あたたかな雪・
第一章
こがゆき
こんなに大変だとは思わなかった。
大人になって生活する事が。
こんなにつらくて厳しいとは。
子どもの頃は、想像もしなかった。
今日は天気がいいから、洗濯をした。三日ぶりだけど、ひとりだからそんなにたい
した量じゃない。それをハンガーにかけて部屋の中に干した。
外でお日様にあてたら、パリパリに乾いて気持ちいいだろうなと思う。だけどそれ
だと、出かける時にまた、部屋に入れなくちゃならない。それもめんどうだ。窓ごし
でもいい。日光にあてられるだけましだ、そう思う事にした。
簡単に掃除機をかけて、早めの夕御飯を食べて、仕事へいく準備する。服を着替え
て、化粧をして、それだけでへとへとだ。もうそれで一日が終わってほしいと思う。
それくらいに気力が失せている。
だけども、そんな事では一日は終わらない。
わかっているけれど、めんどうでしょうがない。
やりたくなくてもやらなくちゃいけない事ばかりがこの世にはあふれている。
小さい頃はそうは思えなかった。
大人たちは、もっと黙々と自分の仕事をこなしていた。時には不平を言ったかもし
れないが、少なくとも子どもの耳には届かなかった。そのうえ、大人たちは自信にあ
ふれていた。子どもの私よりももっと、いろんな事ができるという自信。自分でお金
を稼いで、自分で生活をしているという自信。
それが羨ましくて、はやく大人になりたいと思っていた。
だけども、実際は全然違う。
私にはつらいことばかりだ。毎日決まった時間に仕事に行く事もごはんを用意して
食べる事も、ひとりでテレビを見ながら寝る事もみんな、つらくて面倒くさくてしょ
うがない。
それでも、何もしないでいるわけにはいかない。ただ、しぶしぶとそんな生活を続
ける。いやいややるから、よけいに疲れる。
毎日がただ、そんなふうにして過ぎていく。
バスに乗り、仕事に出かける。
夕方の五時すぎ。普通の人たちの仕事が終わるくらいの時間だ。繁華街のなかのお
店。この時間から賑わってくるような、歓楽街の角地。私はそのフラワーショップで、
遅い閉店の時間まではたらいている。
エプロンをつけて店先に出るが、心の焦点がちっとも定まらない。夜明け前に働き
始めたように、体がぼうっとしている。早番の女の子は、帰り際にこう教えてくれた。
いそがしそうよ、今日開店のお店がいくつかあるんだって。店長は配達ばかりよ、
きっと。大安かなんかで、すっごく日がいいだって。
そうするとお店は私ひとりになる。お客が重なったら結構大変だ。だけど、一人の
方がめんどうは少ない、気をつかわなくてすむ。その分だけ楽かもしれない。
じゃ、がんばってね、女の子はそう言って大通りの方へ向かった。店長は奥で、配
達用の花束をこしらえている。私は、店先の、花の入った大きなバケツを、きれいに
揃えながら並び替えた。
空を見上げる。
ここで働くようになってから、夕刻に空を見上げるのが習慣なった。働き始めた頃
はまだ夏の終わりで、いつまでも西日が店の前できらきらしていた。明るいうちに会
社がひけて、飲みに来る人たちは、ゆったりと幸せそうだった。
今はもう、この時間には太陽が沈む。きっちりとした真っ黒な闇ではないが、うっ
すら空の色が濃くなっている。
私はその空の色を見るといつも、小さい頃に見たゴジラの夢を思いだした。
幼い頃の私は、よく怖い夢を見た。怪獣や強盗やわけの分からない人間が、しょっ
ちゅう私を追いかけてきた。その中でも一番恐ろしかったのが、ゴジラだ。
ゴジラはいつも、こんな夕暮れにやってきた。私はなぜか、ひとりでそこにいる。
ビルを踏みつぶし、ゴジラは私に向かって歩いてくる。誰もいない。私だけが、逃げ
る事もできずにそこに、うずくまる。助けを呼ばなければ、そう思って声を絞りあげ
るのに、どうしても声がでない。思いきって息を吐くのに、声にはならずに空気だけ
がヒューヒューと音をたてる。怖くてしかたない。私はなぜかそばに落ちていたクッ
ションを頭にかぶり、ゴジラから身を隠す。そんなもので隠れられるわけはない、だ
けどなぜか、ゴジラは私を一瞥すると、そのまま遠くへ行ってしまった。
私は夢の中でひとつの結論をだす。
ゴジラは、きっとクッションが嫌いなのだ。
それからほっと、安堵の溜息をつく。だけどもけっして、恐怖感を拭い去る事はで
きない。
私は目が覚めている時もずっと、いつかこんなふうに襲われるのではないかと、い
つもびくびくしていた。いつか、怪獣や地震や、予想も付かない天災がおこり、自分
が虫けらのように死んでしまう。そんな恐怖感をいつも胸に抱いていた。
その恐怖感をある程度克服したのは、学校にあがって少しずつ知識を身につけてか
らだ。私は、今の世界にはテレビに出てくるような怪獣が、ほぼ百パーセント存在し
ない事を知った。地震や火事や飛行機事故は、そう簡単に起こるものではない。普通
に生活してい人間がそんな目に遭う確率はきわめて低い、それもだんだんわかってき
た。それで私は少しずつ、恐怖感から解放されていった。
それでもこうして夕暮れの空を見るたびに私は、ゴジラの事を思い出す。あっちか
ら来たぞと誰かが叫べば、それを信じて逃げ出すかもしれない。ある程度の恐怖感を
知識が打ち消したとしても、原始的な怖さは、大人になっても、いつまでも残ってい
る。
大丈夫、そんな事はない、怪獣なんて本当はいないんだから。
あのころ呪文のようにとなえていた言葉を心の中で繰り返した。その言葉に昔のよ
うに切実な響きは、今はない。それでも私はお守りのようにその言葉を抱えている。
いつか、耐えられないほどの恐怖にあった時、その言葉にしがみつけるように。
それから何人かの客が花を見つくろいはじめて、私は考えるのをやめた。早番の子
の予想どおり、店はとても忙しくなった。
今日開店したお店のママは、たくさんのお客を持っている人なのだろう。開店祝い
にと、何人かの男のグループが花を買っていった。それから結婚退社の女の子に贈る
送別会の花、誕生祝いやプレゼントの花、親しく声をかける近所の常連さんもきた。
時々来ては小さな花束を買って行く、若い男の子もきた。
私はてきぱきと予算にあわせて花束を作る。きれいにできた花束を見ると、誰もが
顔をほころばせる。それはとっても嬉しい。人を幸せにできる仕事、それはとっても
いい仕事だ。だけど、だからといって私が幸せなわけじゃない。その事がときどき、
とても理不尽に思える。
十二時すぎにお店をでると、体はくたくただった。地下鉄はまだ動いている。それ
に乗って駅から少しの距離を歩き、それで一日が終わる。今日も仕事の人としか話さ
なかった。そう思ったらがっくり疲れた。
ただこれだけで一日が終わるなんて。大人の世界は想像以上に、簡単に、むなしく
できている。
家に帰ると留守番電話のメッセージが点滅していた。アサミからだ。眠そうな声を
している。私が帰るのを待ちきれずにメッセージだけ入れて寝てしまったらしい。そ
んな感じの声だった。
アサミは朝が早い。結婚したばかりの彼女は、毎朝お弁当を作る。朝ご飯だっても
ちろん、私の三倍くらいきちんと作る。昔みたいな夜更かしはあまりしない、だけど
私のことは気にかけてくれる、それがとても嬉しい。アサミは手紙でも読むように、
留守電の向こうでこう言った。
ナツ、元気でやってる? 私、昼間は何にもしていないから、結構退屈しています。
仕事辞めたときはほっとしたけど、一日家にいても、する事なくって。それでさ、明
日お昼過ぎに遊びに行こうと思うの。だから、出かけないでね。もし都合が悪い時は、
電話して下さい。じゃあ、明日会うということで。バイバイ。
都合が悪い事なんてない。仕事以外にする事もないし、会う人もいないんだから。
友達の声を聞く事すら久しぶりだったくらいだ。
アサミのハスキーで眠そうな声は、やさしい子守歌みたいだった。その優しい囁き
で、少し疲れが癒される。
とりあえず、明日はいい。明日はこんなにつまらなくはないだろう。そう思うと、
ずいぶん気分がよくなった。今日はいつもみたいな嫌な気持ちでベッドにはいらなく
てすむ。それだけでも私には、大きな救いだった。
ここ半年の間に、私は二人の男と別れた。
一人は生き別れで、一人は死に別れだ。
だけども、生きていても死んでしまっても、私にとっては変わりはない。これから
さき、二度と会わないという意味では、どちらも一緒だからだ。
二度と会わないということを考えると、不思議な気持ちになる。
同じ地球上に存在していて二度と会わない。偶然に会ってもけっして言葉を交わさ
ない。そう決意して、目の前にいる人と別れる。それは、悲しいというよりも、不思
議な体験だった。本当にそんな事が可能なのだろうか?
そうしてもう一人の男は死んだ。もう同じ場所に存在しない。会いたいと思っても
二度と会えない。その抜け落ちたような感覚で、私は身体中の力がなくなった。自分
の心の中にブラックホールができる。なんにもない場所。なにものにも埋められない
場所。そのブラックホールはけっして消滅しない。今も心の中にあって、踏み込めな
い場所として今も存在している。
生き別れたのは、タカダヨシオという男だった。
彼は、私が以前勤めていた会社の上司だ。やり手ではないが、女の子に陰口を叩か
れる事もない。害にならない人間だが、特に注目を浴びる存在でもなかった。
一度会社のみんなと飲みに行って、映画の話で盛り上がった事があった。その時映
画に詳しい彼は突然雄弁になり、話の中心になった。女子社員たちが、彼の話にうな
づく。私もその一人だった。最新の映画について解説する彼に、私も見てみたいとか、
そんな事を言ったかもしれない。とにかく酒の席の事で、そのあたりの記憶もあやふ
やなのだ。
それから彼は、その映画に私を誘った。とまどいもあったが、断る理由なんてなか
った。
そうして私たちは、週に一度は映画館に足を運ぶ事になる。
私たちは、ミニシアターからリバイバルまで、本当にいろんな映画を見た。彼が見
ようという映画はすべていい映画だった。遅い夕食を食べながら映画の話をすると、
心の中の感情がすべて、言葉に変わっていくような心地よさを感じた。
彼には妻と二人の女の子がいた。その事は知っていたが、悪い事をしているという
気持ちはなかった。映画を見て、話をするだけ。やましい事なんて本当になかったの
だから。
そんなつきあいを半年続けて、少しずつ微妙な食い違いが生まれてきた。だんだん
私は、自分の言葉で自分の気持ちを話したくなってきたのだ。
私が言いたいのは些細な事だった。タカダヨシオの喋っている事とほとんど変わら
ない、だけど、言葉が違ったり、気持ちの入れ方が違ったり、それくらいの微妙な違
いしかない、他愛のない自分の思い入れ。だけども、それを黙殺して、彼の話を聞け
るほど、従順でもなかった。
もっと、たくさんの事を話したい、もっと自分の気持ちを伝えたい。そんな気持ち
がわき水のように自分の中からあふれてくる。だけども、そういう気持ちとは裏腹に、
私はうまくその事をタカダヨシオに伝える事ができなかった。
いつも私が聞き入れ、感心する、そんな関係をずっと続けていたから、私たちは、
私が自分の気持ちを喋る事にさえ、馴れていなかったのだ。
私たちの会話はいつまでもキャッチボールをしない。私の返球はタカダヨシオまで
届かず、目の前に転がる。そのボールはあまりにも遠く、彼はけっしてボールを追い
かけない。私たちは、そこまでだった。その関係を打ち破る力すら持てなかったのだ。
そうしたある日、二人で映画館から出たところを、同僚の女の子に目撃された。誰
も面と向かってその事を聞いたりはしない。冷たい憶測の渦が課内に広まった。
それは予想以上に私を打ちのめした。もっと毅然とできると思っていたのに、私は
参ってしまった。中傷は、言い訳を許さない。その残酷さに耐えるほどの精神力さえ、
私は持ちあわせていなかった。
私はそれで会社をやめた。やめどきだと思った。私たち二人がもうこれ以上どこへ
もいけない事は、二人ともよくわかっていた。なのに噂の中にだけ、ふたりの関係が
息づいている。そんな場所にはいたくなかった。辞めればもっといろいろ憶測が飛び
交うだろう。だけどもそれはいつかは忘れられる。だけども私とタカダヨシオがずっ
と同じ職場にいるとすれば。そのレッテルはけっしてとれる事はない。彼は大丈夫だ、
全てが過去になるまでじつとやり過ごせるはずだ。私は彼の、無頓着とも言うべき強
さをよく知っていた。
上司である彼に退社の挨拶に行った日の事を、よく覚えている。
お世話になりましたで始まる短い挨拶に、彼はこう言った。
「元気でがんばれよ」
たったそれだけだ。だけども私たちは、それで通じた。元気でがんばれ、もう二度
と会わないだろうけど。
多分そんな意味だ。本当に二度と会わないだろう、私もそう思った。それでおしま
いだ。
私はそうして会社を辞め、今は繁華街のフラワーショップで、夜のバイトをしてい
る。
そうして会社を辞めた一ケ月後、モンティが死んだ。
自動車事故だ。だだっぴろい国道のガードレールに彼のフェアレディは激突した。
新聞には飲酒運転の疑いありと書いてあった。自殺かもしれないという人もいたし、
クスリをやっていたという人もいた。多分どれも本当だ。彼がクスリをやっていたと
いうのは公然の事実だったし、とんでもない無謀な行動を目撃したという人も数多く
いた。本当の事はわからない、だが彼は、おそらく、死に急いでいたのだ。
私はモンティと直接話した事は一度もない。だがロックをやっていた彼のCDは私
の宝物だった。コンサートにも何度も足を運んだ。モンティの歌を聴くたびに私は勇
気づけられた。モンティだけが私の生きている意味を知っている。私はそう信じてい
た。
もっともモンティがこの町で歌っていたのは、四年以上前のことだ。私とアサミは、
シティ情報をくまなく探して、コンサートにでかけた。CDは地方で発売されたもの
の、レコードショップの売り上げベストテンに名前をつらねた。彼はメジャーになる
前から、すでにスターだった。
東京でデビューした彼は、そのまま下り坂を転げおちていく。その時の彼はもう、
いい歌を書けなくなってしまっていた。そして歌を聴かせるパワーもなくしてしまっ
ていた。デビューシングルになったドラマの主題歌は話題にすらならなかった。喉の
奥から絞り出すような、あの独特のシャウトもなにもない、暗いメロディのラブソン
グは誰の心もつかめなかった。心の中の宝石を、彼はどこかへ落としてしまったのだ。
それは私にも痛いほどわかった。
二年の後、彼は東京から戻ってくる。だが彼はもう二度と歌わなかった。
彼はこの町で画廊を開いた。彼の父親がその手の仕事をしていて、その関係で手に
入れた仕事だ。モンティ自身の絵もあるという事で、小さな記事にもなった。
私とアサミはもちろん、その画廊にも出かけた。
商店街のすみにあるその店は、とてもひっそりとしていた。モンティの姿もない。
アルバイトの女の子が受け付けで雑誌を読んでいるだけだ。いくつかの展示品に混じ
ってモンティの油絵もあった。ひとりの男が山の上で歌っている。その絵は、私が見
てもわかるくらいにデッサンが狂っていた。なにかを訴えてくる絵ではあったが、そ
れがひしひしと伝わってはこない。芸術は残酷だ。描きたいものがあっても、最低限
の技術がなければ、それすらも伝えられない。モンティの苛立ちは、表現される事も
できずに、そのまま胸の中にわだかまっていくのだ。
「あの、この絵のお値段は?」
アサミが尋ねた。おそらくアルバイトの女の子は、今までに何度もそう聞かれたの
だろう、彼女は雑誌から顔を上げずに、しかも、その絵がどの絵か確かめる事もなく
答えた。
「十万円です」
私たちは外に出た。外の空気が心地よく、そこではじめて中の空気がよどんでいる
事に気づいた。
それからモンティは死んだ。
その日私は、アサミの電話でその事を知った。まだ会社を辞めて間もない頃で、仕
事もなかった私は、一日中家でモンティの事を考えた。
彼は下り坂を転げていくように死んだ。彼が絶頂の時を知り、それが終わった事を
誰もが知っていた。もちろん彼自身もだ。そんな気持ちのまま死んでしまうなんて。
私にはたまらなかった。
昔の、ひとつひとつの歌で私をなぐさめてくれていたモンティでなくてもいい。う
らぶれた画廊のオーナーでも、ただの酔っぱらいでも。モンティが生きていればそれ
だけで、自分を奮い立たせた人間がいた事を感じられた。
でも、もうそれもない。CDを聞いても、そこには遠い世界の歓喜の歌しかなかっ
た。
モンティが激突したガードレールには、たくさんの花があげられ、時にはそこでモ
ンティの歌が歌われた。私も一度だけその場所にいった。花をあげて、手を合わせて、
そこで少しのあいだ雲をながめてきた。五、六人の人がいたが、みんな、空やガード
レールや花束をじっと見ているだけで、何も喋らなかった。
分かち合う事なんてできない。モンティの歌が私に与えたものは特別なものだった
のだから。私にはそう思えた。
誰にも言えない心の中の鬱屈したもの。それをモンティは見つけだし、ひもといて
くれた。それは私だけのものだった。当時同じ会社にいたアサミが、モンティが好き
だと言ったときも、それが私の持つ特別な気持ちと同じだなんてとても思えなかった。
どうしてこんなに私の事がわかるのだろうか、こんな気持ち誰にも話せなかったの
に。そう思ってきた私の大切なものを、人と分かち合えるはずがない。私はそんな気
持ちでその場所を去った。
もっとも、あの場所にいた人たちは多かれ少なかれそんな気持ちだったのだろう。
だから、あんなに長いこと佇んでいたのに、誰ひとり何ひとつ語らなかったのだ。
私はあれからずっと、身体の力が抜けたままだ。時間がいくらたっても回復しない。
いつまでもいつまでも、死んだ人がなぜ戻ってこれないのかを考えている。予想以上
に、死は、私の心に大きな影を落としているのだ。
翌日、笑っていいともが始まって少しくらいして、アサミがやってきた。透明袋に
入ったシャポーのサンドイッチを手に持っている。
なんだかとても食べたくてね、とアサミは言った。よく覚えている。勤めていた時
は、これをよく近くの公園で食べた。余った日には、アサミが上手に鳩に食べさせた。
人間には厳しいが小動物には優しい、私がそういうと、当たってるといって大笑いを
したものだ。
ときにはきつい性格に見えるほどきびきびしていたアサミも、結婚してからはずい
ぶん落ちついた。「リー」のモデルが着ているようなロングスカートに、ブルーのス
トライプのTシャツがよく似合っている。トレードマークだった短めのタイトスカー
トも、会社勤め以外では、あまり役にもたたない。だけど彼女はいつもタイトスカー
ト。そう思いこんでいた私にはちょっと意外だった。
「お弁当作って、旦那を送りだして、そうじと洗濯しても、この時間にはする事が
なくなっちゃうの。仕事やめた時はほっとしたけど、そろそろ退屈してきたわ」
わかる気がする。私はそう言った。私も会社を辞めた時は、何もする事がなくて困
ってしまった。
タカダやモンティの事ばかり思いだして、外に出る気も失せた。かと言って家でで
きる事なんてたかが知れている。フラワーショップに行くようになって、かえってほ
っとしたくらいだ。
「でもナツが元気そうでよかったわ。前に話したときは結構落ち込んでいたから」
「ダブルパンチだったから。かなり堪えた。でも仕事はじめてよかったわ。夜ひと
りでいるのが嫌だったから、夜の仕事で正解だったのかもしれない」
「遅いから大変じゃない?」
「生活のパターンができたから、今はそれほどでもない」
安心した。アサミはそう言って笑った。それから彼女は、一郎から聞いた話なんだ
けど、と切り出した。アサミの旦那の一郎も私たちと同じ職場だった。もちろん私の
一件も、彼はすべて知っている。
「タカダ係長、異動になったんだって。商品開発部に行ったらしいよ」
「それって左遷?」
胸がどきっとした。噂が広がって、とばされたのだろうか。
「左遷ってほどじゃないらしいよ。向こうが欲しがってたんだって。もっとも今度
の事でちょっとぎくしゃくしてたから、この機会にって事だろうけど」
思わぬ波紋に胸が痛くなる。タカダはタカダなりに、それ相応の報いを受けている
のだ。
「それでね、一郎が言ってた。不倫は絶対だめだって。ナツはのめり込みやすいか
ら。ちゃんとした男をみつけろって」
しゅんとなってしまう。いつもアサミと一緒に飲みにつれていってくれていた一郎
の、まっすぐな言い方が目に浮かび、申し訳ないような気分にもなる。
「でもね、ナツ。不倫がしたくてやったわけじゃないんでしょ。だったら私はしょ
うがないと思うんだ」
「そう。でもね、本当に映画見に行ってただけなのよ、もっとマジだったら絶対ア
サミに相談してる。今度の事は、たまたま噂になっただけなのよ」
「運が悪かったのね、おしゃべりな奴に見られて。ま、そういう事もあるよね」
いろんな人にいろんな事を言われて結構堪えていたから、さらりとそう言ったアサ
ミがとても嬉しかった。彼女はいつもそうだ。だからこうして、いつまでも友達でい
られる。
私たちは、テレビをつけっぱなしにして横になって、いろんな事を話した。
ワイドショーに出てくるような噂話とか。友達の消息とか。そんな話をしていて初
めて気づく。私はもう長いこと、誰ともそんな事を話した事がなかったのだ。
「お店関係でいい人なんていないの?」
アサミが思いついたように尋ねた。
「いないね。店長はもうおじさんだし。お客さんは、常連はほとんど水商売だし。
だからダメってわけじゃないけど、みんな派手な感じで、自分がたまらなく地味な女
に見えちゃうのよ」
「ちょっとノリが違うんだね。普通の若い男の子なんて来ないの? そうか、花屋
さんだからね、そんな人は来ないか」
「うーん。一人だけいるよ。よく花を買いにくる男の子が。それがさ、花を一束と
か買っていくの。彼女にあげるには小さすぎるし。仏壇に供えるような花でもないし。
何に使うのかなっていつも不思議に思ってる」
彼は、私と同じくらいの年で、こざっぱりしたスーツを着ている。服の趣味は悪く
ないが、縁なしの眼鏡をかけた顔は、少し暗そうな感じだ。好みとか、好みじゃない
とかの範疇には入らない。ただ花を買いに来るだけの人、そんな印象しかない。
「ちょっと不思議だね。何なんだろう。でも、案外自分の部屋に飾ったりして。今
は結構きれい好きな人が多いから」
「そんなところだろうね」
店に来る人の事を詮索するなんて、いい趣味じゃない。ちょっと悪かったかなとも
思ったが、すぐにその事も忘れた。どっちみちあの人と話す事もないだろう。何しろ
花を手にとってお金を払うだけで、ほとんど口を開かないのだから。
少し間を置いて、アサミが言った。
「ナツ、あなたは誰かと一緒にいた方がいいような気がするの」
少ししんみりした声。そんな声で言わないでって言いたくなるような声だった。
「世の中には結婚しない人だっているし、恋人のいない人だってたくさんいるわ。
それで平気だって人もたくさんいる。でもナツはそうじゃない。あんたは誰かと一緒
にいた方がいいような気がするの。今だってすごくふらふらしてるし、根もとがぐら
ぐらしてる感じなの。一見投げやりじゃないけど、実は投げやりっていうか。どうす
るのが一番いいのかわからないけれど。はやく誰かいい人を見つけて一緒になるのが、
案外一番いい癒し方じゃないかって気がするの」
すべてお見通しだ。痛いところをつかれたと思った。
私は誰かと一緒にいたかった。切実にそう思っていた。
タカダとだって一緒に暮らしていたわけじゃない。その前だってずっとひとりだっ
た。だけども今は一人でいる事がとてもつらい。こんなにつらいと思ったことなんて、
一人暮らしをはじめてから一度だってなかった。
昔は、ひとりなりにもやる事がたくさんあった。アサミとはしょっちゅう一緒に遊
びまわっていたし、一人分の料理を作るのだって大切な仕事だった。クッキングブッ
クを見ながらおいしい料理を作ったり、洗濯したTシャツが真っ白になったりする事
は小さな喜びでもあった。好きなテレビドラマを見る事や、長電話をする事。月のき
れいな晩にコンビニまで散歩して週刊誌を買ってくる事。すべてが思いのままにでき
るこの生活が、楽しくてたまらなかったものだ。
だけども、今になって、それは全て色あせてしまった。
料理も洗濯も苦痛以外の何物でもない。長電話もしなくなったし、仕事のあとで夜
に動きまわる事もなくなった。
ベッドの中でテレビを見て、眠たくなってからテレビを消す。ふらふらに眠たいと
きに起きあがってスイッチを消すといつも、世の中と何のつながりもなくなってしま
ったような気持ちになった。
なんで私のそばにはだれもいないのだろう。このベッドの傍らに誰かがいて、明か
りを消した後でも触れてさえいられれば、私は世界から分断されることはないのに。
私はそう思って手探りをする。その手はいつも空をきるばかりだった。
アサミはそんな私に気づいている。それは、少し気恥ずかしくて惨めな気分でもあ
ったが、それでもほっとするところもないではなかった。
アサミがそんな私を知っているというだけで、私はこうしてここにいられる。
もし誰もそんな私を知らなかったら、私の孤独は今の千倍くらいは深くなっていた
だろう。
私たちはそれ以上この事を話したりはしなかった。深く話したからといって、それ
で何かが変わるわけではない。彼女は私の傷口にそっと手をあてて、そうして離した。
それで十分だ。アサミがここに来た気持ちが、私には通じた。
夕刻になって私たちは地下鉄に乗った。
アサミの家は、お店の少し先の駅だ。途中下車してお花を買うからというので、私
も地下鉄にした。
闇の中を轟音をたてて電車が走る、膨大な音にかき消され、私たちは言葉数は自然
と少なくなっていった。
窓に映る私たちの顔は、証明写真のようだ。ひどくかしこまっている。
小さい頃、映画館に連れていってもらうと、外は大雨がふっているような気がして
いつも不安になった。今だってそうだ。外は大洪水、そんな気持ちにさえなってくる。
窓の外が見えない時の私はいつも、悪い事ばかりを予想する。
「ねえ、ナツ。モンティが死んでどんな感じだった?」
突然アサミが聞いた。私はとまどう。どう、なんだろう。私はとりあえず思った事
を喋ってみる。
「身体の力が抜けた感じ。もう、いないんだって思うと。ぽっかり穴があいたよう
な感じなんだけど、時間がたってもその穴が埋まらないの、ずっとこのままだったら
どうしようって思う。だけど、いつまでたっても穴はぽっかりあいたままなの」
「私は、ストレスがたまっているって感じ、かな」アサミは言った。
「どうにもできないもやもやが出来て、動き回っていてもそれがとれないの。自分
がどうにもできない失敗をやらかして、それがいつまでも修復できないような気分。
私の失敗じゃないって、何度も思うんだけど、どうにかなったかもしれない事が、結
局どうにもならなかったって思うと、とんでもない失敗をやらかしたような気がする
の。それがすごいストレスになっている」
「そう、モンティが死んだのは何かが間違っていたからって気がする。だけどそれ
を元に戻そうにも、モンティを生き返らせる事はできないんだよね。何か方法があり
そうな気がするのに。それが全くないなんて。ひどい事だなって思う」
「私、そういう事に馴れていないのよ、だから、すごく困っているの」
アサミは本当に困ったような顔をしていた。意外だ。私だけの悲しみと自分で決め
つけていたのに、アサミも苦しんでいる。アサミも私と同じようにモンティを愛して
いたのだ。それに今まで気づかなかった自分が申し訳なかった。
「うちって、核家族だし、一人っ子じゃない。離れて暮らしているけれど、おじい
ちゃんもおばあちゃんもまだぴんぴんしてるの。
私が生まれたときから、家族構成は全然変わっていないの。誰ががいなくなったり
とか、そういう体験がないから、人が死ぬって感覚が全くなかったのよ」
「うちも一緒。それに妹がいるだけよ。私、人が死んでも、その悲しさって一週間
くらいでなくなるものだと思っていた。だけど、喪失感ていうか、そんなものが全然
消えないの。そりゃ、最初に比べればずいぶん小さくなっていると思う。でも、白紙
には戻せないの。それで身体の力が入らないままなの」
「わかるわ。元に戻る方法がないって事が、そんなにひどい事だなんて思いもしな
かったのよ」
電車が減速した。駅について階段を上ると、少しほっとした。もとどおりの昼間の
風景に安堵感を覚える。
仕事が始まる。頭を切り替えよう、めずらしくそんなふうに思った。
私が作った百合の花束を抱えて、アサミは駅へ戻った。
私は、反省した。
私はいつも自分だけが不幸だと思っている。自分が何かを強く思えば思うほど、そ
れは自分だけの気持ちだと思ってしまう。
一番信用しているはずのアサミに対しても、本当は気持ちを許していなかった自分
が申し訳なかった。
だけどアサミはノックしてくれた。私の扉を開けようとしてくれた。
その事が本当に、素直に嬉しかった。
(続く)