冷蔵庫へ

.kogayuki.  緑、うす緑、オレンジ


 きっと風が気持ちいいんだろう。季節もいいし。
 だけど向こうの空き地では、セイタカアワダチソウがさわさわ踊っている。くしゃみが出たらいやだから、結局窓は開けない。FMは夕方の番組に変わった。「4時からはDJエイジでお届けします」ここからあと3軒。予定よりちょっと遅れぎみだ。
 急いだ方がいいかな? サカタさんはもう少ししたらお嬢さんのスイミングのお迎えだ。行き違いになっても問題ないし、野菜セットさえ置いておけば、集金は来週でもいいんだけど。できれば会って手渡ししたいなと思う。
 信号を左折したら大通り。そこからちょっとスピードを出そう。

 アラカワさんの家で思いのほか時間をくってしまった。
 ふつうはパックに入れてセット野菜にするんだけど、アラカワさんだけは必要な分を選んでもらっている。お年寄りだしそんなに量もいらないからだ。
「えーっと、冷蔵庫に何があったかしら、ちょっと見てくるわね」
 銀髪のゆるゆるのウェーブがきれいなアラカワさんはそう言って席を立つ。近所に嫁いだお嬢さんがときどき買い物してきてくれるらしい。
「ジャガイモ、人参、カボチャ、大根・・・ジャガイモ、人参。カボチャ、大根・・・」
 そう言いながら戻ってくる。それくらいあったら何もいらないんじゃないかと心の中で思う。
「そうね、エノキとシメジはあった方がいいわね、これの三杯酢が好きだから、あと、ほうれん草と・・・あら、これは何かしら?」
「小松菜です、揚げ豆腐を煮るとおいしいです」
「じゃあ、その小松菜と・・・えーっと、ゴボウはあったかしら」
「ジャガイモ、人参、カボチャ、大根だったですね、ゴボウはなかったです」
「じゃあ、ゴボウもいただくわ。これでしばらくは買い物行かなくても安心だわ。ひとりだから、家をあけるわけにもいかなくて」
 それからアラカワさんは財布を取りに行く。そうして5分くらいして、古いお屋敷の奥から泣きそうな顔をして戻ってくる。
「ごめんなさいね、お財布を見つからなくって。えーっと、いったいどこに置いたのかしら」
「来週いっしょにご集金します」
「そう、じゃあ、何かに書いてくださる?」
 アラカワさんはいつも、勧めると勧めるだけ買ってくださる。だからできるだけ勧めすぎないようにする。それでも売り上げの少ない日はちょっと邪悪な心が囁く。ゴボウはよけいだったかな?  まあ、長持ちするからいいか。

 ときどき、大豆がいっぱいに詰まったビーカーの図を思い浮かべる。学生の頃、理科の教科書で見たヤツだ。
 このビーカーの中にゆっくりと水を入れてもあふれることはない。ビーカーいっぱいに詰まっているように見えても、あいだに隙間がいっぱいあるからだ。
 ゆっくりと、あふれないように水を注ぎ込むという作業。
 たぶん、そういうのがわたしは嫌いじゃないだと思う。 

*   *   *

 アパートの隣の部屋のカズちゃんが流産した。
「わたしに、いろんな原因があったと思うの」
 心配して部屋を訪ねると彼女はよくそんな話をした。そんなことはないと思う、流産は一定の確率で起こる不幸な事故だってなにかで読んだよ、って言ったけど、慰めにもなんにもならなかった。
「今の食品って、添加物もいっぱいだし、野菜も農薬とかいっぱいでしょ? そういうのもなんにも考えずに食べていた。だから、わたしの汚れてしまった身体に、赤ちゃんが耐えられなかったのかもしれない」
 それで・・・と言ってカズちゃんは切り出した。お向かいの集合住宅の空き地で青空市場ってやってるでしょ? ほら、朝トラックが来てみんなでお野菜を分けてるの。あそこに入れてもらおうと思ってるんだけど、明日一緒に行ってみない?
 
 流産は自分の身体に原因があるとすれば、結婚して1年以上子供ができないウチの場合はどうなんだろう。やっと仕事が軌道に乗ってきた頃に、一度堕胎したことがあった。相手はまだ大学院の学生だったし、結婚どころか出産なんて考えられなかった。必然のように子供を堕して、良心の呵責もないではなかったけど、あまりにも小さすぎる物体を生命と認識する余裕がなかった。そのときは、やっと手に入れた定職の方が大事だったのだ。その人と別れて、仕事も辞めて結婚した今、わたしに子供ができないのはそのせいではないだろうか、と思う日もないわけではなかった。

 それからは毎週ほうれん草やニラや見たこともない野菜を、勧められるままに青空市場で買うようになった。ジャガイモやキャベツくらいしか知らなかったわたしは、カズちゃんにしょっちゅう作り方を尋ねた。夫は料理のレパートリーが増えたと喜んでくれた。カズちゃんも少し元気になった。彼女は安全な食品の話とか、そんな話を市場のリーダーさんと話すのが好きだった。
 しばらくして、配達スタッフにならないかと荷下ろしをしている事務局の人に誘われた。青空市場のない地域に個別配達をはじめるのだと言う。いっかい下ろした野菜を小分けにして配達するの。ほら、青空市場がない地域も多いしね。週2回だけどバイト代も出るからと言われた。忙しくもなかったし、仕事をする予定もなかったから、断る理由もなかった。

*   *   *

 それから2年間、ずっと自分の車で週に2回配達をしている。
 聞いたのとは微妙にニュアンスは違っていた。
 自主運営の青空市場は年々売り上げが減り、宅配でもしないと、産直の野菜を売り上げることができなくなっていたのだ。若い人は、なかなかそういう場所に出てこない、食べ盛りの子供が巣立つと野菜をやめる人もいる。売り上げが減少すると畑を契約している生産者に迷惑をかけてしまう。その苦肉の策が配達だったのだ。
「とにかく、がんばって売ってきて。期待してっから」
 そう言って豪快に笑う事務局のオガタさんに逆らうすべもなかった。
 宅配はお客さんからの紹介やオガタさんの営業のおかげで、一日15軒くらいに増えていった。それを週に2回、全部で30軒の配達だ。

「あ、おみかんははずしてください。いっぱいもらったから」
 ヤマグチさんはセット野菜を見てそう言った。団地の3階まで上ったせいか、ちょっと脱力しそうになる。今日は白菜1/2と大根も1本入ってるもんなあ、どおりで重たかったはずだ。
 仕方ない、このみかんは誰かに売ろう、そう思って値段を差し引いた。無理言えば引き取ってくれるかもしれないけど、わたしだって余っているものを買うのはイヤだ。
 次に行くのはハナダさん宅、一軒家だからここはラクだ。路上駐車で目の前に車を置ける。
「おかあさん、お野菜だよ?」
 ケント君がそう言っておかあさんを呼んだ。
「はい? ほら、ケントの好きなみかんが来たよ」そう言いながら、袋の中を見ている。「ケントはみかんが大好きでねえ。これくらい2日で食べてしまうんですよ」
「だったら、もう一袋いかがですか? 実は、今日、あまってるんですけど」
「そう、よかった! もう一回スーパーに買いに行くのも面倒だしね、おたくのは安全だから、助かります」
 助かったのはこっちの方です、余ると困るもんで、ありがとうございます、と心の中でつぶやいた。
「ねえ、今度、一緒に配達に連れてって」
 とケント君が言った。ケント君は車が大好きで、わたしの白いマーチにも一度乗ってみたいのだそうだ。
「野菜でいっぱいだから、今度、少ないときに乗せるね」
 と約束して、バイバイした。
 ケント君は小学校の2年生だけど学校に行ってない。だからいつも昼間家にいる。
「でも、家にいるときは元気だし、これはこれでいいと思って」
 とお母さんは言うけれど、ときどき教育相談とか面談に行くこともあるらしい。いろんな検査もしたんだと言う。(腹痛がひどかったらしい)
 ケント君はおかあさんと一緒に玄関まで出てきて、わたしの車をじっと見つめる。運転席の計器を見つめ、走行カウンターをリセットしてみたり。そうしてなかなか発車させようとしない。
 わたしにはそんなケント君はとても利発な子に見える。

「なるほどね、今日は水菜と春菊が余ったんだ」
 夫がそう言いながら鍋をつついている。鶏肉に刻んだネギとショウガをまぜたつくね鍋だ。シイタケ、エノキ、シメジも入っている。キノコ類はなんでいつも一緒に余るんだろう。いろんな味が出ておいしいからいいけど。
「できれば白菜もあまってほしかったな」
「自分用の白菜キープしてたんだけどね」
「キープしてたのに、どうしたんだ?」
「白菜、そろそろ食べたいですね、って言われて、売っちゃったの。だって、今日が初ものだったんだもの」
「アユミがそんなにいい人だとは思わなかったよ」
「仕事してるときだけいい人なの。タロウもそうでしょ?」
 うん、まあ・・・僕も売り上げのためならちょっといい人になるかもな、と言ってタロウは笑った。
 
 最初、ほんとにそんな仕事でいいの? ってタロウに真顔で聞かれたときは、肩身が狭かった。
 知り合ったばかりのタロウに転勤が決まり、それに合わせて結婚したときにお互いわかっていたつもりだった。
 同じ会社に勤めていたけれど、タロウは本社採用。わたしは中途の現地採用だった。卒業後にアルバイトや派遣を転々として、やっと手に入れた定職だった。一生だって勤めてもいいと思う反面、繰り返し同じスタッフで同じ仕事をやることにうんざりもしてた。仕事で外に出るタロウとは違う。わたしたちは8時間同じスタッフと同じフロアであれこれやり続けるだけなのだ。少し軋んだ人間関係を見ぬようにして、新たな軋みを作らぬように気を使い合って。それをどこかでリセットしたかったのかもしれない。
 本当は、辞めるための必然が欲しかったのだと思う。夫の転勤という必然が。

*   *   *

「ねえ、ほんとうに無農薬なの?」
今日ナガサワさんにそう尋ねられた。ナガサワさんはお野菜を取り始めて4回め、つまり一ヶ月だ。
「キャベツや白菜を見ていただくと、小さな虫がいることがありますよね。農薬をかけていたら虫は寄ってきません。葉もの野菜も虫喰いのあとがあるものもあります。見た目は汚いかもしれませんが、それが証拠です」
「でも、ずっと畑を見てるわけじゃないんでしょ?」
「一ヶ月に一度は畑を見に行ってます。それと、栽培計画書というものを生産者に提出していただいて、毎月、農薬や肥料を使った品目がないかどうかチェックしています。万一、どうしようもない状況で薬を使った場合はそれを報告することになっています」
 ナガサワさんを紹介したのは、わたしを信頼してくださっているアナイさんだ。話を聞いて取ってみたいって方がいるから、と言われた。ナガサワさんは「すごく味のいいお野菜だと伺ってます」と嬉しそうな笑顔で言ってくださった。
 だけども今日のナガサワさんの目は懐疑に満ちている。庭にはピンクと紫のパンジーがグラデーションで並んだおうち。自作のパッチワークが並んだ玄関。彼女の目が今日はじめて神経質そうに見えた。
「農薬の味がわたし、わかるの。少しぴりっとするような苦みがあるのね。だから市販のほうれん草なんて食べれないの。おたくなら大丈夫と思っていた。でもね、市販品ほどじゃないけど、少し舌がしびれるの。少し農薬をかけてるんじゃないかしら」
 それはほうれん草自体のアクの味なんじゃないかと思うが、とりあえず反論しない。そういう報告は受けてません、と答える。
「もっと調べた方がいと思うわ、とにかくこの野菜はウチじゃ食べられない。配達は今回で終わりにしてください」
 また、機会がありましたらお願いします、と言って車を出して、ため息をついた。
 葉ものが多くて食べこなせない、とかで辞める人もいるけど、こんなふうに言われたのははじめてだったな。ちょっとばかりへこむ。いや、本当は別の理由があるのかもしれない。配達の時間を気にして外出できないとか、いろんな人がいるから。
 それか、もしかしたらナガサワさんが言うことが本当かもしれない。農薬なんて目に見えないんだから、少しくらいかけたってわからないんじゃないか。行くたびに野菜料理をこしらえてくれる人のよさそうな生産者のおばちゃんたちの顔を思い浮かべた。信じてないと仕事にならないけど。信じることと真実は別ものだ。
 わたしは立場上信じている。それは、ディベートのときにどっちのサイドにつくかのようなものかもしれない。
 ひとりで車を運転しながら、もやもやした気持ちをクールダウンさせていった。この仕事のいいとこは、ひとりでいる時間が長いこと。誰かのペースじゃない自分の時間。その時間に気持ちを切り替えたり、CDの音楽を聴いたり。イヤなことは誰かに話すともっとイヤになったりするから。しばらくイヤな言葉をクシャクシャにしながら遊んで、そのまま自分のゴミ箱に放り込んだ。

 いつものコースを回って、ハナダさんの家をピンポンしたら、今日はケントくんがでてきた。
「こんにちはー、あれ、お母さんは?」
「・・・お出かけしてる」
 留守番が心細かったような顔。買い物にでも出かけたんだろうか。
「じゃね、ケントくん、これ、置いとくからお母さんにわたしてね、お金は来週いただきますって言っといて」
 そう言って行こうとすると、ケントくんがわたしの背中に、ねえ、と呼びかけた。
「退屈してるんだ、マーチに乗せてくれない?」
「でも、おかあさん、帰ってくると心配すると思うよ」
「大丈夫、しばらく帰ってこないから」
 ちょっと考えてみた。ハナダさんの前で、いつか乗せますって言ったけどダメとは言わなかったな。彼女はケント君の言うことを理不尽じゃないかぎりちゃんと尊重してくれるタイプだし。置き手紙さえしておけばいいんじゃないか。このあとの配達の時間は約1時間半。送り届けてもそんなに遅くはならない。夕方の6時前には戻れるはずだ。
「ねえ、玄関のカギ、持ってる?」
「うん! 自分の分がある!」
 仕事用のスケジュール帳を一枚やぶって、短い手紙を書いた。6時前には送り届けます。それと自分のケイタイの番号。

「助手席に座っていい?」
 そう言ってケント君が乗り込んできた。彼は計器が好きだ。アクセルをあげると回転数がぶーんと上がるのを覗いたり、あ、もうすぐ50キロだ、とメーターを見ながら言ったり。
 だけどもうるさいとは思わない。高い声できゃーきゃー騒ぐタイプでもないし、自分と車の世界に入り込んでいる感じだ。話していない時はじっとエンジンの音を聞いているような気がして、CDの音楽をオフにしてみたら、いっそう黙りこくってしまった。
「車が好きなの?」
「うん、いろんなときに行けるから。でも免許取らなきゃ運転できないんだって言われた。ああ、僕もちょっとでいいから運転したいよなー」
「それは無理!」
「・・・18才にならないとダメなんだよね」
 それからケントくんはわたしに尋ねた。
「いつもひとりで運転してるの?」
「そうね。仕事のときはね。ひとりで運転しながら、今日は何食べようかなとか、ああ夕焼けがきれいだなーとか思うのが好きなの」
「わかるよ。ぼくもひとりで学校から帰るのが好きだったもん。ともだちと別れて、そこからひとりで空き地とか歩いてさ、なんかさ、映画の中にいるみたいな気持ちになるんだ」
 学校、そろそろ行きたいのかな。外に出たいってそういうのの始まりなのかな。ちらりとそう思った。

「いい? ピンポン押してね、はーいって言われたら、お野菜です! って大きな声で言うんだよ」
 そう言うと、はっきりした声できちんとこなす。まあ、お子さん? とか聞かれてわたしが照れてたりすると、配達のお手伝いです、と言う。その真摯な言い方に、お客さんの顔がほころんだ。
 そうか。子供って、こんなふうに和らげてくれるんだな。育てたことがない分、接し方にも自信がなかったけど、彼は意外なほど最強なパートナーだった。
 
 配達は時間どおりに終わった。空が薄墨色になる頃にハナダさんのお宅にたどり着く。
 なのに、電気がついていない、でかけたときのままのしんとした状態だ。
 ケント君がカギを不器用にまわして開けている。ずっとうつむいたままだ。
「遅いね、おかあさん、いつくらいに帰るんだろう」
「・・・わからない」
 庭の方を見てみた。いつもいっぱいにはためいている洗濯物が今日はない。朝からいないってことなのか? 急に胸がざわざわしてきた。ハナダさんがいなかった日なんてこれまであっただろうか? あ、一度だけあった。買い物のあと意外に道が渋滞しちゃって、よかったわ間に合って、と言って慌てて車で帰ってきた日。その日一回きりだ。
「ひとりでおかあさんを待てる?」
 そう尋ねると、よけいにケント君は下を向いた。
 少しだけ一緒に待っていようか? 入ってもいい? と聞くといいよ、と言う。失礼かと思ったが部屋にあがることにした。
 この不穏な空気の中にこの子ひとりを置き去りにしてはいけないという直感。それが間違いでなかったことは一目瞭然だった。
 リビングにはゴミやら本やらお菓子のくず。テーブルの上にはポテトチップスと、チキンラーメン。チキンラーメンはそのまま囓ったような感じだ。ぽろぽろぽろぽろ、その食べ物のかけらが散らばったフローリング。
 勝手口のあたりにはゴミ袋がみっつ、生ゴミの臭いが漂っている。そのうちのひとつを見て、あやうく声をあげそうになった。中に放り込まれていたのは、先週わたしが配達した野菜セットだった。ほとんど手つかずでビニルを開いた形跡さえもない。傷みやすいレタスは外側が赤くただれ、もっと傷みやすいニラもドロドロで、ニラ特有の臭いが、ゴミ袋を発信地にして部屋中にたれこめていた。シンクの中には飲み干した缶ビールとかコップとかそしてラーメンの食べ残しまでがそのままで・・・ああ、玄関のプランターに整然と並んだミントが、この臭いを消してしまってくれたらどんなにいいことか。
「おかあさん、いつからいないの?」
 やっとの思いでそう尋ねると、ケンタ君は声をあげて泣き出してしまった。
 う、う、あーん、あーん、うわあーーん。
 わたしも泣きたくなってしまった。
 世界の果てにふたりっきりで取り残されてしまったみたいに。わたしはケント君を抱きしめて、反響する泣き声を呆然と聞いていた。

*   *   *
 
 すっかり暗くなってしまった道を、車で走る。
 どこに行ったらいいのか、まったく見当がつかない。
 泣き疲れたケント君は助手席で眠ってしまった。涙のあとが鼻水のようにカパカパになって頬に白いラインを作っていた。

 とりあえずわかったのは、今朝ケント君が起きたらお母さんがいなかったこと。あと、お父さんという人はここには帰ってこないということ。いつからそうなのかはわからないが、とりあえずはそういう生活を続けているということ。お母さんは昨日の夜は泣いていたこと。その前の夜もその前の夜も、ずっと夜が来るたびに泣いていたことだ。
 それがケント君のついた嘘だったら、ともちらりと考えた。よんどころのない事情で母親が出かけ、さみしくなった末についた嘘だとしたら・・・。
 そもそも子供の言うことだけを信じるのはよくない。誰だって自分の都合のいいようにしか話さないものだ。あのとき、野菜を断ったナガサワさんの話を鵜呑みにしなかったように。すべてを鵜呑みにする必要なんてない。
 ケント君の言葉だけを信じて、この子を連れ出して、いったいどうする気なんだ、と自問するが、答えがわからない。
 住宅地の片隅の車寄せに駐車して、ハナダさんの自宅に電話を入れてみた。呼び出し音が5回鳴って、かちゃりと音がした。「ただいま、出かけております。またおかけなおしください」。くそっ、なんで留守電じゃないんだ。
 ケイタイの番号がわかればとも思ったが、お母さんはケイタイは持ってないとケント君は言う。いまどきケイタイを持ってない主婦なんているんだろうか。

 そうこうするうちに、タロウの帰宅する時間が迫ってきた。この子を家に連れて帰ったら、タロウは何と言うだろう。まっすぐ警察に電話するだろうな。
 タロウはいつも一番確実な道を選ぶ。勝手な真似をして誤解を招くよりも、確実に処理する。そういう冷静な部分を一緒の職場で何度も見てきた。その確実さがタロウの性質であり、わたしが信頼してきた最大の理由だ。
 だけど、わたしはどうなんだろう。
 警察はやめたい。ケント君を不安な気持ちにさせたくない。
 野菜を配達しているサカタさんに相談することも考えた。彼女はハナダさんの紹介だから、何か知っているかもしれない。でも、こちらの間違いだったら。ハナダさんの名誉も著しく傷つけられるだろう。無用な心配もさせたくない。
 ケント君は泣き疲れて寝たままだ。わたししか決められない。
 いいや、タロウがどう言おうと。ケント君は家に連れて帰るんだ。
 万一間違いでも、わたしのケイタイ番号のメモは置いてるんだから。問題はないはずだ。
 ホカ弁が見えたのでケント君をたたき起こして、夕飯にお弁当を買った。唐揚げが食べたいとケント君がはしゃぐのでみっつとも唐揚げにした。お母さん、お待たせしました、そうお店の人に言われた。そうか、子供を連れてるとわたし、お母さんにもなれるんだ。

*   *   *

「警察に連絡するのがやっぱ確実だったろうね」
 予想どおりにタロウはそう言った。ケント君は唐揚げ弁当を夢中で食べている。おなかがすいてたんだろう。その脇でわたしたちは声を潜めて会話していた。
「間違いだったら、みんなが傷つくわ」
「間違いって。実際帰ってないんだろう、母親は。アユミはどんな間違いを想定してるの?」
「たとえば・・・」うーん、考えつかない。「たとえば、家族の誰かが危篤で慌てて病院に行ったとか」
「それでもメモくらいはあるだろう、もしくは近所の人にお願いしていく」
「とってもいい人なのよ。本当に、どうしようもないことが起こったのかもしれない」
「だったら、よけい警察だ。母親が事件とか事故に巻き込まれているのかもしれない」
 ほんとうだ、そういうこともあるのかもしれない。ちょっと怖くなってしまった。
「とにかく、一晩だけウチに泊めよう。明日になって、どうしようもなくなったらわたしが警察に連絡するから。今日はそうしていたいの、お願い」
「人がいいんだな」
 わたしの中ではハナダさんの方がずっといい人だった。だから、彼女がこんなことをするなんて受け止められないだけかもしれない。
「いいよ、じゃ、一晩だけ。イヤな言い方かもしれないけど、これは僕の仕事上のトラブルじゃない。だから、アユミの言うようにしよう」
 ふわっと身体の力が抜けた。そうか、わたし、こんなふうに何かを押し切ったことがなかったんだ。ちゃんと主張すれば聞いてくれるんだな。
「ケント君、おなかいっぱいになったら僕と一緒にお風呂に入ろう。それから3人で並んでベッドに寝よう」
 タロウがそう言ったので、ケント君は顔をあげて、うん! と言って笑った。

 ダブルベッドに3人で寝る。それはすごく素敵なアイデアだ。まるで親子になったみたいだ。
 お風呂ではタロウとケント君がはしゃぎあっている。
「わーっ、わーっ、わーっ」
 シャワーで頭を流しているんだろう。じっとしてないと目にはいるぞー、とタロウの声が叫んでいる。タロウはケント君が気に入ったらしい。いや、そうじゃなくて、もともと子供が好きなのかもしれない。わたしたちは、子供という存在をあいだに置いた関係になったこともなかったし、それを熱烈に望んでもいなかった。でもタロウにはこういう面もあるんだな。
 なんだか今日はタロウのいろんなところを発見しているような気がする。
 ケント君のおかげだ。

*   *   *
 
 寝室に入る前にもう一度、ハナダさんのお宅に電話を入れてみた。
 コール音5回。「またおかけなおしください」のメッセージ。変わりない。時間は午後9時40分。
 とりあえずケント君は、今日はウチの子供だ。

 タロウの大きな白いTシャツを着てぶかぶかになったケント君がまんなかに入った。押しくらまんじゅうにするぞー、とタロウが身体を寄せるんで、わたしも反対側から押してみた。くすぐったいよーとケント君が大声で笑った。
「ああー、おかしいー、お父さんがいたときみたい。お父さんてばいつも、こんな感じでふざけてたんだよ」
「いなくなっちゃったんだ、お父さん」
「・・・うん。お父さんがいなくなったらイヤだから、ぼく学校に行かなかったのに」ケント君がぽつんとそう言った。「いつも、お母さんとケンカして出ていくって言ってから、ドキドキしてね、学校行ってるウチにいなくなったらイヤだから、学校に行かなかったの。お父さんは会社には行くんだけどね、でも、いないウチに引っ越しちゃうとイヤだなーって思って。けっきょく、荷物まとめて出ていっちゃった。ぜったい迎えに来るって言ったけど、ちっとも迎えにきてくれないや」
「もしかして、迎えに来てくれるから、今も学校行かないで待ってるの?」
「ううん。もう、ほんとは学校に行きたいの。でも、お母さんが行かないでって泣くんだ。僕がいないあいだひとりになっちゃうからこわいって。それにね。行ったら学校の帰りに誘拐されちゃうって。お父さんとかお父さんの女の人がぼくを誘拐しちゃうから、ここから出ちゃだめだって」
「先生とか来てくれなかった?」
「来たけど、おかあさんが会わせてくれなかった。ゲームはいっぱい買ってくれたから退屈しなかったけどね。でもゲームの主人公って喋ってくれないんだよね。がんばれ、とか、もう少しだ、とか言ってくれるけど、ぜんぶ画面に出てくる文字なんだもの。文字で言われたって、ちっとも嬉しくないんだよね。文字って触れないんだもの。でも、ともだちだと、触れるんだよね、キックしたり、ランドセルの上にのっかられたりするけど、それでも触れるんだよね。お母さんはね、触れなくなっちゃったよ。いつも泣いたりビール飲んだりしてるから、おかあさーんって膝に乗っかったり、そんなふうにできなくなってしまったんだ」
 車に乗せてくれない? って言ったのは、そこから外に出たかったのかもしれない。だけど、外に出てもケント君はどこにも行けない。ケンタ君の家はあの家なのだから。
「じゃさ、ケント、ここの子供になるか? ここから学校通えばいいじゃない」
 にらみつけて、目だけでタロウを叱った。そんな不可能なことを言って、ケント君が本気にしてしまったらどうするんだ。いや、その言い方は正確じゃない。わたしが本気にしてしまったらどうするんだよ! 
「ぼくがよその子になったら、お母さん、もっと泣いちゃうよ。だから、戻ってきたらまた一緒にいてあげるんだ。でも、学校には行きたいってちゃんと言おうかな、ねえ、そのときはさ、一緒に言ってくれる?」
「もちろん!」
 だけども、これからケント君がどうなるか、わたしとハナダさんがそんな事を言える関係でいられるのか、そんなことはわからない。
 仕事をしてるわたしはいい人で、お客としてのハナダさんもとてもいい人だった。わたしは仕事上のいい人ではあったけれど、それでもハナダさんもケント君も大好きだった。
 いま、そういう仕事の関係を脱いだわたしたちは、まったく違う顔をしている。それでも友達みたいに慰めることだってできたのに、と思うのはわたしの傲慢なのだろうか?

 喋り疲れたケント君がそのまま寝てしまったので、起きあがって缶ビールを開けた。
 わたしたちは満たされていた。
 こんな不思議な幸福感に満たされたのは、結婚してから初めてのような気さえした。
「いいな、子供って・・・・」タロウがぽつんと言った。「ほんとは子供って、苦手だと思ってたんだけどな」
「苦手だったわりには馴染んでたね」
 タロウが俯いた。
「俺の父親も母親もすごく厳格だったんだ。とにかくちゃんとした大学に行ってちゃんとしたところに就職しろって言われてた。ちゃんとした人間になれ、人を裏切るな、道を間違えるな、クラブに熱中しすぎて勉強をおろそかにするなって。失敗しないように生きるのに精一杯だったのに、成績が下がって陸上部を辞めさせられてしまった。兄貴の方が出来がよかったから俺も必死で。だから、あんなふうに甘えた覚えもないし、甘えられた覚えもなかったよ。びっくりしたよ、あんなふうに無条件に甘えられるってことが」
 もちろんタロウの両親には何度も会ったことがある。きちんとした人だと思ったが、厳格という言葉は思いつかなかった。
「でも、それは子供ができない理由じゃないわ、理由があるのは、たぶん、わたしの方・・・」
 ずっと言ってはいけないことだと思っていた。でも、言わなくちゃいけない。わたしが以前つきあっていた男の子供を堕胎したことがあることを。
「何度か会社の前で待ってた男だろ? 覚えてるよ、バイクのメットをひとつ持っていたヤツだ」
「知ってたの? 」
「・・・その頃、ちょっと気にしてた」タロウが横を向いて言う。「でも、それと子供出来なかったのは別問題だ。問題は・・・俺たち、どっちも、そんなに子供欲しくなかったからじゃないか?」
「欲しいと思ったら、できるかな?」
「欲しいと思おう。思いながら、これからいっぱいセックスしよう」
 それからわたしたちはケント君をはさんで二人で眠った。これから子供できるまでなんて待ちきれない、タロウが冗談で言ったようにケント君がウチの子供になってくれればいいのに。
 これから毎日こんなふうに寝れるんだったらどんなに素敵だろう、そう思いながらわたしは、すごい幸せな気持ちのまま、眠りについた。

*   *   *

 結局、それから一週間のあいだ、ケントはウチで生活をした。
 信じられないかもしれないが、ほんとに何の障害もなくわたしたちは3人で暮らせた。不安になったりもしたが、それでも何も起きなかったのだ。
 ひとりの母親とひとりの子供が、自分の家から姿を消しているのに何の騒ぎになることもならないというのはいったいどういうことなのだろう? もちろん誰かが心配してハナダさんに電話くらいはしたのかもしれない。だけども深刻な大騒ぎにはならなかった。そのことを考えるとせつない気持ちにもなった。
 そういうふうに世間と関わらずに、この親子はある意味おだやかに暮らしていたのだ。二人の生活ではそれが可能だったのだ。
 世の中にはそういう人たちが、すごくたくさんいるのだろうか?

 タロウを会社に送り出したあとは、だいたい夕方までテレビゲームに興じた。タロウの持っているロールプレイングゲームにケント君は夢中だったし、もともと彼はこんなふうに家にじっとしているのにも馴れていた。わたしも一度クリアしたゲームなんで口を出したいところは各所にあったが、横から見ながらじっと待っていた。考えて考えて考えて、最後に「アユミさん、助けてー」とケントが叫ぶのがかわいくって、その声が聞きたくてしかたなかったのだ。
 お昼は家で茹でたスパゲティとかをふたりで食べた。夕方には毎日車で郊外のショッピングセンターに出かけた。ショッピングセンターで子供向きの漫画を買ったりゲームセンターのコインゲームをしたりマクドナルドに寄ったり、そうして夕食を買ったり。そんなことをしているわたしたちは本物の親子のように見えたのかもしれない。
 ほんとに。本物の親子だったらどんなによかっただろう。
 タロウは残業もそこそこの家に帰ってくるようになった。「今日も無事? 今から帰る」というメールを、会社を出る前によこしてくる。わたしとケントは今日いちにち無事に身を隠せたのか? そういう「無事」がおかしくもあったが、タロウのメールが来ると、ああ、今日も無事だったのだと思えて安堵した。
 ときには3人でファミレスにも行った。ケントが好物だというハンバーグも夕飯に作った。日曜日には一度も行ったことのない隣町の小さな遊園地にもでかけた。
 タロウはまるで本物の父親のようにケント、ケントと可愛がった。毎日のお風呂もタロウの仕事だったし。ときには使ったゲームカセットを片づけてないケントを、自分の感情をピアノの音に変えるように柔らかく叱ったりもした。
 何かを愛することを手放しで表現するタロウ。わたしの前でもけっして見せなかったもの。おそらくタロウの中に今までなかったもの。そういうものがどんどん芽生え、あふれだしているんだろう。そんなタロウの姿ももちろん、わたしにすごい幸福感をもたらしてくれた。
 わたしたちにはやはり、ケントが必要だったのだと思う。

 月曜日の野菜の配達のときは、ケントは留守番しとくって言った。留守のあいだに何かが起こりやしないかと気が気ではなかったが、帰ってくると、出たときの格好のままでロールプレイングに興じていた。テーブルに用意していたサンドイッチとミルクはちゃんとなくなっていた。
 ロールプレイング。不思議な言葉だ。ケントは実生活でも、わたしたちと親子というロールプレイングをしているのかもしれない。それはゲームで身につけた才能なのか? それとも実生活で身につけた知恵なのか?
 水曜日の配達は、尋ねるとついて行くと言った。わたしの車の後部座席にはスモークが貼ってある。ケイタイのゲーム機を持っていけばラクショーだよ、と言って、その言葉どおりケントは後部座席でずっとじっとしていた。
「自分の家には入っていいよね? 持ってきたいものがいっぱいあるんだ。ぼくのゲームもタロウさんにさせてあげるんだ。それから、あ、枕も自分のを持ってきたいな。大好きなテレビのヒーローがついてるヤツ。お母さんが買ってくれたの。・・・お母さん・・・帰ってきてるかな?」
 帰ってきてたら電話くれるはずだよ。だからまだだよね、たぶん。とりあえずそう答えた。
 本当に、帰ってきたら連絡があるはずだ。玄関にケイタイの番号を書いた紙を置いていたんだもの。しないはずがない。もしかしたら、事故とかもっと深刻な事態が起こっているのか?
 いずれにしろ、いつまでもこのままではいられないんだろう。とりあえず、家の様子を見て、それから考えてみよう、そう自分に言い聞かせた。
 
 なのに。
 なのに、玄関にカギを入れようとしたら、カギがかかってなかった。
 するりと、ケントの家のドアが開いた。

*   *   *

 その部屋はうす暗かった。
 夕方の早い時間で、目を凝らせば、中の様子がわかるくらいの暗さだ。
 明らかに中の様子は、先週と変わっていた。
 玄関にはいくつもの大きな紙袋が散乱していた。黒光りのする紙袋に白い文字が浮かび上がっている。高級ブティックの買い物袋だ。黒だけではない。鮮やかなピンクのもの、きれいな花柄の紙袋、どれも袋だけでわかるほど有名なショップのものだ。
 わたしが置いたメモなんて、どこにあるかなんてわかりゃしない。
 それくらい、玄関には色とりどりの紙袋が山積みされていた。

 そうして中を見てみると。
 その中に火の消えたろうそくが一本ある、ように見えた。
 それがハナダさんだった。痩せぎすの棒のような身体で、リビングにぽつんと座っている。
 まるで入学式にでも着ていくようなツィードのくすんだピンクのスーツ。おまけに値段とかブティックのロゴとかのタグが首の後ろについたままだ。
 その格好でこっちを向いたハナダさんの顔は、その服装とは驚くほどアンバランスで、わたしは大声を上げそうになってしまった。化粧をしていないのだろう。顔は真っ黒にくすんでいる。あるいはマスカラをつけたまま泣いたのかもしれない。目のまわりが、ドクロのようにくぼんでいる。生気のない顔。
 一瞬、こわくなって後ずさる。後ろにいるケントを片手でかばう。
 ハナダさんがケントに気づいた。
「あ。ケント。よかった・・・どこに行ったのかと思った・・・」
 そうは言ったが、立ち上がりはしない。首だけこっちを見たまんまだ。まるで、テレビの画面に話しかけてるみたいな声だった。

 渡しちゃいけない。今のハナダさんは正常じゃない。今、ケントを渡しちゃいけない。頭の中に赤信号がはげしく点滅した。
 夢中でケントの腕を強く引っ張り、無理矢理車に押し込めて発進させる。ケントーというハナダさんの、のんびりとしたかぼそい声が背中に迫ってくる。ケントは何が何だかわからず、え? という感じで振り返りながら車に乗り込んだ。
 渡しちゃいけない。あんな場所にケントを戻しちゃいけない。彼女はケントを守れない、いや、自分すら守れない。そんな人間にケントを渡しちゃいけないんだ。
「ねえ、お母さん、いたよね? 今、お母さんいたよね? ぼく、帰らなくちゃ!」
 そうケントが叫んだ。車だから、外には聞こえないだろう。スピードを上げた、どこに行けばいい? とにかくスピードを上げた。
 後ろの席でケントがずっとしゃくりあげている。帰りたい、帰りたいって言いながらしゃくりあげている。
「お母さんは、病気なんだよ、ケント。治ってから帰ろうよ」
「病気だったら、よけいぼくがいなきゃダメなんだ。アユミさんにはタロウさんがいるじゃないか。でも、お母さんにはぼくしかいないんだよー」
 違う。タロウだってわたしだって、ケントがいなきゃダメなんだ。ケントがいたから、はじめて二人であんなに楽しくしていられたんだ。
 今のハナダさんがケントと一緒にいられるとは思えない。ごはん食べさせたり、笑わせたり、いい気分にさせたり、そんなこと何ひとつできないじゃないか。たくさんの栄養をケントに与えられるのはわたしたちだけだ。警察だってアテにならない。保護してもらってどこにケントは行けばいいんだ。ケントはわたしたちと一緒にいるのが一番いいんだ。

 ずっと運転しているあいだになんどかケイタイに電話の着信が入った。
 知らないケイタイ番号から、どんどん電話が入ってくる。ああ、着信音の「カノン」がうるさい。
 けっきょく、電源をオフにした。

*   *   *

 2時間近くぐるぐる回っただろうか。ケントは泣き疲れて眠っていたけれど、また起きて、今度はおなかがすいたよって言いだした。
「アユミさん、おうちに帰ろう。アユミさんのおうちに行きたい。タロウさんに会いたい。お風呂、はいりたいよ。タロウさんとお風呂、はいりたい」
 ああ、そろそろタロウも帰ってきてるだろう。まだ帰ってないんで心配してるだろうか? だけども戻るのもためらわれた。ケイタイの番号から、自宅の場所はわからないだろうが、そのまま帰るのも危険すぎる。
 遠くにファミレスのあかりが見えたので、そこに車を入れた。
 ケントは、お子様ランチを注文し、それからゲーム機に熱中しだした。ドリンクバーをふたつ頼み、ケンタには好物のメロンソーダを差し出す。わたしはフレーバーティを煎れたが、カラカラになった口はまったく拒否して、ひとくちも飲むことができなかった。
 レジの脇に公衆電話があるのを見つけた。
 ここからタロウに電話してみようと思った。自宅の電話番号を押してみると、ワンコールもしないうちにタロウが電話口に出た。
「アユミ、どこにいるんだ?」
 ああ、心配してたんだろう、すまない気持ちになってしまった。
 どこにいる? ケントもちゃんといる? 無事にしてる? とにかく迎えに行くから、場所を教えてくれ、と言う。
 ファミレスの場所を告げると、すぐに迎えに来ると言ってくれた。
 ほっとして電話を切った。電話の横の柱には鏡が貼られていた。そこに自分の顔を映してみる。
 鬼のような顔をしていた。
 少しだけ、あのときのハナダさんに似た顔だと思い、それから嫌悪し否定した。
 似てなんかいない。わたしはハナダさんとは違う。

 一気にケントがお子様ランチをたいらげるくらいの時間に、タロウが入ってきた。
 ドリンクバーだけを注文し、ケントのとなりに座る。
「あ、タロウさんだ!」
 すがるような目でケントがそう言った。タロウは何も言わずに、ケントの頭を撫でた。泣きそうな顔をして、何度も何度も頭を撫でた。
「ケント」
 タロウが静かな声でそう言った。
「ケントにはお父さんもお母さんもいるんだよな。大好きなんだろ?」
 ケントが無言で頷く。
「そのお父さんとお母さんがケントの一番目のお父さんとお母さんだ。で、アユミと俺が、2番目のお父さんとお母さん。そうだろ? よそのおじちゃんとおばちゃんじゃない。2番目のお父さんとお母さんなんだ。だから、いつでも来ていいんだ。ひとりでどこにも行くとこがないときとか、すごい悲しいときとか、2番目のお父さんとお母さんがいることを思い出すんだ。すごいだろ? ふたりもお父さんとお母さんがいるんだ。そんな子ってめったにいないぞ。ウチの場所は知ってるだろ? 自転車でだって来れるはずだ。ケンタは、ウチの子なんだから」

 タロウが喋っていることを聞きながら、床に落としたコーヒーの染みみたいな嫌な予感がどんどん広がっていった。

「さあ、帰ろう」
 そう言ってタロウがケントの手を握って勘定を払った。
 その頃にはわたしはすべてを把握していた。
 ファミレスの駐車場には赤色灯を消したパトカーが止まっていた。店内の人々もそのただならぬ気配に気づき、いぶかしげに窓の外を覗いていたからだ。

 制服を着た警官に、タロウが「ご迷惑をかけました」と言って、ケントを渡した。
「ハナダケント君だね?」
 ケントが頷いた。警官はケントの身体を簡単にチェックしてから、パトカーの後ろに乗せた。
 その警官が、無線で言う。
「ハナダケント君の身柄を保護しました。外傷はありません、これから署に向かいます」
 それから警官がわたしの方を向く。
「マエダアユミさんですね。ハナダケント君を誘拐されたという通報がありました。これから同行していただいて、事情を伺うことになりますが、よろしいですね」
 誘拐なのか、誘拐なのか、わたしは誘拐をしていたのか・・・その言葉の恐ろしさに涙がぽろぽろと溢れてきた。保護したのはわたしじゃないのか? ああ、でも社会のシステムではこれは誘拐というのか。わたしは・・・わたしは・・・わたしは犯罪を犯してしまったのか?
 隣にいたタロウが、ぎゅっと手を握ってくれた。
「さきほど、ご主人からも説明をうけました。まあ、あちらの言うこともいろいろ不自然なところがあるので、あくまで事情を伺うだけです。ご了解いただけますね」
 ケントが乗ったパトカーとは別に、もう一台の警察の車があって、わたしはそちらに乗せられた。
 パトカーが、赤色灯を回しながら前を走ってゆくのをぼんやりと見ていた。
 今、警察官に囲まれてあの車に乗っているケントはどんな不安を抱いているのか。それを考えると胸が潰れそうになった。

 ちょうど、ケントと同じくらいの年の頃。
 わたしはよくこわい夢にうなされたものだ。怪獣や強盗から追いかけられる夢。わたしは夢の中で、ビルの隙間や押し入れの中に隠れた。でも、そのうちどうにもならないところまで追いつめられて、ああ、もう終わりだと思う夢。
 そうして朝目を覚まして、ああ夢でよかった。ほんとにこんな事が起こるはずがないもの、と思って、ほっとして学校に出かけていったものだ。
 そう。ほんとに、こんなこと起こるはずないもの。

 もう一度、あの頃に戻って、そうつぶやきたかった。

*   *   *

 長い事情聴取のあと、なんどか警察からの連絡があったりはしたが、結局罪に問われることはなかった。犯罪になるとかならないは、いったいどういうふうに決まるんだろう。

 いずれにしろ、二度とハナダさんに会うことはなかった。
 事件は野菜の事務局の知るところとなっていたし、わたしは仕事を続けられる状況ではなかった。
 あの日、ケントを連れて逃げ出したわたしは、そのあとの3軒のお客さんに野菜を届けるのをすっかり忘れてしまっていた。そのうえ事務局には警察からの電話が何度も入ったらしい。オガタさんも大変だったらしい。なにしろわたしはケイタイの電源を切っていたのだから。
 お客さんにハナダさんの知り合いも多いし、事件を知ってる人もいるかもしれないから、しばらく配達は無理だね、辞めてもらうのはほんと残念なんだけど。とオガタさんは言った。
「でも、アユミが間違っているって、わたしは思わない。わたしだってそうしてたかもしれない。そんなときって誰だって放っておけないと思うよ。ただ、やりかたがちょっとまずかっただけなんだ。でもそれだって仕方ないこと。人間ってさ、どうしていいかわからないときって、だいたいやりかたを間違えるんだよね」
 オガタさんはそう言ってわたしを慰めてくれた。

 あの日、わたしが夜遅くに警察から帰ってくると、タロウは、泣きながらわたしを抱きしめた。アユミもケントも守ってやれなかった、そう言ってタロウは泣いた。そういうわけではないと思う。わたしたちは洪水のように流されてしまったのだ。そうして、流されてゆくわたしたちを助けてくれたのは、やはりタロウだったのだ。
 あの日、タロウが帰宅するとすぐに警察がバタバタとやってきたのだという。何も状況がわからない、どこにいるかもわからない、警察は「誘拐と通報を受けて」と言う。その最中にわたしが電話をかけ、つつぬけだったというわけだ。考えが甘かった。自宅に電話せずにどこかに行ってしまえばよかったのだ。でも、わたしとケントがふたり、町の中に放り出されたって、わたしたちはどこに行けたというのだろう。
 これでよかったのだ。納得のいかないものをいっぱい抱えていたけれど、それを捨てようと思った。タロウのために。ケントのために。そして、ケントの母親であるハナダさんのために。納得のいかないものは、みんな捨てようと思った。
 ケントがいたからタロウとの絆ができたのだと思っていた。だけど、今は、もっとあの頃よりか絆は深くなったような気がする。同じものを失うことで、わたしたちはもっと深く繋がれていったのだ。

*   *   *

「ユミコとわたしと半分ずつの担当にしたから」
 と、オガタさんは言った。もうひとりの配達のユミコさんはもういっぱいいっぱいだ、すまない。でも、わたしのお客さんにも行ってもらわないといけない。
 今日、わたしたちは事務局に集まって、配達の順番決めをしていた。オガタさんの家のガレージを片づけて改装したすきま風だらけの事務局だ。経理の人たちも寒いとこで大変だなーと思いながら、わたしは電気ストーブに手をかざした。
「とにかく地図と、いらない野菜とかあったら教えて」
 配達の顧客リストには、予想どおりハナダさんのお宅は入ってなかった。
 サカタさんは水菜が嫌いだけど、あとはなんでもいい。ナカノさんは葉もの野菜は2束ずつ入れる、家族が多くて足りないからだ。アナイさんは、お漬け物以外で、とにかくたくさん。ご主人の食事制限のせいで野菜が主食になっているからだ。それから、アラカワさんのことを伝える。何度も冷蔵庫を見に行くこと、ときどき財布のありかを忘れてしまうんで次の週に集金すること。
「それって・・・ボケてるってこと?」
「うーん。びみょう、かな? ずっと一緒にいればわかるかもしれない。マダラなのかもしれないけど、とりあえずはちゃんと会話して野菜を買っていただいてる。週に一度だけど、すごく待っていらっしゃるの、話がちょっと長くなることもあるけどね」
「いいのよ、そういうふうに必要としてくれてる人は。それなりにありがたい」
 オガタさんがそう言ってくれた。
「ねえー、あのさ」
 アラカワさんの配達を担当することになったユミコさんが煙草を煙を吐きながら切り出した。
「ときどきさ、野菜、配達しながら、この人、もしかしてウチの野菜なんていらないんじゃないかって思うことってない?」
「それって、どんな感じ?」
 オガタさんが尋ねる。
「ほら、もちろんほんとに無農薬の野菜を食べようと思ってみんな取ってくれるんだけどね、そんなにこだわってないけど、つきあいで取ってる人とかもいるんだよね。あと、アラカワさんみたいな人は、人が来てくれるのが嬉しいから取ってくれてるだけなんだ、たぶん。わたしも何人か年配のお客さんいるからわかるの。年配で夫婦だけとかひとり暮らしだとそんなにいっぱいの量はいらないじゃない。でも、誰かが自分がこのウチにいることを忘れないで、ちゃんと来てくれるのが嬉しいんだよ」
「いいのよ、それで。宅配ってさ、青空市場みたいにみんなが来て買ってくれるとこに比べたら効率悪いよね。でも、そんなふうにして誰かに来てほしい人って、たしかにいるんだ。わたしもね、青空市場に行く前、ちっちゃい子供とふたりで家にずーっといて、そういうときって宅配便のお兄ちゃんでも来てくれたら嬉しかったもん」
 えーっ、それって何百年前の話よ?、とユミコさんが言ってそれでみんなで大笑いをした。
 ハナダさんだって、案外そうだったのかもしない。ケントと二人でずっと家の中にいて、彼女にはもう野菜を使って調理するエネルギーさえなかったのだから。ドロドロに溶けてしまって台所に放置されたレタスも、そう思えば、無駄ではなかったように思えた。
 そうして、わたしが野菜を配達してたことも、きっと無駄ではなかったんだ。
そう思うことにした。今はハナダさんはわたしを恨んでいるかもしれないけれど、少なくともそのときは、わたしが来るのを待っていてくれたのだ。

 話がすべて終わって、外に出たら、冬の西空には一番星が輝いていた。
 車に乗って家に向かい、とちゅうの信号待ちで、新築のマンションの部屋のあかりを数えてみた。
 1、2、3、4・・・。あかりがついている部屋は全部で8世帯あった。
 ファミリータイプの6階建てで、1フロアが4世帯だから全部で24世帯。
 夕刻の6時という時間に、3分の1の家族がこのマンションにいて、残りの3分の2は仕事してたり子供が塾に行ってたりどこかで買い物したりいるのだろう。
 その数字にどんな意味があるのかなんてわたしにはわからなかった。
 
 電気のついている家のあかりは、いつだってとても暖かそうに見える。
 遠くから見えるあかりは暖かい。
 でも、それは、雪をかぶった極寒の山の風景がきれいに見えるようなものかもしれない。
 そうだ。隣のカズちゃんのところにも、もうじき子供が生まれるんだ。
 配達がなくなったから今度から、青空市場のカズちゃんの野菜を家まで運んであげよう。
 迷惑かな? 迷惑かもしれないけど、喜んでくれるような気もする。
 そんなことを考えてるうちに信号が青に変わり、渋滞している道路をゆっくりと車を発進させた。

                          (了)
.kogayuki.

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