ピアスなくした
1
この季節にしては暖かい日だった。
上空を、小粒の飛行機が飛んでいた。
そのあとに、飛行機雲。白い絵の具でひと掃きしたみたいに続いていった。
遠くに離れるたびに、飛行機は高度をさげて、地平にまっさかさまにつっこんで
ゆく。
おそらく天空は、ドームのように丸天井をしてるんだろう。
だから飛行機は墜落してゆくんだ。
ひといきに。まっさかさまに。
わたしはビラ配りのバイトをしていた。
名簿を見ながら、郵便受けに幼児用教材のビラを入れていく。
マンションだったらほっとする。人と会わずにすむから。同じマンションに該当
者が何人もいたら嬉しくなる。探す手間が省けるから。ぽんぽんぽんと、郵便受け
に差し込めばそれでいい。
一軒屋が続くと面倒だ。入り込んだ路地で表札を見ながら歩くと、不審げに見つ
める人がいる。泥棒にでもなった気分だ。何よりも時間がかかる。名簿に「不明」
と書き込めばいいのだが、意地になってぐるぐる回るから、とめどもなく時間がか
かる。
時給にしたら、いくらぐらいだろうか。こわくて計算できない。そう思うくらい
に能率が悪い。一軒につき二円五十銭。果てしなく続ければ、それなりの稼ぎにな
るのかもしれない。
バイトを紹介してくれたのは、アパートの隣室の奥さんで、名前は今日子さんと
言った。
会社辞めて失業保険貰ってても、退屈でしょう。あまりたくさんは出せないけれ
ど、気晴し程度に手伝ってくれるとありがたいんだけど、と言われた。
夫婦で学習教材の代理店をしている。年齢にしては手入れのいき届いたほんのり
茶色がかった髪に、濃いブラウンの口紅。黙々と働くご主人と対照的に、交渉関係
はひとりで切り盛りしている。口達者で押しが強いが悪意のない人。だから、断わ
れなかった。
気が向いたときに出かけて、教材を整理したり配達を手伝ったり、DMを配った
りする。給料は教材会社の規定で計算されるのだが、たいした額ではない。
だけど本当に。うちで何もしないでいるよりかずっといい。
単純な仕事は嫌いじゃない。手を動かしたり身体を動かしたりするうちに時間が
過ぎるから。頭の中に複雑なものが溜まっていかない。余計なことも考えず、から
っぽの自分でいられる。からっぽの自分は、悪くない。
それに何よりも空が青い。風も、太陽の暖かさも心地いい。季節の巡りの中で、
快適な一日なんて年に数日しかないから。その日に戸外を自転車で回っている自分
は、けっして悪くはない。
大学病院通りの歩道を行くと、ひっきりなしにサイレンをならす救急車とすれち
がった。
救命救急センターに、命の灯が消えそうな人が運ばれてゆく。おそらくこの街並
みでは、日常茶飯の風景なのだろう。
大学病院で闘病していた友人は、秋の涼風を待たずに死んでいった。若年の癌は
進行が早い。去年の秋にみんなでパーティをした後に会社の検診でひっかかり、一
年と持たなかった。
透明な肌は艶をなくし、髪がすべて抜け落ち、そして顔が歪む頃にはほとんど視
力がなくなっていった。
それなのに身体の衰えに反比例するように、精神は恐れを乗り越えて澄みわたっ
ていった。葛藤を見せずに、すべてを受け入れて弱々しく笑う彼女に会うたびに、
それに耐えられない自分が、もう、とても会えないと叫びたくなり、そうして躊躇
して会いに行けなかった日の夜半に彼女は死んだ。
死者はいつも、わたしを後悔させる。
もっとしてやれる事はなかったのか。
話したかった事や、聞いてみたかった事が次から次に出てくるのに。死者はけっ
して応答しない。
電話が壊れても、転居先がわからなくても、どこかで生きている、と思うのに。
死者は、絶対的にここにいない。
だから、後悔を和らげる方法がない。
時が経って記憶が薄れる以外に、和らげる方法がない。
わたしは「レピュート通町」というマンションを捜していた。
ここが見つかれば二軒分のパンフレットが入れられるのに、それらしき建物が見
当たらない。マンションなのか木造アパートなのかさえわからない。やっかいな名
前だ。
そのあたりをぐるぐる回っていくうちに、お昼のサイレンが鳴った。
サイレンを合図に、街中が急にざわめく。近隣のビルからスーツ姿の大群が押し
寄せて、歩道に人の流れができる。お昼には外で昼食を取る人たち。
通りには「意味」が流れ出す。午前中のゆったりした時間のようには漂えない雰
囲気。のんびり家探しをするような人間は、うまく紛れこめなくなる。
結局わたしは、コンビニでパンを買って、近くに公園のベンチに座った。
最近台所から包丁が消えた。
忽然と姿を消して、いつもの場所がからっぽになっている。神隠しみたいに、気
配がまったく感じられない。
それで料理の回数が減った。 家に帰っても材料も作り置きもないから、帰って
も食べるものがない。だからいったん家に帰るよりも外で済ませた方がいいと思っ
た。それに時間だって短縮できる。
もっとも。他にやる事なんてないのに、時間を短縮してどうしようと言うのか。
ベンチに座って、パックを開けてサンドイッチを食べた。きゅうりと卵のサンド
だった。
ぼんやりとそれを食べていると、ベンチの下からかぼそい鳴き声がミャウと聞こ
えた。やっと気づくくらいの小さな声で、足元に白猫がたたずんでいる。
薄汚れている。毛並みもぱさぱさで、多分野良だろう。要求するほどの強い鳴き
声でもない。擦り寄るほど人なつっこくもない。だが、言いたい事はわかる。サン
ドイッチを一切れちぎって落とす。貰っていいかと目を見て尋ねてから、白猫はそ
れを食べた。
汚れた野良の割には上品に、静かに猫はサンドイッチを食べる。きゅうりは嫌い
らしい。舌先で上手にそこだけはずしていく。そしてきゅうり以外を食べ終えてか
ら、もう一度私を見つめた。
一人で食べると寂しいからつきあってやっているつもりか。生憎一人で食べるの
は嫌いではない。だが、それでも格好の相手ではある。
今度はきゅうりをはずしてからサンドイッチを与えた。
また、一度見つめてから、ゆっくりと食べていく。なかなかの仕草だ。
「あなたの猫ですか?」
振り向くと、白髪頭の老人が立っていた。
ほほえましそうに猫と私を見つめている。杖をついているが恰幅がよく、上品な
身なりをしている。おそらく猫が好きなのだろう。おいしいかい、と声をかけなが
ら座りこんで、薄汚れた猫の喉元を撫であげる
「わたしの猫じゃないんです。たまたま寄ってきたから、餌をあげて」
「人なつっこいねぇ。よしよし、いい猫だ」
老人は、毛がつかないように襟巻を取ってから、その猫を抱きあげた。そうして
柔らかく優しく、何度も何度もその背中を撫でつける。
「私も家内も猫が大好きでね。家でも何度も飼ったけど。どうしてだか居着いて
くれない。いつもふらふらとどこかへ行ってしまって、帰って来なくなってしま
う。夫婦で子供のように可愛がっているつもりなのに、なぜかどの猫も、いつのま
にかどこかへ行ってしまうんだ」
「どうしてなんでしょうね」
猫好きである事には間違いない。この薄汚れた猫を抱き上げるくらいだから、相
当なものだ。なのに猫は行ってしまうのか。
老人はふっと空を見上げてから、つぶやいた。
「ああ。どうしてだかわからない。だが、いつも家内と話しているんだ。きっ
と、身代わりにでもなってくれてるんだろうねって」
身代わり?
何の身代わりになると言うのか?
私がその言葉の意味を考えているうちに、いつのまにか老人は消えた。足元を探
すと、猫もそこにはいない。
連れ立ってどこかへ行ったのかと、あたりを見回すがどこにもいない。彼等もま
た、忽然と消えてしまった。
2
午後からの仕事は能率が悪く、時間ばかりが無駄に流れていった。
結局「レピュート通町」は入り組んだ路地の奥に見つかったが、目当ての二件は
すでに転居したらしく、郵便受けには違った名前が書かれている。子供を育てるに
は狭すぎたアパートだったのかもしれない。あるいは、転勤でどこか別の土地に行
ったのかもしれない。
同じ土地に何十年も住みつづける人もいる。いくつも土地を変えながら生きてい
く人もいる。自分がどれだけのあいだこの町にいるのかなんて、わたしにもわから
ない。
朝のうちは心地よかった日差しが、午後になると苦痛に変わった。薄絹のような
汗がまとわりつくが、トレーナーを脱ぐわけにもいかない。胃袋がいっぱいになっ
たせいか、ペダルを踏む足も重たい。
表札を盗み見ながら歩くわたしに、人々は不自然なくらいに無関心に通りすぎて
ゆく。最初は関心を持たれない方がやりやすいと思っていたのに、だんだん不安が
募ってゆく。
わたしは、透明人間になってしまったのだろうか。
誰も、わたしなんか知らないのだろうか。
ここで行き倒れになったとしても、誰もきづかないのかもしれない。そのままわ
たしは塵のようにばらばらになって、風に舞って散り散りになってしまうのかもし
れない。
わたしは生きて。それから消えていく。
彼女のように、包丁のように。猫のように。老人のように。ひょいっと塀を乗り
越えるようにして、向こう側に行ってしまう。向こう側に行ったとき、わたしはこ
ちら側を覚えていられるのだろうか。
忘れた方がいいのかもしれない。覚えていれば未練が残る。どんなに嫌なことで
も。どうにもならないことでさえも。未練になると嫌だから。
あれ? わたし、何を言ってんだろ。
誰に言うわけでもなく、自分で自分を説明したり言い訳したり。どうしてわた
し、そんなことしてんだろ?
結局、すべてやり終えて事務所に戻ったのは、夕方の四時すぎ。徒労だけが残っ
た。
大変だったでしょうと、今日子さんが冷蔵庫からミネラルウオーターをついでく
れた。ミネラルウォーターはありがたい。人に感謝されるのも悪くない。しかしそ
れでも、どこか疲労が残っていた。
そうして、足を引きずるようにしてアパートの部屋に戻ったあと。
わたしは片方のピアスを落としてることに気づいた。
涙のしずくのような形をしたプラチナのピアス。真ん中には小さなダイヤがつい
ている。会社勤めしていた時に、ボーナスで衝動買いして以来、ずっと私の耳元に
くっついていたピアス。最近キャッチャーがゆるくなってきたので、時々耳を触っ
てはその存在を確かめていた。
最後に触ったのはいつ?
アパートに戻って階下の郵便受けを見て、手紙も何もない事を確かめて、そのと
き耳を触った。その時は、まだあった。玄関を閉めてすぐにキッチンの椅子に座っ
て。
それでなくなったことに気付いた。
慌てて床に膝をついて捜してみる。
椅子の下も、シンクの下も。どこにも見つからない。
きれいに掃除したはずなのに、テーブルの下は少し埃っぽい。その小さな埃をひ
とつひとつ選り分けるように指でなぞっていった。小さいが、プラチナの輝きを見
逃すはずがない。ピアスはこれしかない。なければ明日から、耳たぶの針のような
穴を晒すことになる。
大丈夫。ないはずはない。階段にでも落ちているに違いない。そう思って、西日
できらきらしている階段を丹念になぞっていくが、どうしても見つけられない。一
段一段指でなぞるようにして、階下の郵便受けの前まで。とりこぼしのないように
見つめていくが、やはり、見つけられない。
たったこれだけの距離なのに。確かに存在していたものが、忽然と姿を消してい
る。
ピアスも塀を乗り越えて、向こう側に行ってしまったのか。
どうして? どういう理由で?
いつくしむものはなぜ、そのままここに居てはくれないのか。
ずっと身につけていたものなのに。なぜ、わたしの耳たぶにそのまま居てはくれ
なかったのか。
部屋に帰ってもう一度室内を見渡し、服にでもついていればと首や肩のまわりを
点検したが、そこにもない。
あきらめて紅茶を入れてみたが、思いのほか、わたしは脱力していた。
あのピアスをデパートのアクセサリー売り場に見つけたから、決意して耳に穴を
あけた。
男に抱かれた日の、次の日だった。
あの夜、まとっていたものをすべて脱ぎ捨てた自分は、たまらなく不安定だっ
た。
ありのままの自分は、ストレートに切り揃えた髪が子供のようで。何の装飾もな
い自分には自信も何もなくて、それで脱ぎ捨てたあとの自分を守るものがわたしは
欲しかった。
シンプルでいて冷たく光る硬さを持ったプラチナは、何ものにも負けない強さを
持っているように見えた。
どんなに弱気のなろうとも、この硬い輝きを身につけているかぎりは守られてい
るような気がして。ピアスを触ってはありかを確かめるのが、いつのまにかわたし
の癖になっていた。
夕闇が降りるくらいの時間になって、雨音が耳に覆い被さった。かなりの量の
雨だ。遠くで雷の鳴る音まで聞こえる。
もしも階段に落としたままならば、この雨に流されてしまうかもしれない。そう
思うとあきらめきれずに、傘と懐中電灯を持って外に出た。
横殴りの強風を伴った雨で、傘は役に立たずにすぐに放り出した。
びしょぬれになりながら膝をついて丹念に、階段を一段一段、隅の隅まで捜して
みる。どこにもない。本当に、どこにも。神隠しのように。
いろんなものが消えてゆく。
どうして?
どうしてみんな、そのままではいられないのか。
私の好きなものたちは。なぜわたしから去ってゆく。
死んでいった彼女と。もっといろんなところへ行こうと約束していたのに。彼女
はもうどこにも居てはくれない。
包丁も。使い勝手がよくて、私は一人分の料理を作ることが嫌いじゃなかったの
に。いつのまにか消えてしまっていた。
それに白猫だって。老人だって。一人でいるときは、相手してくれるものがあり
がたくて、私は本当は、もっと、あの場所でいろいろ話していたかったのに。
みんな、私の前から消えていなくなる。
あの男だって。ずっとこのままだと思っていたのに!
男?
ああ、そうだ。
そう。わたしはあの男を失ったんだ。
忘れていた。
いちばん失くしたくなかったもの。それを失くしてしまっていたこと。
あの男に抱かれたから、わたしはピアスを身につけた。
会社で同じ課にいた男。妻子がいることも知っていたけれど、せき止められない
くらいの潮流に流されて。いつしか深くなっていった男。
どうなりたいとも思わなかった。このままでいれば、それだけでよかった。
男に二人目の子供が生まれ、出産祝をみんなで買うことになって、それではじめ
て子供ができたことを知った。
深い嫌悪感を抱いて、わたしはそれを責めた。
他の女を抱いているリアルな映像が頭から離れないようになってしまって。わた
しはそれを責めてしまった。
責められてどうこうできる訳がない。
誠意を持った優しい言い訳でとりつくろう男に、耐えられなくってわたしは会社
を辞めた。
このままでいいと思いながら、何も許せなかった強欲な自分。
何ものぞまないと言いながら、自分以外の女の存在を許すことのできなかった自
分。
わたしの欲望が深すぎて。わたしは本当は、何もかもが欲しいから。だから、み
んな居なくなってしまうんだ。
抑えきれないくらいの深いものが、抗しきれずに溢れてゆくから。
いつも、みんな居なくなってしまうんだ。
3
「何をしているの? こんなところで」
後ろから今日子さんの声がした。
「こんなに雨に濡れてしまって。一体何をしているの」
「ピアスをなくしてしまって。それで捜していて」
風邪をひくから部屋に戻りなさい。
そう言って今日子さんは、わたしの部屋に連れて戻った。
同じ間取りだから勝手もよくわかるらしい。風呂場からバスタオルを持ってき
て、ずぶ濡れのわたしを拭いてくれた。
まるで子供にするように、髪をくしゃくしゃに拭いてくれて。彼女はそれからこ
う言った。
「お風呂に入るといい。身体が冷えると風邪をひいてしまうから。あったまると
いいわ。ピアス、大事にしていたのね」
「大事なものはみんな、わたしの前から消えてしまうんです。友達も、恋人も。
ピアスも。包丁も。わたしが大事にするとみんな、わたしの前から消えてしまう」
こんなこと言っても仕方ないのに。息せききったように言葉が溢れた。
今日子さんはちょっと困ったように首をかしげた。
「何があったかわからない。けれど、失くしたピアスは、たぶん、あなたの身代
わりになったのよ。あなたが壊れないように、かわりに消えてしまった。だから、
未練を持っちゃいけない。もう、あきらめなさい」
身代わり。たしかに彼女はそう言った。
身代わり。
誰の身代わり?
何の身代わり?
「それに、包丁は。忘れてしまったの? 私が預かっているじゃない。あなたは
まだ、包丁を持てるような気分じゃないでしょ。だから私が持っていった。もうし
ばらくしたら、ちゃんと返すわ」
とにかく。お風呂に入るのよ。あったまると気持ちも落ち着くから。
そう言って今日子さんは、夕飯の支度に戻っていった。
忘れてた。
包丁を持っていったのは、今日子さんだった。
あの日、バイトを頼もうと、今日子さんが窓から覗いたとき。わたしは包丁
を持って台所に立っていた。わたしはキャベツを千切りにしていて。あやまって自
分の指を切って、血を流していた。
わたしの血は鮮やかに赤かった。
この中にはどんな意識が詰まっているんだろう。何か、ずっと知らなかったもの
が、そこからにじみ出して来るような気がして。それは何なんだろう。知らないも
の。意識してなかったもの。見つめたくなかったもの。そんなものが、わたしの血
の中にあるような気がして。
わたしはただぼんやりと、包丁を見つめていた。
あなた、今、包丁を持っていちゃいけないような気がするの。悪いけど、これ、
借りていくわね、と言って今日子さんはそれを取りあげた。
死ぬ気なんかななかった。だから、そう言いたかったけれど、有無を言わさない
雰囲気で。
その代わりに今日子さんは、何も聞きはしなかった。
あのときも。
わたしは壊れたかったのか。
本当は壊れて泣き叫びたくてすべてを放り出したかったのか。
本当はそうしたかったのに、どうしてわたしはそれを閉じ込めてしまったのか。
触れると壊れるほどの意識が。わたしの中にはあったのか。
たぶん、その意識が、どこへも行けないままにあったから。わたしの耳たぶから
流れ出した意識に。ピアスが感応したんだ。
わたしのかわりにピアスは消えた。
ピアスは身代わりになって塀を乗り越えて、向こう側の世界に行ってしまった。
どうして。
何のために。
窓の外には雨が、流れるようにたくさん降っていた。
この雨に溶けるようして。
いくつものものが今、ここから消えつつある、そんな気がした。
自分自身が消えるものもあり。
そしてわたしのピアスみたいに、何かの身代わりになって消えるものもあるのか
もしれない。
向こう側に行ってしまえば、二度とこちらに帰ることはできないのに。
まるで塀を越えるみたいにして。とても静かに。何事もなかったように、みん
な、向こう側に行ってしまうんだ。
今日、わたしは死ななかった。
祝福すべき一日だった。
わたしの代わりに、大事にしていたピアスが消え。
日常は、そのままに巡っていった。
だけど。
案外そんなふうにして。
消えてゆくものは。わたしに、生きることを赦しているのかもしれない。
なんだか、そんな気がした。
こがゆき