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.kogayuki.  キャッツ探偵事務所 3 「カリントウ」




 今年1年のあいだにいったいどれくらいの会社が潰れたのだろうか? 
 町には失業者が溢れ、ハローワークの前の道は大混雑し、打ち合わせに遅れてはクライアントに文句を言われ・・・いや。そういう話ではない、ウチの事務所の深刻な問題なのだ、と、ミケコ所長はため息をついた。
 よくぞここまで潰れなかったものだと思う。浮気調査が債務者捜しに変わったり、企業の極秘調査が増えたりと、業務内容も景気の変化に応じて年々少しずつ変わってきたが。給料が滞ったことだけは今まで一度もない。経理内容をすべて把握しているミケコ所長にとっては、それは奇跡としか言い様がなかった。
 ほんとにわたしはよくやってきたと思う。
 なのに、それに比べてあのふたりときたら・・・

 スギは今、机の上にニーハイブーツを投げ出して投稿写真雑誌のグラビアを見ている。ピチピチの皮のミニスカートがびみょうにめくりあがっている。正面から見るとおそらく下着までまる見えのはずだ。
 雅子にいたっては自分の猫にほおずりしたり抱っこしたりと。まったく。仕事しに来てるのか、猫と遊びに来てるのかわかったものではない。
 3人のスタッフはともにブラのサイズがFカップ。そして7匹の猫がいて、事務所のバスルームには猫用トイレがずらりと並んでいる。
 ある意味ここの事務所は色モノだ。だけど幸か不幸か色モノとして話題になるほどの技量はない。依頼内容は案外手堅いものが多い。それは仕事だけはきちっとこなすスタッフたちのおかげだろう。
 我慢して人に使われる性格ではない。それでいて頭の回転がよくて勝手にどんどん片づけてしまう。言いたいことは言うが、女性特有の悪口や陰口はない。
 居心地はいいんだけどねえ、もう少し売り上げが上がれば言うことないのに。と、ミケコは暇そうな二人を眺めながら思った。

 そういうふうにぼんやりと見ていると、雑誌を読んでいたスギがふっと顔をあげた。
「今度の依頼の話なんだけどね。女の子を捜してほしいってやつなんだけど、本名も年齢もわかんないのよ、そういうのってどうしたらいいと思う?」
 ああ、さっきスギが応対していた男だ。30代前半といったところか。きちんとしたスーツを着た大手の会社員といった感じの男だった。お茶を出したとき、おそれいります、と頭をさげた。きちんとした言葉を使う男だ。
「どういうこと? 何もわからないって」
「2ショットチャットって知ってる? 」
 ミケ子は答えに窮した。名前なら聞いたことがある。だけどもその手のもの、つまりパソコンなりケイタイを使うものにはまったく疎いのだ。
「その2ショットチャットで知り合った女の子と会いたいんだって。でも、ぜったいに会ってくれない。それで素性を知りたいんだって」
「でも、そういうのって、ふつうは出会うためにやるんじゃないの?」
「そーなのよ。でも、会おうとか言うとオチちゃうんだって。もう、何も言わずに即オチよ」
「ね・・・そのオチるって・・・?」
「ようするに、そのチャットから退出するわけよ。気に入らないならいくらでも退出できるからね。でも、まんざら気に入らないわけでもないらしいんだ」
? ? ? ああ、もう、スギの言ってることがさっぱりわからない。まったく。わけのわからない依頼だ。自分だったら絶対断るのに。
「チャットじゃけっこうエッチなこと言ったりするんだって。でも、会うのはダメなの」
「変わってるわね」
「変わってんのよ、ワケわかんないよ、まったく・・・」
 などと会話をしていたら、猫の毛を黒いセーターにいっぱいつけた雅子が顔を上げた。
「パソコンのエッチサイトのことなら、峻ちゃんに聞いたらいいのよ。あの人、その手のヤツだったらすごく詳しいし」
「あ、そっかあ。そうそう、クリーニングもそろそろ出したいし。峻ちゃん配達中かな? ケイタイで呼んでみようっと」
 そう言って、スギは峻ちゃんのケイタイに電話を入れた。

* * *

「お待たせしましたー、毎度ですー」
 クリーニング屋の峻がやってきたのはその10分後だった。あいかわらず地味なカーキ色のジャンバーを着ている。ちょうど近くを回っていたのだと言って、ちょっと汗もかいていた。急いで来てくれたに違いない。ああ、労働とは、このように額に汗して働くものなのだなあ、とミケコはしみじみと思う。
「それで、クリーニングはどれを?」
 そうだった、急いでクリーニングして欲しいものがあるからとスギが呼びつけたのだ。
「ああ、今、雅子が着てるセーター、ほら、猫の毛がいっぱいでしょ、あれをね、脱がせてすぐに・・・」
「こらこら!」
 などと言っているうちに猫のダイがすばやく峻ちゃんに飛び乗った。そのダイを抱いた峻ちゃんを、ミケコが椅子に座らせた。
「まあまあ、ちょうどコーヒーが入ったのよ、おいしいコナコーヒーなのよ」
「あ、でも、すみこが・・・」
 と言いながらも、峻はミケコの出したコーヒーを口にする。その時間を利用して、スギが、依頼の内容について説明を始めた。

「話はだいたいわかりました」話を聞き終え、コーヒーを飲み干してから峻はそう言った。
「それで、もしかしたら、その女性の名前はカリンって言うんじゃないですか?」
「どうしてわかるの!」
 スギが驚く。
「有名なんですよ、チャットのカリン。入室待ちはしない。誰か男性が待っているところに入ってくる。けっこう積極的にエッチなことを喋って、うまくいけばテレフォンセックスに持ち込んですごいことになるんだけど、連絡先は教えない。誰も会ったことがない。彼女が利用しているサイトはいくつかあって、そこで待っているファンも多いんですよ。カリンさん、待ってます、なんて書く男も最近は数人いるけど。知らないところにふらっと入ることが多いみたいですね」
「じゃあ、もしかして、峻ちゃんもカリンとチャットしたことがあるの?」
「いや・・・僕はそういうことはしないから・・・」
「だったらなんで知ってるのよ!」
「ああ。どっかのBBSで話題になったんですよ。たしか、ファンサイトがあるって話も聞いたけど・・・調べてみましょうか?」
 素晴らしい! 蛇の道はヘビっていうヤツだわ、とミケコは思った。自分にはまったく縁のない世界なのに、こんなに有名な人がいるなんて、インターネットって侮れない。

「ね、峻ちゃん。この写真、ちょっと見て」
 スギはさっきまで読んでいた投稿写真を差し出した。下着姿の女性が顔を隠して映っている。写真を通してまでも、その肌の透き通る白さが伝わるような写真だった。
「カリントウ、ですね」
「さすが詳しい! これは依頼者が置いていったものなの。カリントウって、カリンだっていう噂らしいんだけど、本当なのかしら」
「確証はないけど、そういう噂ですね。カリン=カリントウ。でもカリンはネット上に写真を投稿したこともないし、カリントウはネットの中にはいない。だから、あくまで噂なんです」
 そっか、ほんとうのことなんて誰も知らないんだ。スギはそう思うと、とても不思議な感覚に襲われた。ファンサイトができるほどにいろんな人に愛されている女性。なのに誰も彼女の実像を知らないなんて。
 ふつうなら、有名になるほどに、もっと自分を誇示したいと思うのではないか? だけど彼女は・・・知られたくないのだろうか?
「とにかく。その2ショットチャットというところがどんなとこなのか知りたいわ。スギ。依頼人から教えてもらったところを、わたしにも見せてくれない?」
「いいわよ、いくつかあるけど。実はわたしもそういうとこ、行ったことなくってね。実物の人間にしか興味ないから。峻ちゃん、アドバイスお願いね」
 スギはメモした用紙から、ひとつのURLを選んで入力した。薄いピンク色の背景にいろんな字が並んでいる。女性の顔写真のアップ。だが特に毒々しい印象というわけではない。「地域を選択してください」というメッセージが現れた。
「依頼人は東京近郊で入ったって」
「たとえば、北海道の人が東京近郊を選ぶこともできるの?」
「できますよ。でも、ふつうは出会いが目的だから自分のいる地域を選ぶんです・・・あっ、そうか・・・」峻はちょっと考えてから言った。「カリンは出会いが目的ではないから、別の地域を選んでいる可能性もあるんですね。まあ、とにかく東京で・・・」
「よし、入るわよ。峻ちゃん、名前貸してね。28才、渋谷区、ネットカフェからです、近くにいる人いませんか? なんてメッセージ、どう?」
 横でじっと見ていた雅子が頭を抱えた。まったく、どうしてこんなにすらすらとウソ八百をが出てくるんだろう・・・
「あとは誰かが入ってくるのを待つんです。いま、男性の入室待ちがけっこういますよね。もちろん僕たちも入室待ちになっているけど、すぐには女性が入室しないかもしれない」

 それからみんなで画面をじっと見つめて待った。
 なかなか女性が入ってこない。そうこうしているうちにスギは、峻と入力した名前の横に、プロバイダ名やらいろんな数字が羅列していることに気づいた。
「ああ、ウチはyahooBBだから、そう出るのね。そのあとに記号や数字があるわ。この数字から相手を特定できたりはしないのかしら?」
「ハッカーとかだったらできるかも。でも僕はできません。たとえば、地方限定のケーブル局とかを利用していたら地方くらいはわかるだろうけど、全国規模だったら無理ですね」
「カリンはどうなのか、わかんないの? 」
「ごめん、そこまで聞いてなかった。でも、聞いててもどうしようもないと思うけど」
「僕もそう思います。それに、ちょっと変わったプロバイダ名とかだったら、依頼者も覚えていたと思いますよ」

 などと言ってるうちに、いきなりメッセージが入った。
「渋谷から30分くらいのとこにいるよ」
「こんにちは・・ヒマですよ」と、峻ちゃんが打つ。
「会っていいよ、誰に似てる?」
 う・・・峻の手が止まる。貸してごらん、と、スギが横から打つ。
「香取慎吾が少し痩せたかんじ」
「お金ないんだ、援助してくれる?」
「ごめんなさい」
 そこで女の子は、何も言わずに退出した。
「え・・・何、これ? 挨拶もなしに消えちゃうわけ?」
「こんなもんですよ、お互い会ったこともないし。向こうにしてみれば、早くオチて次を探した方が早いし」

 こんな場所で・・
 カリンは、こんな場所で、自分の存在を鮮やかに主張してるんだ。
 いったい、カリンって何者なんだ?

 とんでもない世界に来てしまった、と、スギは思った。

* * *

「ねえさーん、ねえさーん、わたしよー」
 怪盗YUKIはチャイムの音には反応しない。新聞の勧誘もセールスにもけっして出ない。自分の居場所を認識されるのを極力避けている。
 宅配便が届くのもイヤなので通販でものを頼んだりはしない。郵便物もほとんど届かない。年賀状というものはを最近見てないな、と、ふっとなつかしくなったりもする。
 今、チャイムに反応しないから声を上げているのはSARAだ。
 できれば声も遠慮してほしいのだが、まあ、そこまで神経質になることもないだろう、と思いYUKIは扉を開けた。
「ふー、やっぱりいたのね。ひっさしぶりー」
「あんた、彼のとこに行ってたんじゃないの?」
「うん、今日はちょっと用があってね」
 SARAはYUKIのことをねーさんと呼ぶ。手下というわけでもないのだが、勝手に慕ってはここにやってくる。建築関係の仕事をしていたSARAは場所を読むのがうまい。地図や外見だけで状況をすべて把握できる。YUKIの住まいも自分で探し当てたくらいだ。そんなSARAだから仕事で重宝するのも否めない。
 だから彼女はムゲにはできない、いや、そういう言い方は的確ではないだろう。ひとりでいるのに慣れているようでも、自分はSARAを頼りにしているのだ。

「それがさあ、ネットで、ねえさんを探している人がいてね」
「仕事の依頼?」
「まあ、そんなもんかなあ」
「でも。ネットなんてわたし最近全然ご無沙汰だし、なんで、そんなの見つけられるのよ?」
「・・・彼が仕事行ってるとき、ヒマだったからさ。検索かけてみたのよ。それで知ったの。まあ、このサイト、見てみて」
 SARAがパソコンを立ち上げる。そしてたどり着いたBBSをYUKIに見せてくれた。
「K.F.C?、何よ、これ」
「まあ、読んでみて」

 K.F.Cとは? --- 簡単に言うと、カリンさんのファンクラブです。
 カリンさんとは? --- ぼくたちの憧れのチャット界の女王。自由奔放でありながら、繊細な一面を持つ女性。勝手気ままに振舞っているようで、ぼくたちの欲望の世話を最後までしてくれる優しさをも持っている女性です。
 
「このカリンって女の子のファンクラブがわたしに何の用なのよ?」
「まあ、このあたり。ゆっくり読んでみて」
 BBSをスクロールしながら状況を読むというのは案外つらいものだ、とYUKIは思いながら、そのページを読み進めていった。

タイトル「事件発生!」
本文 ; みなさん、大変です。誰かがカリンcの正体の調査を依頼したという噂。都内のキャッツ探偵事務所が捜査するもようです。

返信; 許せないっす。K.F.Cの規約違反です。カリン様が自分から言わないかぎり、その正体を探さないって誓ったじゃないっすか。(~=~#)

返信 ; てゆか、誰? そんなことすんの(怒)

返信 ; ここのメンバーじゃないかも。メンバーだったらお仕置き。

返信 ; メンバー以外の馬の骨にカリンcのこと拉致されるなんて耐えられない・・・どうしたらいいのよ?。

返信 ; 怪盗YUKIなら邪魔してくれるかも。

返信 ; あのー。怪盗YUKIって?

返信; 怪盗YUKIはキャッツ探偵事務所の天敵だよー。いろんなとこでキャッツ対決してるっていうし。そ、あの人なら邪魔してくれるかも。

返信 ; 邪魔するより、そいつより先にカリンcを探してもらった方がいいよぉーーー。

返信 ; それはダメ! 正体を知られたくないって意志を尊重するって言ったぢゃないか! ・・・いや。でも、非常事態だからなあ・・・

返信 ; とにかく。怪盗YUKIさん。もしこのスレ読んでたなら、ぜひとも力を貸してください。
よろしくお願いします。ペコリ。(管理人より) 

 YUKIは頭が痛くなってきた。
 よくわからない日本語。なんなんだ、これは・・・
「SARAぁ。あんた、まさかこれを仕事の依頼って言ってるんじゃないでしょうね!」
「ああ・・まあ・・・依頼って言えば依頼みたいなぁ・・」
「馬鹿! バカバカバカ! わたしは探偵じゃないから、誰かを捜したりはしないの! それに、ギャランティの話なんてこれっぽっちも出てないじゃない。お金にならない仕事なんて、するわけないでしょ!」

 そうか。SARAすら本当のわたしの仕事の中身は知らないんだ、とYUKIは思った。
 実際SARAに窃盗を手伝ってもらったこともあった。だけどあれは個人的に欲しかったボンテージのコスチュームが欲しかったときだ・・・
 わたしが仕事で盗むのは宝石。それもお金を洗うために利用された、被害届の出しようもないような宝石だ。外国人マフィアが無法な盗みをしている昨今、大店やデパートなんかターゲットにしていられない。だけど、ここには依頼する組織があり、売り捌く組織もあるのだ。彼らのことまではSARAは知らない。 
 もっとも彼女には、そんなことなんか知ってほしくもないのだが。


「でもね、ねーさん。わたしならカリンの家、見つけられるって言ったらどうする?」
 そう言ってSARAは不敵に笑った。
「どうして、これだけでわかるのよ」
「ほら、このBBSで話題になってるこの投稿写真の雑誌、ためしに買ってみてカリントウの写真を見てみたわけ。ほら、カリントウって、カリンじゃないかって話でしょ。で、この写真、見ただけでビンゴ!」
「どういうこと?」
「後ろに映っているビル。この背景にこのビルなら、目黒通りと山手通り、つまり環状6号の交差点の近くのはずだわ」
「そんな・・いくらあんたが天才的でも、こんな平凡なビルはどこにでもあるはずよ」
「大鳥神社の交差点。あそこはいつも渋滞してるの知ってるでしょ?」
 そういえば交通情報で大鳥神社の名前は聞いたことがある。大鳥神社付近、2キロの渋滞とか・・・そういう感じだ。
「癖みたいなもんよね。渋滞で退屈したら、わたしはいろんな家や建物を見ているの。ああ、ここどんな構造になってるかな、とか、このあたりの建ぺい率はどれくらいかな、とか。どんどん車が進んでいるときはそこまでないけど、渋滞してる都内ならだいたいわかるもんなのよ」

 おそるべし、SARA。本業のスタッフにしていないのが惜しいくらいだ。
 こんな背景ひとつで場所が割れるなんて。おそらくカリンだって想像だにしていないだろう。
「でも。わたしはこのK.F.Cの手助けをしようなんて思っていない。名前を売る気もないし、第一見返りも何もないわ。それに、カリン=カリントウはあくまで仮説で、まだ決まったわけじゃないんでしょ?」
「仮説をまずたてて、それを証明していく、数学の基本だわ。ねえ。ねーさんの名前は出さないから。わたし、カリンのこと調べてみてもいい?」
「いいけど・・・どうして?」
「わたしと変わらないくらいのナイスバディ、それにこのコスチュームの趣味。正体をぜったいに明かさないなんて。おもしろいじゃない? なにかをやるのに目的なんていらない。ただ、知りたいだけ、それでいいじゃない!」

 それがSARAの豊かさなのだとYUKIは思う。
 時間が有り余っているという意味ではない。意味もなく知りたいこと、やってみたいことが彼女の中にはやまほどあるのだ。
 そのまっすぐな好奇心に、いつもわくわくさせられるのをYUKIは否定できない。その好奇心がいつも新たな世界を連れてくることも、YUKIはすでに知っている。
「やってみたら? SARA。探偵ごっこね。キャッツの鼻を明かしてやりなさい。だけど、わたしは関係ないわ。あんたがひとりでやること。もちろん、興味はあるからいろいろ報告してほしいけど。あくまでわたしの名前は出さない。それでいいんだったら、応援するわ」
「やったー、さすが、ねーさん」

 それじゃ、さっそく・・・そう言ってSARAは羽ばたく鳥のように玄関を飛び出していった。

* * *

 YUKIは、SARAが置いていった雑誌をめくってみた。同じ部屋から撮ったらしい連作のモノクロの写真。どちらかというと、投稿写真にしては地味な方だと思う。
 だけども、カリントウとカリンが同じ語感だとしても、誰がそういう仮説を立てたのだろうか?
 あるいはチャット中にカリンが告白したのかもしれない。

 わたしは関係ない、と言ったくせに、写真を見て知りたい気持ちが募り、さっそくYUKIはパソコンを起動した。


 出会い系のサイトを探すのは簡単だった。一度検索をかければ、いろんなサイトが山のように並んでいる。そこをクリックして、またクリックして。目がまわりそうだった。ライブで画像を掲載している女性もいれば、商業的な有料サイトもある。画像にも釘付けになった。だが、そんなところにカリンの写真はもちろん、ない。
 写真を出したいのならばパソコンにすればいいのに、どうして雑誌を選んだのだろう。
 あるいは、カリンの画像という名目で出したくなかったのかもしれない。コピーや貼り付けで流通するのを嫌ったのかもしれない。

 会員登録のいらないチャット、メールアドレスの必要のないチャットを選び、入室してみた。
 男性ばかりが待ち状態になっている。
 女性としてチャットをしてみたい気持ちもあったが、いやらしい会話なんて自信がない。そこがSARAと違うところだ。怪盗という職業柄、特定の男性との性交渉というものも最近はご無沙汰だ。自分が溺れてしまうのがこわいのか。信頼できる数少ない友人も、最近は女性ばかりだ。

 男性名で入室してみる。なにかメッセージを書かなければならない。なんと書いたらいいのか?  そもそも、誰かがやってきたらどうすればいいのか?  などと考えあぐね、結局「チャット、はじめてです」という正直きわまりないメッセージを入れてしまった。
 ストップウォッチのように時間が流れる。待ち時間はあと2453秒・・・それがどれくらいの時間なのか瞬時に計算できない。緊張して冷や汗が出てきた。
 もっと気の利いたメッセージがやまほどある。言葉嬲りしてほしい人、とか、甘い気持ちにさせて・・とか。そんなアピール満点のメッセージの中で、自分は埋もれ、無視され、そのうちにタイムアウトになってしまうのかもしれない。
 それならばそれでいい、むしろその方がほっとするような気がした。

「こんにちは」
 そこにいきなりメッセージがあらわれた。な、なんと答えたらいいのだろう。そもそもキーボードを打つのもおぼつかないのに、こういう時、なんと答えればいいのだろう・・・
「こんにちは、はじめまして、タカシです」
「タカシさん、はじめまして。チャット初体験って、ほんとう?」
「ほんとうです」
「嬉しい・・・はじめての方のお相手ができるなんて!」
 相手の文字がなめらかに流れ出てくる。まるでマシンそのものを相手にしているみたいだ。
「ひまなの・・・少しおしゃべりしてもいい?」
「歓迎です」
「あ、自己紹介します、わたし、カリンって言います」
 運がいいのか!
 それともダミーなのか?
 もし本物だとしたら、これほどの幸運があるだろうか! 汗がでてキーボードを打つ手がべとべとになりそうだった。時計を見た。お昼の12時15分。
 カリンは仕事をしていない女性か? 会社で昼休みにこんなことするのは危険すぎる。いずれにしろ、この時間帯もいつかはキーワードになるのかもしれない。
 YUKIは気持ちを集中した。とりあえず、はじめてチャットに足を踏み入れた男になりきらなければならない。

「カリンさん、はじめまして」
 カリンを知っていることも探していたことも、とりあえずは言わない方がいいだろう、とにかく何も知らない初心者になりきろう、ほんとに初心者なのだし・・・
「タカシさんは学生?」
「いえ。フリーター。夕方から仕事です」
「なんの仕事?」
 応答が早い。こっちのスピードとは断然違う、それだけで気後れしそうだ。
「キーボード、打つの遅くてすいません」
「いえいえ、全然そんなことない」
「コンビニの夜勤です」
「じゃあ、夜が大変なんだ。ねえ。恋人とかいる?」
「今、いません」
「じゃあ、エッチなこととかしたくならない?」
 なんと答えたらいいんだろう、逡巡の末に答えようとしたら、カリンが続けて打ってきた。
「フェラとか、好き?」
 いや、正直言ってそれほど好きじゃない。と言っても、それは自分がする方がだ。もちろんカリンが言ってるのはそういう意味ではない。
「あまり、してもらったことなくって」
「わたし、フェラしてるのを見られるのが好きなんです。じっと上から見られるのが・・・ねえ、いま、どんな格好?」
「パソコンの前の椅子に座ってます」
「じゃ、その椅子の前にわたし、しゃがみこんでみる。ズボンを脱がせちゃおうかな? いい?」
「はい」
「ついでにパンツも脱がせちゃった。タカシさんのが目の前にある・・大きくなって、すごく上向いてる。すてき。くわえてもいい?」
 なんてことだ。本当に自分が男で、目の前の女の子が上目遣いに言っているような気分になってきた。
「わたし、髪、長いから邪魔? わたしの髪をかきあげて。ちゃんとくわえてるのを見て」
「見てます。すごい。気持ちいい」
「ゆっくり舌を這わせてるよ。上の方に向かって。くすぐったい? もっといっぱいしてほしい?」
「もっと。奥まで」
「いっぱい動いているよ。なんどもなんども口、動かしている。見ててくれてる? わたしの口の中に、タカシさんのがめいっぱい入ってる。喉も奥まで入っていきそう・・」
「気持ちいい」
 淡々とした気持ちで書いたわけではない。少し甘ったるい文章の中に、カリンのエロティックな部分が溢れていた。これを拒否するなんて、おそらく不可能ではないだろうか。
 それからカリンは、襟ぐりの大きなTシャツを脱がせて胸を触ってほしいと懇願してきた。お願いではない、懇願だ。そんなに大きくはないけれど、触ってください。痛いくらいに掴んでください。そうされると、頭の中がぐるぐるになるくらいに気持ちいいんです。
 たとえば手慣れた男ならば、ここで少しばかりじらしたりするんだろうか? だがすでにYUKIにはそんな余裕さえも残っていなかった。言われるままに反応するしかない。もう自分はすでにカリンが仕組んだジェットコースターの中に乗せられているのだ。
「もう・・・ダメ・・・すごく濡れてます。下着がびちょびちょ・・・ねえ。脱いでもいいですか? 脱がせてくれますか」
「自分で脱いで。僕の前に大きく足を開きなさい」
 自分が発した言葉にYUKIは驚いた。いや、この言葉は自分の言葉ではない。
 カリンが言わせたのだ。カリンのリードで、カリンの望む言葉を、自分は知らぬうちに言わせられてしまったのだ。
 YUKIがそう書いたあと、カリンは沈黙した。
 まずかったのか・・・急に語調が変わったことに抵抗があったのか・・・そう思って不安になる。しばらくの沈黙。そうして、しばらくの空白のあとに、カリンは一気にキーボードを滑らせていった。
「いま。脱ぎました。スカートも、下着も、みんな脱ぎました。タカシさんに言われて、足をいっぱいに広げています。見てくださいますか? 自分の指で・・・クリトリスが、見えるように広げています。白くとがっています。ずきんずきんてしています。ああ・・・触ってくださいますか?  お願い・・」
 カリンはほんとうに全部脱いでしまったのだ。この空白の時間が、YUKIをもっと深いところまで突き落とした。こんなふうにキーボードを操りながら、彼女はバーチャルではない本物の自分を見せようとしている・・・

「だめだ。自分で触りなさい。触っているところを、ちゃんと見せなさい」
「・・・はい・・・」
 だんだんとカリンのキーボードの間隔が開いてゆく。
「感じてます。濡れてるとこ」それからまた沈黙。「濡れてるの、見てくれてますか」
「もっと、足を広げて、指を入れて」
「DKGっRHTDN」
 何かを伝えようとして、それでキーボードが乱れたのだろう。もう、止まらない。と、YUKIは思った。
「指を、2本入れて、ぐちゃぐちゃに中をかきまわしてあげよう。ほら」
「ああ・・・・タカシさんの・・・・」
「カリンはいやらしいな。ほんとにすごく濡れている。指を中で折り曲げたよ。気持ちいいところにあたる? ほら、内側のひだがざらざらしてる・・ここ、感じる?」
「ああ・・あ  あ・  」
「ちゃんと言葉でいいなさい。そんなんじゃわからない」
「すごく いい イキそう     です」
「まだダメだ。僕のをしっかりくわえて、奥までくわえて、口でイカせなさい」
「んんN  」
 たとえばリアルな世界では、わたしたちは今いったいどんな格好をしてるんだろう・・・などと考えるのが自分のダメなところだとYUKIは思った。
 カリンの中には整合性もストーリーもない。思いつきの欲望があるだけだ。
 あれだけ滑らかにキーボードを操っていたのに、間隔がだんだん長くなっていく。片手で自分を弄びながら、おそらくもう片方の手だけでキーボードを打っているのだろう。
「イキそう・・イキそう。カリン、もっと、激しく動いて」
 YUKIの中で、流れ込むようにストーリーが盛り上がってゆく。
「口の中に  」
「口の中に? 出してほしい?」
「あああああああ わたしも イキ 」
「イキなさい。思いっきりイキなさい」
「HY;L。:ああああああ  イクーーーー」
「ああ・・イク・・・・僕も・・・」

 それから長い空白が訪れた。
 場違いでもなんでもない、必然の空白。
 この時間の中で、起こっていることがすべて、手に取るようにわかる空白だった。

「ありがとう、タカシさん、とっても楽しかった」
 空白の終わりにカリンがそう打ってきた。まるで今すぐにでも落ちそうな書き方だった。
「待って。よかったらメルアド教えて。友達になりたいから」
 友達という言葉はYUKIの本心から出た言葉だった。恋人でもセフレでもない、同性の友達。だけどもカリンにとっては、YUKIは身も知らぬ男性でしかない。
「ここにはよく来るから、また会えるといいね。この場所以外には、わたしはいないから」
 そう言うと同時にカリンは落ちた。
 (この場所以外にはわたしはいない・・・)
 暗示に満ちたメッセージだった。

 シャワーを浴びて下着を替えたい、とYUKIは思う。
 自分が男性なら・・・もしくは、自分で自分の性器を弄ぶ余裕があったなら、きっと自分は激しくイッていたはずだ。無我夢中でそんな余裕さえもなかった。
 だけども、下半身の居心地の悪さを感じないではいられない。おそらく下着までぐっしょりと濡れているはずだ。それを証明する芳香さえ自分が発しているのがわかる。
 なんてことだ。
 ただの文字なのに。それはきちんとしつらえた小説でもなんでもない、ただの文字なのに。
 こんな気分にさせられてしまうなんて・・・


 YUKIはそのまますべてを脱ぎ捨てて、熱いシャワーを浴びた。どうしていいかわからずに、髪まで洗い流してしまった。
 それから自分の柔らかい部分にゆっくりと指を這わせてみる。やはり、というか、予想以上にそこにはまろやかな液体が溢れていた。
 それを熱いシャワーでゆっくりと洗い流す。
 それからYUKIは、ぼんやりと思った。
 おそらくカリンは。同じ場所で「タカシ」という名前を見かけても、けっして声をかけてみたりはしないだろう。
 まだ一度も話したこともない男を見つけて、同じようなことをするに違いない。特定の男性に馴れてゆくのがイヤなのではない。顔も嗜好性も知らない男性にだけにしか、彼女は自分を出せないのだ。
 YUKIの保守的な思考が導いた結論ではあったが、熱いシャワーでだんだんと自分がクリアになってゆくうちに、それは確信へと変わっていった。

* * *

 最近の峻はキャッツ探偵事務所に入り浸りだ。
 と言ってもクリーニング屋の仕事をさぼるわけにはいかないので、だいたい夕方から夜にかけてだ。妻のすみ子には、コンピューターの情報が必要なので捜査の手伝いに行っていると伝えてある。ふーん、がんばって、お役に立ってね、とすみ子は言う。
 女性ばかりの職場はいいお得意様なので、とやかく言われることはない。だけど。一体どんなことしてるかなんてとても言えないよな、と、峻は思う。毎日毎日、2ショットチャットをやってるなんて、ほんと、妻が知ったら何て言うか・・・

 峻とスギは、夕方から夜にかけて毎日コンピューターに張りついている。スタッフの雅子がコーヒーを煎れてくれることもあるし、ミケコが画面をのぞき込んで、ふーん、なんて言うこともあるのだが、二人はけっしてチャットをしようとはしない。
 潔癖性の雅子にしろ、マシンに疎いミケ子にしろ、こういう仕事には不向きなのだ。

「ああ。もう、疲れましたよー、毎日毎日」峻が言う。
「ほんと、男の立場って、意外と弱いんだね。てゆうか、こっちが話題を振っても、気に入らないとすぐにオチられるし、けっこう高飛車にされるし。少し話題がでても全然おもしろくもないし。わたし、ナンパする男の人って、すごい忍耐力あるなーって思うわ」
「おねだりにも、もううんざりですよー」

 待ち合わせ掲示板というヤツも利用してみた。
 ここには「カリンさん、待ってます」というメッセージも少なからず並んでいる。同様のメッセージを残してみたが、それにも何の反応もない。
 第一、カリンが出没しているチャットは複数なのだ。膨大な数のチャット板に、膨大な無名の男女がひしめきあっている。こんなところで、本当に見つかるのだろうか。

「もう、この依頼、断ろうっか」
「そうですねー。もう1週間もやってるのにダメなんて・・・僕、正直言ってキャッツの皆さんを見て、自分も探偵やってみたいなあなんて思ってたんですが。自分には無理、と、今回はっきりわかりました」
「まあまあ、二人とも。糸口っていうのはいつも偶然から見つかるものなのよ、もうちょっとがんばってみて」
 横からミケコ所長がそう口を挟む。ミケコには、この作業がどれだけ消耗するかわからないんだ。プライドだってズタズタだし・・・最近はカリンじゃないとわかると、すぐにこっちからオチるという技も覚えたが、それだって、後味の悪さは拭えない。

 やってみないとわからないよなあ、それにしてもずいぶん疲れたなあ・・・と心の中で毒づいていると、ドアをノックする音が聞こえた。
 雅子がドアを開けると、そこには依頼者の男が立っていた。

* * *

 白いステンカラーのコートを手に持った、スーツ姿の男だった。
「あら、野田さん」
 と、スギが声をかけた。
「・・・ご迷惑を、おかけして、すみません」
「いえいえ、ご迷惑だなんて、ちゃんとした依頼ですもの、ただいま鋭意努力中ですよ」
 野田と呼ばれた男は、品のいいダークスーツにレモン色のレジメンタルタイをつけている。きちんとしたサラリーマンといった風体だが、心なしか疲れているようにも見えた。

「ちょうどよかった、野田さん。カリンのこと、もっと詳しく教えていただきたいんです。何よりも情報が少なくって。まだこちらから報告できる状態でもないもんで。あ、こちらの男性が今回の専任スタッフの峻です」
 いつのまに専任スタッフかよ、心の中で毒づきながら峻はにこやかに挨拶した。
「はじめまして、野田さん。さっそくですが、カリンが食いついてくるようなキーワードってありますか?」
「いえ・・・もう、いいんです・・・」
「え、もういいって?」
 椅子に座ると野田はふうっとため息をついた。
「K.F.C.つまりカリンのファンクラブのHPに、依頼したことが漏れています。キャッツに依頼した人物がいるらしい、という書き込みでした」
「そんな、依頼内容が漏れるなんて・・・」
 キャッツ探偵事務所のスタッフから漏れることはまずない。盗聴器が仕掛けてあるのか? と、スギは身を固くした。
「最初、僕もこちらから漏れたんだと思いました。でも、よくよく考えてみると、おそらく僕サイドからです。キャッツの連絡先を友人に尋ねた。しかも彼は僕がカリンのファンであることを知っていた」
「その人も、カリンのファンだった?」
「そうですね、友人と思っていたから、すごくショックでした。もし彼が発信元だとすれば、依頼者が僕だとわかるのも時間の問題です。その前に依頼を取り下げたい・・・」

 その話を聞きながら、峻ががっかりしてゆくのがわかった。なんのかんの言っても、峻はこの捜査を楽しんでいたのだ。

「僕はいつもそうなんです」野田は下を向いてそう言った。「どこまで人を信じていいかわからない、うまく友達とやっていけない。人との距離の取り方がわからない」
 野田はお茶を一口飲んでから、ふうっとため息をついた。
「これまで、とりたてて苦労したことなかったんです。勉強にしろ試験にしろ。おまけに家で本やマンガ読んだりするのが好きで、ひとりでいて幸せなタイプだった。だから、友達がいないから不自由とか孤独とか思ったこともなかったし。苛められることもなく、なんなくやってきた人間なんです。
 それが異常なことだと知ったのは就職してからです。上司や同僚と飲んだり、取引先を接待した時、僕は何がおもしろいことで、何でみんなが笑っているのかわからなくなるんです。それで、おまえ、ズレてるな、なんて言われる。無理に合わせようとしても、滑ってしまう。
 それでも最近は、同僚とメールのやりとりもするようになったし、チャットも教えてもらいました。だけど、何がおもしろいのかわからないままでした。
 おもしろいと思ったのはカリンと話した瞬間だけです。ちょっとした世間話でも、まるで、ふたりで将棋を指しているかのようにぴしっと決まる。そんな感触ははじめてでした。エッチな会話に導いてくれるカリンも好きだけど、けっしてそれだけじゃないんです。彼女は僕と似ている。現実の世界でうまくやれなかったり、ズレていたりして、それに自分で気づいていて少し困惑している。そうして、それに気づかれないように、エッチなことを言ったりする。僕はそんなカリンに惹かれていたんです。
 でも。もう、いいです。僕はカリンにとって特別な人間でもなんでもない。なにしろ彼女は、一度チャットした人間のところには二度とやってこない。僕はそれに気づいてから、何度も名前を変えました。だから、彼女にとっては、僕はただひとりの人間ではないんです。
 とにかく、ご迷惑をおかけしました。これ以上やって、それでカリンにも迷惑をかけるのも忍びない。今までの費用はお払いします。が、ここで、調査は中止してください」

 依頼人がそう言うなら中止するしかないのだろう、もともと糸口すら見つかってないのだし、とスギもミケ子も思った。残念だけど仕方ない、依頼人が中止するというのなら、そうするしかないのだ。
 だが峻だけはそう思っていなかった。

「ほんとにそれでいいんですか!」峻は顔を真っ赤にして言った。「ただのエロな女の子に会ってみたいというんなら僕は引き下がります。だけども、野田さんはそうじゃない。カリンの魂を求めているんじゃないですか? 今の話を聞いて、カリンも野田さんに出会うべきだって僕は思いました。魂が惹かれあうのは誰も邪魔できない。いや、出会うべきなんです。文字だけの会話でそれを感じられるなんて、そんな人にはめったに出会えるもんじゃない」
「・・・わたしもそう思う」スギが言った。「いろんな人とチャットして、人間は無名になるとこんなに本性が出るものかと思ったよ。ほんとイヤな本性ばかり・・・それなのに通じあえるなんて、すごいことよ。もちろん、会ったらその通りの人だったって保証はできないけれど。でも、野田さんはカリンに会うべきだと思う」

 野田は、無言のまま頷いた。受け入れられたことへ安堵のように見えた。
「ファンクラブの書き込みは無視しましょう。ちょっとしたイタズラ心で、名前を公開するようなことはないと思います。それよりか、カリンのことをもっと知りたい、出会った時間帯とか、わかりますか?」
 そう言って峻は、いつのまにか野田と二人で話しこんでいる。
 野田は安心したようだった。顔に血色もいくらか戻ってきたようだった。きっちりしたスーツを着こなした一流企業のサラリーマン、なのに自分の正直な感情にさえ自信の持てない男。
 そんな人間は、案外この世には山ほどいるのかもしれない。

* * *

 野田が帰ったあとミケ子も雅子も帰り、峻とスギだけがマシンに向かった。
「野田さん、いい人ですね」
 峻がそう言った。あんたもいい人だよ、とスギは心の中で呟く。
 まったく、男ってどうしてこうも純情なんだろう。もっと女性たちの方がかけひきに長けているに違いない。それに振り回されて、あるいはまっすぐに信じて・・・

「あ、そっか」スギはふっと思いついた。「はじめての相手しかチャットしないって言ってたよね、じゃあ、カリンさん、待ってます、なんてメッセージ入れてもダメなんだ。あと、名前だってどんどん変えていった方が確率高いんだ」
「そういうことですね」
 しばらく考えてから、スギは、実名sugi で入室してみた。この名前は一度も使ったことがない。
「はじめてです、言葉嬲りで・・」
 つかの間の刺激だけが欲しいのならば、刺激的な場所を好むだろう。だけどもチャットに手慣れた男はイヤなのかもしれない。相反するふたつのキーワードにかかってくれれば、という気持ちを込めたメッセージだった。

 今日は入室待ちの男性でほぼ満室状態だ。
 時間は週末の午後11時。野田のリストによると、カリンとのチャットを経験した時間帯である。
 もっともカリンは、昼夜関わらず出没しているらしいから、この時間だけがキーワードになることはない。
 だけど、今週末もカリンは家にいる。そして入室待ちの画面をじっと眺めている。野田の話を聞いたあと、なんだかそんな確信めいたものをスギは感じていた。
 
「言葉嬲り、したいの? それとも、されたいの?」
 突然そんなメッセージが飛び込んできた。
「はじめまして。カリンと言います」

 ついに来た! スギのキーボードを打つ手が震えた。

「峻ちゃん・・・」
 相手に聞こえるはずもないのに、スギは声を潜めて言った。
「あ・・・ついに、きましたね」
「どうしたらいいだろう・・・」
「とにかく、打ってください。お得意の女王様でいきましょう」
「あ・・・うん」

 男性に扮することばかり考えていた。そうだ、わたしは元SMの女王。自分の土俵に持ち込めばいいんだ。そう思いなおすと、驚くほどなめらかにキーボードがすべり出していった。

「はじめに言っておくけど、わたしは女よ。レズってわけじゃないけど、あなたのカラダには興味があるわ。どう? わたしに言葉嬲りされたい?」
 少し間が空いた。落ちたのか? それとも・・
「お願いします。誰かにそういうふうにされてみたかった。お願い、わたしを嬲ってください。男の人はこわい。女の人に・・・そうされたら嬉しい・・・」
「言葉遣いに気をつけなさい。ここでは、あなたはわたしの奴隷よ」
「承知しました、女王様」

 役割を楽しんでいるのか? いや、それだけじゃない。彼女のメッセージには、本当のカリンが見え隠れしてしていた。
 命令口調でカリンの下着をはぎ取った。そうしてその秘部を鏡に映すように強要した。ひとつひとつのメッセージは、間を置いて現れてくる。恥ずかしそうに、そして従順に。
 それは、キーボードのお遊びでもなんでもなく、カリンが本気でそうしていることの証に違いない。

「ちゃんと大きく脚を開いている? 自分の中がどんなふうに見えているのか、わたしに教えなさい」
「ぱっくりと、赤い肉襞が・・・なかまで・・いやらしいです。白い液体が、いっぱい・・いっぱい出てます・・・」
「いやらしい・・・これだけで濡れてしまうなんて、はしたないわ。指ですくい取って、その指を舐めなさい」
「ああ・・・そんな・・・」
「命令よ。わたしの命令が聞けないのなら、プレイはおしまいよ」
「   いま  舐めました。 自分のを舐めたのははじめてです。ああ・・・こんな、いやらしいわたしを、ちゃんと見ていただけてますか?」
「ちゃんと、見てるわ。はしたないカリンを。バイブを持ってきなさい。バイブくらい持ってるでしょう?」
「持ってます。でも・・・」
「持ってきて、入れてみせなさい」
 またしばらく間があいた。カリンはバイブを持ってきたのだと言った。
「でも、女王様。バイブは痛いし、苦手です。それよりか・・わたしのクリトリスを・・・」
「何度言わせるの? 言うとおりにできない子は嫌いよ。直径何センチのバイブ?」
「3.5センチです。突起があって、クリトリスを刺激できるようになっています」
「入るところまで、それを入れなさい。一番奥まで」

 またしばらく間が空いた。この間が、とてつもなく想像力を駆り立てるのだ。
 峻も隣で、ディスプレイを凝視している。
「ああ・・いっぱいに入って・・・苦しい・・苦しいくらい・・・」
「ちゃんと、奥まで入れた?」
「   入り ました。ああ・・ああ・・もう・・・」
「ダメ。スィッチを入れなさい、一番強くして、スィッチを入れて。浅くしちゃダメ。一番奥を、自分でかきまわしなさい」
「   ああ・・・  きつい・・・ 苦しい・・・ああ。ああ、あ・・・あ・・」

 不思議な感触をスギは味わっていた。
 だが、それと同時に、矛盾を感じないではいられない。
 直径3.5センチならば、別に大きすぎるというわけでもない、初心者が手を出すくらいの標準的なサイズだ。これが苦しいとは、いったいどういう訳だ?

「イキそうです。スギ様。イッてもよろしいでしょうか?」
「まだ、ダメよ。もういっかい、鏡に映った姿を見せなさい」
「黒い  くろいバイブが  まわりに 透明の液が  いっぱい・・・ ああ・・  ああ」
「まだ ダメ そのままよ。我慢しなさい」
「ああ・・・ 勘弁してください。女王さま・・」
「堪えきれないのね・・・」
 無音。
「イキたいの?」
「・・・イカせてください・・」
「イキなさい。恥ずかしい声をいっぱいにあげて。外まで聞こえるくらいの声をあげて。歩いてる人に聞こえるくらいの声で。イキなさい」
 またも無音。

「ああああ。イカせていただきました。ほんとに大きな声で。恥ずかしい声を出してしまいました」
「チャットしながらイケるなんて。あなた、はしたないわ。でも、わたしの奴隷には、ふさわしい」
「光栄です。そう言っていただけて。また。ここで会っていただけますか?」
「それは、あなたの心がけしだいよ。いいこと。明日は一日下着を脱いで過ごしなさい。それができたら、またね」
「仕事中も、ですか?」
「もちろんよ。ノーパンでストッキングをはきなさい。ガーターベルトで止めて。あなたの濡れやすい、いやらしい部分は、吹きさらしで過ごすの。それができたら、また、明日ね」
「承知しました。さっそく朝、ガーターベルトつきのストッキングを買ってまいります。スギ様、ほんとうにありがとうございました」

 そうして、長いチャットからカリンは落ちた。
「すごいですね、スギさん」
 峻は、汗ばんだ気色でそれを見ていた。
 スギは呆然としていた。
 たかが、チャット。しょせん、文字のお遊びだと思っていたのに。
 それを・・カリンは・・・

* * *

「で、どんな子だったの?」
 昨夜のことをミケ子所長に報告すると、さっそくそう聞かれた。
 どんな子だったのだろう?  ひとことでは言えない。たぶん、いろんな人に向けていろんな人格を見せてるだろうし、とにかくひとことでは言えないと思う。
「でも・・・やっぱりどっか魅力的ね。妖艶ってのじゃなくって。そう、野田さんが言ってたような感じがよくわかるっていうか・・・そう、人間臭さが見え隠れしてるって感じ」
「そっか・・・また、会えると思う?」
「いちおう、仕掛けはしてるけど、ちょっと自信ないな」
 スギはそう答えた。

 また会いたいなんて言葉は、約束にはならない。それは、別れ際の(see you again)のようなものだ。
 それを本気にしてるかどうかなんてわからない。わからないけれど、スギはその日の夜も同じ時間にアクセスしてみた。

 カリンは待ちかまえていたかのようにすぐに入室してきた。
 今日一日下着をつけなかったことを、嬉々として報告してくる。信頼してくれたということなのか? スギにはまだ信じられない。ひとりの相手とは一度だけ、と野田は言っていたのに。
 もしかしたら、わたしが女性だから特別なのか?

「ご褒美をあげるわ。わたしを存分に舐めつくしなさい」
 その言葉にカリンは素直に応じてきた。舌を堅くして中の中まで押し込んで、そして愛液を嬉しそうに絡み取り、突起したクリトリスをいとおしげな言葉で褒めながらゆっくりと舐めあげてゆく。
 そうして、よつんばいになってスギの前に跪きながら、自分の手によって自分を刺激して、感極まって彼女はイッてしまう。
「スギ様だけです。わたしがこんなふうに、自分を預けられるのは・・・」
 同性愛者なのか? だが、そんなふうにも見えない。
 では、自分に対する安心はいったいどこから来るのか?

 今日は峻は来なかった。だから昨夜よりかはチャットに集中できた。
 それでもスギは自分を触りながら、キーボードを打つことはできない。だが、カリンは本気でそれをやってのける。
 スギは自分が後ろめたくなり、その後ろめたさを隠すかのように、カリンにまたも命令を下してしまった。
 ローターを手に入れること。軽い刺激を与え続けるバタフライ型の下着のような器具を手に入れること。
「それがどういうものなのか、ネットで確認してみるといいわ。でも、通販で買ってはダメ。あなたは自分の足でそういう店に出向いて、そうして自分ひとりでそれを買うの」
「わかりました、スギ様。わたしのただひとつのバイブは通販のサイトで購入しました。そういう店にはまだ入ったこともありません。女性ひとりで行っても大丈夫なのでしょうか」
「平気よ、あなたは羞恥しながらそこに入って、それを購入するの、近くにそういうお店はある?」
「職場の隣の駅の歓楽街に看板を見つけたことはあります。明日、そこに入ってみます」
「梱包をはずして、明日、同じ時間にわたしを待ちなさい。それまで自分で試してはダメ。わたしに調教されながら、あなたはそれを使うの」
「ああ、スギ様、明日が楽しみです」
 カリンはそれから、おやすみなさい、と言ってオチた。

* * *

 以来カリンはほぼ毎日スギのところに入室してくる。
 いつも決まった時間だ、待っているに違いない。彼女の警戒心が日ごとに薄れ、スギを信頼しているのがわかった。
 それは女性だから? 
 あるいは彼女は、知らない男性ばかりを相手することに疲れていたのかもしれない。あるいは何か強烈な力に身を預けたかっただけなのかもしれない。
 ではなぜ、それは女性の自分だったのだろうか? そういう男性に出会えなかったということなのだろうか?

 昨日は、ローターを入れて外出させてみた。
 近くに自販機はある? と尋ねると、家の前にあると言うんで、無理矢理に缶コーヒーを買いにいかせた。落ちないように下着だけはつけさせてくださいと言うので許してあげると、時間をかけて装着したようだった。
 このまま待っておくからと言って時間を計ると、苦しくてとても長かったと言うわりには5分もかからなかった。マンションならば1階か2階、あるいは一軒家なのかもしれない。
 ブラをはずした胸を押しつけて窓に立つように言ってみたこともあった。自転車に乗った男の子がこっちを見たようで恥ずかしいと言った。やはり住まいは高層ビルではないらしい。
 だけども、そんな些細な情報ではとても歯がたたない。
 実際に会って、もっといやらしいことをしてみせなさいと言うと、それだけはできません、と許しを請う。
 彼女は会うことをまったく考慮に入れていない、それだけは確かだった。

 必ず入室するだけでも進歩ではある。だけどもそれだけでは調査はできない。
 野田は昼間にも一度カリンとチャットしたと言っていた。
 ためしに昼間に入室してみた。
 カリンはすぐに入ってきた。
「スギ様。こんな時間にお会いできるなんて・・」
 カリンは喜びを隠さずにそう言った。
 自分が昼間いないあいだでもずっと彼女は繋ぎ続けている。そんな時間は別の男性を相手にしているのかもしれない。あるいは、自分と別れたあとの時間にも・・・
 一日中、繋ぎっぱなしにしているチャットジャンキーなのか? 自分はその相手のひとりにすぎないのか?
 そんなことを考えているあいだに、カリンのキーボードが素早く走った。

「申し訳ありません、スギ様。会社の者が誰か戻ってきたようです。すぐに画面を戻さないといけません。せっかくお会いできたのに残念です。今日の夜、もう一度、このカリンをかわいがってください」
 そう言ってカリンはそのまま落ちた。

 仕事をしている女性、昼間ひとりでオフィスにいる女性。
 経理担当、あるいは電話番といったところか? 外出する営業社員がいるのだとしても、それほど大きな事務所ではないのではないか。
 そんな会社は都内にはやまほどある。
 やまほどある中で、けっして顔を見せないカリン。
 スギは、投稿写真のカリントウをもう一度凝視してみた。
 なで肩のラインがはかなげだ。胸はDカップはあるだろう、くびれたウエストから流れる桃のようなヒップライン。
 写真だから正確なサイズはわからないが、このラインの女性を街頭で見たら案外わかるような気がした。以前の仕事のせいか一度見た女性のラインは忘れない、実像で見たらサイズだってきちんとわかる。


 だけど、街頭でカリンを見かけることなんてあるのだろうか?
 そもそも彼女が都内に住んでいるという保証すらないのに。
 カリンがカリントウであるということすら確実な情報ではないのに。

* * *

 怪盗YUKIはいつも仕事しているわけではない。
 だから時間の使い方は自由だ。
 YUKIは、その大部分の時間を自分ひとりのために使う。えー、退屈しないの? と、SARAは不思議に思うらしい。だが、もう何年もそういう生活を続けている。
 依頼人から連絡のあることもあるし、もちろん買い物や食事にも行くので外出しないわけでもない。
 だが、ここ最近、外に出る機会が余計に減ってしまった。
 チャットに入り込んでしまったのだ。いや、正確に言うとチャットそのものに入り込んだわけではない。いろんなサイトが巧妙に繋がっている世界そのものに興味を覚えたのだ。
 たとえば女性がひとりでやっているブログのエロサイトを見る。とても素人の作品とは思えない動画に夢中になりバナーをクリックすると、そこは商用サイトの羅列だったりする。
 迷惑メールも必ずクリックするようになった。そこからもいくつものバナーが並んでいる世界が広がってゆく。メールの伝言情報もひとつひとつ読んでみた。みんな同じように見える。身長や体重、写真の顔さえも自分には同じに見えた。チャットのメッセージにしてもそうだ。年齢を除けば、みんな同じに見えるのに。他の人はどのようにして、この中から相手を選ぶのだろうか?

 今日、久しぶりにSARAがやってきた。
 羅列するバナーを前にぼんやりしているYUKIをみて、へえー、ねえさん、こんなことやってんだー、と言って笑った。
「でも、SARA。あんただって、昔はチャットはまってたって言ってたでしょ? こういうことやってたんじゃないの?」
「あのね、ねーさん、チャットって2ショットだけじゃないのよ。みんなで集まるとことか、メッセンジャーとかあってね、なんていうか違う感じのとこだったの。わたしはね、女王様だったなあ・・・50人くらいわたしを待っててね。ああ、あの頃は楽しかったなあ」
「今は、そういうことやってないんだ」
「そうね・・・なんでもそうだけど、おもしろいときとおもしろくないときがあるもんなのよ。時代に合わせてね。チャットと言えば、エロ、出会いってわけでもなかったし。もっと言葉の遊びとかもあってね。
 だからわたしにしてみれば、今どき2ショットなんてやってるカリンの方が不思議なのよ」
「たしかに。こんなメッセージの羅列を見て、どれを選んでいいかすらわたしにはわからない」
「最初っから、重たい話題とか趣味のこととか書かないもんなのよ、メールだってそう。相手がどんな人かわからないウチはね。だって、変な人にメアドとか住まいとかアブナイじゃない? だから、親しくなってから、そういうことをおいおいするもんなのよ」
「そっか。すぐに親しくなれるわけじゃないんだ、けっこう時間がかかるのね」
「ねーさん、人間同士がそんなに出会ってすぐピーンとくるわけないじゃない。なんいしろ相手は匿名なんだから、ストーカーにだってアラシにだってなれるもんなのよ」

 YUKIは最初のチャットでカリンと遭遇したことを話した。
 それから何度かアクセスしたことも。だけども、カリンとは2度と会えなかった。他の女性とも何度かチャットしたけれど、それほど心に残らなかった。何らかの期待もそこにあるのはわかっているのだが、顔なのか、金なのか、さみしさを癒す言葉なのかすらもわからなかった。
 そもそも、さみしいって言葉で彼女たちが訴えていることが具体的に理解できなかったのだ。夫がいてもさみしい、友達がいても心が開けない。
 少なくとも、他の人は自分よりも毎日たくさんの人と接して生活しているようには見えた。だけども、多くの人間と接していてもさみしさはなくならないものなのだろう。
 逆に、ほとんど人と喋らずに生活している自分の方が、よほどさみしくなかった。自分は、ここにひとりでいることをさみしいとは思わない。しんとしていて整頓された世界に、ただ居心地く座っているだけなのだから。

「ふーん、とにかく、カリンだけはねーさんにとっても魅力的だったわけね」
「そう思う、そうね。あっというまにリードされて、カリンワールドに引きずり込まれてしまったって感じだった」

「そうそう、今日はわたしの調査報告を持ってきたわ」
 と言って、SARAは大きな封筒をバーキンらしき黄色いバッグから取り出した。

「ほら、このアパート」
 そう言ってSARAは、A4に大きくプリントアウトした写真を見せてくれる。
 木造の2階だてのアパートだ。一枚は外観、そうしてもう一枚は、玄関が映し出されていた。共同の玄関に長い廊下、その両脇の一部屋一部屋が住まいとなっているらしい。手前に見えるのは、共同トイレのようだ。
「SARA,このアパートってもしかして・・」
「そう。カリンの住まい。マンションもいくつも回ったわ。でも、あの角度で外観が見えるのはここしかないの」
「東京にもまだ、こんなとこがあるんだ・・・」
「地方出身の学生やお年寄りとか、東京は賃貸料が高い分、安アパートの需要も多いのよ。でも、正直信じられなかった、カリンとどうしても繋がらなくって」
「わたしも・・・」
 ネットでは別人格とはいえ、あまりにもギャップがありすぎる。
「地方出身で、女性の給料でひとり暮らし。仕事にもよるし、お金をかける割合にもよるけど。ルームシェアでもしないかぎり、こういうアパートにいる可能性ももちろんあるはずよ」
 そういうものなのだろう。YUKI自身若い頃、食費を削り衣服を我慢した時代がたしかにあった。
ドラマに出てくる女の子たちとはかけ離れすぎていた、あの頃の生活。

「アパートの住人も調べてみたのよ。1階は中年の男女ひとりずつに、年金生活している大家さん。でも1階の可能性はないと思う。2階のひとりは若い大学院生の男。それと20代の女の子と、30代の独身女性」
「みんな可能性があるわね」
「わたしもそう思った。とくに一番怪しいと思ったのは大学院生の男性。すごいオタクって感じだったの。女性二人はパソコンを自宅に持っているようにさえ見えなかったから」
「それで、男性を尾行した」
「ビンゴ!」
「秋葉原のイベントによく行ってた。そこでハンドルネームで友人に呼ばれていてね、検索かけたらブログを見つけたの。売れる前のアイドル歌手を探すのが趣味で、仲間ウチではかなり信頼されている存在みたい。でもね、毎回すごい詳しいイベントレポートを書くし、仲間のコメントにも素早くレスするの。一晩かけてこのレポ書きました、なんてね。パソコンには親しいけど、住む世界が違うと思う。彼は女性に化ける必要もないし、なによりも大人の女というものが視界に入っていないような気がした」

「じゃあ、残りの二人?」
「わたしにはわからない。とにかくその二人の写真を見て」
 そう言ってSARAは、望遠で撮ったらしき二人の女性の写真を見せた。
「202号も203号からも見える風景は同じ、同じように電柱とかの障害物もない。だからどっちにも可能性があるわけ。こっちがね202号室の20代の女の子。短大の英文科に通っている」
 SARAはそう言って写真を指さした。
 襟元にファーがついたコートを着て髪は巻き髪。いまどきらしい女子大生だ。
「身なりにお金をかけるタイプね。でもそんなにリッチじゃないことはアパートから見ても一目瞭然。食事はコンビニ弁当が多いし、夜は週に2回スナックでバイトしてる。あまり・・・高級な感じのお店じゃないけど。でも身持ちは堅い方。部屋に入ってくるような男はいないわ」
「友達関係はどうなのかな?」
「お嬢さん大学なのよ。まわりに派手な子がいっぱいいるような。その中で、地味にまとまってる方のグループだと思った。帰りにドトールで友達とレポートまとめてるのを見てたの。勉強はできて頼りにされてるみたい。でも部屋には呼んでくれないのね、って言われてた。すごく散らかってるからって笑ってごまかしてたけど、あのアパートを見せたくないんだと思った。もちろん夜のバイトのことなんて完璧に内緒」
 派手な生活と、その裏返しのコンプレックス。それをどこで発散させるのかは誰も知らない。

「203はこの女性よ」
 こっちはまったく正反対の外見だった。グレイのスーツに銀縁のめがね、髪はひとつにまとめている。ほとんど化粧っ気のない顔だ。たとえば同じグレイでも濃いめのチャコールグレイなどの趣味のいいものならばもっと印象が違うだろう。薄いグレイにペンシルストライプ。まるで漫画に出てくるような地味な身なりだ。
「彼女はつつましいわ。ほとんど7時前には家に帰るけど、買い物はスーパーで済ませる。自炊なのね」
 ひとり暮らしが長いと、自分ひとり分くらい作るのは苦にもなくなるのだろう。YUKI自身、あまり外出が好きではないので、自然と簡単な食事くらいは作るようになっていた。
「趣味は貯金と読書、だと思う」
「ちょっと待って。読書は尾行すればわかるけど。貯金が趣味なんてどうしてわかるの?」
「給料日の昼休み、銀行でお金を引き出していた。それを待合いの椅子で仕分けて、別の通帳に入れるの。同じ通帳だと、定期にしてても使ってしまうから、わざわざ別の通帳にしてるような感じだった」
「そういうオーラだったんだ」
「あ、そうそう、ねーさん、うまいこと言うねえ」
 長く怪盗という仕事に関わっていると、お金にルーズな人間と厳しい人間みたいなものがわかるようになる。それは行動とか言動でもあるけれど、やはりその人間の持つオーラだ。お金に細かい人間のオーラ、みたいなものはたしかにある。

「どっちも、可能性なさそうな生活。でも、ネットって、リアルな印象と違うことなんてよくあるから。二人のウチのどちらでも驚かないと思う」
 それにしてもよく調べたものだ。ただの道楽でここまでやるなんて。いや、ただの道楽だからやれる、それがSARAなのだ。

「ねーさん、どっちだと思う。二人でいっしょに指さそうか?」
 と、SARAが言った。どっちだろう。自分とチャットした、あの色気たっぷりの女性は・・・

「せーの!」
 というSARAのかけ声でふたりで写真を指さした。
 SARAは20代の巻き髪を。YUKIは30代のグレイのスーツを指さしていた。

「ほんとにそう思うの?」
 地味すぎるスーツ姿の女性と積極的なチャットの声が重なったわけではない。むしろ、あまりにも正反対なことに惹かれたのだ。
「あのね、ねーさん」SARAは続けた。「わたし、エロって美意識なんだと思うの。だって、自分の裸体とか自分のいやらしいとことか、そういうもんを好きになって認めるところが出発点じゃん。だから、あの投稿写真になるわけよ。美意識がない人間にはあの写真は撮れない、そうしたら女子大生の方だとわたしは思うの。でも、ねーさんの推理にも興味があるわ。わたしは想像だにしなかったけど。ねーさんの意見も聞かせてみて」

 YUKIは困ってしまった。そもそも自分が調査したわけではないのだし、直感でしかないのだから。それを言葉で言うのはむつかしい。
 だけどSARAは、わたしの意見を聞きたがっている。うーん、わたしはどうしてグレイの方だと思ったのだろう。
「・・・正反対だから、かな」
 そう言葉にしてはじめて、ああ、そうなのだ、とYUKIは思った。
「まったく、意図したみたいに正反対だからよ。女子大生のコートと写真のコスチュームは、同じようだけど微妙に趣味が違う。だけどもグレイのスーツはまるで正反対。たしかに美意識のある人間が選ぶような代物じゃない。スーツの素材とか、スカート丈ひとつひとつ取ってもそう思うわ。わたしもSARAみたいにおしゃれじゃないけど、あのスーツはとても選ばない。
 でも。カリンが、意識的に自分の美意識と正反対のものを選んでいるとしたら? 職場でそういう趣味を見せる必要もなくて、むしろ隠すために正反対のものを選ぶとしたら? 似ていて微妙に違ってるよりか、まったく逆だとね、なんかそういう意図を感じるわけよ」

「なるほどね、さすが怪盗」SARAはそう言ってにやりと笑った。「でも、ねーさんの意見を信じたわけじゃない、わたしがこの足で調査したんだからね。とにかくあのアパートに行ってみようよ。女子大生は今日はバイトだから、明日にしようか。ふたりとも7時すぎには帰ってくると思う。車止められるから、わたしの車でパソコン見ながら」
「カリンとチャットで遭遇する可能性はほとんどないと思うよ」
「初もの食いなんだって、カリンは。ファンクラブのページで調べたのよ。チャット初体験、という書き込みに弱いんだって。ま、確率は低いだろうけど」

 確率の低い仕事なんて自分ならやらない。YUKIは心でそう思い、いや、仕事じゃないんだからと思い直した。
 カリンという女性が、近くにいる。あの淫靡なチャットの主が、実在している。
 彼女に会ってみたいという衝動を抑える理由なんてどこにもなかった。

 明日の夕刻の6時すぎに、楽しみね、と言いながらSARAは部屋を出ていった。

* * *

 スギは苛立っていた。
 オフィスで煙草を吸いながら、パソコンの画面を見つめている。
「まだ、カリン、みつからないの?」とミケコ所長が言う。「まあ、ヒントは意外なところにあるもんだから、あせることなんてないけどね」

 あせっているわけではない。現に自分は毎夜カリンとチャットしている。どんないやらしいことにも応じる素直で従順な奴隷。半分カリンは自分の手中にあるようなものだ。
 だけど、残り半分がどうしても手に入らない。彼女はどんなに命令しても勘弁してくださいというばかりで、所在すら明かそうとしないのだ。
 わたしのこの手をあなたのいやらしいところに差し込んで、ぐちゃぐちゃにしてほしくないの? わたしの指を味わいたくないと言うの? と言うと、そうしてくださるのなら、そうしてほしい、でも、ダメなんです、勘弁してくださいと言うばかりだ。
 絶対に会いたくないのだろう、だんだん心を許してきているのはわかるのに、それとこれとは別だとでも言うのか?
 あるいは、許しているように見せるだけで、それでも心を許してくれてないのか?

「まあ、コーヒーでも飲んで落ち着いてね。それとスギ、煙草の吸いすぎは猫ちゃんが可愛そうだわ」
 と雅子がコーヒーをくれた。
 ふっと顔をあげて見ると、猫たちは部屋のすみっこに非難している。煙がこわいのか、火がいやなのか。ああ、やっぱりわたし煮詰まってるんだと思い、スギは煙草を消して窓辺に立った。

 天気のいい春の午後だった。ビルの林立するこの街の、いくつもの窓の中にいくつものオフィスが入居している。
 20メートルほど先のオフィスビルがちょうど真正面に見えた。そのひとつひとつのフロアで静かに人々が働いている。
 彼等もわたしのように煮詰まったりするんだろうか?
 だが、声の届かない余所のオフィスは、どこも静かで粛々と作業が行われているようにしか思えなかった。
 4階のフロアに、女性がひとりでいるのが見えた。机の上のパソコンのキーボードを操作している。おそらく他の社員は外回りにでも出かけているのだろう。
 事務服を着た女性は、さぼっていてもよさそうなものなのに、淡々とキーボードに向かっている。顔をあげようともしない。窓際の席で、仕事をしている女性。背筋をピンとたてた凛とした女子事務員。
 そのなで肩気味のラインを見たとき、スギにはなにか、ひっかかるものを感じた。

 なで肩・・・
 そういえば、カリントウの投稿写真もなで肩だった。サイズまではわからないが、肩からウエストまでのラインがとても似ている気がする。
 スギはSMクラブで働いていたときから、カラダのサイズを覚えるのが得意だった。
 荒縄をかけたりすると相手のカラダの特徴がよくわかる。肌の弾力性、胸の上向き加減、そして肩やヒップのライン。荒縄にかかるとカラダの特徴が、あぶり出しのように鮮明に浮かび上がってゆく。それがおもしろくて一時期、亀甲縛りに夢中になったものだ。

 偶然なんて信じない。こんな偶然なんて・・
 でも、ヒントは意外なところにあるものなのよ、とミケコは言う。
 わずかな可能性でもあれば、たしかめない手はない・・・スギはパソコンのチャットルームに入室した。

 ほどなくカリンが現れた。
「スギ様・・・」
「仕事中じゃないの?」
「いえ、今大丈夫です。嬉しい・・・こんな時間に会ってくださるなんて」
「いやらしいこと、考えてたの?」
「昨日のスギ様のことを考えてました。バイブなんて苦手だったわたしが、あんなにバイブで感じるなんて・・・わたし、奥のつきあたりの方があんなに気持ちよくなったのは初めてで、そればかりを・・・」
「下着に手を入れてみなさい」
「はい・・・   すごく濡れてます   」
 あいかわらず、本気で触っているようだ。窓ごしの女子事務員の動きをを確かめてみようと思うが、下半身の動きまで、遠い窓の向こうからはわからない。
「カリンは乳首が感じるのだったわね」
「・・・先の方が、ピンとたってしまいます。ああ・・・今も」
「今日はどんなブラを?」
「赤いフロントホックです」
「・・・じゃあ、すぐにそのブラをはずしなさい」
「  勘弁してください・・でも、ブラウスだけなら・・・」
「いいわ、ブラウスだけで、ボタンを全部はずしなさい」
「・・・はい・・・  」
「外した?」
「はずしました。ブラがはだけて見えます。ああ・・・でも。誰か、来たら・・・・ 恥ずかしい・・・」
「恥ずかしいことが好きなんでしょ? カリンは。自分に正直になりなさい。あなたは恥ずかしいことをしたくてたまらないのよ」
「ああ・・そうです。わたしは恥ずかしいことが大好きな女です・・・スギ様に、それを教えていただきました」
「じゃあ、ちゃんと言うことを聞くのよ。いいこと? その、ブラウスをはだけたまんまで窓のところに立ちなさい。赤いブラジャーをしてるあなたを、外の人たちに見せてやりなさい」
「え・・・でも」
「カリンは聞き分けが悪いわ。ほんとはやりたいことがいっぱいあるのに、あなたはそれを拒絶する。それじゃあ、調教のしようがないわ。自分を押さえることしか考えられないのなら、もう調教はおしまいよ」
 いつになくきつい口調になったものだと、スギは苦笑した。
 だけどチャンスはこれ一回。それに、今のカリンなら、こんな命令ですぐにオチたりはしないはずだ。
「わかりました。知らない男たちに、この胸をさらします。今から、窓のところまで行きます、ちょっと待っててくださいますか?」
「いいわ」

 スギはパソコンから離れ、窓際に立った。
 向こうのビルの4階のフロアを見てみる。
 女子事務員が席を立った。そうして窓の方に歩いてくる。まだまだだ。ただの偶然かもしれない。
 もっと近づいてくる。
 スギはじっと窓に目を凝らす。
 女子事務員は、白いブラウスの間から真っ赤なブラジャーをあらわにしていた。
 
 ビンゴだ!

 恥ずかしげに、カリンはそのままの格好で胸をガラス窓に押しつけ、自分の乳首を感じさせるかのように、カラダを上下させていた。
 本気としか思えない、とてつもなく淫らなカリンが、今、自分の目の前にいる。銀縁の眼鏡をかけた、ひっつめ髪のカリン。そのアンバランスが淫靡さを加速させていた。
 じっと窓ごしにカリンを見つめる、目が合ったような気がした。
 それからカリンは目を伏せ、そのまま自分のデスクに戻った。

「してきました。・・・スギ様・・・カリンは、すごく感じました。恥ずかしくて恥ずかしくて。とても感じました」
「誰か、そんなあなたを見てくれたの?」
「向かいのビルの女性と目が合ったような気がしました。知らない女性に見られてしまいました」
「合格よ、カリン。あなたは素敵な女性だわ。今夜、あなたにご褒美をあげるわ、待ってなさい」

 そうしてスギとカリンはチャットからオチた。
 緊張していたのだろう、スギが自分の手を触ると、汗が滲んでいた。

* * *

 夕方5時すぎ、スギはオフィスビルの前で待ち伏せした。
 5時30分前にカリンは現れた。さきほどの白いブラウスは会社の制服だったのだろう。今カリンが来ているのはグレイのニットのアンサンブルに紺色のタイトスカートだ。
 声をかけるのがためらわれた。というより、声をかけられない雰囲気がカリンにはあった。
 無地のグレイと紺の組み合わせはあまりにも地味すぎて、さきほどよりも10才は老けて見える。
 この女性が、服の下に真っ赤なブラジャーをつけて、身をよじらせて胸をガラス窓にこすりつけていたなんて誰が信じるだろう?
 下着をつけずガーターベルトだけで仕事時間を過ごさせたこともあった。だけどそんなこと、いったい誰が信じるだろう?

 かなりの近視なのだろう、銀縁の眼鏡は分厚く、ひっつめ髪の表情はあまりにも固かった。
 カリンは今、あのチャットとは別の世界に生きている。
 何の了解も取らず、いきなり声をかけても彼女は否定するに違いない。
 いや、きっと否定するはずだ。あるいは今、目の前を歩いている女性は、カリンとは違う人間かもしれない。たしかにカラダつきは間違いないのに。サイズが同じ別の女性を自分は選んでしまったのか?

 声をかけることもできず、結局はその女性を尾行するカタチになってしまった。
 電車で駅ふたつ分移動して、彼女は駅構内のスーパーに立ち寄った。買ったものは、フカネギと木綿豆腐だけ。500円玉を出して、お釣りを丁寧に小銭入れにしまい込んだ。小銭入れにはきちんと折りたたんだレシートも一緒に入れていた。

 自分が突然現れて、万一本当にカリンだったとしても、傷つけることしかできないかもしれない。
 なにしろ調査のことなどカリンは何も知らないのだ。
 そうだ。もともとは野田の依頼でカリンを探し出すのが自分の仕事。カリンの所在を明らかにさせたいがために、いろいろの手を使って手なずけてしまっただけだ。なのにカリンはそんなこと知らずに自分を信頼してくれている。
 そうしてまた自分も・・・予想外にカリンと心情をともにしていたのかもしれない。

 女性はスーパーの袋をさげたまま、木造のアパートに入っていった。
 ここか・・・この、どこかの部屋で彼女はカリンに変わるのだろうか。繋ぎっぱなしのパソコンがあることすら想像できないほどの和風建築物。
 逡巡しながらその建物をじっと眺める。

 そのとき、背後から聞き覚えのある声が聞こえた。

* * *

「スギ! あんた、どうしてこんなところにいるのよ?」
 驚いて振り返ると、グレイのワーゲンゴルフからYUKIが身を乗り出していた。そして、運転席にいるのは、ああ、そうだ、SARAだ。たしかYUKIの仲間だった。
「あんたたちこそ、どうして?」
「カリンを尾行してここに来たのね。じゃあ、やっぱり、さっきの女がカリン?」
「YUKI。ここがカリンの住まいなの?」
「そう、SARAの調査によるとね。でも、もうひとりカリン候補がいて。どっちがカリンかわからなかったの」

 スギは今日の一日の出来事を話した。会社からカリンを尾行してきたこと。だけど、それでも確信が持てないでここまで尾行してきたこと。

「間違いないわね。わたしたちはこの家からカリンを割り出したの。そうしてスギは会社から。ふたつの共通項を持っている彼女がカリンに違いないわ」
 SARAが断言する。言われるまでもなく、それはわかっている。だけどもスギは、このあとどんな行動をすればいいのか、わからなくなってしまっていた。

 躊躇するスギを不審に思うYUKIに尋ねられ、スギはつい、とまどいを口にしてしまう。
「何言ってるの? 仕事なんでしょ、そういうふうに言えばいいのよ」
「彼女は・・・日常をカリンとして生きてない。それにこれがわたしの仕事だってことも知らない。そんなとこに無理矢理踏みこんでいいのかなって・・・自信がなくなってしまうのよ。そもそも、どんなに会おうって言ったって、彼女はけっして会おうとしなかったのに・・・」
 SARAはしばらく目をつむって考えこんでいた。そうして、決意したようにこう言った。
「ぐずぐず考えずに会えばいいのよ。そりゃ最初はイヤかもしれない。マシンの中の人と会わないって決めてるんだったら余計イヤだと思う。でもね、ほんとに心が通ったのなら、会いたいって気持ちをどこかで持っているもんなのよ。理由がわかってがっかりされたっていいじゃない。
 わたし。ずっとチャットしててさ、オフで会ったりすると印象が全然違ったりする人もいっぱいいたんだよね。でも、わたし。それでも会ってよかったっていつも思うんだ。もう不思議で不思議で、言葉しかしらない人が実在するのが不思議で、会うとほんとに嬉しいもんなの。何よりもスギさん、仕事なんでしょ。余計な心配するより、まずは会って話すのが先よ」

 その言葉に押され、スギとYUKIとSARAはカリンの部屋のドアをノックした。

* * *

 それから長いやりとりがあった。
 
 ドアを開けさせる時間、中に入れてもらう時間、そうしてすべてを説明するための時間。
 ひとつひとつの課程で、カリンの頑なさが何度も壁になった。
 彼女は否定し、拒否し、そして黙りこむ。
 だけども、そのまま引き下がるわけにもいかない。スギは、根気よく説明し、やっと今、野田という依頼者に会ってくれないだろうか、というところまで話をこぎつけたところだ。

 「スギさんのことはよくわかりました」カリンは言った。「そして、YUKIさんやSARAさんのことも。みなさんに出会ってよかったって今は思ってます。だって、カリンには、友達と呼べる人なんてネットの上でもひとりもいなかったんだもの。スギさんにいろんなこと教えていただいて嬉しかった。これを縁にみなさんとのおつきあいができればいいなって、今は思っています」
 化粧を落としたカリンの素顔はものすごく地味だった。ジャージーに銀縁めがねといういでたちに違和感はぬぐえない。だけども丁寧で響きのいい言葉遣いから想像するに、かなりしっかりした女性なのだと思えた。
「でも、その依頼をしてくださった野田さんという方にはどうしてもお会いすることはできません」
 きっぱりした口調。あらかじめ決まっていたことを告げているように冷淡な口調だ。
「どうして? 会ってみればいいじゃない。イヤなら会って断ればいいんだし」
 SARAが口を挟む。
「いいえ。わたしが断るまでもなく、その方はわたしを見て失望されると思います。見てください、この地味なわたしを。一重まぶたの小さな目で、コンタクトをする勇気もないくらいです。鼻だってぶかっこうに上を向いていて、こんなわたしがカリンだと知ったら、その方はがっかりされるだけ。調査費まで払って、そんな失望をさせるなんてとてもできない。スギさんから断ってください」
 たしかに地味な顔立ちではあると思う。だが、透き通るような色白の肌をしている。手入れを怠っているようには見えない。自分がメイクアップしてあげることだってできる、何よりもカリンの言葉はすごく魅力的なんだから、とスギが言うと、カリンは頑なにかぶりを振った。

「ダメです。絶対ダメ。それに、わたし・・・男の人が恐いんです」

 男性がこわい? 男を手玉に取っているようにしか見えないカリンが?

「わたし、ほとんど処女みたいなものなんです。男性との性体験はこれまで一度しかありません。最悪のセックスでした。だから、わたし、一生男の人と性交渉なんてしようとは思っていません」
 意外としかいいようがなかった。手練手管のカリンからこんな告白をされるなんて。
 たしかにネット上で自分以外の自分になれる人は多いかもしれない。だけど。実際にはセックスしたくないって思っていたなんて・・・
 カリンは告白を続けた。
「相手は、大学のコンパのあとに部屋まで送ってくれた先輩でした。その人に少なからず好意を抱いていたのも事実です。だけど、酔っぱらっていたせいか・・・とても乱暴で・・・わたしが痛がっても止めてくれませんでした。
 でも・・・何よりもショックだったのは・・・イヤがるなよ、ブスのくせに、ってそのときに言われたことでした。そりゃ、自分の容姿のことくらい自分でもわかっています。でも、普段は親切に接してくれてましたから、だんだん顔のことなんてそんなに気にしなくていいのかも、って思っていた矢先でした。
 次の日には、サークルもやめました。もう顔を見る勇気もなかったんです。それからは勉学にいそしみ、いろんな資格を取りました。だんだん女友達も離れていきました。でも、それはわたしのせいです。きれいなだけの女性がイヤで、だんだん距離を置くようになったのですから」
 カリンは下を向いたまま、淡々を話を続けた。
「最初は会社の資料を調べたりするためのパソコンでした。
 でも迷惑メールがきっかけで、いやらしいサイトを覗くようになったんです。人間って、不思議ですね。男性とセックスする気がなくったって性欲みたいなものはちゃんとあるんですから。
 そういうサイトの体験談とか読んで、自分で自分を慰める方法も知りました。オナニーって、男性だけがするもんだと思ってた。でも、そうじゃないんですね。クリトリスの場所を知って、はじめてそこを刺激してみたときはびっくりしました。自分のカラダの中にこんな気持ちいいところがあったなんて・・・ほんと、いままで損してたわって思ったくらいです・・・
 チャットに入ったのは、メールアドレスを書かなくていいところもあるってわかったからです。これなら絶対に正体がバレない。そう思えると、大胆なことだっていっぱい書けたし。ほんと、ただの耳年増だったけど、そんなこと誰も気づかないんです。
 どんどん、こわいくらい大胆になっていきました。ある日、チャットセックスマニアの人に出会って、自分で触ってごらん、とか言われて、それで初めてチャットしながらオナニーしたんです。左手でキーボード打ちながら右手で自分を触って。相手の方もリードがうまかったんでしょうね。どんどんノセられて、いやらしいことをいっぱい言わされて、もう今までオナニーのたびに想像してたフェラチオする場面とかが、滝のように口から流れだしていきました。
 それでも右手でずっと触ってて・・・そうしてはじめて、その人の前でわたし、イッてしまったんです。いま、イキました、すごく感じましたって言ったら、その人すごく喜んでくれました。
 もう、茫然自失っていうか・・・世界が変わったみたいな気がしました。これを性交渉って呼ぶことができるのなら、わたしだって男の人の前でエクスタシーを感じることだってできる。もう、一生男の人とセックスできないわたしじゃないんだって思えました。
 わたし、そういう自分をずっと否定し続けていたから、はじめて自分で自分を肯定できたような気がしたんです」

「でも、男性はこわいし、野田と会う気もないのね」
 スギがそう言った。カリンは下を向いたままだ。
「ああいった場所で出会ったわたしに何を求めてるかは、わかります。わたしはそれに応えられない。会っても失望されるだけです。わたしはもう、そういう傷つき方はしたくないんです」
 とても理にかなっていると思った。でも、そうじゃない、会ってもいいんだ、カリンは会うべきだと思う。けれど、説得する言葉が見つからない・・・

「ねえ・・・野田は、あんたのことをどういうふうに言ったと思う?」
 スギはそう尋ねてみた。カリンは何も言わずに首を振る。
「あんたは自分に似ている。野田はそういうふうに言ったんだよ。
 現実の世界でうまくやれなくって、困惑している。そうして、それに気づかれないように、エッチなことを言ったりしてる。そんなカリンに惹かれるんだって。野田はそう言ったんだ。どうしてだろう? ただ、ふたりでいやらしい言葉を並べていただけなのに、なんで野田はそう思ったんだろう?」

「それがチャットなのよ」SARAが言った。「言葉が並んでいるだけなのに、それ以上のものが伝わるの。文章で言うと行間みたいなものよね。間のあき方とか、ためらった様子とか、オチるときの様子とか。そんな微妙なものが乱暴だったり繊細だったりして、なんとなく、なんとなくなんだけど、いろんなものが伝わるのよ。野田さんて人はカリンに、いろんなものを感じたんだと思うの」
 それからYUKIが言葉を挟んだ。
「そう。わたしもあなたと一度だけチャットしたことがあるよ。すごく魅力的だと思った。いやらしいんだけど、いやらしいだけじゃなく魅力的なんだ。だから、あんたのファンクラブまであるのもうなづけたもの。わたし、もう一度チャットしたくて何度もアクセスしたのよ」
 
「ファンクラブ? わたしのファンクラブがあるんですか?」
 まったく・・・カリンはそういう面では無欲だ。有名になりたいわけでも、誰かを跪かせたいわけでもないのだ。
「ファンクラブのみんなは、あんたとチャットしたがっていろんな情報を交換しあっている、ただエッチなだけの女にそこまですると思う? あんたが作り出したあんたの世界はとても魅力的なんだよ」
「でも、それと、現実のわたしは違います」
 ああ、なんという頑固者・・・

「あ?、もう、じれったい! カリン、さっさとその人に会っちゃいなさい!」
 SARAが言った。
「会って嫌いだったら、その後会わなきゃいいの。イメージと違うって去っていかれたら、そんな男なんだって思えばそれでおしまい。何の問題もないのよ。あなたは、その人のイメージを崩さないために生きてるわけじゃないし。イメージが崩れたって、どうってことないわ。
 そもそもね、チャットで話している人と会うときって、大なり小なりイメージと違うもんなの。
 だってそうでしょ? 一度も会ったことないけど、言葉を交わした分だけ、みんなそれなりのイメージを作ってるんだから。でも、想像と現実はぜったい違う。だから、会ってうまく通じないことももちろんあるけど、それはそれだけのことなの。
 でもね、話してるうちに、ああ、やっぱりこの人だぁ? って思えてくるの、気持ちの通じる人だったら特にね。そうすると、現実のその人の像ってやつがね、会っているあいだにどんどん再構築されていくの。その感動っていったら、もう、何にも代え難い、すごいもんなのよ。
 引っ込み思案になってちゃダメ。傷つくとこばっか想像してもダメ。せっかくチャットの世界のおもしろさを知ったあなただもの、その先に何があるか知るべきだわ。
 スギ、今すぐ野田って男に電話しなさい。こわいんだったら、私たちが居てあげる。ジャージーはやめて服着替えて、今すぐ、その人に会うのよ」

 さすがはチャットの女王だ。言うことが的を得ている。
 今日、会うかどうかは別にして、とにかく電話してみようとスギが言うと、ようやくカリンは小さく頷いた。

 すぐにでも会いたいと野田は興奮した口調で懇願した。
 ケイタイ電話を手で押さえて、ここに来てもらっていい? とスギが尋ねる。みなさんが居てくださるんなら・・・とカリンは小声で答えた。
 止まっていた空気が、ものすごい早さで動き出した。

「タクシー飛ばしてくるから30分だって。SARA、あんた、カリンの服選んで、お化粧もしてあげて。ケバケバしくしなくていいわ。肌の白さが目立つくらいの清楚な感じで。大丈夫、カリン、心配することないわ。SARAのセンスだったら間違いない」
「お化粧なんて。ファンデーションと口紅以外、持ってないです」
 まかせて、とSARAは自分のバーキンを開いて、大きなポーチを取り出した。それから慣れた手つきで明るいチークを入れ、マスカラと細いアイラインで目を浮き立たせる。素材がいいんだから、手を抜いちゃダメなのよ、と言いつつ、淡い色の口紅をリップブラシでていねいに塗り上げていった。
 あっという間の早業。その仕上がりの具合を鏡で確かめながら、カリンの唇がうっすらとほころんでいくのがわかった。

「こんなに素敵になれるなんて。ありがとう、SARAさん。わたし、こんなになれるなんて、信じられない・・・」
「これからはずっと、そうするの。カリン、あんたは魅力的なんだから」
「会えて、よかった・・・・スギさんとか、みなさんに。考えてみればネットの人に会うのってスギさんがはじめてなんですね。こういう感じかもしれない。すごいわ。こんなふうにして会えるなんて。こんなすごい出会いがあるなんて・・・わたし、ほんと、すごいなって思います。ほんとは、野田さんと会うのはまだ不安だけど。でも、それもまた、こんなすごいことかもしれない・・・」

 タクシーが玄関に着く気配がした。
 早足で廊下を歩く足音。
 野田は以前のスーツではなく、ブルーのチェックのシャツにジーンズという出で立ちだった。
 テーブルに案内して、カリンを紹介する。
 カリンの頬が紅潮して赤く輝いてくる。
 その輝きを受けて、野田の照れたような微笑みが満面に広がっていった。

 この顔だ。カリンのこんな顔を、ずっとチャットのあいだ思い浮かべていたのだ。
 その通りの顔に出会えた。
 ほんものの、その顔に出会えた。

 きっと今、野田も同じように思っているに違いない。
 そう思いながらスギは、紅潮して見つめ合う野田とカリンの顔を交互に見比べていった。

* * *

 エピローグ

「しかし、怪盗YUKIもよっぽどヒマだったんだね、金にもならないことに、こんなに時間かけてさ」
 スギが、SARAのワーゲンゴルフに乗り込みながらそう言った。
「失礼ね、今回勝手に調査をしたのはSARA。わたしはぜんぜん関係ないのよ」
「何言ってるの、YUKI、あんただってカリンとチャットしたんでしょ」
 YUKI の顔を赤くなった。
「せっかく送ってあげるって、SARAが言うから乗せてあげたのに、スギ。あんた、そこらへんで降ろすわよ!」
「まあまあまあ」
 SARAがそれをなだめる。

 野田をカリンの家に置いたまま、3人はこれから家に帰るところだ。二人の遠慮がちな会話を聞きながら、もう、何の心配もないと思った。
 帰ると言ったら、カリンはまた会いましょう、こんどみんなでゆっくりご飯でも食べましょうと言ってくれた。
 
 長い一日だった、とスギは思う。
 昼間、カリンをオフィスビルで見つけてから、夕刻から深夜まで。
 カリンが変貌してゆくのを見続けた、ほんとうに長い一日だった。
 だけど、YUKI、そしてSARAがいなければ自分だけで説得できた自信はない。宿敵であるのに朋友。それが自分たちの関係なのだと思う。

「怪盗の仕事もご無沙汰みたいね、あんたと対決できなくて寂しいわ」
「失礼ね! いつかまた、あんたをぎゃふんと言わせてやるわ」
「それにしても、SARAはすごいわね。あなた、YUKI なんかにくっついてることないわ。今度から探偵事務所の方に顔出しなさい」
「え? いいの? じゃあ、遠慮なく。わたし、場所読むのうまいし、きっと役に立ちますよー」
「この、恩知らず! あんたが探偵事務所に行くときは、わたしのスパイに行くときだけよ!」

 YUKIがそう言うとSARAがハハハと大声で笑う。
 YUKI はそれを見て、この子の天真爛漫さはいつもわたしを救ってくれると思った。
 孤独に馴れていった分だけ、人のあたたかさを大事に思えるようになったのかもしれない。
 カリンもまた、今まさにそういう気持ちなのかもしれない、と思った。

「明日は請求書書きだね、わたしは。ああ、いくら請求したらいいかしら、野田に。それにしても、あんたたちはいいわね、請求書書く手間がなくって」
「SARA? いますぐ車止めて、スギをほっぽり出しなさい!」
 またしてもSARAが大声で笑う、それから渋滞していない都市高速をスピードを上げて走り出す。

 東の空が薄墨色にほんのりしているような気がした。
 夏が近づいてきた。足の早い朝日は、もう、すぐそこまでやってきているかもしれない

                          「おしまい」
.kogayuki.

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