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短編フラッシュ33
(05年7月~06年12月)
ラーメンランチ
日曜のお昼にラーメンを食べに行った。
店内は混んでいて、夫が背の高い店員に声をかけて注文をした。
「え?、と。ラーメン並みが4つにごはんひとつ、ホルモンひとつですね、辛さはどうしますか?」
「ふたつがバイカラ、ひとつはふつう、もうひとつは辛みぬきでお願いします」
と言ったけど、店員の顔は見てなかった。背が高くて見上げるのも面倒だったから。
「おかあさん、いまの、みっちゃんだったよ」
とナツミが言ったんでびっくりして見てみたら、たしかにみっちゃんだった。薄く剃った眉をつりあげて、みっちゃんが照れくさそうに笑っていた。
高校1年の夏、はじめてのバイトなんだろう。ずっと手持ちぶさたそうに立っている。だけど、テーブルの片づけだけは一生懸命やっている。まだ、できることが少ないんだな、と思った。
「お待たせしました?」
店主らしき別の男性とみっちゃんがふたりでラーメンを運んできた。
「え?っと、バイカラはどちら?」
とか言いながら丼を置いて、それから店主が伝票を確認する。ごはんとホルモンがまだなのに気づいた。
「おい、ごはんとホルモン、持ってきてないよ、先に持ってくるんだよ、お客さんすいませんね?」
と言って、すぐに持ってきてくれた。
みっちゃんはわたしたちの前で怒られたから恥ずかしかっただろうか?
恥ずかしかったかもしれないけど、傷ついてはいないと思う。
みっちゃんが傷つくのは悪意のある言葉だけで、そんなものにはたくさん傷ついてきたけど、真面目な忠告はまっすぐに受け止められる子だからだ。
それからもみっちゃんは背筋をピンと伸ばして、自分のできる仕事が見つかるのを、じっと立ったまま待っていた。
「すいませんね?、ごはんとホルモン、遅くなっちゃって」
と、支払いのときに店主が言った。
「あ?、ぜんぜんかまわないです?」
と答える。
ホルモンが遅くったってぜんぜん構わないです。その代わり、みっちゃんのことをよろしくお願いします。みっちゃんのご両親とかまわりの大人とかわたしとかが、教えられなかったことをいっぱい教えてやってください。ほんと眉毛ないけど真面目な子なんです、ただ傷つきやすくて回り道が多かっただけだから。
彼が自分が仕事したことを誇れるように。どうかよろしくお願いします。
と、心の中で店主にお願いしてきた。
無数の小島が浮かぶ入り江
最近、そういった場所をよくイメージする。
夕日の浮かぶ入り江に大小の島がいくつも点在しているのだ。
悲しみのことを考える。悲しさで頭がいっぱいなのに、喉が渇いてコップの水を飲み干していたりする。悲しみとはまったく関係のない音楽が頭の中に流れていたりもする。
喜びのことも考える。嬉しいのに、この嬉しさと別のものも同時期に頭の中にある。あ、嬉しいけど、帰ってごはん食べなくっちゃとか。終電の時間に間に合わなくっちゃ、とか。もしくは明日の仕事は忙しいな、とか。
いつもひとつのことが頭の中にあるようなのに、数分後には違うことを考えていたり。
そういうふうに散乱している自分の頭が、面倒くさいと思っていた。
最近、自分の頭の中は九十九島が点在する入り江のようなものだと思うようになった。
たとえば、わたしはある島の浜辺でとても深い穴を掘っている。それは、だいたい懐疑とか憎しみに満ちた深い穴だ。
だけども、ふと顔をあげれば、遠い空には夕日が輝いている。それをきれいだな、と思う瞬間、わたしは憎しみに満ちた深い穴をひととき忘れられる。
穴を掘るのをやめて、小さな小舟を漕いで違う島に渡ることだってできるし。
穴の中から這いだしたヤドカリにしばし心奪われることだってできる。
「とらわれない」ということをずいぶん長いこと意識していたけれど、頭の中でわかっていても「とらわれる」ことをずっと辞めることができなかった。
この入り江を思い浮かべたとき、はじめて、「とらわれない自分」がイメージできたような気がした。
散乱している感情は悪いことばかりではないと思う。
ただ、空を見上げるだけで、スライドショーのように変わっていけた。
頭の中の小宇宙は、こんなふうに点在している島の集合なのだと思う。
悲しいとき、どうしたらいいかわからないときに思い浮かべる、無数の小島が浮かぶ入り江。
そんな簡単な光景が、自分を救ってくれるなんて、思いもしなかった。
家路
信号をわたって
ひとつめのかどをまがりしばらくあるいてゆくとこんなふうだ
生い茂る草と
イキモノたちのにおい
スナック菓子の断片を
アリが運んでゆく気配
ああ
わたしの家が近い
誰もが持っているはずのとうめいなコートを
失くしていらい
わたしはいつもずぶぬれだ
おかえりとも言わず
そそくさと逃げるものたちよ
それでも満ち足りる
わたしのことがわかるか?
夜の空・夜の道
君と夜の道を歩いていると、とつぜんふたりで井戸に落ちてしまった。
そう思ったくらいに、その日の秋の夕暮れは短かったんだ。
まあ、いいさ、落ちちまったもんは仕方ない、ハンバーガーでも食べようかと、ふたりで紙の包みをカシャカシャやったのさ。
望遠鏡のような筒状の井戸の向こうに、月が見えていた。
少し欠けた半月、上弦の月。ぷくっとしてて、まるで膨れたほっぺみたいだった。
それからふたりで短い話をいっぱいした。
いや、話しているのは君ばかりで、ずっとそれに頷いていただけ。
それからだんだん眠たくなってきた。
いや、話がつまんなかったんじゃなくって、すごく気持ちがよかったんだ。
心地よい声のくすぐりが、脳の中をとろとろにして、君の声にはたぶん、わたしを眠たくする脳内物質が含まれてるんだろう。
移動する月が、井戸の端から逃げていった。足の速いうさぎだ。
シャツごしに触れる二の腕の感触をこのまま味わっていたいけれど。
ああ、もう、どうでもいい。気持ち、いい。ねむたいねむたい。
ここから出られるのかな?
どうやったら出られるのかな?
いま、君はそう言っているんだね、たぶん。
ほんとにそう思ってるかどうかわかんないようにしか聞こえないよ。
夜が明けるまでの暗い道に戻れば。また夢中で歩くうちに、離ればなれになってゆくんだろう。
わたしたちはブラウン運動を繰り返すコウモリだから。
一瞬の井戸の記憶さえも、そのうちに薄れてゆくのだから。
ああ、もう、どうでもいいよ、ねむたいねむたい。
少しだけ、目をとじて、もたれかかってもいいかな?
目覚めたときに誰もいなくったって。
つかのまの、夢の記憶を恨んだりはしないから。
夢を見た
こんな夢を見た。
その男の顔をわたしは見ていた。
哀しそうな顔をしていた。
「この感覚とか感情とかを、僕はうまく言うことができないんだ」
と、男は言った。
わたしは男の手を掴んで、わたしの頬を触らせた。
「一生わからなくていいよ。ずっと、わからないままでいよう。わからなかったら、たぶん、こうしていられるから」
そう言って、男の中指を口に含んで軽く噛んだ。
なのにその朝、指先に痛みを感じて目をさました。
痛かったのはわたしの方だった。
いや。
あの男はわたしだったのかもしれない。
君のような月
夜に車を運転してると、左前方に大きな満月がありました。
東に向かうメインストリートの両はじの景色はどんどん変わるけど。
デパートが郵便局になってイタリアンレストランの看板が教会の入り口になろうとも、信号が青に変わって急発進させてみようとも。
ずっと視界のすみっこの満月だけはいっしょに走ってゆくのです。
君のような月だと思いました。
カタチが変わっていろんな印象に見えるところも気分の塞ぐ雨の日にはけっして見えないところもずっとそこにあるはずなのにうっかり存在を忘れてしまうところも。
みんな含めて、君のような月だと思いました。
いつかは消える存在であることは君もわたしも変わりなく、長い年月をのぼってゆけばその月もまた存在しなくなるものかもしれません。
今だって、この信号が変われば今度は右折して、すぐに月は見えなくなってしまうのです。
しかし、君のような月だと思った記憶は。
つぎに月を見る日も何年も先に月を見る夜も月の見えない夜にも。
永遠のように脳細胞の片隅に残ってくれるような気が今はしているのです。
練習曲
列車に乗って何か食べてコーヒー飲んで車窓を眺めてキオスクで買った雑誌読んで、それから少しまどろんで、持ってきた文庫本読んでまた車窓を眺めて。それを長い時間繰り返していくと、だんだん気持ちの高低がなくなっていった。それは平坦というよりも、マーブルのように絵の具が交じった状態に近いと思う。そうして、そのときにいつも、わたしはなにかに出会うのだ。
その「なにか」に出会うために、わたしは長時間の移動を好んでいるのだと思っている。
それは邂逅でもなんでもない、いつもは思いもしないような、些細でいて、ただちょっと風変わりなことだ。
わたしは今、いつか死に旅立つための練習をしているのではないだろうか?
わたしはそんなことを考えていた。
短い旅に出ているあいだ、夫も子供たちもわたしがいない日常をこなしていた。
そもそもわたしは「いないと困る」人間ではない。
もちろんいないと困るのが日常なのだけど、それが永遠には続かない。
わたしは永遠にいないと困る人間ではいられないのだ。
一方でわたしはいつか、地図も持たずに知らないところにひとりで行かなければならない。
そのときに、走る列車あるいは長い川をくだってゆく小舟に身を任せなければならない。
慌てても泣き叫んでも、そうして身を任せることしかできないのだ。
旅は、その日のための練習曲を奏でる作業なのような気がしていた。
それが悲しい作業だとは思わなかった。
だんだんそういうふうにして、必然である死を少しずつ自分の中に取り込んでゆくことが必要になってきたのだろう。
おみやげを抱えて家に帰ると、子供たちは無邪気にその包みを開けて、柿の葉でくるんだお寿司の個数を数えながら、小さな口に放り込んでいった。
夫が作ったおにぎりの具のなかでいちばんおいしかったシーチキンマヨネーズの味を延々を喋り続けていた。
ほら、彼らは、こんなふうに、わたしのいない日常を生きていけるではないか。
自分を過信しない方がいい。
いつか取り戻せない喪失のあとでも、彼らがこんなふうに生きていけるようにと、ちいさく願った。
もちろん、わたしはいつまでもこのままでいたいけれど。
家族の誰ひとりも欠けることを望んでいないけれど。
それでも、昨日誰にも言わずに、ひとりで練習曲を奏でてみた。
今日からもうしばらくは、その練習曲は奏でない。
猫の爪
白い木蓮のつぼみは猫の爪に似ていた。
そう思ったわたしは、だれかに傷つけてほしかったのかもしれない。
肌にやわらかく爪をたてるみたいにして。
その傷あとが深く心の底にまで残ることを望んでいたのかもしれない。
そう思って空を見上げていたら、どんどんあたたかい陽の光が降り注いでいって。
猫の爪は、やわらかく丸めた白い毛糸玉のように膨らんでいった。
お互いを傷つけぬようにと、ようやく丸いやさしさを手に入れたのに。
それでも、傷つきたくなるんだろうな。
むきだしのきもちが。ときにはほしくなるんだろうな。
彼女の地雷・わたしの地雷
北天神のカフェの二人がけの椅子に座ってアイスティーを飲みながら、ひさしぶりに長い時間をかけて話をした。
彼女のストレートの猫っ毛は自然な感じの栗色で、昔とちっとも変わらない。
それからわたしはときどき彼女の地雷を踏んでしまう。これも相変わらずのパターンだ。
それが何なのかは、踏んでしまうまでわからないものだから、わたしには用心しようがない。
一緒の職場にしばらくいてから、わたしは結婚して仕事を離れ、彼女はステップアップして別の会社でもっと責任のある仕事をしている。
たとえば、何気なく噂した昔の同僚が彼女と今絶好状態にあることを知らなかったり。聞かれるままに自分の子供の成長を喋っているうちに、彼女自身がなんとなく不安な気持ちになってしまっていたりして。
それで地雷を踏んでしまったことにわたしが気づくのだ。
彼女は無意識に地雷を踏んでしまったわたしを責めないけれど、どんどん話のトーンが落ちてゆくのがわかる。そうして弱々しく笑って「まだ買い物があるから」とか言って席を立つ。
わたしは何度かそういう場面に遭遇しては、ああ、とか思うけれど、それ以上心配することも最近はなくなって、また時間がたって一緒にお茶でも飲めればいいなと思って、しばらくそのまま椅子に座っている。
休日が終わりに近づいた薄闇の中で彼女はどんなことを考えるのだろうか、と思う。
それでもそんな彼女がわたしは好きなのだ。
いつまでたってもハガネのように無神経になれない彼女が好きなのだ。
きっと何年たってもそのことを彼女は説明しないだろうし、説明されたってわかりっこないだろう。
地雷は不幸にもたまたま、わたしが歩いた場所にあっただけ。だから、恨みはしないって思ってくれてるような気がして。それでまた、いつかの日曜日に会いたいなと思ってしまうのだ。
ねえ。
わたしたちはたぶん、かつて同じ人を好きだったんだよね。
時期は違うかもしれないけれど、わたしたちはある時期、同じ人を好きだったんだよね。
それは、のちのわたしの結婚相手とも違うし、彼女が結婚しようと思っていてぎりぎりに破談にしてしまって大騒ぎになった相手とも違う。
お互いに、すごく微妙な時期にわたしたちは彼に惹かれていたのかもしれない。あるいはそれは「好き」というよりももっと微妙な惹かれ方だったのかもしれない。
彼女はそれを尋ねることが、わたしの地雷だと思って用心深くそのことを避けてるのかもしれない。
あるいは、それもまた、彼女自身の地雷かもしれない。
だから、わたしたちは、けっしてそのことを口にしない。
たぶん、一生、わたしたちは、そのことを話さないにちがいない。
だけど。
その人に惹かれたことを含めて、わたしは彼女のことが好きなのだろうと思っている。
アイスティーの氷が溶けてしまって、グラスが汗をかきはじめた。
そろそろわたしも席を立って、自分の家に帰ることにしよう。
推測は永遠に推測のまま。
謎は永遠に謎のまま。
ひっかかりの多い崖
ウツは嫌いだ。
ウツ状態の自分が嫌いなので、なるべくならないように気をつけている。
ウツになったらとことん落ちこんで、それでまた上がればいいじゃないかと思う人もいるかもしれないが、なかなかそういうふうに思えない。
ウツは記憶として残る。
自暴自棄になった記憶。他人を意味もなく憎んでしまった記憶。
どんなにいい状態に戻ったとしても、記憶を消すことはできない。
あのときわたしはあんなふうに思ったんだという記憶が、自分の人間性も揺るがせる。
いい子すぎなのかもしれない。
でも、できれば、意味なく誰かを憎むことなくすごしていたい。
その日は仕事の段取りがうまくいかずにあせっていた。
帰ったらクスリを飲みたいと思ったけれど、まだまだやるべきことが残っていた。
所用で高層ビルの一階に入った。そのときに襲われてしまった。
このビルの屋上から飛び降りるイメージに。
イメージがどんどん頭の中に広がってゆく。
紙のようにふんわりと、そこから身を投げるイメージ。
「そうしなければいけない」というわけではないが、そのイメージにだんだん自分自身が重なっていくのがわかった。
飛び降りてはいけない。
これは、心の中の黒い塊が見せる妄想なんだ。
そう思って、エレベーター脇の手すりを握りしめた。
ぎゅっと握りしめて泣いた。
こわくて泣いた。
かよこさん・・・
かよこさん、助けて、と心の中で呼んだ。
かよこさんは年が少し上の知り合いだ。
わたしが落ちこんだときにやさしい言葉を何度かかけてくれた。
かよこさんに帰ったら、このことをメールしよう。そうしたらきっと、わたしに一番ぴったりの言葉をかけてくれる。
そう言い聞かせて残りの仕事に没頭した。
家に帰ってかよこさんにそのことを話すと、やっぱりいつもどおりに安心させてくれる魔法の言葉を当たり前のようにかよこさんがくれた。
もとの命が戻ってきた。
数日後、また別の知り合いのその日のことを話した。
「踏切や高層ビルでそういうイメージにとらわれることは多いんだよね。珍しいことじゃない」
精神疾患に詳しいその人は言った。
「自己破壊衝動って言うんだよ。ムラカミハルキの小説を読むと僕は、いつもそのことを思い出すよ」
「村上春樹? たとえばどの作品に?」
「うーん、今、どの作品ということは思いつかないけれど。一貫して、そういうものを感じるんだ」
帰ったらムラカミハルキを読み返してみようと思った。
そうだ帰ったらムラカミハルキを読もう。そう思って読むべき作品をそれからずっと頭の中に並べ続けている。
ある日、ただの平らな野原がとつぜん途切れ、切り立った崖が現れる。
落ちる・・・
そう思っていても、わたしの崖はでこぼこで、けっして真下まで落下できないようになっているのだ。
そうイメージしようと思った。
かよこさん。
ムラカミハルキ。
あと・・家族とか・・・週末の約束とか・・・昔の思い出・・・楽しかった記憶・・・ただ当たり前にやってくる未来が連れてくるもの。
生きて生活しているかぎりわたしには、自分の服をひょいと掴んでくれる、いろんな「ひっかかり」があるんじゃないか?
もちろん、運悪くどこにも引っかからないときもあるかもしれないけれど。
わたしの崖には引っかかりが多い。
これからは、そういうふうにイメージしようと思った。
その空が言った
一生答えの出ないものを抱えて生きてゆけ と
その空が言った
生きているのは何のため とか
どういうふうに生きればいい とか
この世界には
おまえのための理由などない
自分の中の混沌を説明できないのと おなじく
他のものたちの混沌を 説明できるわけがない
それを 思い悩むのが
おまえの傲慢だ と
その空が言った
季節がめぐり 赤い花が背高く 伸びるのも
雲に覆われて 雨が地面をぬらすのも
見上げている 空が青いのも
ただ そこにあるだけ
当たり前としてあるものに 理由なんてない
偶然としてできあがった世界に 意志なんてない
それを神の意志を呼びたいのなら 勝手にそうすればいい
自分が存在することに感謝したいのなら 勝手にそうすればいい
だけども おまえ自身が存在していることに 理由なんてない
理由を探すのが おまえの傲慢だ
一生答えの出ないものを抱えて生きてゆけ と
その空が言った
なにひとつ答えのない世界を そのまま抱えて生きてゆけ と
その空が言った
空は たしかにそう言った
いつかは砂糖菓子にかわる
昔住んでいた町に降りた。
とりあえずふらふらと東口に行くと、いつも乗ってた62番のバスが止まっていた。
すごくさみしい気分になった。
大橋はさみしかった。
あの頃のわたしはまっすぐにさみしさを直視できるくらいに若かったけれど、逆にいえばさみしさを他のものに転換する方法も知らなかった。
あれだけよく遊んで麻雀して、さみしいはないんじゃないかと思うけど、駅の降りるだけで思い出すくらい、どこか満たされないさみさしさがあったんだと思う。
あれからずいぶんだったけれど、いまだに満たされないさみしさとずっとつきあい続けている。
だけど、それを転換する方法だけは身につけたように思う。
さみしさや切なさは、ずっと噛みしめているうちに、とても甘い砂糖菓子のように口の中に広がってゆくのだ。
切なさを抱えるのは甘く心地よい。
それが広がってゆくのを感じながらあたたかい毛布をかぶる。
砂糖菓子のように口の中で転がしながら、まどろみに落ちてゆく。
むし歯にはならない。
それは、ただ身体が求めている甘味なのだから。
駅を横切る若者たちはみんな、あの頃のわたしみたいな顔をしていた。
誰かと歩いていても、ひとりぼっちでも、変わりなく絶対的なさみしさを抱えているように見えた。
その中にわたしはいないか、と、探してみる。
いたら、教えてあげたい。
抱えて生きよ。と。
それがいつか砂糖菓子のように甘くなって、ある意味心を支えるものになるのだと。
あの頃のわたしがここを通ったら教えてあげたいと思った。
だけども彼女はそれが、ある種の宗教の勧誘かなにかのように耳を塞いで通りすぎるだろう。
きっと、そうするに違いない。
それは、言われてわかることではない。
わたしというひとつの身体とずっとつきあい続けて、その中から生まれてくる感情なのだから。
たくさんの時間が通りすぎるまでは、けっして気づかないのだろう。
トカゲのしっぽ
ああ、そうか、いつも見えているアレは、トカゲのしっぽだったんだなあと、今日やっと気づいた。
青くてテラテラ光っている。
アスファルトの暗がりの中でも、ほんのりとそこにいる。
そこに見えないときも、ずっとずっとそこにある。
トカゲのしっぽが思い出させるのはいつも、わたしが生きているってことだ。
たまたまわたしがこの時間に生きていて、それがずっと続いて、誰かと別れ、誰かと出会い、それを繰り返しながら、いつかこの身体がなくなってしまい、そのあとも、ここにあるわたしの居場所とか月の光をうけて立つ柿の老木とかが、なにもなかったように続いてゆく、というようなことだ。
生きてるってことはもっと当たり前のことなのに。
トカゲのしっぽは、当たり前のことを当たり前と思わせてくれなくて。
わたしとかわたしのいる世界を俯瞰した場所まで・・・
そんな場所になんていたくないのに。
明け方の夢の中ではみんないなくなっていた。
わたしと、遠い場所にいる友だけが生き残って、わたしは家を離れてそこでふたりで暮らすことにした。
待てよ。
ほんとにみんな死んでしまったの? どうしてわたしとあの子だけが残ったの?
どうしてわたしは知らない町で暮らすの?
トカゲのしっぽはいつも、わたしの大切なものたちが、いずれは消えてしまう存在だってことをずっとずっと忘れるなって言うのだ。
わたしはそれが大きらいだ。
もっと当たり前のように、みんなと一緒にいたいのだ。
夢から覚めるとき、トカゲのしっぽが左右に揺れた。
ちょうどバイバイするみたいに。
ああ、やっといなくなってくれた。
トカゲのしっぽが見えるのはいつもこの時期だけだ。
なのに、その時間はいつも永遠のように思えるのだ。
わたしはこれから、トカゲの記憶を洗い流すために血を流すのだ。
子宮をふり絞って。
記憶を洗い流すのだ。
トカゲのしっぽの見えない世界では。
もっとなにもかもが、当たり前のように動いていてくれる。
GIFT
「川沿いの道をさんぽしてみない?」って、みさ子に誘われたのは12月になってすぐのことだった。「大きな川の河川敷にサイクリングロードがあるじゃない、あそこをどんどん上流の方に行ってみるの。いいと思わない?」
正直あまりいいアイディアとは思わなかった。12月の河川敷なんてどれだけ寒いか想像するだけで憂鬱だ。
わたしたちはどこかへ行くときは大体シュウヘイの小さな軽自動車で三人で出かけていたし、わたしの自転車なんてすごいポンコツでどこまで行けるかわからない。
みさ子はバイト先のお給料で、最近近所のスーパーで赤い自転車を買ったばかりだった。1万円を切る自転車ってどれくらい持つんだろうね? 長距離はきついだろうけど、ま、近所だけでもあったら便利だからいいか、そう言ってみさ子は茶封筒から一万円札を出してお金を払い、防犯登録をしても25円のおつりが来たよって笑った。
もうシュウヘイはいないから、わたしたちはシュウヘイのクリーム色の軽自動車をアテにするわけにはいかないのだ。
大学が別々のわたしたち3人は、小さな居酒屋のバイトで知り合った。週に二日、わたしたちは土日のメンバーだ。
美大で絵を描いているみさ子は手先が器用で盛りつけがきれい。シュウヘイは洗い物が手早い。そうしてわたしはもっぱらお運び専門で、あとに時間は洗い終えた食器をせっせと拭いているだけだったのだけど。40代前半の髭の店主も「チームワーク抜群だ」と褒めてくれた。もっと曜日を増やしてもいいのに、と言ってくれるけれど、みさ子は課題が忙しくてこれ以上は無理だと言うし、シュウヘイは平日はバスケットの愛好会に夢中だった。
仕事が終わるとシュウヘイが軽自動車でわたしたちを送ってくれる。道順でわたしが最初に降りて、それからみさ子を送る。
わたしは、シュウヘイのことが好きだったけれど、結局シュウヘイはみさ子とくっついてしまった。シュウヘイのくったくのない太陽のようなところに憧れていたけれど、そのことをみさ子に言わなくてよかったと思った。
言わなかったおかげで、わたしたちはずっとそのまま3人でいられた。
3人でバイトの帰りに夜中のドライブをしては笑い、24時間のファミレスで延々と好きな映画の話をしては盛り上がり、みさ子のスケッチブックを見て同じ感情に浸ったりもした。
「不思議だよな。ただの、エンピツの青空なのに、みさ子の絵って、すごく、祝福されたみたいに光り輝いてるんだ」
「うん、わたしもそう思う。キラキラしててすごくきれいな感じ」
「ありがとう。そう言ってくれて。自分の感じたものを人が感じてくれたらいいなと念じながら描いたの。感じてくれて、ほんと嬉しい!」
「おまえ、いい絵描きになれるよ」
「うん、なれたらいいなと思っている」
そう言って、みさ子はつやつやのストレートの黒髪を揺らして笑った。
自分の中にある小さな所有欲をのぞけば、世界はすごく楽しかった。楽しい日々の風景が、みさ子のスケッチブックに加えられてゆく。わたしは何も創作できなかったけれど、それでもなにかが生まれる瞬間に立ち会えるのは、なにものにも変えられないくらいに楽しかった。
わたしが就職の職種に悩みはじめた3年生の秋に、シュウヘイは突然海外に行くと突然告白した。留年覚悟で、海外をまわるんだという。
手始めはまずタイ。そこまでは決めてるけど、そのあとはわからない。だけども今、行かないとずっとそのままな気がするんだ。おれはみさ子みたいに何かを描けるわけじゃないけど、それでも知らない場所で何かを感じてみたいんだ。
シュウヘイが、いつものファミレスでそう言ったときに、みさ子は両手を口に当てて目を見開いて大きな涙をぽろぽろとこぼした。
わたしは。泣くわけにはいかないと思って、かすかに痙攣する下まぶたにぎゅっと力をこめた。
「あのあとさ、実はすごい悲惨だったんだよ、わたしたち。てか、わたしがひとりでシュウヘイを責めてしまったんだけどね。あんな大事な話、3人でいるときじゃなくてね、前もって相談してほしかったの。シュウヘイのおうちに2人でいる時間だっていっぱいあったわけだし。それがすごくショックだったんだ。えっと、逆な言い方をしたらね。なんで英子も一緒のときじゃないといけないの?って思ったの」
河川敷で自転車を併走させながら、みさ子は言った。
「だから、泣きながら何度もシュウヘイを責めたの、あのあと。で、もうバイトも辞めるし別れよう。いつ帰ってくるかわかんないし、って言われて、もうそれっきり。自分からメールする勇気もなくなっちゃった。それでバイト行く気力もなくなって投げやりになってすぐ辞めちゃったの」
わたしは、ふたりは示し合わせて辞めたのだと思っていた。だからずっとふたりに置いて行かれたような気になっていた。辞めると生活に困るから辞めなかったけど、それでもわたしは置いてけぼりの捨て犬みたいだった。
「出発の日すら知らなかったの。で、先月、空港からメールもらって、それで、ああ、もう行くんだなあってやっとわかった。ひどいよね。こんな別れ方。今になって後悔してる」
「言えなかったんだと思うよ。みさ子がショック受けると思って。シュウヘイってそんなとこあるよね」
「うん。でも。いくらわたしがショックだからって、自分のやりたいことは変わらないんだから、ちゃんと言わなきゃいけなかったんだ、そういうとこ、ずるいし、子供だよね」
「まだ、恨んでる?」
「ううん、もう、そこまでない。帰ってきたら、何年先でもいいから会いたいなと思ってる」
みさ子の計画によると、サイクリングは片道10キロほどの行程だった。
河川敷には、サッカー場があって小学生やら社会人らしきチームが激しい試合を繰り広げていた。そうして傍らには、ベンチコートを着た女性が、どのチームにも声を上げて応援していた。
そこを通り抜けて単調なサイクリングロードを通り、上流の河原でサンドイッチを食べて帰る。そういう計画だったはずだ。
なのにわたしの自転車がいきなりパンクしてしまった。結局は3キロも走らないうちにサンドイッチを食べて、それからわたしたちはふたりで自転車を押して河川敷をとぼとぼと歩いて帰ることになった。
わたしは申し訳なさで胸がいっぱいになってしまってたのに、「ああ、小春日和だねえ」とみさ子は嬉しそうに言って空を見上げた。「空って神様からの贈り物みたいだよね」
みさ子は自転車を押しながらそう言って、ずっと上を向いていた。
「神様は、人間のために創ったわけじゃないって言うかもしれないけど、それでも贈り物みたいな空だわ。ずっと落ちこんでたけど、課題があったから何か描かないわけにはいかなかったの。で、すごい暗い夕暮れの風景を描いたの。正直に自分の心を描くしかないと思って。でもね、描いてみたら、その夕暮れのピンクオレンジがすごいなつかしいような色に見えて。夏にバイトのお店の看板出すときに見上げた空みたいで。ああ、シュウヘイが看板ごろごろひっぱってる、電気繋いであげようって慌てて外に出たこととか。英子がその路地の向こうから手を振って走ってきたところとか、いろんなこと思い出したの。自分の絵にこんなに自分が救われるなんて思いもしなかった。わたし。自分の描くものが自分にこんなにぴったりと寄り添ってくれるなんて知らなかった」
そう言いながら、上を向いたみさ子の目から、透明な朝つゆのような涙がぽろぽろと流れているのをわたしはじっと眺めていた。
「こうして英子と歩いているのも、神様からの贈り物。あのちっちゃいシュウヘイの軽自動車じゃない世界が世の中にはいろいろあって。わたし、これから、それをいっぱい見ていくんだ。シュウヘイが海外で見る風景に負けないくらいいろんなものをたくさん。わたし、今日、英子とこうして自転車ひいて歩いたこともぜったい忘れない。英子もシュウヘイが好きだったんだよね、シュウヘイはどっちでもよかったのかもしれない、わたしが独占欲が強すぎてふたりに迷惑かけてたんだよね。ごめんね。悪いことしちゃった」
「悪いなんて思ってないよ。それに三人でいるのはすごく楽しかった」
「ありがとう。そう言ってくれてよかった! ずっといろんなことを後悔して仕方なかったのに、今はいろんなものがわたしに寄り添って見えるの。英子も、あの絵も」
サッカーを応援する歓声が聞こえた。転がってきて自転車にぶつかりそうになるボールも。それを笑いながら蹴り返すみさ子も。
そうして、あとで見せてもらったあの夕焼けの絵も。
いまだにみさ子が言った「神様からの贈り物」という言葉といっしょに、わたしの心の中で光り輝いている。
******************
7年間勤めた会社を辞めて一週間がたった。
小さなタウン誌のなかでの不倫で、奥様が会社に怒鳴り込んで以来、わたしの立場はみるみる悪くなってしまった。みんなの前で、ホテルの名前まで名指しで言われたら、もう言い訳のしようもなくて俯くしかなかった。まわりの同僚は、ああ、噂はほんとうだったんだっていうような、否定もしない納得した顔で遠巻きにわたしを見ているだけだった。
手癖の悪い編集長はそのままでも、わたしは居場所がなくなって辞表を出す以外になかった。
外に出るのもおっくうで買い置きのバランス栄養食だけで生活していたら、ますます動きたくなくなって、わたしはベッドの上でずっと横になっていた。
今日、なぜかとつぜんあの頃のことを思い出してしまった。
みさ子はシュウヘイの予言どおり、立派なイラストレーターになって活躍している。シュウヘイは結局あちらで仕事を見つけ、ときどきしか帰国しなくなってしまった。
そうだ、小説を書いてみよう。
会社ではずっとなんかの文章を書いていたけれど、そうじゃないわたしだけの物語を書いてみたい。突然そう思った。悲しくて答えの出ない恋の物語じゃなくてもいいから。なにかを自分の言葉で書いてみたい。
みさ子があのとき「神様の贈り物」と言ったみたいに。
なにかがわたしに寄り添ってくれるだろうか。
なにか、そんな大切なものが、わたしの中にもあるだろうか。
あるのかもしれないし、ないのかもしれない。
だけども、そうしたくて仕方のないような気持ちがどんどんとこみ上げてきた。
ベッドから起きあがり、とりあえずカーテンを開き、窓を思いっきり開いた。
あの日、自転車でみさ子と見上げたのと同じように澄んだ青い空が、突風を受けて窓から飛び込んできた。
ありふれた魔法・β
(盛田隆二さんの「ありふれた魔法」の続編を想定して書いたもの)
みんなで飲みに行った帰り、月乃がまだ時間があるというのでシアトルズベストに寄った。
川沿いのオープンカフェの夜はすでに肌寒い。月乃はホットコーヒー、茜はちょっと考えてからアイスティーを頼んだ。
「不倫はイカンよ、うん、不倫はイカン」
先ほどから月乃は誰かに言い聞かせるかのようにそのことを繰り返している。少し酔っぱらっているのかもしれない。
茜は自分のことを咎められたような気になってしまったが、どうもそうではないらしい。それはアルコールに緊張の糸を緩めた月乃自身の告白だということにそのうちに気が付いた。
「別居してるっていうし、つきあってる人も別にいたのよ。だから、わたしがつけいる隙なんてなかった、だけど、わたしの隙間につけ込まれてしまった。もう昔の話なんだけどね」
「月乃。わたしから見るとあなたは、つけいる隙間なんて1ミリもないような女なんだけどね」
月乃自身は離婚したあとに、自分の専門の仕事で成功していて人望も厚い。厚く塗り固めた信頼の壁は、加減よく月乃を魅力的に見せていた。
「ふつうはみんなそう言うの。でもね、そういう男はね、直感で隙間を見つけるもんなの。いや、見つけるんじゃない。なにも考えずにそういう部分に入り込んでくるのね」
そんな中途半端な男とくっついたばかりに、元からつきあっていた女友だちに恨まれ、泣き言を言われ、そうして自身も同様の泣き言を男に繰り返し続けた。ずいぶん苦しくてずいぶん悪いと思ったけれど時間がかかった。そうして最近やっと過去のことだと思えるようになったの。古くさい言い方なんだけどね、人には人の道ってもんがある、それに反しちゃいけないのよ。
そう言って月乃は川面に向かってメンソールの煙草をふうっと吹いた。
月乃とは何度か飲んだけど、煙草吸うのを見たのは多分これがはじめてだったように思う。
昔つきあっていた男のことを茜は思い出した。
独身の頃の話だ。男はすでに妻子がいて、二回だけ抱かれたことがあった。そのこと自体はすごく幸福な瞬間ではあったけれど、長くは続かなかった。ほんとにいろんな事情が絡みあって、必然のように別れるしかなかったのだけれど、そのことについては今でも思い出したくもないし、ましてや喋りたくもない。
その後茜は結婚した。しばらくの遠距離のすえの結婚だった。
待ち望んでいた幸せな生活だったし、もう茜は年の離れた男にまっすぐに惹かれるほど子供ではなかった。二人には築くべき生活があった。仕事の問題、子供をいつ作るか、自分たちの家をいつ買うべきか。それよりももっと単純な、いつまでたってもバリエーションの増えない夕食のこととか。そういうことをひとつひとつ片づけていくパートナーがいて、それは何よりも幸せなことだったし、その生活を愛しいと茜は思っていた。
なのに。なぜ。
1ミリの隙間にも月の光が差し込むような夜がやってくるのだろう。
門司港のホテルで待ち合わせをした。
知りあいの集まるパーティで知りあい、ふとしたきっかけでケイタイメールを交換することになった男が相手だった。古くさいジャズを好むところが茜と似ていて、心地よく押しの強い話し方は、今までつきあっていた誰とも似ていなかった。
この町は狭すぎるから、ホテルの部屋を予約した。お互いに列車で移動してそこに一泊しよう、と男は言った。
だけどもその日、男は来なかった。男の妻が夕刻に追突事故に遭い、深刻な状態ではなかったものの病院に向かわなければならなくなったからだ。
ホテルにチェックインしたあとに知らせが入り、茜は広すぎるダブルベッドの上で、今、どうしてこんなところにいるんだろうとぼんやりと思いながら、浅くまどろんだ。
数ヶ月後にもう一度、同じ門司港のホテルを今度は茜が予約した。
だけども茜はそこには行けなかった。特急列車が事故に巻き込まれ、全線不通になってしまったのだ。
2時間ものあいだ車内に閉じこめられ、結局、門司港に行くことは時間的に不可能になってしまった。代替バスに乗って、自宅のある町に帰るしか方法がなかった。一足先にホテルに到着していた男にメールを打ちながら、茜はバスの中で気づかれないように少し泣いた。
「だからね、一度も何もないのよ。不倫はいかん、って神様に言われたのかもしれない。いや、そんな言い方じゃなくって、人の道に反することをするとね、世界が少しずつズレていって、うまくいかないようになっているのかもしれない。ほんとのことはわからないけれど、何かが少しずつ少しずつ軋んで、そういうことが起こるのかもしれない。だから、月乃の言うことも根拠はないけれど正しいと思うのよ」
「わかるような気がする。人の道なんて信じないけれど、わたしもそういうふうに感じるもの」
「不思議ね。わたしのまわりには、近所の男とばんばん好き放題にやってる不倫のカップルやら、出会い系で遊んでいる女友だちだっていっぱいいるのにね。彼女たちには何も起こってないのに」
「茜は選ばれたのよ」
「罰を受けるように選ばれたってこと?」
そう言って茜はカラカラと笑った。
「この世の理がわかるように、きちんとそれを感じられるように選ばれた人間だってこと。そういうふうに選ばれてない人が世の中にはやまほどいる。だけど、そのままで生きてゆけるもんなの。茜が不幸なんかじゃない。うまく言えないけれど、選ばれてそういうふうになってるの」
ずいぶん辛気くさい選ばれ方だな、と茜は苦笑した。
この前、ランチタイムのスターバックスで男とばったり会った。運良く満席だったので同僚の女の子が、同席を勧めてくれた。
紹介したり会話をしたりしながら、男の膝がほのかに茜の膝に触れた。
まるで女子高生のように、茜はありふれた魔法に感謝して、その男の体温を感じ続けた。
たぶん、それだけ。それ以上は何事もなく、これからの人生は続いてゆくのだろう。
長い会話のあいだにいつのまにか移動した満月が、カフェの前を流れる小さな川に映った。
川のさざめきの中のモザイクのように優しく壊れた満月だと思った。
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