、恐ろしい夢の出来事がまるで嘘みたいに。
現実の世とは、こんなに静かなものなのかと、改めて驚かされた朝だった。
となりにネズミの姿はない。
少し部屋を見回してみると、台所から、かすかな物音が聞こえてきた。
彼は自分の歯ブラシとコップを持ってこの部屋に戻ってくる。そうしてそれをゆっ
くりと、自分の鞄につめこんだ。
私が目覚めた事に気付いて、ちらりとこちらを見たが、咎められたくない、とでも
いうようにそのまま目をそらす。
きっとこのまま出ていくのだ。麗子さんを頼り、お義父様のもとへ行き、そのまま
ここへは戻ってこないつもりなのだ。
それはもう、けっして止められない。昨日までのやりとりで、もうすでに決まって
しまった事。
そして私も、けっしてついては行かない。
あの激しい状況のなかで、私はきっちりと決めたのだから。もう、変える事なんて
絶対できはないのだ。
私と顔を合わさないようにしながら、ネズミはもくもくと支度をした。その動作が
少しスローモーションに見える。
私が何か言葉を発するのを、彼はひそかに期待していたのかもしれない。
だが私は何も言えない。
そうしてそのうちにすべての準備が終わる。
ネズミは玄関に立った。
ハイカットのスニーカーの靴紐を結び、鞄を持って、ネズミがもう一度私を見る。
悲しそうな目。まぶたが赤く腫れ上がっている。
だが、それはほんの数秒かぎりだ。口元をきりりと結んだままの私に、すべてを見
限ったネズミは、ドアノブを回して外に出る。
ドアががちゃんと音を立てて閉まった。
それで全てが終わった。
緊張がほどけ、私の頬に涙が流れた。
後悔のしようもない。私はこの決断しかできなかったのだから。そんなふうに私の
意思はすでに決まっていたのだから。
こんなふうになるしかなかったのだ。
そう思いながらも私は、ネズミを失った悲しさに、たくさんの涙を流した。
しばらくして冷蔵庫にぶどうを冷やしていたのを思い出した。
これを朝ごはんにしようと思い、取り出して、冷水で洗う。
身体中がからからに乾いていた。ひとくち食べると、枯れ上がった地面のように、
その水分を吸収した。
不思議なものだ。
悲しくっても、お腹は減るし喉も乾く。あの夢のせいで喉がからからだったから、
一粒食べるごとに、その水分は、身体のなかに完璧に染み込んだ。いくつか食べると、
生気が戻ってくるような気がした。
大丈夫、そんなに落ち込んでいない。身体の中が潤っている。
大丈夫。きっとこれからはうまくやれる。私は自分にそう言い聞かせた。
それにしても、あの女の子はいったい誰なのだろう。
私は最初、あれはアサミだと思った。
だが、アサミは一重まぶたの涼しい目を持っている。一方女の子は、くりんとした
大きな目が特徴的だった。大きな目に、ふわりとウェーブがかかった、くせの強い髪。
ずっと昔に会った事があるような気もするが、どうしても思い出せない。
だが、記憶の糸をたどるには、少々疲れ過ぎている。どうしようもない。
結局その日は、ネズミの残していった煙草を吸ってみたり、テレビのワイドショー
を見たりしながら夕方まで過ごした。
日が陰る頃に、玄関のチャイムがなり、そのときはじめて部屋の外にでた。
そうして、そこに立っていた女性の姿を見てはじめて、私は、あれが誰であるかに
気付いたのだ。
「おねえちゃん」
彼女は消え入りそうな小さな声でそう言った。
妹だ。実家で母と暮らしている、ふたつ年下の妹。
そう、すっかり忘れていた。あの目、あのくせっ毛。あれは小さい頃の妹の姿だっ
たのだ。
「ゆか。あんただったのね。今、気付いた」
「心配したの、おねえちゃんが行ってしまっていたら、どうしようって思ったの」
「行くわけないじゃない、あんたが助けてくれたんだから。だから、私は行かない
ですんだのよ」
私は妹を中に入れて、テーブルに座らせた。
彼女は、何から話せばいいのかよくわからない、と言いながら、とつとつと話を始
めた。
「なかなか電話か通じなくって、それで心配になってアサミさんのところにかけて
みたの。そうしたら、麗子さんっていう人の事を教えてくれて。私じゃどうにもでき
ないって、アサミさんは言ったの。でも、あなただったら、なんとかできるかもしれ
ないって」
ゆかは、泣きそうな、小さな声で話をすすめていく。
昔っから変わらない。引っ込み思案で人前で話す事が苦手だった妹。学校を卒業し
ても、親元から離れず、市役所の臨時バイトをして、小さな町を離れる事もできない
妹。
夢の中で、あれほどの大立ち回りができたのが不思議なくらいなのだ。
「アサミさんは言ったの。私はナツとは違う所に繋がっているから。どうしても助
けになれないんだって。でも、ゆかは血が繋がっているから、もしかしたら根元の部
分で救えるかもしれないって」
「不思議ね、もう、長い事会ってなかったのに。でも本当に助けてもらったんだか
ら。アサミの言うとおりなのかもしれない」
そう言って私は笑った。実を言えば私は、家族に対して強烈な血の繋がりなんて、
感じた事がなかったのだ。
「私ひとりじゃないの。おかあさんが手伝ってくれたのよ」
「え、おかあさんが?」
愕然とした。母との深い関わりというものを持っていなかったから。私の深刻な問
題に、母の名前がでるなんて、思いもしなかったのだ。
「おかあさん、最近ずっとおねえちゃんの事心配してたんだよ。家に帰ってもあん
まり自分の事喋らないから。それで私がその人の事を話したの。おかあさん、絶対行
かせちゃいけないって言ってた。それで、あなたが止めに行きなさいって言ったの。
おねえちゃんの事を考えれば、夢の中でも会えるはずだから。絶対に止めるのよって。
私が力を貸すから、何がなんでも阻止するのよって」
「それだったら、なんで自分で来てくれなかったのかしら」
「私もそう聞いたわ。そしたら、おかあさん、ちょっと寂しそうな顔をしてね。ナ
ツは、ひとりで何でもできる子だったから、私をどうやって頼ったらいいか、わかん
ないんじゃないかって」
そう、なぜか母を頼った記憶はほとんどなかった。だが、多分、頼りたいという気
持ちはあったはずだ。それだけは強烈に覚えている。
「おねえちゃん、おかあさんが悪いんじゃないの」
ゆかの声は今にも泣きそうに震えている。こんな時は必ず、黙り込む子供だったの
に。彼女は今、何かをどうにか伝えようとしているのだ。
「私が引っ込み思案で、いじめられっ子だったから。おかあさんは、私を守るのに
精一杯だったの。だから、おねえちゃんの事まで手がまわらなかったのよ」
いじめられっ子? ゆかが? それは私の記憶から抜け落ちている。それならばど
うして、私はゆかの事も考えず、自分ひとりで遊びまわっていたのだろう。
「私は小学校に入ってすぐ、男の子たちのいじめのターゲットにされていたの。お
ねえちゃんは下校時間が違うから、気付かなくっても当然よね。男の子たちは待ち伏
せして、私の髪をひっぱつたりして、私、いっつも泣きながら家に帰っていた。
いつだったか、学校で栽培していたあさがおの鉢が割られた事があったの。私、全
然身に覚えがないのに。みんな私がやったって言ったのよ。そんな事が日常茶飯事で。
おかあさん、そのたびに学校にあやまりに行ったりしていたの。
今はそんな事はないんだろうけど、その度に、おかあさんは先生に注意されていた。
ゆかは心が弱いから、もっとしっかりさせて下さいって。
大人になってやっと、そんなふうに言った先生が悪いんだって思えるようになった
けれど。あの頃って。子供も親も、先生が絶対みたいなところがあったじゃない。
だから、私たちはそれに甘んじるしかなかったの。
おかあさんは、その分、自分がいるところでは、徹底的に私をかばってくれた。ど
こにも遊びに行けない私を毎日買い物に連れていってくれたし、とちゅうでクラスの
子に会うのをこわがる私の手を最初から最後までずっと握っていてくれた。どんなに
荷物が重たくったって、いっつも片手だけはしっかり私につながせてくれていたの」
自分の思い違いだった記憶がどんどん明らかになる。
私は何も理解せずに、それを怒りのエネルギーに変えていただけなのだ。
「おかあさんは、最近私にこう言うの。ナツも、もう少し甘えさせてあげればよか
ったって。ナツはしっかりしているから大丈夫だと思って、いっつもゆかにかかりっ
きりになっていたから。ナツはきっと寂しかったんだろうって。子供だったら誰だっ
て、親に甘えたいって思うわよねって」
子供の頃、親は、完璧な存在だった。どんなに自分の気持ちが通じなくても通じな
いままに、親は完璧だった。
だけども今、はじめてそうじゃない事に気付く。
完璧でもなんでもない母は、試行錯誤したり、後悔したりしながら、私たちふたり
を育てていったのだ。
私はそれに気付いてはじめて、母を恨む気持ちが薄れていく事に気付いた。
彼女もまた、弱い部分を持っている人間で、その弱い部分と精一杯戦いながら、私
たちを愛してきたのだ。
「でもね」
ゆかは少しふふっと笑うような口調で言った。
「私にとっても、おねえちゃんは完璧な人間だったのよ。おねえちゃんはいつも世
界の先頭に立っていた。いっつも男の子を引き連れて遊びまわっていたし、嫌いな子
やいじめっ子を片っ端からやっつけていった。だから私、おねえちゃんが羨ましくて
たまらなかったのよ」
ゆかは話を続けた。
「私、夢の中で小学生くらいの子供に戻っていたでしょう? それってどうしてな
のかな、って朝起きて考えたの。多分、あの頃が、一番怒りのエネルギーが強かった
んじゃないかなと思って。
なんとか変わりたい自分がいて、その自分が、変わり切れない自分をいっつも激し
く怒っていたの。それでもどうにもできなかったから、その怒りが、きっと胸の中に
強くたまっていたのね。
それに私、多分、あの頃のおねえちゃんみたいになりたかったのよ。あの頃に戻っ
て、おねえちゃんみたいに、自分の考えをまっすぐに信じている子供になりたかった
の。
嬉しかったわ、とっても。だって、本当にそうなれたんだもの。私、そうして麗子
さんをやっつける事ができて、なんだか自信がついたような気がするのよ」
「そんなに私、自分の考えをつきとおす子供だったの?」
「そう。誰がなんと言おうと、絶対に自分を変えなかった。私はそんなおねえちゃ
んを見てきて、それでわかったの。他人が何か言って、それで自分がゆらいでも、本
当の自分は絶対にゆらいじゃいけないんだって。それで私、少しずつ泣かないように
したの。いじめっ子にこびたり、取り入ったりもしなかった。それで苛められる事も
だんだんなくなってきた。もっとも、友達ができるようになるまでは、もっと時間が
かかったけどね」
きれいさっぱり忘れていた。
勇敢で、こわいものがなかった子供時代。
それを覚えていた妹がここにいる。
私の大切にしていたものを、しっかりと自分の胸にしまいこんで、ぼろぼろになっ
てしまった私の前に、もう一度とりだしてくれた妹。
まったく色あせていない宝物を、もう一度私に見せてくれた妹。
胸の中の空洞に、何かが、ぴったりと収まった。
「私ね。おねえちゃん。赤ちゃんができたんだよ。それでもうすぐ結婚するの。バ
イトしている市役所の職員の人と。
おかあさん、最初はびっくりしたけれど、とっても喜んでくれた。なんにもできな
かったゆかが、自分で相手見つけてくるなんて思いもしなかったって。
私、本当は赤ちゃんなんて育てられるかなって心配だったのよ。でも実際にお腹の
中にいると思うと、不思議なものね、すっごく勇気が湧いてくるの。たしかに私、い
じめられて嫌な思いもしたけど、人生それだけじゃないんだって。いい人にもめぐり
あえたし、おねえちゃんのおかげで、すごい体験もできたし。なかなか捨てたもんじ
ゃないよ、けっこういい事あるもんよって、赤ちゃんにしっかり伝えたいなって思っ
ているの。
今ならわかるけど。おかあさんもきっとこんな気持ちだったのね。
お腹の中にいるときから、子供を愛して。毎日毎日、成長していくのをすっごく楽
しみにしていて。だけど私たちは、毎日の生活に一生懸命で、それにうまく気付いて
あげる事ができなかっただけなのよ。
本当。今になってすっごくわかるの。おかあさん、私たちの事をすごく愛していた
んだって」
氷が溶けた。
心の中に昔から固まっていた、中心にある氷がじわりと溶けた。
凍り付いていた事さえ忘れるほど、ずっと昔からそこにあった氷が。
やさしい言葉のシャワーを浴びて、ゆっくりと溶けていった。
「ねえ、ゆか。今でも本当に、おかあさんは、私を愛しているのかしら?」
確かめたい気持ちでもう一度尋ねる。
ゆかは天使のように柔らかい微笑みを浮かべ、こう言った。
「もちろんよ。おかあさんは、今でもずっと、おねえちゃんの事を愛している。離
れていても、心が通じないときがあっても、ずっとずっと愛している。おかあさんは
いつも、おねえちゃんの事を愛しているのよ」
ゆかもまた、自分の子供にそう言い聞かせるのだろう。子供が自分の道を誤った時
や悲しい時に、彼女はきっと自信たっぷりにそう言って聞かせるのだろう。
私はその言葉をかみしめているうちに、いろんな事がわかってきた。
そう。いろんな人が私を愛してくれていたのだ。
私がただ、それに気付かなかっただけなのだ。
タカダヨシオも。
会った事すらなかったモンティも。
アサミも。
ずっと私の事を心配して、愛してくれていたのだ。そう、アサミは、ナツの事が好
きとずっと伝えてくれていたのに。
私はその言葉の意味を、ずっとわからないままだったのだ。
ネズミは?
ネズミも私を愛していたのだろうか?
ネズミもまた、愛してくれていたのかもしれない。今となってはそれに応える事も
できないけれど。
いつかきっと、何もかも解決するだろう。その時もう一度会えたらいいね。
私はネズミの心にそう呼びかけた。
「そう、ゆか。アサミのところへ行こう」
今、すぐにアサミに会いたかった。
「お礼もいいたいし、それにあやまりたいの。ゆか、これから、アサミのところへ
行こう」
私が立ち上がろうとすると、ゆかは、落ち着いてとでも言うかのように、私の腕を
握り締めた。
「アサミさん、外で待ってるよ」
「え?」
「近くの三角公園で、おねえちゃんの事、待ってるの。どれだけ時間がかかっても
いいから。話が終わったら呼びにきてって。自分のうちにいてもよかったのに、よっ
ぽど、おねえちゃんが心配だったのね」
「行こう、すぐ」
サンダルを履いて、私たちは外にでた。
夕暮れがきらきらしていた。
街中が金色に輝いている。
住宅街の小さな道路をいくつか横切ったところにある小さな公園。
そこまでの道を私たちは、少し急ぎ足に歩いた。
息がはずんだ。急ぎ足のせいだけではない。心がはやって、伝えたい言葉があふれ
そうになり、それで息がはずんだ。
ただ、こうして息をはずませて歩く事が、なんてすごい事なんだろうと思い、深く
息を吸い込んだ。
繋がっている。
世界と繋がっている。
それを生まれてはじめて、身体全体で感じた。
「ねえ、ゆか。おかあさんって、麗子さんみたいな、何かの力を持ってる人なの?」
夢の中でゆかに力を貸したという話を思いだし、ふと、ゆかに尋ねてみる。
「うーん、そんなんじゃないと思うよ。でも、少しくらいはあるかもしれない。も
っとも、家族をがちょっといい思いできるくらいの、その程度の力よね。歳末の福引
の事、おねえちゃん、覚えてる?」
記憶がよみがえった。
歳末の商店街の福引の券がたまると、母は、私とゆかに半分ずつ引かせていた。は
ずればかりの私たちを見かねて、母は最後の一枚だけを自分の手で引く。
するといつも、おかしや、商品券などのちょっとしたものが当たっていたのだ。
「私はあの、大きなクッキーの缶がいちばん嬉しかったわ。おねえちゃんと取り合
いして、ふたりで持ったよね」
「覚えてる。大きな箱で、両手で持つと歩くのがやっとだったよね」
あの時は帰り道すがら、たくさん雪が降ってきた。
とても寒い日で、クッキーの缶の上に、溶けきれない雪がうっすらと積もった。
おそらく傘も持っていなかったから、クッキーを持つ手は、とても冷たかったにち
がいない。
ゆかとふたりで、大事に運んだクッキーの缶。そのうえに積もってゆく、思いがけ
ないクリスマスの雪。
記憶の中で、あの雪は、確かにあたたかかった。
家族の心の繋がりのように、白く、ふんわりとしてあたたかかった。
私の記憶が戻っていく。
家族や、妹に愛されていたあの瞬間。
降り積もる雪さえも、あたたかかったあの瞬間。
もう、きっと忘れない。
そうすれば、何も見失わないだろう。
まわりの人の心に耳をふさぐ事もないだろう。
なにもかもが、また、あの雪のように、あたたかく感じられるだろう。
三角公園にたどりつく。
アサミは少しうつむきかげんに、ブランコをこいでいる。
「アサミ」
私の声を聞き、彼女は理解する。
そう、私たちの世界は、ふたたび繋がったのだ。
アサミは顔をあげて振り向き、そして微笑む。
その顔には、夕暮れの最後の陽の光が、あの時の雪のようにきらきらと降りそそい
でいた。
(完)