眠れない
こがゆき
1
ある日、わたしは突然眠れなくなった。
いつも眠りすぎるくらいに眠っていたのが、ある日を境にぱったりと眠れなくなっ
てしまった。
まるで一晩で他の人の身体になってしまったみたいだった。ボロボロに疲れて曝
睡したいのに、そんなの関係って感じで、身体は明日のことを考えたり寝返りを打っ
たり、どこかで流れていた歌をずっと歌ったりしていた。
身体は一日中機械のように几帳面に活動してくれるが、わたしの意識には耳を傾
けない。眠りたいとか疲れたとか嬉しいとか悲しいとか。身体に伝わってはじめて
実感となるものが、ぷつんと途切れて、自分の気持ちだけが、どっか別のところに
あるみたいだった。
例年にない猛暑の夏だった。
わたしはクーラーを入れたり消したり、窓をあけたり、暗くてひんやりとした廊
下をソロリソロリと行き来したりして夜を過ごした。
わたしは、夜の廊下なんて歩きたくなかった。
廊下は今日と明日を繋いでいるように見えた。
眠るからこそ、今日は終わる。言えなかった言葉や爆発しなかった怒りは、今日
が途切れるから、いったん忘れられる。だから、明日を始められるのだ。
だが夜の廊下では、今日と明日ははっきりと繋がっている。何も消えていかない、
何も薄らいでいかない。わだかまりだけがそのまま溜まっていった。
「何か心配事でもあるというの?」
眠れないのだと言うと、カナが笑いながら尋ねた。だって、そうじゃない、眠れ
ないほど気に病むような性格には全然見えないわよ。
心配事。
心配事を思い出してみた。
とるに足らない心配事をいくつか思いついた。仕事場の人間関係とか。明日の手
順とか。ずっと先にわたしがどうなっていくのか、とか。
「心配がまったくないわけじゃないよ。小さなこざこざはいろいろある。だけど、
とりあえずこれが一番の大問題で、考えると夜も眠れないなんてものは、今のとこ
ろは思いあたらない」
「心配事なら、あの頃の方があったはずだものね」
カナの言うあの頃というのは、二年前のことだ。
せっかく決まっていた結婚を、強引にキャンセルした一件。
そうだ。あの頃もわたしはなかなか寝つけなかった。
婚約者である男は、よく、わたしの部屋のベッドで眠った。
寝つきのいい男だった。気がつくといつも傍らで、すうすうと柔らかな寝息を立
てていた。
わたしはその、微妙な雑音に惑わされ、なかなか眠りにつけなかった。
眠れないのよ。
そう言って、男を起こしたこともあった。
眠ろうと思うから駄目なんだよ。目をつむって身体を休ませれば、それで十分に
疲れはとれる。無理に眠ろうと思っちゃいけない。どうしても駄目なら、気分転換
に本でも読めばいい。
今まで眠っていたとも思えない、はっきりした声でそう言うと、男はまたすぐに、
すうすうと寝息を立て始めた。
安眠を妨げられても、嫌なことのひとつも言わない。そしてわたしには、眠れな
い夜に叩き起こせる相手がいた。それはまったく、悪いことではなかった。
男はまもなく転勤でこの町を離れる。わたしはもうじき会社を退職し、その男に
ついていくことになっていた。
知らない町でもおそらく、わたしはこうして眠れない夜を過ごすのだろう。
夜更かしして過ごす女友達もいないような町の、知らない空間で、わたしはその
夜をどういうふうに過ごすというのか。
部屋を見回してみた。天井の淡い光や、本棚の文庫本。ひとりでいる時間を完璧
に過ごすために作られたわたしの部屋。わたしにはもう、そんな自分だけの場所が
なくなってしまう。それが、とてつもない悲劇のように思えて、眠り続ける男の横
でわたしは少しだけ泣いた。
それで男と別れた。言うに足りないちっぽけな理由が、男を傷つけ、動きはじめ
ていた周囲を傷つけた。、
いや、あれは心配事でも何でもない。強烈な感情が根元にあって、それに向かっ
て進んでいっただけだ。そして今は、すべてが済んだこと。
どっかで身体のバランスが壊れただけなのよ、きっと。カナがそう言うと、そう
いうもののような気もした。
カナは恋愛ぐせが悪い。
男を取るタイプの女だ。今だって、彼女いる男とつきあっていて、しょっちゅう
ケイタイに電話入れてる。悪気はないんだけど、たまたまそういう人を好きになっ
ちゃうのよ、と笑って言う。闘志を燃やしているのも本当は知っている。一番友達
になりたくないタイプだ。
それでもカナと親しくできるのは、彼女のタフなところに共感しているわたしが
いるからかもしれない。
わたしは眠りの水際に立っている。
足元まで、波のない静かな水が寄せている。
ここに潜ればいいのだと、わかる。ここに飛び込めば、あとは無意識の中に入っ
てゆける。
それは、生まれてからもう何度も繰り返してきたことだ。なのにわたしは水面に
触れない。
眠りがこの水の向こう側にあるものだと、わたしは知っている。
向こう側に意識はない。すべてを忘れて夢に泳ぐだけだ。
だけどわたしはけっして、この水辺に飛び込めない。
眠れない夜に見える眠りの入り口なのに、わたしはけっしてそこに触れなかった。
「何か心配事はありますか」
病院の先生も同じように尋ねた。わたしもまた同じように答えた。
「身体が消耗していくはきついでしょう、薬でゆっくりと休んでみてください」
かかりつけの医者は、やさしい口調でそう言った。
でも、先生、これは別ものの身体なんです。わたしの本当の身体って、どこに行っ
たんでしょうか。
薬を飲むと、水際に飛び込む前に、突風のような睡魔がやってきた。そして気づ
いた時は朝だった。
わたしの知らない身体は、薬の威力に屈したのだろう。人工的な、とってつけた
ような眠りでも、朦朧とした意識は少し薄らいだように思えた。
だけど、身体はわたしの知らないところで薬に屈しただけのことだった。
わたしが欲しかったのは、もっと気持ちのずっと底にある無意識が、身体の神経
の一本一本にまで伝わって、それが繋がっていくような眠りなのだ。
気持ちを全部受け止めてくれるような、そんな身体をわたしは取り戻したいんだ。
2
「まだ、時々、タイチと話したりする?」
夕飯を食べにきたカナにそう尋ねられた。
「ううん、ぜんぜん」
「でも、同じ会社の同じ部署にいるわけでしょ、話さないわけにはいかないんじゃ
ないの」
「そりゃ、事務的な話くらいはするよ。でもね、それもめったにないことだし、
わたし、派遣だからそんなに世間話する必要もないし。別に不自然じゃないと思う
よ」
「会社代えたくなんない?」
「ならない。前の会社、結婚退職にしてたから、どうしようかと思ってたわけだ
し。わたし、ここの仕事好きだもの、経理はひとりだから好きにやれるし。やめよ
うなんて、思いもしないわ」
新しい会社には、以前の成り行きを知る人もいなかった。タイチはそこで、はじ
めて話しかけた男だった。
表計算って芸術なんだな。
ある日、ディスプレイの後ろに立っていたタイチがそう言った。
交通費を入力して、並び替えでチェックして、自動計算で集計する。数字がジグ
ソーパズルの完成品のようにぴったり収まる。けっして単調な作業ではない。きち
んと数字のあった表計算はまさに芸術だと、わたしもいつもそう思っていた。
だから、タイチに惹かれた。
だけど長くは続かなかった。たったひとつの感性が通じようとも、許せない部分
はやまほどあった。
タイチのケイタイは本当によくベルが鳴る。そして彼は絶対にそれを無視しない。
レストランでもベッドの中でも長々と仕事の続きや世間話が始まった。わたしは、
セックスのとちゅうで明日の仕事の打ち合わせができるなんて信じられなかった。
彼には大切なものの優先順位なんてない。欲しいものがやまほどあるだけだ。 トッ
プセールスで仕事はできる有能な社員なんて、結局はそういう情緒が欠けているだ
けなのだ。
そのくせいつも誰かに飢えていて、女を好きになる時は心底共感した。
わたしにそうしたみたいに、他の女にも共感した。
自分が愛されている時にタイチに感じたオーラが。他に向いていることが手に取
るようにわかるのに。彼はそれでも優しいふりをした。
抜け殻みたいな空っぽの優しさ。
そんなものになんか、しがみついてられるか。
激しく罵倒して別れて、今、わたしたちは同じ部署にいながら世間話さえもしな
い。
カナもタイチも自分の欲しいものだけを望んでいる。
わたしは激しい自分を知っている人間にだけ惹かれていくのかもしれない。
薬はすっぱりあきらめた。わたしがほしい眠りはそこにはなかった。それにだん
だん、夜の長さにも馴れてきた。
昼間の言葉を、わたしは夜にほぐしてゆく。ほぐしてゆくと、そこにある微妙な
ニュアンスが変わっていった。気づかなかった悪意が見えたり、思いのほか無心だっ
たり。だけど、それで感情が逆立つことなんてなかった。それはただの分析で、た
だ、よくわかるだけだ。ちょっとした同僚のひと言や、ランチタイムの会話。電話
して一方的に、あんなやつとは二度と会わないと言ったカナの繰り言。そんな言葉
をわたしはほぐしていった。
知ってるよ、カナ。あんたの誓いはいつも本能に負けてしまう。ハガネのような
本能で、それを乗り越えられるんだ。
そうそう、カナ。今日わたし、会社でタイチと二人っきりだったんだよ。みんな
営業に出てて、ひとりでいたらタイチが帰ってきたの。
そういうのってわかる? すっごく空気が冷たくなるんだ。空調の効いたオフィ
スなのに、空気が目に見えるくらいに冷えてくるの。
こっちも話さないけれど、向こうもぜったいに話しかけない。そいで、タイチの
動作が、怒っているみたいにギシギシしてて、椅子を引く音が殴りかかるみたいに
聞えてくるの。
殴りかかれば? もっと苛立て。もっと怒れ。
どういうつもりだ、って怒鳴ってみろよ。
わたしはそんなふうに思ってしまう。
これっていったい何なんだろうね。
愛してないなら、思いっきり憎んでほしい。そんな気持ちっていったい何なんだ
ろう。
苛立つくらいいに憎んでくれれば、それで本望。
何でもなかったり普通に会話したりしたら、もうわたしの立場がなくなってしま
うみたいな気がして。この、空気のギシギシした感触に鳥肌が立つようで、ワクワ
クしてしまうの。
無音のオフィスに居場所がなくなって、タイチがまた出て行く。
それで、ちょっと肩の力が抜ける。
あんたに大切なものがたくさんあるのと同じくらいに、わたしにもたくさんある
んだよ。
こんなくだらないことで、わたしは仕事を辞めたり、生活を変えたりはしない。
だからわたしはここにいる。
そんなわたしが目障りならば、それで本望だ。わたしは憎まれるためにだけ、ここ
にいるのだから。
憎むくらいに激しく、あんたの心に刻まれていたら。
それでわたしは本望なんだ。
「ああ。駄目、また失敗しちゃったよ」
その時、そんな声が聞えてきた。ベッドで目をつむって、タイチのことを考えて
いた時だ。驚いて、重たく閉じていた瞼を、力をこめて開けてみた。
静かな水際が広がっている、森の風景がそこにあった。小さな女の人がひとり、
水際にかがみこんで、手を濡らしている。たぶん、声の主は、この女性なのだろう。
ふわりと髪をカールしてて、チビ猫みたいなかわいい女だった。
見覚えのある風景だった。
幼い頃、子供部屋に掛けられていた絵だ。テイショウという画家の描いた油絵だ
と父に教えられた。子供の頃、朝寝した日曜の夜とかの眠れない時には、ベッドか
らこの絵を眺めて過ごしていた。
あの時の風景だ。
案外わたしはまだ子供のままで、大人になった毎日を、夢見ていただけなのかも
しれない。いつまで寝てるの、もう朝よ。そう言って、もうじき母がカーテンを開
けにくるのかもしれない。
そんな気分にさえなった。
だけどもわたしは絵を見ているわけではなくて、その絵の中に立っていた。
それにわたしは子供ではなかった。
白い服を着たチビ猫のような女性は、池の水を手ですくいながら、何事かぶつぶ
つと独り言を言っている。
「今日もだめ。どうしてこんなにうまく結べないのかしら」
女はため息をついた。
「何が結べないの?」
その声に驚いて、彼女がふり返った。
「ああ。あなたね。見つかってしまったのね」
「こんなところで、何を困ってるの?」
「不思議ね、人に見られることなんてないはずなのに。でも、見られちゃったら
仕方ないわ。わたしはここで、昨日の言葉を結んでいるの。あなた、最近、全然眠
れないんじゃないの?」
「どうして。そんなことがわかるの?」
「あなたの言葉が結べないのよ」
「どういう事?」
「過去の言葉はみんな、結ばれて、この池の底に沈むようになってるの。だけど、
ここんとこずっと、あなたの言葉を結べないでいるの。昨日の言葉をみんなきれい
さっぱり沈めてしまうのが、眠るための儀式。それがなぜか最近、あなたの言葉は
結べないし、散らばってしまって、ちっとも水の中に沈んでゆかない。わたしの腕
が落ちたとも思えないんだけどね、何か最近、心配事とかあるの?」
ああ、誰もかれも、眠れないと言えば心配事と言う。いつもと同じように答えた。
心配事なんて、何もない。仕事も生活も、ちょっとしたコザコザを除けばとどこお
りなくやってる。
「本人にその自覚なし、か。そういうのが一番面倒なのよね」
「わたしに心配事があるって言うの」
「わたしにはわからないわ。わたしが結んでいるのは、あなたの言葉だけだもの。
その言葉が心の底から出た真実の言葉なのか、心の動きから離れた嘘の言葉なのか、
わたしにはわからないの」
「言葉を結べなかった人って、他にもいた?」
「もちろん、いたわ。仕事で大きな嘘をついてて、それをずっと気に病んでた。
その人は会社でリストラ担当してる人だったの。だからわたしにも理由はわかった。
あと、わたしの担当に万引きしてた子がいてね、万引きしてるうちはよかったんだ
けど、見つかって、ナイフで店員切って逃げちゃったの。そいで平然としてたんだ
けど、その子の言葉は全然結べなくって、そのうち苦しくなって自首したんだけど、
やっぱり人を切ったりして気持ちが拡散してたんだろうね、その後しばらくは、あ
まりうまく結べなかったんだ」
女はわたしの顔をまじと見た。
言葉を結べないのは、ただのそういう現象であって、あなたの責任ではない。
そう言っているような子供のような顔だった。だから、わたしは少しだけ苦しかっ
た。
「言葉を結べなくったって、その言葉を見てると大体の理由はわかるもんなのよ。
だけど、あなたの場合はほとんどわからない。あなたは気のおけない友達とうまく
やってる。だからわたしも首をかしげてるわけ。でも、心配するほどのことじゃな
いと思う。眠れなくってつらいなら、薬でも飲んでればいいことだし、これが原因
で死んじゃうことなんてめったにないし。もっともわたしはプロフェッショナルだ
から、仕事がうまくいかないって、あまりおもしろくはないんだけどね」
「ねえ。眠れないとき、あなたの傍にいちゃいけない?」
「かまわないわよ。わたしはずっとここにいるわけだから」
3
その日からわたしは、この女(名前をルナと言った)の傍で、夜をすごすように
なった。
ルナは、わたし以外のいろんな人の言葉を結んでは、水底に投げ込んでいった。
プロフェッショナルというだけあって、彼女の手際は見事なものだった。
積まれた言葉をひとまとめにして、キュッキュッとサンタクロースのプレゼント袋
のように縛る。言葉はポチャンと音をたてて沈んでゆく。
たまに縛りづらい言葉もあるらしく、その時は両手両足で、うまく形を整える。
それでもなんとかうまくやって、時間をかけても沈みこませる。
「寝つきが悪い人ってね、縛るのに時間がかかってるのよ。わかるでしょ」
「そういうしくみなんだ」
「あなただってね、こうなる前はやりやすかったのよ。ベッドで目を閉じると、
あっという間。健康な女性なんだっていっつも思ってたわ」
「今は不健康なんだ」
「若い女の人って、だいたいそんなもんよ。心配するほどのことじゃないわ」
子供の言葉は概して縛りやすい。大人になると縛りづらい人もいる。そういうこ
とも覚えた。結局縛れなくて、傍に置かれたままの言葉もあった。
「この人も眠れずにここに来るかしら」
「それはないわ。この人、明日彼女にプロポーズするの。だから緊張して駄目な
のよ。今、お布団の中でミステリー読みだしたから、しばらくはこのままでいいの。
あなたみたいにここまで来る人なんてめったにいないもの」
一瞬、タイチではないかと思った。彼は通勤電車でぼおっとしているのが耐えら
れないと言っては、よくミステリーを読んでたから。
タイチかと思うと、胸がどきどきして、それからきゅーんと締め付けられるよう
な気がした。
いや、タイチのはずがない。あんな強心臓の男がプロポーズくらいで寝つけない
などあるものか。
そう思っても、なぜか、きゅーんとした感じは納まらなかった。
カナにこの夜のことを話してみようかとも思った。
だけど信じてくれるわけがない。
一方でカナは、
「実はわたしも最近眠れないの」
と言って、わたしの薬を一錠貰っていった。
カナの好きな人の彼女というのは、カナのことをウスウス感じているらしく、ケ
イタイに記録された番号から、無言電話をかけてくるらしい。
いいの。人から嫌な思いをされるのには馴れてる。こんな性格だもの。敵意を持
たれるのなんても何ともないわ。
そんなふうに強気に言いながら、彼女はやはり眠れない。煙草を持つときのピン
とした右手が、心なしかしぼんで見える。
本当に鈍感で無敵に強い人間なんて、案外、いないんじゃないだろうか。
人を傷つける人も、傷つけたことで、また傷ついている。婚約者を傷つけた前科
者のわたしにはよくわかる。傷つけるっていうのは、傷つけても守りたいものがあ
るときの、切り札のようなものだから。
ただ。そんなことで傷ついてるなんて言うのはフェアじゃないんだから。加害者
は、まちがっても傷ついてるなんて言っちやいけないのよ。だから、わたしは何を
されようと、このまま行くだけなの。
赤い服がよく似合うカナ。赤に色とりどりの花の絵柄が燃えている。
わたしたちは似ているかもしれない。彼女もまた、眠れぬ夜に彼女の水際に行く
のかもしれない。
だけどおそらく。彼女水際は、わたしの水際とは違う場所にあるような気がする。
どうしてだかわからないが、そんな気がした。
4
そんなカナを見たせいか、それからわたしは、どうしても自分の言葉を沈めたい
と思うようになった。
だから、もう一度、ルナと一緒に水際に立ってみた。
結べない言葉を何とかひとまとめにして、ルナが沈めようとしてみた。
だが、言葉はバラバラに拡散して、水の上にぷっかりと浮かんでいった。
ルナが首を傾げる。
「どうしてだか、わかんないの。カナとごはんを食べて。いろいろ話したただけ
なんでしょ。あなた、もしかしてカナのことが嫌いなの?」
「嫌いじゃないわ。彼女の強い性格がわたしは好きよ。もっとも、同じ人を好き
になったら嫌いになるかもしんないけど」
「カナとタイチは似ているの?」
「そう。カナとタイチは似ている」
「だけどもタイチは憎んでる」
「同じような性格の人間でも、立場が違うとそういうこともあると思うわ。別に
嘘ついてるわけじゃない」
わたしはタイチのことを思う時いつも、因果応報って言葉を思い出していた。
自分の好きなもののために踏みつけにしてしまった、かつての婚約者。その男に
したことを、タイチはわたしにしているのだ。立場が違うと、そういうふうになる。
かつての婚約者も、こんなふうにわたしを憎んだのだろう。それはそれで仕方ない。
そうしてわたしはまた、立場が代わってタイチを憎んでいる。
ただ、それだけなのだ。
ルナは、わたしの言った言葉の切れ端をひとつまみつまんで、水の中にゆらゆら
と揺らしてみた。だがそれも沈んでゆかず、ぷっかりと陸に乗り上げた。
「矛盾しているのかしら」
「人間なんて矛盾だらけじゃない。これっぽっちの矛盾が許されなかったら、世
の中眠れない人だらけのはずよ」
「ねえ。人を憎むのって。悲しかったりする?」
「別にそんなに悲しくはない。だって一日中考えて一日中憎んでいるわけじゃな
いもの。ただ、見る瞬間とか、ふっと思い出した瞬間に憎むだけなのよ」
そう。心の中にはいくつもの引き出しがある。仕事をするときは仕事の引き出し。
遊びのときは遊びの引き出し。いつの間にか、そういう引き出しをいくつも使い分
けられるようになっていった。いつまでもいろんなものを引き摺って生きてゆくな
んてできやしないもの。
「でもね、心の一番底では、全部が繋がっているものなの」
「そう。心の奥底は、みんな繋がっている」
「知ってる? 愛してると憎んでるも繋がっているのよ。本当に愛してない時っ
て、何も感じてない。記憶がなくなるみたいにその人を忘れられるの。憎むって感
情が残っているときは、愛してるが激しく裏返っているだけで、まだ、その人を思っ
てるってことなのよ。あなたはまだタイチを忘れてない。憎むってことで、忘れら
れない自分を抱えている。本当は忘れられなくて苦しんでるはずなのに、それをどっ
かの引き出しに追いやって、平気な顔をしている。本当は平気でもなんでもないは
ずなのに」
「そんなことない。あの人がどうなろうと、わたしにはまったく関係ない。憎ん
でいるのは多分、愛していたときの残像が残っているだけ。わたしは自分の生活を、
そんなくだらないことでグチャグチャにしたくはないのよ」
ルナがもう一度、それまでの言葉をひとまとめにして沈めようとした。
だけど言葉はまとまらず、けっして水底には沈まない。ルナが両腕の力でエイッ
と押し込んだ言葉は、激しく反動するようにぷっかりと陸に向かってジャンプした。
わたしは激しく絶望した。
真実なんて、これが間違いならどっか別のところにあるなんて。
そんなもんじゃないと思う。
自分の受け入れられないものを削って削って削り取って、そうして残っていった
ものだけが、自分の真実なんだ。
ここにわたしがいないのなら、別のところにもわたしなんていない。
ここしかないんだ。
どんな関係でいようともタイチがいて、カナがいて。わたしは、やっと見つけた
派遣の職場で仕事を続けていて。
結婚をとりやめた時に迷惑かけたし、家に帰るには年を取りすぎていて。ここで、
この生活を続ける以外には考えつかなかった。
消去法でいろんなものを消していって、残ったのがわたしの生活なんだ。
だけども、べつにそれを悲観しているわけじゃない。
いくつものものを削り、そして残っていったものは、すべてわたしにとって必要
なものだったから。人がどう思おうと、わたしはわたしの毎日を愛していた。
こうして積み上げてきたものが、嘘の言葉だとしたら。
わたしには、本当の場所なんて、どこにも残ってない。
ってことになってしまう。
5
そうしてわたしは、今日も眠れずに朝を迎える。
水際の絶望は、強い疲労になって身体に残り、わたしは泳ぎつかれたように、ぐっ
たりと会社に溶け込んでゆく。
ここもまた、水底のようにゆらめいて、でも、ここに真実の言葉が沈んでいるな
んて、到底思えない。
キーボードを叩く音が、カチャカチャと響くうちに、ひとりふたりと、社外の営
業に出かけていく。人が減るごとにキーボードの音が大きくなってゆく。
音は言葉、なのだろうか。
言葉だとしたら、何を喋っているのだろうか。
わたしの発するこの音は、いったい何と叫んでいるのか。
タイチは資料の整理にとまどっているらしく、ひとりだけ、出遅れた。
コピーをファイルしたり、何かを書き込んだりと、せわしなく動きまわっている。
早く出かけたくってあせっているのかもしれない。
ここに二人でいると気詰まりだろうから。
わたしのキーボードがカチャカチャ、うるさい。散弾銃みたいだ。ゲームのコン
トローラーみたいにして、キーボードの音がタイチと戦っている。カチャカチャカ
チャカチャ。ここで爆撃だ。ヤラレロ。
気詰まりなのはわたしの方だ。
水槽の中みたいに淀んでいる。沈黙が。タエラレナイ。
こんな状況が、変わることなく繰り返し続く。
どっちかが、何かのアクションをしないかぎり、ずっと続くんだ。タエラレナイ。
どういうつもりよ、って、立ち上がる自分を想像した。もう、こんなこと止めよ
うって泣いている自分もいた。どういう事? おれは何とも思ってないよ、タイチ
はきっとそう言う。ハガネのように自分を通すタイチ。後の言葉が続かない。
ブザマだった。
違う。そんなことじゃない。
いっそ、いなくなって欲しいって。
いなくなるって?
殺しちゃうって事?
後ろから、このキーボード引き千切って、頭殴るとか。
そんなんじゃ弱い。一撃では無理だ。
給湯室の包丁は。人目につきすぎて、持って来れない。
紙をカットする裁断機が目に付く。これはかなり重たい。振り下ろす鉄の部分な
んて、立派な凶器になりそうだ。
うしろから、この鉄のところが当たるように振り下ろして。
ガン、って鈍い音がして。
噴水のように血がプワーッって噴き出す。
傷口が後頭部にぱっくり割れていて。タイチは机にうつ伏していて。なんだかグ
チャグチャの脳味噌みたいなものがそこから半分飛び出していて。血は、ドクンド
クンといつまで流れていて。椅子やら床やらにタラタラタラタラいつまでも落ちて
いって。
タイチは軽く痙攣して、倒れたままで動かない。
身体に戦慄が走った。
だめだ、わたし、血は苦手なんだ。どうしよう。
どうしようどうしようどうしよう。
瀕死のタイチを抱きかかえる。わたしの腕に、生暖かい身体が、血を流しながら
感触を伝えてる。
タイチがこのまま消えてしまう。二度と、ここにいなくなってしまう。この場所
で、緊迫しながらも見つめ続けていたタイチが、二度と、ここにはいなくなってし
まう。
このまま目を開けなかったら、もう、タイチとは二度と会えなくなってしまう。
どうしようどうしようどうしよう。
殺したタイチがもとに戻らない。
リセットボタンが見つからない。
ああ、そう。現実世界には、リセットボタンなんてもともとないんだ。
「なに、泣いてるんだよ。みっともないだろ」
憮然とした顔でタイチが立っていた。
憮然として怒っている、現実の生きているタイチ。ダークスーツを着てレジメン
タルタイをしめた、がっしりした生きたままのタイチ。
あ、とか、う、とか、そんなことばかりで、言葉が全然出なかった。
だって。
アンタを殺してしまうところ想像してて、恐ろしくなって泣いてしまってたなん
て、言えるわけないもの。
「会社でなんか泣くな。おれがなんかしたみたいじゃないか」
バカ。アンタが泣かしたんだよ。
「だれかが入って来たら、おれが泣かしたみたいに思われる」
「わかってるけど。こうしてアンタと二人っきりになると、嫌で嫌で、耐えられ
ないのよ」
「自分でそうしたんだろ。でも、だったらもっと普通に話せばいいじゃないか。
でないと、こっちもやりづらい」
「普通に話せるの?」
「どうせこの仕事、辞めないんだろ。だったら、普通にしててもらった方がいい」
それからタイチは、もうじき、その女と結婚するのだと言った。それが自分にとっ
ての正解で、他は正解ではなかった、だから、もう、他のものを欲しがったりはし
ない、ケイタイだって一緒のときは電源切ってる。そういう事が自分にもわかって
きたんだと。
だからもう、そういうわけなんだ。おまえがいるとやりづらいけど、いなくなれっ
て思うほどでもない。だったら、何事もなかったように普通にしているしかないん
だよ。
普通でいられるわけない。普通になるには時間がかかる。そう言いたかったけど。
言っても仕方ないことは仕方ないわけで。
かわりに、自分の身体がふんわりと遠くなってゆくような気持ちになった。
失ったものは戻らないし、必要なものはわたしじゃない。望んで望まなくても、
戻らないように決まったものは、二度と戻りはしないんだ。
ただ、それだけだ。
わたしは、ふんわりと自分がそこから遠くなるしかなくって。
ただただ遠くなって。ああ、家に帰りたい。このまま飛んでって、ベッドでごろ
ごろしていたい。なんて思っているだけだった。
ブザマなわたし。
遠くなった身体が見ていた。
激しさや強さや、人を傷つけても貫く力は。持つ人だけしか持っていない。
わたしはいつも、そんな力を持ちたいと思いながら、自分の重さに負けてゆく。
そんな自分が。
ブザマでブザマでブザマで。
ああ、オフィスの窓から見える四角い空が青い。
まるで、透き通った湖水のように。
どこまでもどこまでも、ブザマに空が青かった。
「見てごらん。言葉が溶けてゆくよ」
ルナが手を水に濡らして、こっちを振り返った。
言葉は丸い球体になって、ポトンポトンと水の中に沈んでいった。シャボン玉の
ように輝きながら、吸い込まれるように、美しく、消えてゆく。
どうして?
何がどう、今までと変わっていったの?
それはわたしにもわからない。
でもきっと。あなたの意識はうまく、あなたの気持ちと結びついていったのかも
しれない。
いいじゃない、それで。
うまく結びつけたのなら、それはそれでいいじゃない。
さあ、もう大丈夫よ。深い眠りにつくといい。
そうしてわたしは、足元に広がる水際にふわりと飛び込んだ。
うしろでルナが笑って、手を振っているような気がしたが。
それを確認できないくらいにあっと言う間に。
わたしの意識は途切れていって、慣れ親しんだ深い無意識の中に、身体は心地よ
く溶けていった。
それから数日の間わたしは、夜になると耐えられないくらいの眠気を感じ、貪る
ように眠り続けた。
今はそこまではないが、それでも夜になると、眠りの水際に足を沈め、その後は
朝まで、無意識の水中を漂っている。
当たり前でいて、それでいてかけがえのない無意識。
わたしはそこで、ルナに会うことは、もう二度となかった。
それでもわたしは、ときおり、あやふやになってゆく。
本当の言葉や本当の意識と。いつわりの言葉の境目なんて、いったいどこにある
というのか。
生きている間の無意識が発する言葉に、人はどういうふうにしていつわりを織り
込んでゆくのか。
わたしはまた、知らぬうちに、いつわりの言葉を自分のものにしていって。
いつかまた、眠れぬ夜を過ごすのかもしれない。
そのときにまたわたしは、ルナに会うことができるのだろうか。
こがゆき