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.kogayuki.  グリーンアイズ7 再生、もしくは継続


 結局、それからわたしたちは一度も補習に行くことはなかった。
 目の前に起きたことが大きすぎて、もう勉強のことなど考えられなくなってしまったのだ。英文法や数式やらに集中していた時間は、台風で飛び去ったみたいにまっさらに心の中から消えてなくなった。
 とりあえずお父さんの部屋を片づけなければいけなかった。
 例のタオルケットや敷き布団を、消臭用アルコールをバンバンかけて細かく切り刻み、ゴミ袋に入れて固く縛る。地域指定のゴミ袋に入れているかぎりは、どんな可燃物でも収集してくれるはずだ。それでも、もし持っていってくれなかったらどうしようと気が気ではなかった。
 午前の遅い時間に収集車の音が聞こえてくる。わたしたちは2階の窓ごしにじっとその様子を眺めた。ベージュの服を着た収集員が、とても無表情に5つのゴミ袋を収集車に放り込んでいった。それを見て胸を撫でおろした。
 以来タイチは昼間、ほとんどの時間をお父さんの部屋で過ごした。
 服や下着などを片づけ、通帳や保険証書などを調べ、CDやDVDをひとつひとつ手に取った。しだいに家に帰る機会が少なくなっていたお父さんの日常を検証するかのように。ケイタイのメールや着信まで読んでいく。死ぬ前の1週間ほどは海外だったので、ケイタイには何の履歴もなかった。
「まだ、海外に行ったままだって思われてるのかもしれないな」
 と、タイチはさみしそうに言いながら、ケイタイの電源をふたたび切った。

 買い物は二人ひと組で行った。必ずひとりは家に残った。主に残るのはアヤだったが、ときどきアヤも買い物に行きたいと言うようになり、タイチが留守番をしたりもした。
 この家にいないあいだに、どんなことが起こるかもしれない。
 その感覚が、ずっとわたしたちから離れなかった。
 どんなこととはどんなことなのか、それを想像するのもこわかった。わたしたちは誰ひとり口に出さなかったのだが、とにかく不測の事態はいつだって、どんな状況だって起こるような気がした。
 だからわたしたちは常に3人で家にいた。買い物の帰りにマクドナルドに寄ることすらなかった。ハンバーガーが恋しくなったらテイクアウトし。それ以外は、大体アヤの手作りの料理やカップラーメンやパンで過ごす。
 タイチは少しさみしそうで、わたしは少し不安げだったように思う。
 だけどもそれをどうしようという気もなかった。
 どんなにさみしくっても不安でも、同じようなものを共有している安心感。
 それがわたしたちにはあったし。わたしたちの外側にはまったくそれがなかったからだ。
 
 もうすぐ夏休みが終わる。
 カレンダーを眺めながら日にちを数える。
 今日が水曜日で、新学期は来週の月曜日だ。つまり、もう1週間ないってことか・・・
 キッチンのカレンダーに目をやれば、他の二人にもわかりそうなものなのに。どちらも何も言わない。案外、このままずっとこの家にいられるかもしれない。学校にも行かず、2学期がはじまってもこのまま。そういうこともできるのかもしれない。そんな気さえしてきた。
 とにかく、戻るべき世界が遠すぎた。本当に戻れるのだろうか、戻らなくてもなんとかなるような気がした。

 だから、アヤが金曜日の夜になって、明日家に帰るって言ったとき、わたしたちは死ぬほど驚いた。
「だって、もうすぐ2学期がはじまるしね」
 こともなげにアヤが言う。
 アヤは6月くらいからほとんど学校に行ってなかったのにだ。
「でも、行こうと思うの。行けるような気がするんだ。毎日学校行って、勉強して、ずっと行ってないからついていけるかな? 家でも少しがんばって勉強してみようかな? わからないときは、タイチと碧が教えてね」
 めでたいことのはずなのに、わたしは目の前が真っ暗になる。
 アヤが家に帰って、わたしも帰るんだ。そうして学校に行く。いや、学校なんてどうでもいい。あのお母さんとまた二人きりになって、ケンカして・・・あるいは無視して・・・そんな生活に戻れるっていうんだろうか?
 タイチはしばらく考えてから言った。
「そうだな、学校に行こう。数学の公式覚えたり英語読んだり。そんなのずっとやってなかったな。授業聞いて、小テスト受けて。今日食べるものとか貯金のこととかじゃなくって、もっと違うことを考えて。おれもそういうことがしたくなってきた。そんなことして一体なんになるんだろうって思ってたのに、なんだか勉強してる時間が、最近むしょうになつかしくなってきてたんだ」
 わたしは、家に戻るかと思うと憂鬱だった。でも、学校がなつかしいって感じもわからないでもない。長い長い英語の文章。主語や動詞を探し、長い修飾句をカッコで括って・・そんなことを久しぶりにやりたいとも思った。でも・・・
 下を向いてると、アヤが気持ちを察してくれた。
「家に戻る前に、碧のお母さんに会うよ。一緒に家にいてくれてよかったって。また来て欲しいって、ちゃんとあいさつするよ」
「うん・・・」
「わたし、ずっと、考えてたんだ」アヤは言った。「あの日、タイチのお父さんの魂が空に上っていったってことを。わたし、すごく祈ったの。教会で、亡くなった人を天の国に導くお祈りがあって。そのとき神妙な顔してリーダーの人が祈るの、それからわたしたちも祈って。そんなふうにタイチのお父さんの魂を安らかに天に導きたいって。すごく心をこめて祈ったんだ。そうして、祈りが届いたような気がしたの。あのとき、小さな光がすーっと上っていって・・・あれは偶然に見えた何か別のものかもしれない。でも、ああ、届いたんだってわたしは思ったんだ。そう思ったら、何かがパチンって変わったような気がした」
「おれも、そう思った。アヤが、お父さんを天国に連れてってくれたって思った。アヤって、ほんとにすごいって思ったよ」
「わたしもよ。魂に響く言葉ってあるんだなって思った!」
「わたしね。ずっと、わたしの言葉って誰にも届かないもんだって思ってた。でも、そのことをずっと考えて。ほんとにあれから、ずっとずっと考えたの。言葉ってね。届いたり届かなかったりって、そんなにたいした問題じゃないような気がしてきたんだ。うーん、うまく言えないなあ・・・」
 そう言ってアヤはこめかみを押さえてしばらく考える。
「言葉と一緒に気持ちが出てゆくの。ていうか・・・言葉にしたくて、気持ちが生まれていくの・・・うん。生まれていくんだ、なんにもないとこから、伝えたいことが。それが届いたり届かなかったりってのは、案外たいしたことじゃなくって。うまく繋がるときと繋がらないときももちろんあって。それも偶然みたいなもんだから、仕方なかったりもする。でも、ぜんぜん、たいしたことじゃないんだ、たぶん。だけどね、それでも、わたしが生きているかぎり、わたしは、自分の感じているものを言葉にしていきたいんだって。わたし、それにやっと気づいたんだ。そっちの方はどうでもいいことじゃないんだ。ほんとに伝えたいことが、このわたしの中に、どれだけかわからないけど、確実に詰まってて。わたしは自分でそれを閉じこめちゃ、いけないんだ。ちゃんとそんなものを、外に向かって出してあげなきゃいけないんだって」
 アヤの目から透明な糸のような涙がこぼれた。
「もちろん、学校に行ったって、いろんな人といろんなことが話せるわけじゃないと思う。でも、碧とタイチと話すみたいになら。わたし、もっと誰かと話せるかもしれない、やっと、そう思えるようになったんだ。
 前にさ、セックスなんてできないってわたし言ったよね。でも、碧とタイチがすごく羨ましかった。ほんとに、わたし、こんなこと一生できないだろうって思ってたから。でも、いつかわたし、誰かとセックスだってできるような気がするんだ。誰でもいいわけじゃないけど、誰かとあんなふうにだってできるような気がしてきたんだ。
 ねえ。わたし・・・タイチとキスしてみたい・・・
 図々しいかな、こんなこと言うなんて。碧、していいかな。タイチ。わたしとキスするのってイヤかな?」
 イヤじゃないよ、そう言ってタイチがギュッとアヤを抱きしめた。
 アヤの白いTシャツの背中が弓なりに折れ曲がる。そうして二人の唇が震えながら、柔らかく合わさる。
 アヤの目から涙がこぼれ続け、そんなアヤの髪を何度も撫でつけるタイチの背中は小刻みに震え。タイチの孤独が、アヤと重ね合うようにして流れ出て解け合っていくような気がした。

 このときのふたりを。
 わたしはたぶんずっと忘れられないだろうと思った。
 忘れても、忘れても、ずっと大人になっても、ときおり思い出すにちがいない。
 変わってゆくアヤは美しかった。内面に閉じこめたアヤの美しさが光るように輝いた。ふたりの心が繋がる様は、ほんとうにきれいだった。
 それを素直に喜びたいはずなのに、繋がりあう二人に置いていかれたような感触。
 小さな木が丘の上でだんだん大きくなっていくみたいにして。この、うまく説明できない感情はずっと残っていて、大きくなっていくに違いない。そうしてときおり思い出して・・・いつか、この複雑な気持ちを説明できるようになるんだろうか。説明できても、ずっとわからないままでも、きっと、このよくわからない感情はずっと後まで残るんだろうか。
 祝福の内側で。そんな小さな感触がわたしの中に残っていった。

***

 重たいボストンバッグを抱えて今、わたしとアヤは、おのおのの家に帰っている。
 朝起きてすぐに準備を始めたつもりなのに、ぐずぐずと宿題を確認したりしてて、もう夕暮れはピンクオレンジの色に染まってしまっていた。
 アヤがわたしの家に電話を入れたら、お母さんは、そう、もう夏休みも終わりだからね、ほんとにお世話になりましたって言ったらしい。
 それで、ちゃんとひとりで帰ろうと決心して。わたしたちは今、そこで別れたばかりだ。
 ああ。このままもう一度タイチのところに戻りたいなあ、と何度か思って、でも、やっぱり帰ろう、と思った。
 くすんだ夕焼けの中に、まん丸な夕張メロンのような太陽が浮かび上がっていた。
 
 これから大急ぎで宿題片づけて。月曜日には学校でアヤとタイチに会おう。
 違う場所で、みんなで何事もなかったように、これから過ごしてゆこう。
 お母さんとはうまくやれるだろうか?
 タイチもアヤも、これからうまくやれるだろうか?
 大丈夫。なんとかなるだろう。
 
 そうだ。月曜には、何にもなかったような顔をして、3人で学校で会うんだ。
 それを希望のように心の中で繰り返しながら、わたしは、家までの道を歩いていった。

 
                          (了)
.kogayuki.

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