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「タピオカ」
1 ・ 幸乃(さちの)
ああ、またオットに怒られるなあ。
そう思ったけどオットは怒ってはいなくて、かわりに涙を流していた。
オットである太郎がひとりぼっちの部屋で正座して下を向いて泣いている。
涙はポトポト黒いズボンに水玉模様を作っていたし、鼻水もドボドボ出てて、下を向いているからわからないけど、とても見られた顔ではないと思う。
太郎が悲しんでいるのが悲しかった。
自分がバカなことしたからしょうがないんだけど、なによりも(太郎を悲しませるようなこと)をしてしまったことが悲しかった。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
何度もそうつぶやいたけど、その声さえも太郎には届かない。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
バカなことしてごめんなさい。
でも、ほんと、もう遅いよね。
* * *
その日はチエとフミとカナミで飲みに行った。
ボンジョレーヌーボーの解禁日で、カナミの知っているお店でパーティをやることになっていたのだ。
「というわけで、金曜日の夜はいないから」
と言うと太郎はこう言った。
「いいな、遊ぶばっかで」
「そうね、遊んでくれる友達がいるから、わたし幸せだよ」
「ダメだって言ってもどうせ行くつもりだろ? 気をつけて帰ってこいよ」
毎回、遊びに行くたびにわたしたちが繰り返すのはこんな感じの会話だ。
カナミの家に車を置いて、そこから歩いて「うさぎ」っていう名前のお店までみんなで歩く。
わたしはほとんどお酒が飲めない。だけども仲のいい友達と騒ぐのは大好きだ。 カナミの家から歩いて5分ほどの小さな川に面したバーは、暗すぎないシックな造りでなかなかの雰囲気だった。
「ここさ、お料理もおいしいからおすすめなんだよね」ってフミが言った。
木製の床に心地よく靴の鳴るお店は、解禁日ということで満員だったけれど、フミが首尾よく予約してくれてたおかげでわたしたちは一番奥のテーブルにゆったりとくつろいぐことができた。
最初がカルパッチョで、それからチキンサラダと、チーズとフランスパンの盛り合わせ、あとちょっと辛めのソースをつけた魚のフライ。どれもほんとにおいしかった。
乾杯用のグラスワインはひとくち飲んだ。お日様の味のする甘めのワインだった。
だいたいお酒はこれでストップ、とにかくすぐに酔ってしまうのだ、わたしの場合。
独身のフミとカナミの恋の話を聞いて、どちらもうまく行きそうなのになんで最後のとこでうまく行かないかなあとか思っていると、最近結婚したチエが、たぶん最後の押しが弱いんだよと言い出して、みんなでそれに耳を傾けた。
「男の押しが弱いって言えばそれまでなんだけど、こっちはこっちで押さないとダメなの」
「へえ〜、どういうふうにチエは押したわけ?」
「え〜。具体的にどうってわけじゃないけど、う〜ん」
などとおっとりとチエが言うんでみんなでつついて色々聞きだそうとするけれど、なかなかうまくいかない。
「酒が足りないんだよ、今度はもっと甘くないのをもらおうよ」
フミがそう言ってワインを追加した。
わたしは烏龍茶にしたけれど、みんながおいしいおいしいと言うんでだんだん気になってしまって、チエのワインを一口もらったら、そのおいしいこと!
結局、チエのワインをグラス半分くらいは飲んだんじゃないかと思う。
それからいろんな男のうわさ話とかして、お互いの仕事場の悪口とかも少しして、わたしはこんな友達がいてほんとによかったなあと思った。
結婚してすぐの頃は、太郎がいるあいだくらい家にいないとと思ったけれど、わたしには無理だった。このメンバーの定期的な集まりは、独身の頃から続いていて、次の日にはすっきりといろんなうさが晴れてしまう、そんな集まりがわたしは楽しみで仕方なかったのだ。
カナミは帰る道すがら、大きな声で喋ってかなり酔っぱらっていた。わたしはあまり飲んでないしもちろん正気だったけれど機嫌はよかった。
「もう、泊まっていけばいいじゃ〜ん」とカナミに言われたけれど、車に乗って帰ることにした。
家までは車でも5分、しかもほとんど直線だ。心配するほどの距離ではない。
この前の太郎のボーナスを頭金にして買ったばかりの新しいパープルの車だ。まだちょっと運転には馴れてないけれど、カナミの家を出て大通りに出れば、あとは直線だ。
おっと、信号が赤になる。
ブレーキを踏んだけど、ちょっとブレーキが効くのが遅い気がした。
今になって考えると、ブレーキの効きが悪かったわけではなくて、わたしはあの程度のワインで酔っぱらってしまってたのかもしれない。
青になった。 ここは右折。でも対向車線の車の流れがなかなかとぎれない。
やっと反対側の信号が黄色に変わる頃に急いで右折したけれど、なぜかハンドルまで重たいような気がして、わたしはそのまま歩道の電柱に激突してしまった。
ああ。ヤバイなあ。
車、相当壊れてる。太郎、ぜったい怒るよ。口聞いてくれないだろうな、怒って。
すごく大事にしてたしなあ、新車。
などと運転席でわたしは思っていたけれど、なぜだか動けなくって、眠たくて、少し気持ちいいままで、わたしはそのままふわ〜っと意識がなくなってしまって。
どうやらわたしは、そのまま死んでしまったらしかった。
* * * * * * * * * *
2 ・ カナミ
そっか、やっぱり幸乃は帰るのか、と思った。
太郎がいるからね、昔みたいに泊まったりはしないんだろうな。
いっぱい飲んですごく気分よかったのに、帰ってきたらリビングが散らかってて、朝飲んだコーヒーカップもパンのお皿もテーブルにそのままだった。
おまけに帰ったとたんに気持ち悪くなって、トイレでゲーゲー吐いてしまった。
うすいグレーのワンピースにまでなんか汚いものがついてしまった。それを脱いで床に放って、ついでにシャワー浴びようと思って、下着まで全部脱いで裸になったのはいいけれど、またそこで具合悪くなって、床に倒れ込んだ。
しばらく意識消滅。
次に目が覚めたのは、仰向けのまま吐瀉物がどっかに詰まったせいだ。あわてて飛び起きて、中身を床にぶちまけて、咳してぶちまけて、まだ残っててゲーゲー言って、カラダはむちゃくちゃ冷たくてブルブル震えてた。
遠くで救急車のサイレンが聞こえてた。
ああ、なんかヤバイ。わたしも救急車よびたいけど、こんな格好で呼んだら目も当てられない。
仕方なくってベッドまで移動して毛布をかぶった。
さむいさむいさむいさむい。早くカラダがあったまらないなあ。
両親は仕事をリタイアしてからは、ずっと山の方に家を買ってそこで暮らしていた。ここの家は便利だけど自然がなくてさびしい、カナミは結婚したらここでそのまま暮らしてもいいからって言ってわたしをひとり置いて言ったけど、そもそも結婚する相手すらままにならない。
ひとり暮らしって、好き勝手できて楽しいんだけど、こういうときは心細いなあ。
でも、とにかく寝なくっちゃ。
寝ればきっと酔いもさめて、あったかくなってくる。明日の朝、頭ガンガンするかも知れないけど、それでもきっと今日よりかマシなはずだ。
とにかく寝よう、寝ればなんとかなる。
そう思って目をつぶるけど、寒くてなかなか眠れない。
そうこうするウチに幸乃の声がこう言った気がした。
「カナミ。 お願い、約束を忘れないでね」
えーっと。
何の約束したっけ? さっき飲んでて何か約束したかな? ごめん、思い出せないよ、幸乃。
まあいいや。それも明日の朝になってからゆっくり考えよう。
今日はとにかく眠ることだ。
そう自分に言い聞かせて、無理矢理に目をつむって、毛布の中でカラダをまるめて、わたしはそのまま眠りについていった。
* * * * * * * * * *
3 ・ 太郎
忌引きは一週間だと言われ、それから仕事に復帰したけれど、一週間で妻がいなくなってしまった心が癒えるわけはない。
僕は毎日仕事に行ったけれど、それは家に昼間ひとりでいることが耐えられなかったからだ。かといって仕事をばんばんこなしているわけでもなく、僕は会社にいても蝉の抜け殻みたいにからっぽでコンピューターの前に座ったままだった。
妻の事故死は、地方新聞のかたすみに掲載され、誰もが知るところとなっていた。
体内に微量のアルコール分が残っていたことももちろん掲載された。酩酊するほどの量ではないとも記載されていたが、その程度の量でもダメなことは僕が一番よく知っていた。
休日の夜に僕がワインを買ってくると、幸乃はかならず「味見をさせて」と言うのだが、味見が味見で終わったためしはない。それでも彼女が飲めるのはワイングラスに半分程度だ。
「あー、酔っぱらったみたい、なんだか気持ちいいよぉー」とか言いながら、そのまま幸乃はソファに倒れ込む。首筋から耳の後ろまで真っ赤になってぐぉーぐぉー寝ている。
安上がりなヤツだな、と思うけれど、外で飲むことはほとんどないし、僕は夕食の洗い物を押しつけられながらもそのことを不快に思うことはなかった。
僕が、きちんと言っておけばよかったのだ。
出て行くときに、絶対に飲み過ぎるなと。
妻の両親、親戚、友人たち。いろんな人がいろんなことを悔いた。
なかでも一緒に飲んだカナミやフミやチエの悔いようは並大抵ではなかったし、酩酊してしまったカナミは、幸乃を止められなかった自分のせいだと膝を崩して立ち上がれないほどだった。
カナミのせいならば、カナミを責めればすむのか。だが、すでに死んだ人間がそれで戻ってくるなんてことは、もちろんない。
初七日の法要のあとにみんなが帰ってしまい、また何をするでもなくぽつんといると、カナミがひとりでやってきた。
黒い喪服を、紫色のニットとジーンズに替えている。もう一度仏壇に手を合わせ、それから話があるという。
「あやまっても、すまされないことなんだけど、ほんとうにごめんなさい。太郎さんはわたしに言いたいことがいっぱいあると思う。まずはわたしに言いたいことを言って。言えばすむってわけじゃないけれど、まずは太郎さんの気持ちを......」
「いや、それはもういいんだ」そう言って僕はカナミの言葉を遮った。「やっちまったもんは仕方ない、幸乃だったらそう言うはずだから」
やっちまったもんは仕方ない? おいおい、僕はまだそんなふうに思ったことは一度だってないぞ、と思いながらも、どんどん言葉があふれてきた。
「たとえばさ、白か紫の車、どっちを買おうかって迷って迷って、それで決めたあとでも僕は、やっぱり白の方がよかったかなとか思ってしまうんだ。去年転職したときもそうだった。話があってから考えて考えて、それでやっと決めたのに、実際に新しい会社の上司にちょっとイヤなことを言われたりすると、ああ、転職は失敗だったかなとか、つい幸乃に愚痴ってしまっていた。すると幸乃は、やっちまったもんはそれまでよ、ぜったい元には戻らないんだから仕方ないでしょ、あれこれ言わないでよ、って、全然とりあってもくれないんだ。僕をなぐさめて言ってたわけじゃなくって。幸乃はそういうヤツなんだ。 自分でこのソファを衝動買いしてきて、それで思ってた場所には大きすぎて入らなかったんだけど、気に入って買ったからしょうがないじゃないって家具の配置を全部替えたりして。幸乃っておもいつきで行動するから失敗もいっぱいするけど、どんなに失敗しても、やっちまったもんはしょうがないって、それだけで済ませてしまうんだ」
気づいたら僕は泣きながら、嗚咽しながら喋っていた。
「僕は、僕はまだ、ぜんぜん、ほんとはそういうふうには思ってないんだ。カナミ、つらいよ、ほんとに悲しいよ、なのに幸乃はそうなんだ。幸乃がそう言ってるんだ。幸乃が僕にそう言わせてる。ぜんぜんカナミのせいじゃないよ、仕方ないじゃない、わたしが失敗したんだから、やっちまったもんはしょうがないじゃないって......」
ああ、ほんとに幸乃だ。
僕に幸乃が喋らせている。
彼女の意識はまだ生きているんだ。
そう思っても悲しみが癒えるわけじゃないけれど、僕にはわかった。
幸乃がそう思ってるんだってことが。
カナミにもそれがわかったんだと思う。
それでも僕たちには、なすすべもなく、僕たちは、幸乃がコスモス畑で笑っている遺影の前でずっとずっと、声を上げて泣いていた。
* * * * * * * * * *
4 ・ カナミ
やっちまったもんは仕方ない、幸乃の口癖にわたしはこれまで何度も慰められてきた。
でも、今回は慰められないよ、幸乃、ほんとにそう思ってるの?
思ってるよ、残念だったけど誰のせいでもないもん、仕方ないじゃない。そんな幸乃の声が聞こえてきそうで耳を塞ぎたくなったけど、それでもわたしは確信していた。
幸乃って、イヤになるくらいにそういうヤツなんだ。
「約束を忘れないでね」
泥酔した夜に、幸乃の声が聞こえたのを思い出し、それが何のことなのかやっとわかったのは、初七日の法要で手を合わせてお経を聞いている最中だった。
とりあえずはいったん帰って、太郎さんひとりになったときにお話することにする。申し訳なくて向き合う勇気もないけれど、とにかく太郎さんに言わなくっちゃと思った。
「約束」の話をした。
「ようするに、どっちかが死んだら、どちらかが責任を持ってインターネットでお知らせする、そういう約束を雪乃としていたの?」太郎さんはそう聞き返して、それから下を向いた。「なんだか......悲しいな。まるで幸乃は自分が死ぬのを予感していたみたいだ」
「ちがうちがう。この約束って、言いだしっぺはわたしの方なの。ほら、わたし、親と離れてて独身だしひとり暮らしでしょ。ネットにはたくさん友達がいるんだけど、急に死んでしまっても、そういうのって誰も気づかないじゃない。いつのまにか書き込まなくなった、どこ行っちゃったんだろ、で終わるわけよ。そういうのがイヤだなあと思って、それで幸乃にお願いしたの。もし、わたしがひょっこり死んでしまったら、幸乃がそれを知らせてくれないかって。そしたら幸乃も言ったの。じゃあ、代わりにわたしが先に死んだらカナミがしてよねって......もっとも、こんなに早く約束の日がくるなんて思いもしなかったけど」
「とりあえずはSNSで知らせてくれればいいって。いろんなところに出入りしてるけど、自分の日記のところに知らせてくれればそこから伝わるだろうからって。そのときにIDとパスワードを預かってたから、今、持ってきた」
「そっか。インターネットをよくやってるのは知ってたけど、幸乃、お互いに別の世界のことだからって一度も見せてくれなかっもんな」
「べ、べつに、やましいことしてたわけじゃないんだよ、それはわたしがよく知ってる。ただ、とにかく一度太郎さんに言ってから書いた方がいいかなと思って」
「ありがとう」しばらく間をおいて太郎さんが言った。「幸乃の信頼できる友達でいてくれてありがとう。ほんとそうだね。幸乃を知る人に、幸乃が理由も言わずにとつぜんいなくなったって思われるのはやはり悲しい。きちんと知らせるのがスジなんだだろうね」
それから太郎さんは幸乃と共同で使っているデスクトップのマッキントッシュの前にわたしを連れてきた。ああ、会社帰りにここで喋って、 何度かこのマックを幸乃とふたりで見たこともあったっけ。
太郎さんがパスワードを使って幸乃の領域に入る。パスなら知ってると言ってsatinoと入力。
まったくこの単純さも幸乃らしいよなあ、ちなみにSNSのパスワードもsatinoだ。
「なんでsachinoじゃなくてsatinoなんだろうね?」と、ふと思って尋ねてみた。
「そっちの方が入力が一文字少なくてすむからなんだって」
そういうところまで、もれなく幸乃らしい。
わたし自身、あまりSNSを最近見てなくて、とくにここ数日はそれどころじゃなかったから、幸乃の日記を見たのもひさしぶりだった。
彼女が三日以上ログインしていないなんて珍しいことだったので、「最近こないね」「元気?」という書き込みが二件あった。
ちょっと考えてから、新規の欄を出して、「satinoの友人のkanaです」ではじまる書き込みをした。
自動車事故でなくなったこと、今日初七日が終わった事、そして、生前からの約束で代理で書かせてもらっていることを記入した。ああ、これを見てショックな人もいるんだろうなあ、でも約束だから守らなくちゃとがんばって書いたら、ものすごーくエネルギーを使い果たしたような気分になってしまった。
「太郎さんも何か書いた方が......」と言って振り返ったら、太郎さんは後ろで画面を見つめたまま泣いていた。
「改めてこう書くと、幸乃はほんとに死んだんだなと思うよ」って無言のままポロポロ涙を流していた。
「だけど、よかったらこのページ、ログインしたままにしておいてくれるかな? 僕もこれからここ見ておきたいから」
「いやだよ! 恥ずかしいから! 」わたしはそう言って、慌てて口を押さえる。
「ごめん、今、言ったのは幸乃だね。いいよね、見てても。ね、幸乃。太郎さんにそれくらい見せてあげなよ」
わたしがそう言うと、パソコンの脇のタペストリーが「いいよ」って揺れた。
* * * * * * * * * *
5 ・ 太郎
仕事から帰ってくると僕は夕食をすませてパソコンを開いた。
それから「幸乃の日記」を僕は盗み見る。盗み見るっていう表現は幸乃がいなくなった今は適切ではないのかもしれないけれど、「やだなあ、恥ずかしいよぉ」と幸乃が言っていそうで、なんだか盗み見ている感触がずっとつきまとった。
カナミが幸乃が死んだことを書いてくれた日の日記にはおびただしい数のコメントが書き込まれた。
知らなかった、冗談だと思いたい、ご冥福をお祈りします、いつまでも忘れません、そして一度お会いしたかった。
僕はそれを見るたびに、satiinoのレスがつかないかなと思って待ってみたけれど、考えてみればレスがつくはずもない。
死ぬっていうことは絶対的にいなくなることなんだと、改めて気づくので精一杯だった。
カナミは一度だけコメントしていた。
その日一緒に飲んだことを告白し、そのあとのくだりを告白していた。それを書くのはつらかったと思う。きっと幸乃が天国から読んでいたら、もう、いいよ、そんなこと書かなくったって、って言うくらいにつらかったと思う。
カナミに対して「kanaさんのせいじゃない」って書いてくれる人がいたからほっとした。
「とても残念だったし、不謹慎かもしれないけれど、satinoさんは、やってしまったことは仕方ないなんて、いつもの口癖を言ってるんじゃないかなあ」と書いている人もいた。
たぶんネットでも幸乃の人格はきっとそのままなんだ。裏表のない、心の動きがよくわかる幸乃。
そんな幸乃を忘れないように、ずっと日記を読んでみたいと僕は思うようになった。
ここに書かれた日記は4年分。幸乃は毎日、日記帳をつけるようにそれを更新していた。
書かれているのは、夕飯のメニューとか、買った本のこと、バーゲンで買ったもの、ほしいもの、仕事の愚痴も少しあって、あと「たろさん」への愚痴も時々登場した。
休みの日にイタリア料理を食べに行く予定が、車で通ったとちゅうの天ぷらやに寄ることになったとか、あと、転職したあとに悩んでいるたろさんの愚痴はうざいとか、掃除をしてなくて怒られたとか。
そのたびに誰かがコメントで「たろさん」の肩を持ってくれた。いい友達がいたんだなあと嬉しくなった。すぐに怒る幸乃なのに、誰かが弁解してくれると怒りがおさまっていくのがsatiinoのレスでわかった。
そっか。こんな世界を幸乃は持っていたのか。
僕は書き始めた当初からの日記を、一ヶ月分ずつ毎日読むようになっていた。
時には、それでもここにいない幸乃を思い出して泣く日もあったけれど、幸乃がまだそこにいるような気持ちになれる日もあったから。僕は毎日毎日、日記を読んだ。
ひとつだけ分かったことがあった。
幸乃が書いていたのはこの日記だけではなかったということだ。
「あちらではお世話になっています」とか「ブログからの友人です」とかの書き込みがときどき登場したからだ。
ただ「あちら」がどこなのかわからないし幸乃のブログのURLもわからない。
カナミは知っているのか? 直感だが知らないような気がした。
まあ、とりあえずはここの日記をずっと読んでいこう。そのうちにわかるかもしれないし。
わからないままだったら、日記を読み終えたあとに色々探してみよう。
幸乃、おかしいね。幸乃が死んだあとにこんなことがわかるなんて。
でも僕は、けっこうこれはこれで救われているような気がするよ。
そんなある日の夜に。僕は日記のトップページにメッセージの到着を示すメッセージが点灯しているのを見つけた。
* * * * * * * * * *
6 ・ 太郎
メッセージの送り主はカヲルという名前だった。
僕は女性を想像していたのが、今僕の目の前で幸乃の仏壇に手を合わせているのは若くて華奢な男性だ。
年の頃は20代後半、あるいは30代になったばかりだろうか。細身のチャコールグレーのスーツは年齢の判断がつきにくいものだったし、柔らかい髪を肩に届かない程度に伸ばしていて、学生なのかどんな職業なのかもわからなかった。
なによりも顔が小さくて、くりんとした目が妙に愛らしい。小柄だったし、スーツを着てなかったら、女性と間違えてたかもしれない。
「先日はとつぜんメッセージを送ってすみませんでした。あのサイトはログインした時間が分かるんです。それでどなたかがログインしていることがわかって。kanaさんか、もしや家族の方かもしれないと思って思い切ってメッセージしてみました。幸乃さんにはお世話になっていて一度お会いしたかったのだけど、結局はこんなカタチになってしまいました」
新幹線を乗り継いで5時間かけてやってきたのだという。
ネットでお世話になっていたというのはどういうことなのか?
それは亡くなった後にわざわざ仏壇に手を合わせに来るようなものなのか?
恋愛、という言葉も浮かんだけれど、どこかでそれを否定したかったし、何よりもそういう雰囲気ではなかった。
カヲルには、男を感じさせる匂いというものがまったくなかったのだ。
「あの。お世話って? 幸乃はいったいどういうことをしていたのでしょうか?」
「それは......」
「差し支えなかったら教えてください。僕は幸乃の日記を読んでいるとときどき、幸乃が持っている僕の知らない世界があったんだなって思うんです。それは知らないままでいいことなのかもしれない。でも、僕は。できればカヲルさんや他のみんなが持っている幸乃の思い出も共有してみたい」
「どこまで話していいのかずっと考えていました。でも。太郎さんにお会いして、告白したい気分になってきました。あの。よかったら聞いてくださいますか?」
そこからカヲルの長い告白が始まった。
「わたしには女性的な部分があります。小さい頃からそうだったのかも知れません。でもはっきりと意識したのは、ネットで写真を出すようになってからでした」
そう言ってカヲルは目を伏せた。長いまつげが大きな目を覆った。
女装がシュミなのだとカヲルは言った。
「そうは言っても、女装して街を歩くとかではないのです。自分でゴスロリとか浴衣とか着て、セルフで写真を撮るだけ。加工もかなり凝る方だと思います。自分に見えないくらいにきれいな作品を作るのが楽しいかったのです。わたしはそれを自分のブログに掲載していました。でもわたしは、そうしたくて仕方なかったくせに、人と違うことをやっている自分に後ろめたさを感じてしまっていたのです。幸乃さんはそんなわたしを救ってくれた方でした」
「幸乃のブログを知ってるんだね? 僕はまだ知らないんだ。彼女は、どんなブログをやってたのかな?」
カヲルはまた目を伏せた。そうしてしばらく考えこむ。
「BL、って、ご存じですか? ボーイズラブっていうんですけど。ああ、でも正確にはエロ系の小説っていうところでしょうか? SMとか自分のような女装の話とか、そういう話が中心で、わたしの写真も何枚か、小説と一緒に掲載していただいたこともあります」
僕は話のとちゅうで中座させてもらってコーヒーを煎れた。なんだか喉がカラカラになってしまった。
「紹介してくれたのはクルミという、ネットで出会った女性でした。クルミはSMの女王で、やはり幸乃さんの小説に協力していました。クルミとは幸い住んでいる地域も近かったので会って話したりもしたんですが。話しているうちに、幸乃さんの話題が出たのです」
カヲルは両手で小さなコーヒーカップを包みこむようにしてひとくち飲んで、おいしい、とつぶやいた。僕はその所作を純粋に美しいと感じた。
「その頃のわたしは悩んでいました。同性愛者の方からの誘惑や、男性なのにそんな写真を出すことへの中傷などが続いたのです。わたしの写真に魅力を感じてくれる方がいたのは嬉しかったけれど、中傷する人は、中傷しながらもどこかでわたしを手なずけたい匂いを発していました。最初に否定することで自分の優位を確認したい人。自由なはずのエロティシズムの世界にそういう人がいることも驚きでした。そしてわたしは、誰もが自分のカテゴリーの中にわたしを取り込もうとしているような被害妄想に苦しめられるようになったのです。わたしは自分が好きで少しずつやってきたことが、ひとつのカテゴリーの中に閉じこめられていくこととはどうしても思えませんでした。何もないところから、自分の指向性が小さな芽のように出てくる感覚が欲しかったのです。それでいいのよって言ってくれたのが幸乃さんでした」
エロティシズム、SM、女装? 頭の中で言葉の洪水があふれだして、僕は混乱してしまった。
「メールでのやりとりでしたが、幸乃さんは、カテゴライズできない感情をどういうふうに自分の中で育てていくのか、とても興味があるのだと言いました。それがとてもかけがえのないことなのだとも。メールを元にして幸乃さんは小説を書かれました。ある程度の人には読まれたと思います。ただ、BLの世界には過激なものも多いし、同人誌などで数多くのファンを持つ人もいる。そういう意味では幸乃さんもまた無名の人でした。でも、そういうことは関係なかった。わたしの、誰にも知られないわたし自身が、言葉になって語られることでわたしは救われたのです」
「そのブログのURLを僕に教えてくれるかな?」
僕はそう言うのがやっとだった。
だいたいそんな小説をいつ書いてたんだ? 教えてくれても僕は非難したりはしなかったと思うのに。
そうだ。幸乃は僕が帰って来る頃には、夕飯の支度をすませていつもパソコンに向かっていた。自分の仕事が終わって、僕を待つまでの時間。遅くとも早くとも、幸乃はそれからスープを温め直して夕飯を並べてくれた。あの時間にそんなことをやっていたのか?
「わたしは喋りすぎたかもしれません。幸乃さんは、太郎さんにそれを読まれることを望まれてなかったのかもと、後悔してもいます。だけど、幸乃さんのご主人にできれば、僕も幸乃さんの思い出を共有してほしい。わたしたちは大事な人を失ったから。その思い出を共有してもバチは当たらないんじゃないでしょうか?」
「僕もそう思う。配偶者をなくすことはとてもさみしいものなんだ。絶対的にいない、ということを受け入れるのはすごく時間がかかる。 僕は幸乃の日記を読むことでそれを紛らわせてきた。そこに幸乃の文字があるという感覚だけで、少しだけ救われた気になってしまう。そのブログを読むことができれば、僕は、また少し救われるかもしれない」
そういうやりとりのあとでカヲルは僕のパソコンにその画面を呼び出し、ブックマークしてくれた。
それからカヲルは新幹線の時間があるからと、華奢なカラダを折り曲げて、ていねいなお辞儀をして家を辞した。
* * * * * * * * * *
7 ・ 幸乃(さちの)
カヲルには、いつかは会ってみたいなあとずっと思ってた。
だから、こんなことの後でも、カヲルの顔が見れたのはちょっと嬉しかった。想像してたとおりの男の子。自分のことを「日常はふつうのサラリーマン」って言ってたけれど、あの加工写真から出てくる気品は絶対的なものだったし、まっすぐで純粋な感じの性格もメールのやりとりのままだったもの。
お供えしてくれたお線香も、とても上品なラベンダーの香りだったし。
ほんとに、カヲルに会えたのはよかったよ。
ああ、でも太郎になにもかも知られちゃったなあ。
それは、ちょっと、恥ずかしい......
わたし、小説好きでときどき書いてるんだよ、って言ったのはいつだったっけ? 結婚してすぐの頃?
太郎は全然そういうものには興味がなくって、ああ、そう、シュミがあるのはいいねって流したっけ。
太郎が大好きな映画はわたしはあまり見れなくて、外国の映画で黒人の主人公だったりするとみんな同じ顔に思えてなんどもストリー聞き返すものだから、いつしか太郎はわたしを映画のDVDを見ることをやめてしまってた。
だから、わたしのシュミのことも、自分が知らなくてもいいって気持ちがあったのかもしれない。
それでわたしはすごく安心してた。
だって、どんな小説?って聞かれても困るし。奥さんがそんな小説書いてるのを見たって太郎だって困ると思ってたから。
だからわたしは、太郎の興味がないのをいいことに、かなりのびのびとやってたわけだ。
何もかも整理して、準備してからいなくなるなんて不可能だ。
昔つきあってた人との2ショット写真だって、着古してよれよれになって捨てそびれてた下着だって、冷蔵庫の奥で死滅していた辛子高菜だってそのままだったけど、やっぱり、それとこれとは違うもの。
エロ小説は、やっぱはずかしいよ。
でも、しょうがないか。
わたしは今ここにはいないんだもの。
太郎が知りたいのなら、知るしかないんだよね。たぶん。
* * * * * * * * * *
8 ・ 太郎
(ここのサイトには性表現が含まれています。それをご理解の上、読んでいただけると幸いです。
なお、18才未満の方の閲覧はお断りしています)
幸乃のブログはそういう言葉からはじまる。
小説の数はそう多くはなかった。せいぜい10作品程度だ。
最初に目に付いたのは、巨乳揃いのランジェリー販売会社のオフィスに入社してきた男性社員がセクハラまがいの誘惑をされるというのがシリーズものだ。
それがエロにも不慣れな稚拙な小説だと僕にもわかった。ミステリーくらいしか読まない僕でも気付くほど、読みづらくてリズム感のない文章。
だけどコメントだけはたくさんついていた。今度はこういうプレイをなどというリクエストもあった。
「いつも1対1の濡れ場ばかりでちょっと単調。これだけの女性がいるのだから、みんなでこの男性を凌辱して欲しいものです」とか。
「この若い男性社員ってどういう顔の感じなんでしょうか? カラダはすね毛もなにも生えてないつるんつるんを想像しています。胸板、ぜったい薄いのがいい! でも貧弱はお断りですよね、細マッチョ希望!」とか。
幸乃はそういうコメントを意識しながら、だんだん詳細に描写をすることを覚えていったのだろう。
女性用の下着販売の会社で売り上げの悪い男性社員が、月例会議のあとに会議室で女性幹部連中から「教育」を受ける。 ショップに訪れた常連の女性の採寸をいきなり命じられて、いろんな要求に応えていく。そのあたりになると、だんだんと描写が過激になっていった。
それを読むと、幸乃とのセックスを思い出して、下半身が熱くなってしまった。
おかしい。
幸乃との性行為には、そんなこと何ひとつ含まれてなかったのに。
「オフ会に行くの」三年ほど前から幸乃は、半年に一度ほどはそう言って出かけるようになっていった。遠方に行って一泊することもあった。「オフ会は、すごく楽しいのよ。今まで会ったことのない人とたくさん会って話をするのよ。太郎もそういうのって楽しいってわかるでしょ?」
僕はパソコンでは通販や動画の配信にしか興味がなかったけれど、そういう楽しみもあるのかなと思うしかなかった。
幸乃は遊びに行く日をすごく楽しみにしていた。だから、休日にひとり残される愚痴を言おうものならば、とたんに不機嫌になって口も聞かなくなってしまったし、洗っているお皿を割れるんじゃないかと思うくらいぞんざいに扱ったり、聞こえよがしのため息をついたりしていたからだ。
だから僕は何も言わなくなった。たった数日ひとりで外出しさえすればそれで機嫌が悪くならないのなら、それくらいいいじゃないか。非正規社員の仕事と家事の繰り返しでは飽きてしまうのだろう。息抜きをしてそれでうまくいくのなら、息抜きくらいしてもいい。
僕自身の息抜きは、幸乃とまったりと過ごす休日やドライブくらいしかなかったけれど。
それでも僕は幸乃の息抜きを全面的に認めていた。
おそらくあの頃に、幸乃は「クルミ」と会ったに違いない。
* * * * * * * * * *
9 ・ 太郎
下着会社のシリーズもの「ランジェリー・ラブ」の番外編は、クルミの登場もあって、けっこう人気の作品に仕上がったようだ。
クルミはひとりの顧客としてそこに登場する。
男性社員は下着のクレームの謝罪をしにクルミの家に行くのだが、クレームがだんだん言葉責めに変わり、それから男性社員の身体が凌辱されてゆく。
ふつうのマンションなのにベッドルームに連れていかれるとそこには手錠やロープがあった。クルミが服を脱ぐと、身体にぴったりしたビスチェ風のボンデージが現れる。そうして、なぜか室内なのにくるみはピンヒールの赤いエナメル靴を履いていて、そのピンヒールの先で長々と男の性器は弄ばれる。
その描写と言葉責めが延々と描かれている部分には喝采のコメントが多く寄せられていて、そのほとんどが女性だったことに僕は驚いた。
ビスチェ風のボンデージを着たクルミのモノクロ写真がそこにあった。
おそらく本人だろう。顎の下のあたりから膝の上あたりまでのショット。顔はわからないものの、シャープな顎とボディライン、そして比較的大きなヒップは芸術的なほどに美しい。
お尻をつきだしているクルミを下から撮った写真もあった。
とてもきれいだとコメントが続く。だがそのコメントもすべて女性のものだった。
女性が読むエロ小説というものがあるなんて思いもしなかった。
そしてその作者が、今はなき自分の妻だったなんて。
僕は混乱する。
今更になって、そのことにまったく気付いていなかった自分自身に、とてつもなく混乱している。
貞淑な妻ではなかった。
遊ぶのが好きだし、家事が嫌いだと公言した。事実、休みの日に僕が手伝わなければ掃除だってまともにやったことはなかった。 僕が愚痴を言う夜は、一緒になって賛同する日もあったし、そんなにイヤなら会社なんて辞めれば、と鼻にもかけない日もあった。
セックスに恥じらいを持つタイプでもなかった。
休みの前の日など、ねえ、やろうよ、と言いながらふざけて僕の上に馬乗りになってみたりもする。フェラチオが好きで、そう、こういうふうにするのって好きなのと言ってなかなか止めてくれない。 もう中に入れたいと言っても、まだダメ、とじらされたりもした。幸乃は感じやすく、イキそうなときはためらわずにそれを口にした。そのときの声の甘さだけは、今もまだ鮮明に記憶に残っている。
同年代の夫婦がどういうセックスをしているのかなんて知る由もなかったが、それはカラダの馴染んだカップルとしてはけっして異常な行為ではなかったと僕は思っていた。
だけど幸乃は、この小説のようなセックスをしたかったのか?
でも、もしそういうことを試してみたいとすれば、彼女はためらいものなく口にするはずだ。少なくとも僕の中の幸乃はそういう女だった。
では、なぜ?
クルミに会いたいと思った。
クルミとはメッセージや写真のやりとりをしているはずだ。 彼女なら、僕の知らない幸乃を知っているかもしれない。
そう思ってメールのチェックまでしてみたが、最近はメールのやりとりがなかったのかもしれない。クルミのものらしきメールは一通も見つからなかった。
おまけにアドレス帳にもクルミのアドレスの記載はない。
他の名前で登録しているのか? それとも登録せずのままなのか? 削除してしまったのか?
何日か考えたあとで僕は、SNSを使ってカヲルにメッセージを送った。
彼はクルミに会ったことがあると言っていた。
カヲルならクルミの居場所を知っているのかもしれない。
そう思ってメッセージを送ってみたのだが、僕はそれを知っていったい何をしたいのだろうか?
新幹線を乗り継いで5時間、そんな時間をかけてクルミに会いに行くというのだろうか?
メッセージを送ったものの、そんな逡巡を繰り返したせいか、カヲルからの返信の届くまでの時間を、僕はとてつもなく長く感じてしまっていた。
* * * * * * * * * *
10 ・ 太郎
satinoのSNSにメッセージランプを見つけたのは、それから一週間ほどしてからだった。
僕は、胸の鼓動を感じながら、メッセージを開く。
カヲルのメッセージにはこう書かれていた。
* * *
太郎さま。
先日はとつぜんお邪魔させていただいてほんとうにありがとうございました。わたし自身、幸乃さんにお線香をあげさせていただくことで、少しですが気持ちの上で納得することができたような気がしております。
それから返信が遅くなってほんとうに申し訳ありませんでした。
実はクルミとは二年ほど前から連絡が取れなくなっていたのです。ケイタイ電話の番号を替えてしまったみたいでメールも届かなくなっていました。
それで幸乃さんもわたしも心配しながらもそのままだったのですが、クルミの写真を撮っていた彼氏のことを思い出し、今回思い切って彼の方を訪問してみることにしました。
連絡先は知らなかったのですが、開業の歯科医であることを思い出し、名前を探してみたら比較的簡単に見つけ出すことができました。(おかげで虫歯のチェックと歯垢の掃除ができました)
幸乃さんともクルミと一緒に一度会ったことがあるらしく、彼女のご冥福を祈っていると伝言をいただきました。
わたしたちは仕事の終了後に近くのお店で待ち合わせて、コーヒーを飲みながらお話しをしました。これからその内容を書きます。
彼はクルミとは二年前に別れていたようです。
結婚して家庭もある男性で、それとは別にクルミとつきあっていたとのことでした。これはわたしの想像ですが、口ぶりからするとある程度の経済的な援助もしていたのではないかと思われます。
ところが、彼の奥様にこのことがバレて、家庭の中が大変な修羅場になってしまいました。
奥様はご主人の携帯メールを利用してクルミを呼び出したりして大変だったようです。携帯番号もアパートも知られてしまい、クルミはその両方を替えるしかなくなったようです。
「クルミは、妻に謝罪して二度と会わないと言ったそうです。でも、僕にはなんの連絡もなかった。そういうところがクルミらしいというかなんと言うか......」
彼はそう言いました。彼自身が、いまだにクルミの消息を知りたがっているようです。
「もし、クルミがまだこの町にいるとすれば、どのようなところにいるんでしょうか」と尋ねてみました。
「クルミの実家は複雑で、そこを出てひとり暮らしをしていたんで、実家に帰ったとは思えません。案外ふつうの仕事をしながらアパート暮らしをしているかもしれない。でも、ここは大都市なので仕事はあるだろうけれどその分家賃も高い。僕は、クルミは自分の肌をさらすことに抵抗がなかった分、そういったたぐいの仕事についているような気がします」
「具体的に肌をさらす仕事って、どういうものをクルミは選ぶのでしょうか?」
「わたしたちのシュミの関係で、いくつかのお店に知り合いがいました。そういうところを転々としているかもしれません。ハプニングバーやSMプレイのできる店とかです。でも、クルミの噂は誰からも聞きません。なにしろ、この街の店も新旧の交代が激しいので、クルミと遊びまわっていた頃とは状況が違うと思います。でも、なんとなくですが、クルミは(クルミ)という名前のままでどこかSMに関係するお店にいるような気がします」
今わたしは、パソコンを検索しながら、クルミのいるかもしれないお店を探しているところです。デリヘルの女の子の写真もチェックしています。
わかったら太郎さんにお知らせするようにしますね。
無駄なことを......とは思わないでください。
そういうふうに思われたら悲しいし。なによりも、それが自分がみなさんのためにできることのような気がするからです。
カヲル
* * *
幸乃、カヲルっていいヤツなんだな、と僕は心の中でつぶやいた。
クルミと会ってみたい自分がいたけれど、会ってどうなるんだという気持ちもあった。
無駄なことか、無駄ではないことかわからないけれど。僕もまたカヲルの住む街をネットで検索してクルミを探してみたいと思うようになった。
人の死も失踪も、ネットの中では似ているね。
ただ(その場所にいなくなった人)というだけで、その理由もわからないままに、だんだんとみんなに忘れ去られていく。
それはどうでもいいことかもしれないけれど、さみしいことかもしれない。
僕はそれを「どうでもいいこと」にしてしまわないカヲルがほんと、いいヤツに思えたよ。
* * * * * * * * * *
11 ・ 太郎
二ヶ月後、僕はまったく知らない街の駅の改札口でカヲルと待ち合わせをした。
カヲルの住む街から新幹線で半時間ほどの場所にある大都市。
そしてクルミが住んでいるかもしれない街だ。
「中央出口を出たところで」と、土地勘のあるカヲルが言ってくれたけど、こんなに混雑した場所でカヲルのことがわかるだろうかと心配だった。 けれどそれは杞憂にすぎなかった。
彼は薄いブルーの生地に、赤い大柄の花模様の浴衣を着ていて、それはとても人目をひいていたからだ。
「こんにちは。遠いところ、ようこそ。へんな格好で、びっくりしました?」
僕は困る。
びっくりを通り越している。
遠目には髪をひとつに結んだカヲルは華奢で背の高い女性のように見えるけれど、びっくりするほど派手な浴衣だ。
ワイドショーでおすもうさんが私服の浴衣で歩いてるのを見たときに、ずいぶん派手だなあと思ったことがあるけれど、それに負けないくらいに色も模様も派手だった。
化粧はしていないが、眉を整え、大きな目がくりんとしている。
そして、改めて見てみるときれいだ。
それを口にしてみると、カヲルは美しく口角をあげてほほえんでくれた。
「クルミと会えるなら、この格好の方がすぐに気付いてくれるような気がして。浴衣がよく似合うってわたしに最初に言ってくれたのはクルミだから」
それから、それにしてもよくクルミを見つけられましたね、とカヲルは付け加えた。
ほんとによく見つけられたなあと僕も思う。
もちろん、すごく長い時間を要したのだけど。
クルミはSM関係の仕事をしている、クルミという名で。
たったこれだけのキーワードで、僕は数ヶ月のあいだ、いくつものサイトを行き来した。
デリヘル、ショーパブ、SMクラブ。
そんなサイトをキーワード検索していったけれど、その違いすらわからない。
ことにSMクラブという名前は、カヲルの住む街の地名で何度も入力してみた。だけども空振りだった。
そうしてなんとなく思ったのが、たぶん顧客を相手にするんじゃなくて、自分でショーをやるようなところにいるんじゃないかと言うことだった。
そういうショーをやる店がSMバーという名前で呼ばれることを、「体験記ブログ」のようなものを読んではじめて知った。
ところが、このタイプのサイトには広告が多い。うっかりクリックすると関係のない出会い系のサイトに繋がってしまうこともしばしばで、何度も迷路に迷い込んだ。
僕にはたっぷり時間があった。
幸乃を思い出しながらインターネットを泳いでいく、意味があるのかないのかわからないような時間だけが大海原のようにあった。
たぶん、何もしていなかったら、この時間の海に押しつぶされていたに違いない。
そう思いながら僕は、出会い系のサイトで顔を出している女性の名前までこと細かにチェックしていった。
無意味なことだと思うこともあった。けれど、止められなかった。
これを止めたら、本当に押しつぶされるような気がしたのだ。
カヲルの住む街にはSMバーと呼ばれるものは一軒しか存在しなかった。
それなりの大都市だと思っていたけれど、需要がそれほどないのだろう。
それで思いついて、もっと大きな都市を検索してみることにした。カヲルとクルミの住んでいる街から列車で二時間、新幹線で半時間というその都市に焦点を絞ったのは、勘でもひらめきでも何でもなかった。
ただ、どこでもいいから検索してみたいという気持からだった。
そうしてある夜更けに、SMバーのサイトにある顔写真から「クルミ」という名前を見つけたのだ。
一重まぶたのきつい目つきを派手にくまどった女性だった。
だけど僕にはクルミの顔がわからない。
カヲルに、そのサイトのURLを送って、それでやっと確認できた。
カヲルはすごく喜んで、二人で会いに行こうと言ってくれた。
都合のつく週末の夕方を指定し、そうして僕たちはこの街に降り立った。
「地図をプリントして、場所は確認してきました。タロウさんは今日はこちらにお泊まりですか?」
そう尋ねられてはじめて、その日のウチに帰れない距離であることに気付いた。
「わたしは駅の近くのビジネスホテルを予約してるんですが、チェックインしたら、なかなかいい雰囲気でした。よかったら同じホテルに予約を入れましょうか?」
そう言ってカヲルが手早く携帯から予約を入れてくれた。
こまやかな心遣いができるカヲルに感心する。
幸乃、きみの友達はほんとうに素敵なヤツなんだな、と僕はココロの中でつぶやいた。
* * * * * * * * * *
12 ・ クルミ
「今日は赤いエナメルのボンデージにしよう」
鏡に向かって赤茶けた髪の毛をスプレーで逆立てながら、ふっとそう思った。
今日、あたしは誰か運命の人に出会う。あたしのひそかなジンクスだ。あたしはそういう日は決まって、この赤いボンテージを着ている。
その昔パートナーだった歯科医師から最初に買ってもらったコスチュームだった。
パートナーに施されてお店で試着したが、カラダにぴったりすぎて動きもままならない。ことに腰回りはあまりにもぴちぴちで、ハイレッグのラインがめくりあがり、後ろから見るとお尻の下半分がきれいに見える状態になってしまう。
「恥ずかしいです。お尻がまるみえです」
「いや。それくらいでいい。クルミの尻はいやらしくていい。それが見えなければ何の意味もないんだ」
パートナーはその日、赤い首輪とそれに繋げる鎖も買ってくれた。
慌ただしい引っ越しのすえに、その首輪と鎖はどこにあるか分からなくなった。 だが、ちょっと古びたエナメルのボンデージは今も健在だ。
はじめて幸乃と会った日も、あたしはこの赤いボンデージを着ていた。
あの日幸乃はパートナーと二人であたしの写真を撮ってくれた。
下からヒップラインを強調して撮るアイディアは雪乃が出したものだったけれど、パートナーはそのアングルのよさに歓喜した。
あとは人形のようにだらりを両足を広げて座るポーズ。
「放心したように、顎を上にあげて、唇を半開きにするの」
幸乃がそう、イメージを伝えた。
それから高級ホテルのベッドのシーツを波のように打たせて、その上に仰向けになったり。四つんばいになって尻を高く上げて、それを下から撮ったり。
幸乃の頭にあるイメージはパートナーをすごく喜ばせた。
インターネットのサイトで知り合い、メールのやりとりのすえ、撮影をしたいと幸乃が言ったこと。パートナーがそれを喜び、3人でホテルでの撮影に熱中したこと。 絡みの写真は撮らないという約束だったけれど、パートナーの要望でわたしたちは幸乃の前でいつになく激しいセックスに興じてしまったこと。
あの頃のあたしたちは、なにひとつ閉じてなかった。
いろんな人々が、ネットを通じてあたしを見て感じることに今よりも何倍も喜びを感じていた。
そのあと、やはりネットで、同じ街に住むカヲルと出会い、カヲルの恥じらった浴衣姿を幸乃ならどう撮るのだろうか、いつか二人にも会ってほしい......などと妄想したり。
だけども、いつしか状況は変わった。今あたしはこうして知らない街でSMバーのショータイムをやっている。
誰かを恨んだり後悔したりはしない。こうしてなにもかも、水のように流れていくものなのだと思っている。
それでもあたしは気づいた、この世界にいるあたしが、ずっとあたしだってことに。
そのために何かを犠牲にしたつもりなんてない。
ただ、ときどき、ここにいることの心地よさに夢中だった牧歌的な時代を、ふっと懐かしく思い出してしまう、ただ、それだけだ。
ボンデージの衣装はあれから何着も増えていった。
皮素材のものの方が柔らかくカラダに馴染むことも知ったし、黒いものの方が肌の色を際だたせることも知った。編み上げのコルセットはヒップラインを際だたせるのに最適だった。
それでも、これは、あたしの小さなジンクスだ。
今日は「なにか」があたしを待っている。
そういう日にあたしは赤いエナメルを身につける。
一回目のショータイムを知らせるMCが聞こえる。
新人のメグミを荒縄で縛りあげ、彼女の片足を持ち上げて滑車につるし上げてゆく。
そのプレイ自体はじめてのものではなく、あたしはそれを難なくこなすだろう。
それでもあたしは昂ぶってゆく。カラダが熱を帯びたように火照ってゆく。メグミの顔をステージに見つけ、切り刻まれたように心が尖ってむき出しになってゆく。
スポットライトに目が慣れてくると客席が見えてきた。
浴衣を着たカヲルが隣の見知らぬ男性の腕をつかみ、あたしを見つけて何か言っているのが、遠くにはっきりと見えてきた。
* * * * * * * * * *
13 ・ クルミ
ステージからのあたしの視線に気づいたらしく、カヲルは口角を上げて小さく微笑んだ。
連れの男の方はただじっとあたしを見ている。嫌悪するでもなく、値踏みするでもなく、ただ、じっとあたしを、静物でも見るかのようにじっと見ていた。
その視線があたしを残虐にしてゆく。
あたしは、メグミを荒縄で縛りながらその胸をわしづかんでぎゅっとねじる。
予期しない行動に、メグミの顔が赤らんだ。困惑を帯びた赤い熱。
加虐も被虐も、ステージも日常も、予定調和なんてなにひとつない。何かが何かに感染して、世界は少しずつカタチを変えてゆく、世界はそういうふうにできている。
いつもより高く、縛った足を高く上げると、薄くまとわれた場所があらわになった。
その場所をあたしは赤いピンヒールで突き上げていった。
ぐいぐいと。
予定外の痛みにメグミの顔が美しく歪んでゆくのが見える。
カヲルの顔が泣きそうになっていった。
そうだ。カヲルは、そういうのって苦手、SMって痛そうだから、私にはとても無理.....
って言ってたんだ。
連れの男の顔は少し顔を赤らめながらこちらを見ている。
この男は今まで自分の指向性と、このように向きあったことがないのだろう。受け入れるべきか受け入れられないままなのか、その境界線のあたりに立っている。
それはもちろんあたしが決めることではない。
感じるっていうのは、あくまでひとりひとりの胸の中の小さな噴火のようなものだからだ。
男の濃いグレーの無地のシャツのあたりを、カヲルがぎゅっと握りしめた。
男はどうしていいか分からず、目の前のビールひとくちで口を湿らせた。
ほら。
赤いエナメルのジンクスだ。
わたしは、熱を帯びてきた男の顔をじっと見据えた。
* * * * * * * * * *
14 ・ クルミ
ステージは一日に二回。
だけどもその日の二回目のステージのことをあたしはほとんど記憶していない。
一度目のステージが終わったあとにカヲルの見えるテーブルに行き、短く再会を喜び合い、連れの男を紹介してもらい、それから、事の顛末を知ってしまったからだ。
幸乃が死んだ?
たしかに幸乃との連絡は途絶えていた。
いや、ふらりとこの町に来たばかりに、わたしはほとんどの友人との連絡が途絶えきっている。
それをさみしいと思うことはなかった。
携帯の電話帳にはいつだってアドレスも番号もあったし、時が来て、会いたい人ができればいつだって連絡できるって思っていたからだ。
とりあえず今すぐに居場所なんて知らせなくても、どこにだって友達はいるんだから。
ずっと、そう思っていたのだ。
二回目のステージでは、言葉で男を罵倒しながら、その背中に鞭をふるった。
皮の鞭の力加減をすることが出来ず、思いのほか男が顔をゆがめたので、またもそれを罵倒しながら、涙が流れそうになった。
悲しみはいつも、強い怒りと深いところで繋がっているような気がした。
閉店後の待ち合わせに、お店のはす向かいにあるバーを指定した。
だんだんあたしは力がなくなって脱力してゆく。ジーンズに皮のジャンバーを羽織って外に出る頃には、地面にカラダが吸い込まれそうになってしまった。
幸乃。
あたしの携帯には今も幸乃のアドレスがあるのに。
ほんとにあんたはこの世界にいないの?
浴衣姿のカヲルと幸乃の夫は、カウンターのスツールの上で背中を丸めて何かを飲んでいた。
どちらも薄暗い照明の中では茶色く見える液体。
だが微妙な濃淡からいくと、違う種類のカクテルなのだろう。
カヲルが手を挙げて、それから太郎を改めて紹介し、太郎の隣の空いているスツールにわたしを座らせた。
背の高い、少しばかりそげ落ちた頬が精悍な男だ。
「ウォッカを」
これから聞く話を、あたしはウォッカで乗り越えようとしている。
* * * * * * * * * *
15 ・ 太郎
「あ、クルミ?。おつかれさま?」
カヲルの声に振り返ると、そこには細面の地味な顔立ちをした女性が革ジャンにジーンズで立っていた。
化粧を落としたせいか、その顔は青白くも見える。けれど、僕はそれでもステージで見たクルミよりかはるかに親近感を感じていた。
「まずは乾杯だよね。再会を祝して、そして、私たちを引き会わせてくれた天国の幸乃にも!」
物静かに喋るカヲルが饒舌になっていたのは、たぶん酒のせいなのだろう。
「乾杯」
クルミは小さな声でそう答えて、僕たちをグラスを鳴らした。
カヲルは僕がクルミを探してくれたのだと言った。ちょっとうわずった声で、それでまた会えたからよかったと言って、それから言葉がだんだんあやふやになっていって...... そしてそのまま「ひどいよね?。クルミってば、いつのまにかいなくなっちゃって、びっくりしたよ?」と言いながら、カウンターにうつぶせてしまった。
「バカだよね、カヲルってばお酒に弱いんだよ」クルミが言った。「それに天国の幸乃に乾杯、なんて、不謹慎もいいとこ。ごめんね。いつもはもうちょっと分別のある子なんだけど」
「いいんです。もう幸乃がなくなって七ヶ月もたってるし。そろそろ僕もそう思わなきゃいけない頃だ」
「おくやみにも行けなくて......ていうか、まだ信じられなくて」
「信じられないのは僕も同じですよ。 でも、それでもそれを受け入れなきゃいけない。ほんと、もうそういう時期なんです」
そう言って、モスコーミュールを飲み込む。ちくちくした炭酸の感触が喉を刺激した。
「太郎さんの事、幸乃から聞いたことあった。一回会いにきてくれたとき。ダンナさんは留守番とかさせて大丈夫なの?って言ったら、優しくて、けっこう自由にさせてくれるからありがたいって言ってた」
「ははは、ふつうの男ですよ。僕だって正直、妻がひとりで遊び回るのを快くは思っていなかった。でも、それでも好き勝手に自分のやりたいことをやるのが幸乃なんだ。そっか......優しいって思ってくれてたんだな。だったら、一度でも。面と向かってそう言ってくれればよかったのにな」
鼻の奥のあたりがツンとしてきて、僕は自分が泣きそうになっていることに気付く。
慌てて話題を変えることにした。
「SMって。はじめて見ました。いや、もちろん、週刊誌やDVDでは知ってたけど、実際のショーなんてはじめてで」
「はまりそう?」
僕は正直に考える。僕はショーを楽しめただろうか? 痛みを与えたり、苦痛を受けたり、こういうふうになってみたいって思っただろうか?と。
そうして熟考したのちに、僕はNoという答えを出した。
「みんながSMを好きになるわけがないわ。それってぜんぜんふつーよ」
「幸乃は? 幸乃にはそういうシュミがあったんでしょうか?」
僕は、これを一番クルミに聞きたかったのだと思った。
いたって普通のセックスにしか興味がないと思っていた幸乃。その幸乃が、SMのためにこんなに遠くまでやってきて、そしてクルミと会っていた理由を僕は知りたかったのだ。
今度はクルミが考えた。
そうしてしばらく考えたすえに彼女は、わからない、と答えた。
* * * * * * * * * *
16 ・ 太郎
「ごめん。わからないってのも変よね。言い方を変えると......説明できないってことなのかな?」
クルミがウォッカを飲み干した。飲みっぷりがいい。
彼女は白い頬にかかる前髪を指先で払い、それから話を続けた。
「あたしたちは、観察者が欲しかったのかもしれない。あたしたちのプレイを見てくれる人が。それはとてもシンプルな欲求だった」
ウォッカ、おかわりね、そう言ってまたクルミは話を続けた。彼女はとてつもなく酒が強いらしい。
「あたしのパートナーは痛みに興味を持っていたの。 精神的な痛みや物理的な痛み。彼は、歯科医師という職業柄それをコントロールするすべも知っていた。そうして仕事として彼は、自分の感じる痛みの沸点の手前で、すべての痛みを抹殺していったの。
彼は言ったわ。自分は痛みが沸点に達する前に痛みを抹殺ししてしまう。だからその先を夢想しないではいられないのだと。
あたしはそれを聞いた時、その痛みを味わってみたいと思った。あたしならそれができると思ったし、あたししかできないような気がした。いや、むしろそれはあたしでなきゃいけない、あたしは真剣にそう思ったの。
実際に彼が与えたのは物質的な痛みというよりも羞恥だったりもするんだけど、それでも、発端にはいつも、(痛むことへの執着)みたいなものがあったような気がする。
あたしたちはいろんなことを試したわ。そういうたぐいのお店で、拘束具やバイブレーターを買ってきて。蝋燭を肌に落とす一秒前にどんな恐怖がカラダに走るかも体験した。絶頂を過ぎたあとのバイブレーターが、快感と痛みをどんなふうにミックスさせるかも。そしてその瞬間に手足の自由を奪う拘束具の中で身をよじる感覚がどんなものなのかも。
パートナーはあたしの痛みをコントロールしながら観察をしていた。ときには言葉でそれがどんな痛みなのか口にさせた。あたしの痛みはいつもパートナーの手中にあった。それを先延ばしすることも爆発させることも、すべてパートナーの意思にゆだねられていた。そうして、その中で強く繋がっていくことが、あたしたちの関係だったの。
でもね。二人で深いところに行けば行くほど、いろんなことがわからなくなってしまうの。SMの雑誌にもDVDにもいろんな情報があった。それでも、あたしたちは、自分たちが正しい場所にいるのかさえわからなくなってしまうの。
そりゃ、世間的に言うとそれはSMよね。でも、ひとつひとつの欲求はもっと複雑な心の動きでできあがっている。それをあたしたちは、はっきり説明する言葉を持たなくて。あたしたちは、その欲求がどこに向かっているのかすらわからなくなって、わけのわからない迷路に迷い込んでしまったの。
そんなとき、エロ系のブログを書いている幸乃のことを知った。あたしには、聞いて欲しいことがやまほどあったんだと思う。それで幸乃にメールしたの。そして何度かやりとりするうちに、幸乃があたしたちに興味を持ってくれた。
あたしは幸乃の書く文章が好きだったし、できれば書いて欲しかったの。
幸乃の目に映るあたしたちはどうなのか。あたしそれが知りたくてたまらなかった」
カヲルはすでに意識なく自分の腕をまくらにして眠っている。天然木らしき厚みのあるカウンターの木の柔らかさに、彼はすべてを預けている。
「幸乃は。SM? BL?やおい?ヲタク? ダンナさんの目から見たら一体どうだったの?」
「わからないんだ」 僕は敗北感にまみれてそう答える。「幸乃はそのことに関して、何も話してくれなかった。僕は、幸乃がいなくなってしまうまで、そのことを知らなかったんだ」
「......そうなの」
クルミは新しく受け取ったウォッカに口をつけた。
* * * * * * * * * *
17 ・ 太郎
「あたしたちにとって、幸乃は申し分のない観察者だったわ。あたしには、彼女自身がカテゴライズされてないものを求めているように見えたの。彼女はこう言ったの。それは、探せばどこかのサイトに書いてあるようなことなのかもしれない。だけど、自分にとってはゼロなんだって。何もないところからクルミの物語を書くことが、ゼロから自分の物語を作ることなんだって。自分だけの物語を作るってすごく楽しいって言ってたわ。
幸乃を呼んで、3人でホテルにこもってプレイをしたこともあったわ。
彼女はデジカメを持ってわたしたちのプレイを見てくれた。あたしたちが二人でやっていることをひとつひとつカメラにおさめていくの。ほとんど無言で、デジカメのシャッター音が聞こえる中で、あたしたちはいつものように痛みを検証していくの。ときどき、顔をこっちに向けて、とか、脚を広げて、とか、そのままの格好で窓辺に立って、とか。リクエストしながら、彼女はたくさんの写真を撮ってくれた。 撮られることで、あたしたちは証明されたの。そのあとシャワールームで、あたしたちはがまんできなくなって激しいセックスしたの。幸乃はシャワールームのドアからそれをじっと見てくれてた。
そうして、そのあとに幸乃の小説を読んで、あたしたちは気付いたの。
彼女が撮ったのは、絵ではなくて、言葉に変換できる(なにか)だったんだって。
あたしたちの物語は、言葉になることによってクリアになってきた。あたしとパートナーは夢中で幸乃の小説を読みふけったわ。そうそう、こんな感じ、そうか、こう思ってたんだ!って。そうしてあたしたちはエスカレートしていった。時間も遠慮も忘れて、新しいプレイのことばかり考えて、1日に何度も携帯でやりとりするようになって、結局、それでバレて自爆してしまったんだけどね」
「幸乃が、悪いことをしてしまった」
僕は、なんて言っていいかわからずにそう答える。
「とんでもない! わたしが今、こういう職業を選んでいるのも幸乃のおかげ。わたしはそれを後悔したことなんて一度もなくって、むしろ感謝してるくらい。だから、わたしがカヲルを紹介したの。いつかカヲルの物語を書いてほしいって。カヲルは幸乃とメールのやりとりをするようになって、それがすごく楽しいって言ってたわ。言葉で説明するってすごい、幸乃が言葉にしてくれるってすごいって、いつも嬉しそうだった。さっきカヲルが言ってたじゃない。カヲルの物語にとりかかることなく幸乃は死んでしまったんだって。残念だけど、残念じゃないこともあるって。出会えたこと。話せたこと。自分にアイデンティティを与えられたこと。今でもそのことに感謝してるって」
酔って眠っているカヲルの細い指を僕は静かに触ってみる。
外から見たら自信たっぷりに奇異な格好を楽しんでいるカヲルの、繊細なその指をしみじみとぼくは感じていた。
「僕はクルミに会えてよかった。 幸乃はへんな小説を書いているわけのわからない妻だったけれど。それでも、誰かにそう言ってもらえてよかった。今更だけど、そんな幸乃を知れて、僕はほんとうによかったと思っている」
そう言って僕はクルミと固く握手して、それからカヲルの肩をゆすって起こした。
さあ、カヲル、そろそろホテルに帰ろうか
* * * * * * * * * *
18 ・ 太郎
足取りもおぼつかないカヲルを、ホテルの部屋までなんとか歩かせた。
カヲルは青ざめた顔をしている。なんだか、こみあげてきそうだ。
トイレを抱えてしゃがみこんだカヲルの背中をさすった。
筋肉がごつごつしてなくて、しなやかで柔らかい背中。その感触に錯覚しそうになってしまった。
「バカですよね?、わたしも。クルミに会えるかと思うと、なんだかすごく嬉しくて。ほとんど飲めないお酒までもおいしく感じてしまって。タロウさん、ほんとにごめんなさい」
そう、心底後悔したような声でカヲルがビジネスホテルの狭いシャワールームのトイレに座り込んでいる。唾液のような吐瀉物が口元を汚し、僕は濡らしたタオルをカヲルに差し出した。
カヲルは心底すまなそうな顔をして、その長いまつげを伏せた。
「気にしないで。僕はカヲルに感謝してもしたりないくらなんだから」
そう言ってカヲルの脇の下を抱えて、ベッドまでまた歩かせた。
派手な柄の着物の足下がはだけたままの格好で、カヲルがベッドに倒れ込む。むだ毛のひとつもないつるんとした足は天性のものなんだろうか? それとも手入れのたまものか?
そんなことをぼんやりと考えていると、カヲルはしきりに浴衣の帯のあたりを指で探りはじめる。
「帯が苦しくて、でも、結び目が見つからなくて。タロウさん、見てくださいますか?」
僕は浴衣なんてわからないし、困ってしまってたけれど、それでもカヲルの指さすあたりを探ってみると、なるほど、結び目のある太めの紐を見つけることができた。
「ごめんなさい、これをほどいてくださいますか? そうすれば、帯もほどけるんです」
きつく結ばれた紐。僕はその結び方をどういうふうにすればカヲルが解放されるのかわからなかったけれど、悪戦苦闘するうちになんとかほどくことができた。
「ああ、ありがとうございます」
そう言ってカヲルが後ろ手で帯を触ってゆくうちに、浴衣の帯はするりとベッドの中を泳ぎだした。
「ああ。 ほんとにありがとう。ずいぶん楽に......」
カヲルの薄くて透明なくらいに白い胸板があらわれた。
つるんとした陶器のようなやわらかな胸。
女性のようなふくらみもない胸に僕の目が一瞬のうちにくぎづけになってしまう。
そして、目をそらす、けれど、そんな僕の狼狽ぶりはカヲルの目にはどう映っていたんだろうか?
「すみません、ちょっとのあいだでいいから......おねがい」
そう言って僕の腕の中にカヲルがなだれこんでくる。
瞬間、火花が飛んだ。
頭の中に。
小さな爆発。
そのとき細い糸が切れた。
カヲルを強く抱きしめる。
なにがなんだかわからない。
わからないままに両腕が震えた。
震えながら、その腕の中のカヲルが壊れないようにぎゅっと抱きしめて。
そうして、その唇を求めて、何度も舌を絡ませていた。
気がつくと僕は、カヲルをあり得ないくらいに強く、震えながら抱きしめ、声を殺して泣き続けていた。
* * * * * * * * * *
19 ・ カヲル
わたしはなにひとつわかってない。
わたしは自分のことなんてなにひとつわからないのです。
わたしはたしかにヘンなシュミだったけど、その中には、男性に対する思慕なんてなにひとつなくて、むしろ、男っぽさの残る自分の体つきさえも嫌いなくらいで。
なのに、はじめて会ったときから、太郎さんはいいなあと思っていた。
なにがいいのか分からないけれど、適度にしなやかでたくましい腕とか、幸乃のことを思い出すときのちょっとうつむきかげんの感じとか。
ああ、わかるよ、幸乃。あなたがなんで太郎さんを好きでいたのか。それだけは手に取るようにわかるよ。
太郎さんと話すたびに、わたしは心の中で幸乃にそう語りかけていました。
まるで静かに立っている一本のまっすぐな木のように、太郎さんは心のブレない人だったのです。悲しみも、何もかも、揺れることなく、静かにその肢体の中にたたえてた。
その静かな心に、幸乃はきっと、誰よりも安心して何もかもを預けていたに違いない。
そう思いながら太郎さんを見つめていると、いつのまにかわたしは幸乃になってしまったような気がして、懐かしさと溢れる気持ちで心がいっぱいになってしまうような錯覚に陥ってしまった。
太郎さんのシャツから覗き見える腕の動きとか。
そんなものを離したくないと思うようになってしまった。
クルミを待っている間、ふたりでバーのカウンターにいるときに、別になにを話したわけでもないのに、わたしは確信したのです。
幸乃になって、この人に抱かれたいと思っている気持ちに。
今、わたしの背中には太郎さんの両腕がきつく絡まっています。
しわくちゃになったシーツの海の中にぽっかりと二人だけで浮かんでいます。
わたしたちは絡まったまま、ホテルのベッドで唇を合わせたりお互いの性器をむさぼりながら、ほのかに震え続けているのです。
彼がまたカヲルという人間に同じ感情を抱いてくれているなんて、そんな虫のいいことを考えるほど、わたしは脳天気な人間ではありません。
彼が望んでいるのは、悲しみの共有だったり、幸乃の不在の共有だったりして。
わたしたちは、まったく違うものを抱えながら、こうして一緒にいるだけのこと。
それでもわたしは、触れられていたかったのです。
太郎さんが、わたし以上にこのわけのわからない行動にとまどっているのも知っていたけれど。
それでも、わたしは太郎さんの腕と、とぎれとぎれの息づかいや、太郎さんのとめどもない涙を。
こんなふうに繋がりながら、感じていたかったのです。
ごめん。
わたしは、悲しい気持といっしょに織りなす糸が、太郎さんに絡まってゆくのを求めている。
それは不在の替わりでも、悲しみに替わるものでもなくって。
でも、そういうのも全部いっしょの言葉にならない曖昧な球体のままで。
幸乃がわたしたちを見ていました。
ベッドの傍らに座って、ちょっとだけ悲しそうだけど、それでも安堵した顔で笑っていました。
今、幸乃は同じことを思いながら、わたしたちの傍らにいる。
それでも笑いながら、わたしたちの傍らには、幸乃がたしかに座っていたのです。
* * * * * * * * * *
20・ 太郎
帰りの新幹線は空いていた。
早くに目覚めて、駅のみやげものコーナーをうろうろしたけれど、名産品のおみやげを買う相手も理由もないことに気付いて、早い列車に乗ったせいだ。
朝方、傍らで静かな寝息をたてているカヲルに短い挨拶のメモを残し、昨夜チェックインしたまま一度も足を踏み入れていなかった自分の部屋でシャワーを浴びて歯を磨いた。
部屋は、新品の足跡をつけるためだけの、意味のない新しさを輝かせていた。
本物の朝のようだと思った。もっとも偽物の朝なんてないのだけど、ずっと朝らしい新しさを忘れていた気がする。
僕自身も飲み過ぎていたのだろう。
今更ながら少し頭が痛くて、その記憶も、もやがかかったようにあやふやだった。
だけども、たしかに僕は昨夜、あの部屋でカヲルという男を抱いた。
男同士でどういう行為をすべきなのか、そういう知識はもちろんいろんな本やDVDで知ってはいたのだけれど、実は僕たちには「ほんとうの知識」なんてなにひとつなかった。
ただ、やみくもにカラダを合わせてお互いの体温を味わい、性器をむさぼり、そしてカヲルの白い液体が僕の指を暖かく湿らせた。
カヲル、君はそのことにひどく恐縮したけれど、僕がわけのわからない充足感を感じていたなんて、きっと想像もつかなかっただろうね。
今でも鮮明に覚えている。
幸乃と一緒の夜に、僕は何度も、この白い液体を彼女のカラダの中に入れた。
ときには幸乃の口の中だったり、細くて柔らかい指のあいだだったりもした。
いつも僕はその瞬間、なんだかバツの悪いような、気持ちがいいのに恥ずかしいような変な気持ちを感じてしまってたんだ。
そうして、その気持ちをなにもかも知っているかのように、幸乃が僕のカラダをぎゅっと抱きしめてくれた。
同じようにカヲルを抱きしめて、僕は、自分が幸乃に抱きしめられたときの充足感を鮮明に思い出した。
ああ、そうだね。
幸乃。こんなふうに抱きしめる幸乃も気持ちよかったんだね。
抱きしめられる僕と同じように、あのときの幸乃の感触がやっとわかったような気がしたよ。
そうだ。
セックスをしているときの僕たちは、幸乃、ほんとうに満たされていたんだね。
そうだなんだよね?、幸乃がそう答えたような気がした。
これでもう、幸乃を思い出しても泣かなくてすむかもしれない。
僕は漠然とそう思った。
丹念に歯を磨きながら、それをひとしきり味わうと、あとは何ひとつすることがなかった。
むなしかったわけではない。
やるべきことも予定外のことも、すべてやり終えてしまって、もうそれでよかった、ただ、それだけのことだ。
車窓からは、トンネルを抜けるごとに目のくらむような青葉に覆われた山々が、強い太陽の光を受けて輝いて見えた。
夏がはじまりつつあった。
そんなことさえも今まで気づかなかったんだよ、幸乃。
ねえ、幸乃。
人間はいつの時点で死んでしまうんだろうね?
カラダがなくなってしまうのが「死」にはちがいないのだけれど。
僕の感触や記憶の中にも、クルミの中にも、カヲルの中にも、カナミの中にも、幸乃はずっと生きているじゃないか。
誰かが記憶してくれるかぎり、死はけっして、君をゼロにはしない。
ゼロにはならないんだ。
生きていたことは、誰かの記憶の中でずっと続いてゆくんだ。
車内販売のワゴンが通り、僕はホットコーヒーを注文した。
咲きたての花のように目のくりんとした女の子が「あとはよろしいですか?」と、尋ねてくれた。
僕は、目の前にある、小さなクッキーの詰め合わせを指さす。その地の名産らしい、かわいらしい名前のついたクッキーだ。
忘れていた。
来週、カナミがお参りに来たいって言ってたんだ。
そのときに、これをおみやげにあげよう。
さてさて。これまでのことをどんなふうに説明しようか?
それとも説明なんていらないか?
* * * * * * * * * *
21 ・ カナミ
あれから。泣きながら目覚める朝を何度か迎えた。
わたしは後悔しても後悔ばかりで、ああ、あの夜、無理矢理にでも幸乃を泊めていればこんなことにならなかったって思うばかりで。
チエもフミも「それはカナミのせいじゃないよ」と言ってくれるけれど、それでもなにひとつ慰めにならなくって。
なのに、その日、夢の中に出てきた幸乃はこう言ってくれたのだ。
「カナミ、約束を守ってくれてありがとう。ほんと、助かったわ」って。
幸乃、ほんとにそう思ってくれてるの?
ほんとにそう思ってくれてるんだったら、もう一度お参りに行かせてもらってもいい?
太郎さんのことも心配なんだ。
顔合わせるのも申し訳ないんだけど。
幸乃がそう言ってくれてるのだとしたら、幸乃が好きだと言っていた白檀の香りのお線香をあげさせてもらっていいかな?
幸乃が、ラベンダーとかジャスミンとかじゃなくて白檀の香りが好きなんだって言ったとき、「渋すぎ?、それってお線香の香りなんだよね?」って言ってしまったことあったよね。
今頃、そんなつまらないことばかり、いっぱい思い出すんだよ。
グリーンカレーが大好物だったとか、ちょっと真面目なことを言ったあとにはビリージョエルの「honesty」のサビのところを歌ってごまかす癖とか。
わたしが古すぎだよその歌、って言ったら「何言ってんのよ、ビヨンセだって歌ってるんだから! 名作だよ」って言い返したよね。
あれからわたし、テレビでビヨンセの歌まねするタレントが出てくるたびに幸乃を思い出すようになってしまったんだよ。
昨日、太郎さんがメールくれた。
旅行に行ってたんだって。わたしにおみやげ買ってきてくれたんだって。
太郎さん、どこに行ってたんだろうね?
なんとなくわかったんだ。
わたしが行きづらいと思って気をつかってくれてるんだって。
幸乃が生きてたら、きっとこう言うんだろうね。
「そうなんだよね?。太郎ってそういうヤツなんだよね?」って。
わたしもフミもチエも、そしてもちろん太郎さんも。
幸乃はこういうときになんて言うのか、今でもよくわかっているから。
このまま幸乃のケイタイにメールで送ってみたら、返信してくれるんじゃないかって気分になってしまうんだ。
* * * * * * * * * *
22 ・ 太郎
新しくて小さな仏壇に手を合わせたカナミに小さなクッキーを差し出すと、その顔が少しほころんだように見えた。
「ずいぶん遠くまで行ってきたのね、旅行?」
カナミが尋ねる。
観光地の名前入りのクッキーだ。そうか、これを差し出すと説明が省けるわけなんだな、と僕は思う。
「幸乃の友達がSNSにメッセージをくれたんだ。それで、結局会いに行ってしまった」
本当はそれまでのやりとりがいろいろあったんだけど、とりあえず説明は省いてみる。カナミは一体どこまで知っているんだろうか?
「カヲルという男性とクルミという女性。カナミはこの二人のことは知ってる?」
カナミは首をかしげてしばらく考える。
「カヲルというHNの人は、幸乃のSNSで見かけたことがあるような気がする。でも、クルミって名前は覚えがない。幸乃はいろんなページにいろんな知りあいがいたみたいだから、そっちの方じゃないのかな? わたしは、他のページのことはよくは知らないの。とにかく、いろんなところに顔だしてたみたいだし」
「正解」
僕はそう言って、心の中で少しだけ微笑む。
だってさ、幸乃。僕だけが知らなくてカナミが知ってたら、僕は自分だけが仲間はずれにされたみたいで、ちょっと落ち込んでしまうじゃないか。だから、カナミは納得いかなくても、知らなくて正解。きみの「ひみつのシュミ」はほんとにほんとに秘密だったんだな。
「ブログとかよそのページの繋がりで、幸乃が知り合った友達らしいんだ。それで、迷惑だと思いながら、つい、遠出してしまった」
「いろんなことがわかった?」
「わかったこともあれば、わからないことも。でも、僕にとっては新鮮だったよ。インターネットの世界でどこを切り取っても、幸乃はどこまでも嘘のない幸乃だった。そうして、そんな幸乃を好きでいてくれた人がいたことも。ごめん、たいしたことじゃないんだ。ただ、僕の中ではいろんな驚きの繰り返しで。でも、ほんとに、会いに行けてよかったと思っている」
「そう。なんだか安心した。太郎さんが、そう思える人に出会えて、ほんとによかったなあと思うよ、わたし」
上品な白檀の香りが部屋中に充満していく。
僕たちは薄手の半袖姿だが、それでも汗ばむほどではない。
エアコンを入れるほどではない。今年は夏が遅いのかもしれない。
「ねえ、カナミ」僕は最後にひとつだけ疑問に思っていたことをカナミに尋ねようと思った。
「どうして幸乃は僕と結婚したんだろうね? 僕たちは、ケンカもよくしたけれど、そんなに仲の悪い夫婦じゃなかった。でも、僕と幸乃はぜんぜん違う。性格も行動もいろんなシュミも。夫婦であること以外に接点はないんじゃないかと思うくらいに接点と呼べるものがないんだ。振り返ってみて、もっと別の人でもよかったんじゃないかと思うこともあるし。あるいは、そうだったら違う人生だったのかもって......」
「人間は自分にはない遺伝子を本能で求めるものなの。太郎さんは、幸乃が持っていないものを持っていた。そういうものを人間は求めるものなの。同じような人間ばかりで群れてたって、同じように間違えて同じように滅びてしまうかもしれない。だけど、自分と違うアプローチができる人間と一緒にいれば危険回避できることだってある」
カナミがまる暗記したかのようにスラスラとそう答える。
そうして、そう答えたあとに、カナミは目を見開き沈黙する。まるで怒っているような顔だ。
それから、カナミは天井の方を見上げて、こう叫んだ。
「幸乃! いちばん大切なことを、いつもそうやって適当にはぐらかすの、あんたの悪い癖だよ。もう、いいかげんに、そういう言い方やめようよ。昔、わたしに話してくれたじゃない。太郎さんは、自分が持ってないものを持っているところが好きだって。それがすごく羨ましくて、安心するって。あんなふうにはなれないだろうけれど、ときどき、それを真似てみようと思うって、そういうのってちゃんと言わないと伝わらないものなんだよ!」
「ありがとう、十分に伝わったよ」
僕はそう言うので精一杯だった。
白檀のお線香の煙が、ふわりと方向を変えて、僕の耳のうしろあたりをするりと撫でた。
* * * * * * * * * *
23 ・ 幸乃
まったく、カナミには叶わないなあ。
そうだね、カナミの言うとおりだよ。
太郎に感謝してることはいっぱいあるのに、わたしはあいかわらず、そういうことさえもいまだに上手に伝えられないんだ。
わたしに、こんな友達がたくさんいてほんとによかったよ。
わたしが言わなくちゃいけないことは、他のみんなが全部伝えてくれたよ。
「やっちまったことは仕方ない」
けれど、それでも、ほんとは何度も後悔したんだ。
それで、泣きそうになったこともあったけど、もう、いいよ。
わたしは続いている。
みんなの中で続いている。
もう、それだけで十分だよ。
ああ、そういえば、ひとつ忘れてた。
ココナッツミルク味のタピオカデザートを食べたいって太郎が言ってたから、前に、輸入食品の店で見つけて買ってたんだよ。
缶詰のココナッツミルクと、乾燥したタピオカ。
いつか、休みの日に作ってあげようって思って。
でも、結局作ってあげれなかったね。
食器棚あけて、すぐ右側のはしっこに置いてたんだけど。
いつか気付いてくれるかな?
大丈夫、賞味期限は長いし、パソコンからプリントアウトしたレシピも折りたたんで一緒に置いてるから。
いつの日か。
見つけたら、自分で作ってみてね。
Fin
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