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ささやかな不都合
昔っから。明るいうちに家に帰るのは、なんだかもったいない気がして。
暗くなるまで、外をブラブラしてから帰るのが常だった。
だから、冬よりか夏の方が好きだ。一日がウンと長いようにように思えて、得した気分になる。眠る時間だって夏の方がこころもち少ない。冬は夜が長いから。何にもすることがなくて早く布団に潜り込み、冬眠する熊みたいにニセモノの暖かさを貪る。早く本物のあたたかさに肌を晒せる日が来ますようにと。
ケイと出会ったのは、真冬の、とりわけ寒さの厳しい年だったので、わたしたちは早々にわたしの部屋に入り込んで、暖房の利いた部屋でお互いの身体を抱きあった。わたしは暖かいというよりもむしろ、暑いくらいが好きなので、汗ばむくらいに激しく動きあうのが好きだったし。ケイは、わたしのしんと冷えた身体が摩擦によってだんだん熱を帯びてくる感触が好きだった。
ケイの体温はいつも、わたしよりか少しばかり高いような気がした。その体温は、常夏の楽園のようで。わたしはベッドの中では、つかの間冬を忘れられた。
そうしていっしょに暮らすようになって半年がたって、またもや夏がやってきた。
わたしは仕事が終わっても、いつまでも家に帰れない。どこかの店に立ち寄るわけでもない。ただただ延々と、あてもなく歩いてゆく。
夏の夕暮れは、ゆっくりと、はっきりと色を変えてゆく。
台風が近づく日には、行き交う人の頬まで染めてしまうようなピンク色の夕焼けが大画面で広がるし。
ふつうの日々にも青い闇がゆっくりとじゅうたんを敷きつめるようにして、空を占領してゆく。
どしゃぶりの雨の日には、わからぬようにじんわりと闇がしのびこんでゆく。
そうして西の空が薄闇に覆われるころには、映画のスクリーンにエンドマークが映し出されるみたいにして、嘘みたいに涼やかな風が頬を撫でそめる。
それは、一日の終わりの一番明確なドラマのようなもので、わたしはそれを味わないで一日を終えるなんて考えられなかった。
夏の日は、わたしの帰る時間が自然と遅くなるので、ケイはシャワーを浴びてテレビを見ていたりする。
わたしは、持ちかえったお惣菜をぱんぱんぱんとテーブルに並べてゆく。
「最近、帰りが遅いね」
「遅番のシフトになったのよ」
わたしは悪びれずに嘘をつく。何もせずにただぶらついているだけなんて、うまく言えない。わたしはケイと夕暮れを味わいたいわけではないのだし。ただ、ひとりで歩いていたかっただけなのだ。
「ねえ、裕美が作った料理だから、裕美の手料理っていうのかな、こういうのって」
「そうよ。わたしの手料理を売り場で売ってるの」
「パック詰めの手料理だ」
「悪くないでしょ」
デパートの地下にお惣菜を出しているお店で、わたしは料理を作っている。ある程度のマニュアルはあるものの、献立を考える会議から参加して作ったメニューなので、これはやはりわたしの手料理だ。
薄味だけど、けっこう砂糖が利いていて、ふんわりとした煮物は。どんなときに食べても幸せになれる。わたしは、けっしてその味に飽きない。そうして、ケイもそうなのだという。
そのあとわたしたちは、テレビの洋画とかドラマとかをみて、それに飽きると、パソコンをしたり本を読んだりしておのおのに過ごす。
夏の夜には窓を開け放してセックスをする。マンションの四階なのでそれほど無防備でもないのだが、それでもわたしたちは少しだけ声をひそめる。代わりに、雨の降る日は窓を閉めて、存分に声をあげる。まとわりつく湿り気とか汗とかがインビで。わたしはそういったものに反応してゆく。
ケイは一日中デスクワークだ。詳しいことはわからないけれど、図面を引いているのだという。いちど聞いてみたら、工業用の機械のことを話してくれたが、わたしはさっぱりわからなかった。
ケイはここに帰ってくると、寝転がってのびをする。立ち仕事のわたしは、風呂あがりに足をマッサージする。ケイの身体は無臭で、さっぱりしたエアコンのような匂いがする。そうして、セックスをするときには、雨のジャングルのような汗の匂いがする。わたしの身体にはずっと、揚げものの油の匂いがしみついている。わたしは、わたしが帰るだけで部屋が油臭くなるような気がする。でも、尋ねてみたら、そんなものは感じないとケイは言う。
いずれにしろ、仕事でしみついたものを、わたしたちは部屋になげ捨てるためにここに戻ってくる。
フローリングの床になげ捨てられた、仕事の残骸。疲労とか、ストレスといったたぐい紙屑のようなもの。
わたしの単色の疲労は、なんだか部屋を汚していくような感じだったが。違う色の紙屑が散らばっていると、色もとりどりの疲れも悪くはないな、と思うようになった。
静かなケイ。静かな色をした、持ち帰られた匂い。
そういったものがいいのだと言うと、裕美の言うこともわかるような気がする、そういうふうに思うと自分も、この部屋がもっと好きになった、とケイは言った。
**********
夏の一番暑い、七月の中旬になって。
わたしの仕事が移動になった。
会社はいくつかのデパートに出店していたが、そこを巡回する仕事を打診された。
各店に出向き、味や作り方の指導をするという。ひとつの店につき一ヶ月近くだ。帰れる距離のところもあるが、ホテルにとまり込みの場合もあるという。
ほんとうは、自分で作るほうが好きだし。指導をするという立場にも魅力を感じなかったのだが。知らない場所に行く、という魅力には勝てなかった。
夏の夕暮れは、何百通りもの色をなしてゆく。見たことのない風景の中を、えんえんと歩く自分の姿を思い浮かべたら、断ることなんてできなかった。
ケイはもちろん驚いた。
今、家賃も半分出して、ルームシェアという立場ではあるけれど。もともとは君の家だよ。僕の会社にも近いし、自分には申し分ないのだけど、裕美はかまわないの? 僕がひとりでここにいて、嫌じゃないの?
ああ、そういうふうに思うのか、と、それでやっときづいた。
ここにはもう、ケイの匂いやケイの疲労やケイのパソコンがあるのだもの。ひとりでいてもらっても、もちろんかまわない。そう、わたしは答える。
「でも、せっかく二人で暮らしはじめたのに、ちょっとさみしくなるね。でも、裕美がそういう仕事をしたいんだったら、もちろん、とやかく言うことではないんだけど」
仕事がしたいのなら、という言葉に少しだけ後ろめたくなった。
わたしは、いつまでもどこまでも歩いていたかっただけなのだ。
ときには、ケイが待っていることを忘れて、時間の許すかぎり。いつまでも知らない場所を歩いて。ただ、それだけの時間がほしかっただけなのだ。
**********
新しい仕事には、気遣いがつきものだ。
最初に派遣された店は50キロほど離れた場所で、新規に開店予定の店だった。仕事の分担から、味つけまで白紙の状態で、わたしは一ヶ月そこにいることになった。
手慣れた料理をするパートの主婦たちの。ひとつひとつ身についた技術を、手直しするのにも気を遣う。里芋を切る大きさも、火を通す時間も、この店のやり方にしてもらわなければならない。
はっきり言うと、語気の強さにとまどわれたりもした。
彼女たちは小さな王国をひとりで切り盛りしてきたのだから。とまどうのも仕方のないことなのかもしれない。それで、疎ましがられたり、そして、ときに技術に驚嘆されたり、そんな空気の流れを毎日のように感じた。少しずつ信頼の度合が深まっても、レコード盤のように、小さな溝はその中に無数に刻みこまれていく。
だけど、それまで含めての仕事なのだから、わたしはそれを悔やんだりしなかった。
そんな事よりわたしは、ホテルまでの帰り道にあるいくつもの路地に夢中になっていた。
ここはどうやら、昔ながらの道路がそのまま残っている街らしい。城下町だと聞いて、なるほどな、と思った。
車がやっと一台通れるくらいの路地が、格子模様のように張り巡らされている一角。おそらく昔からの道すじなのだろう。両側には、ひと区画が異様に広いお屋敷がいくつも並んでいる。うっそうとした庭。昔からそこにあったであろう大木。その路地の屋根屋根の向こう側に、痛いほどの光線を放つ太陽がしずんでゆく。
夕飯の匂い、魚の焼ける匂い。焼き魚の煙が出る、開け放しの窓。
デパートの食材売り場には、魚の匂いは蔓延しない。その匂いは、風景とは相反し、昔旅行したアジアの都市の屋台の風景を思わせた。
「あら」
そのうちの一軒の庭から、声をかけられた。花柄のエプロンで気づかなかったのだが、その人はパートで来ている主婦のひとりだった。
「今、お帰りですか。これから、ホテル?」
洗濯ものをとり込んでいたのだろう、パリっと乾いた衣類を両腕に抱えている。
「いつも、ホテルのお食事だと飽きるでしょう、よかったら、食べていかれません? 裕美先生の作るものも素敵だけど、うちの味も、よかったら食べてもらいたいんです」
人数分の食事に、いきなり来客が入っても困るだろうと思うのだが、いつも作りすぎるからかまわないのだと言う。
「それに、わたし。裕美先生、尊敬してるから・・・」
本当に、本当に嬉しかったのだが、お断りして帰った。
ここの家は、わたしの家ではない。ホテルの方が、もっとわたしの家に近い。
断ってしまってから、子供のころのことを思い出した。
まだ、おかあさん帰ってないの? うちでご飯食べて行かない?
それもまた、安堵する言葉ではあったが、わたしはいつもそれを断っていた。母親といっしょに食べたかったのもあるが。あのころからわたしは。暮れまどう時間に、ひとりで取り残される感覚が嫌いではなかったのだ。
もちろんそこには、子供が耐えるには少々重たすぎる疎外感も含まれていたのだが。
疎外感も含めて、ひとりっきりで、空間につつまれる感触。その甘やかさは、ずっと、わたしの中に残っていた。
**********
いくつかの職場を転々とした。
秋の天空は夏よりもはるかに高い。すごいスピードで世界が膨張してゆく。そして、そこからすとん、と、夕刻の闇に突き落とされるような感覚。
それが何とも言えず、突き落とされる感触を、毎日確かめるように歩き続けた。
交通費が出るので、家には休みのたびに戻った。
「えっと、今度はどこに行ってたんだっけ」
ケイはその度にそう尋ねる。初対面の人々を相手に仕事をする緊張感はずっと続いていたので、ケイにとっては、場所の変化もそう感じられなかったのだろう。
実際、シングルサイズのビジネスホテルの部屋は。どこの都市でもそうたいして変わりないように思える。
町の風景もしかりだ。今ではわたしはどこの町にいても、マクドナルドの場所を、簡単に言い当てられる。駅を出て、人の流れる方向に歩いてゆけば、そこには必ずマックがあるのだ。
違うのは、空のくすみ具合と人の気性だけ。こんなにもたくさんの人が移動しあっているのに、町にはその町の気性が存在していた。それはあるいは、その街の空の色と関係するのかもしれない、とも思った。
ケイがひとりでいるはずの部屋は、ふたりでいる頃よりも微妙に雑然としていた。
寝る前にひととおりの片づけをしていたわたしがいないせいだろう。最初のうちはそう思っていたのだが、なんだかそこに、別の色が織り混ぜられているような感触がした。
この部屋に捨てられてゆく、日常にまとっていたもの。それが、なんだかケイのものではないような気がしたのだ。
掃除機をかけていると。そこに、一本の長い髪の毛が絡みついた。柔らかく癖のない茶色い長い髪の毛。
わたしは仕事のときはいつも、業務用の三角巾をかぶるので、面倒がないようにショートカットにしている。そして、わたしの髪は硬くて癖のある髪だ。
ケイの方をちらりと見てみると、ケイは、無邪気にテレビを見つづけている。
わたしは、何か、見てはいけないものを見てしまたような気分になって、それを拾い上げ、こっそりとゴミ箱に捨てた。
わたしが帰った日の夜に、わたしたちは決まってセックスをした。
その頃のケイはすでにわたしの感じるところをみんな知りつくしていたので、そういった部分を、長い時間をかけてていねいに愛撫してゆく。その手順には、まったく狂いはなかった。
きっと何かの間違いなのだろう。
きっと。開け放した窓辺から、カラスがその髪を運んできたのだ。実際、我が家のベランダにはカラスが落とした木の枝や、糞が、まばらに散乱していた。長い髪の毛は、おそらくその一部なのだ。
その証拠に、ケイの手順には一寸の狂いもないではないか。
今にして思うと、そんな訳はないのに。
わたしは、抱かれながら、快感にとろけてゆく身体の中で。
だんだんにその疑念を忘れてゆくことに集中していった。
**********
次に帰ってきたときは、ゴミ箱に破れたストッキングが捨てられていた。
わたしは何も言わずに、そのストッキングをゴミ袋に移した。
その次の週には、洗面台のクレンジングクリームが少なくなっていた。もうずいぶん減っていたのでそろそろ買い替えようと思っていたので、思い違いではないと思う。
おそらく次の週には、新しい歯ブラシが洗面台に加わるのだろう。あるいはトイレのポットに見覚えのない生理用のナプキンが捨てられているのかもしれない。
ケイ以外の人間の存在は、ケイがひとりでいるときのモノトーンの感触に、彩りを加えたような気がした。それが忌むべきものなのかすら、わたしにはわからなくなる。それくらいにはっきりと、色鮮やかに、その匂いは、部屋に華やぎをもたらしていたので。わたしはそれを嫌えばいいのか、歓迎していいのか、それすらもわからなくなるのだ。
「ここに帰ってくるとほっとするわ」
何かを探ろうとしたわけではなく、自然とそう言葉がこぼれる。
「そう? 裕美は出かけるときもウキウキしてるのに」
「ウキウキの反対がほっとなのよ。身体に力を入れるときがあれば、身体を弛緩させたいときもあるのよ」
「なんだか、温泉センターにでも来るように言う」
そう言ってケイが笑う。
そうだ。まるで温泉センターだ。見知らぬ客まで混じっている。(笑) そうしてケイは、リラックスさせることにかけては天下一品だ。
ケイが傍らで普通の話をしているだけで、わたしはたまらなく眠たくなってしまう。ストレスという言葉で一括りにされてしまう些細な仕事上の雑事を忘れ。わたしの身体は無防備に投げ出される。身体中の骨という骨がぐにゃりと柔らかくなり、抵抗がなくなって、ケイの望むように、わたしの身体は折り曲げられる。
それは屈っせられるのとは違う。どんなにも形を変えられるわたしを確認するだけだ。足を高く持ち上げて、ケイが中の奥まで入ってゆく。わたしのカタチと感触が変わって、そこにケイを奥まで導き入れられる心地よさ。
温泉センターであって何が悪いのだろう。
雑然とした色は、ほうら、さみしさすらも感じさせないではないか。
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小学生の頃、母親は、必ず暗くなるまでには帰るように、とわたしに繰り返し言った。両親が遅いのをいいことに、いつまでも徘徊するわたしを、彼女なりに心配してのことだったのだが。大きくなってもずっと、用事がないかぎりは、暗くなる寸前には歩く方向を変えて家路へと急ぐのが常だった。
母親の言いつけを守っていたというわけではないが。それが母親との絆のような気がしていたから。いつまでもそんな習慣だったのだろう。
母親の帰りはいつも遅くて、父親の帰りはいつも眠りにつくかつかないかの時間で。わたしは、今でいうスーパーかぎっ子というやつだった。不自由がなかったわけではないけれど。その中で培ってきたものが、わたしという人間の根っことなって、わたしの地面の下にはうっそうとはびこっている。
だけど、絆はときには呪縛にもなり得る。
こんな年になってからやっと、そうする必要もないことに気づいた。もともと、わたしが出張の多い仕事を選んだのは、いつまでも外をフラフラしていたかったからだ。
ケイがいるにも関わらず。
いや、ケイがいるから尚更か・・・
秋が深まってからは、暗くなるのを確かめてからホテルに帰るようになった。
なぜ、今まで、この闇を確認するまで外にいなかったのだろうか、と、少しだけ後悔した。
うす紫の夕闇は、ドラマの終わりではなかった。それはまだ余韻にすぎない。わたしは暗くなるのを待つように延々と歩き続ける。新しく赴任したこの町では、幹線道路を東に歩く道筋がとりわけお気に入りだった。
市の中枢であるビジネス街を抜けると、海を目前にしたゆるやかな川にかかった大きな橋がある。その橋にもたれていると、風がだんだんと冷気を帯びてきて、わたしはその変化をゆっくりと味わう。
橋を渡るとそこは歓楽街で、街の匂いがガラリと変わる。夜の光を浴びるために化粧した女性たちが、これからの仕事へ向かう。これから始まる一日のためにピンと張られた背中。自分とはかけ離れた華やかさ。
わたしはバス停のベンチに腰かけて、その様子を眺める。
闇はすべての終わりではなくって。そこからはじまるものもあるってことだ。
終わりからはじまるものもあるのなら、終わらせることもいとわないはずなのに。
わたしは、エンドマークをけっして自分から打たない。
歓楽街の夜がこれから始まる。スーツ姿の男性と、きれいな色のワンピースの女性が笑いながら通りすぎる。
ひとりでいたって、それを見てるだけで安心する。
さみしがりやのくせににぎやかなものが好き。
だけどもわたしはそれを傍らで眺めるのが好きなだけで。
けっしてそこには入ってゆかない。
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この前帰ったときに、ケイが尋ねた。
「ねえ、ほんとに、おれ、ここにいてもいいの?」
食器の棚には、わたしのものでない茶碗や湯飲みが混じっていた。それがどういう意味なのか、説明されなくったってわかるし。説明しなくたってわかることを、ケイは知っていた。
あるいは、誰も説明できないから、茶碗や湯飲みが存在を主張しているのかもしれない。
責めたらいいのか、出ていって欲しいのか、その女に来て欲しくないと言えばいいのか、わたしはグルグル複雑な迷路のように考えてみる。
わたしがいないと雑然としていた部屋は、最近きちんと整頓されていた。あたたかいぬくもりの残る部屋。その部屋に戻るとき、あたりまえのように電気が点っている喜び。
プラスとマイナスを計るようにそれを比べてみるのだが、現実はバランスシートのように数字では並んではくれない。だからわたしは考えるのをあきらめる。
「帰ってくるとき、ケイがいてくれるとほっとするし。出ていってほしいとも思わない。むしろ、このまま、ここにいてほしいわ」
そう言うとケイは下を向いた。眼下にある深い深い湖を見つめるような目だと思った。
「それとも。出ていきたいって思っているの?」
もっと深い、湖の底の方にケイは目を凝らす。どんなに目を凝らしても、色合いの混じった水に遮られて何も見えない。
それはとてもよくわかる。わたしだって、そうなのだから。
「生きるために必要なことは、みんな仕事から覚えていった」
どっかで聞いた本の題名のようにケイがつぶやいた。
「不具合があれば、それを治すために全力を尽くすことも。そのためには、嫌われたって傷つけたって、言わなきゃいけないことをはっきり言うことも。みんな仕事から覚えてきたし、実際おれはそういうふうにしてきちんと仕事をこなしてきた。そういうふうにして、一人前に仕事ができるようになって、ちゃんとした大人になれたと思っていたんだ。でも、それは仕事だからできたんであって。本当のおれは、そんな面倒なこと、何ひとつやりたくないんだ。このままでいいんなら、このまま、ここでこうしていたい。おれには何の不都合もない。いいかげんな言い方かもしれないけど、何の不都合もないんだ。仕事のときほど、きっちりとはっきりと白黒つけて生活できない。しなければいけないんだろうけど、できない。おれって、そういうこと、全然やりたくない、ずるい人間なんだろうな」
泣きそうなケイの顔。湖底にあるものを、見据えなければならないと。思い続けるケイの目つき。
わたしは出張先で、もの覚えの悪い年配の女性にきつい注意をしたばかりだった。 彼女がうっすらと涙を浮かべているのを、そのあとに盗み見た。
そのことで、彼女はわたしを恨むかもしれない、でも、しかたない。覚えてもらわなきゃいけないことなんだからと、わたしは自分に言い聞かせた。
そう。仕事ならばできることなのに。現実のわたしたちは、いろんな不都合を解決できるほど、きちんとした人間にはなれない。いや、なれないんじゃなくて、わざわざそうなろうと、どうしても思えないんだ。
白黒はっきりなんてしたくない。傷つけたり傷つけられたりしたくない。何も言わずにそのままにしていたい。夕日は、望まなくとも沈んで漆黒の闇をつれてくるんだから。そのときまでは、何も考えずにえんえんと歩き続けていたい。
都合の悪いことなんて、目をつむっていたい。いつか、その時がくるまでは、ずっと、ずっと。
ケイの目が真っ赤になっていて、今にも涙がこぼれそうで。
わたしはそのまぶたに口づけた。一筋の涙がこぼれたのを、舌先でぬぐうと、甘酸っぱい感触が、やさしく私の味覚に広がった。
その感触を抱きしめたく、抱きしめたく。
すべてが明るい光に晒される真昼よりも。
薄暮の夕闇の方が、やはり、わたしは好きなのかも知れないと思った。
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ケイの、「気をつけてね」の言葉に見送られて、わたしはまた、新しい町でホテル暮らしを続けている。
ここでもわたしは、遠巻きに見られてるし。煮つけの柔らかさや、揚げものの衣のつけ方に満足がゆくまで、何度も注意を繰り返す。わたしを敵視するグループの存在も認識してる。
だけど、それでもいつか、完璧な味付けができた時には、手を取り合って喜ぶ瞬間を夢みてる。
それがわたしの仕事なのだから。わたしは犬のように忠実に根気よくそれを繰り返してゆく。
だけど、日常のわたしたちは、そんなに根気良くもないし、何かをやり遂げることもなく、答えをゴミのようにポンポンと、あっちこっちに捨て散らかしてゆく。
そんな自分を返り見て、仕事の最中に思い出して、ひとりでクククと笑ってしまった。
ホテルに滞在しているあいだ、商店街に平行して流れる小さな川沿いの道を見つけて、そこを帰り道に定める。
しだれ柳が風に揺れてなかなかの風情だ。
川沿いに歩けばどこまでも行けるし、晩秋の暗闇に、柳は街灯を受けてほのかに光っている。
今頃わたしの家には、見知らぬ女がいて、あたたかな夕飯を並べているのだろう。認めてしまった今、わたしははっきりと彼女の存在を認識できた。
それは、包丁で切った傷がいつまでも塞がらないときのような、ずっとそこのあるだけの痛みをもたらした。
だけど、少しばかりの痛みがあるときの自分の方が、案外わたしは好きなのかもしれない。痛みを自分で柔らかく撫でつける感触。そんな不都合の甘やかさが、わたしは、けっして嫌いではないのだろう。
ゴミのように散らかったままの、不回答の紙片。
それが、あいまいな闇の中にかき消されてゆくだけの時間。
そんなものの中にわたしは、いつまでもいたいだけなのかもしれない。
街灯に照らされた、しだれ柳が揺れて、狭い歩道でわたしの身体に触れてゆく。
しだれ柳は。
ささやかな不都合を、羽毛のように飛び散らせて、わたしの身体を撫でて、また、風の中に戻っていった。
(了)
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