ビリリの声・
第1話〜第4話
1
僕が「ビリリの声」を聞いたのは、彼女と一緒の時だった。
彼女と言っても、今の僕の妻ではない。結婚はしているが、会社の部下の女の子
とつきあっていて、その子と一緒の時だったんだ。
正直言うと、僕たちはその時かなりの修羅場だった。
僕は自分の家庭を愛しているし、二人の子供の成長も楽しみにしている。でも、
彼女に家庭の事を聞かれるとつい、その場の雰囲気で、あまりおもしろくない場所
だとか、言ってしまったんだろう。
彼女は、僕がいつかは離婚してくれると思っていたらしい。彼女は二十七才、僕
は三十四才。僕は世間的にもまだ十分にやり直せる年だし。名の知れた会社で、そ
れなりの給料を貰っているから。慰謝料を払ったとしても、まあまあの生活はでき
るはずだと。彼女はそこまで考えていたらしい。
もちろん僕には、そんな気持ちなんてさらさらなかった。
一度一緒になった家族と別れるというのは、かなり大変な事なのだ。友人に聞い
たところによると、離婚というのは、相手やまわりの人間を納得させるのにすごい
労力を必要とするとかで。我慢できないくらいの憎しみがあって、それを一気に爆
発させる以外にないという。そんな事僕にできるわけがない。
しかし彼女はそれを望んだ。しかも年が年だから。あなたにその気がないんだっ
たら、私は別の結婚相手を探すんだった。信じて今まで独身でいて、こんな年になっ
てしまった。私の人生を返して。と言う。
これには困った。確かに彼女のひとりよがりではあったけれど、僕がきちんと言っ
ていれば、彼女も早くにあきらめて別の相手を探せたかもしれない。自分でも責任
を感じているから、なまじ親身になってしまう。すると向こうも、ここまで考えて
くれるんだったら、と変な期待を持ってしまう。その繰り返しだった。
彼女は会う時はいつも上機嫌だった。
会えて嬉しいと、目を潤ませて僕を見つめる。僕も結構いろんな店を知っている
方だから、しゃれた場所なんかに連れていって。あの色っぽい目つきにくらくらっ
て来ちゃって、それで結局ホテルに行ってしまう。それでいっつも終わった後に、
どうして抱いたの、ってやられる。もう何度か繰り返しているから、いいかげんわ
かっても良さそうなのに、それでも会ってしまう。男って、つくづく馬鹿な生き物
だ。
そう。あの日は彼女の誕生日だった。
プレゼントに買ったピアスを渡そうと思って、僕はシティホテルを予約した。せ
めてもの誠意だ。彼女はとても喜んでくれ
た。だけど。喜びが大きい分だけ、その反動も大きかったかもしれない。
彼女は、いつになく激しい口調で僕を責めた。私から別れる事なんてとてもでき
ない。どうにかしてよって。
ああ、もう、うんざりだ。僕はこんな所に来るべきじゃなかったんだ。ここは密
室だし、彼女は目にいっぱい涙ためてるし。僕には、この状況を変えられる言葉な
んて、何ひとつなくて。もう、どうしようもなくなっていた。
その時。変な歌声が聞こえてきた。
女の人の声だった。高くて、きれいな。
彼女も聞いたらしくて、あれ、誰か歌ってない? って、泣くのをやめて僕に聞
いた。
別に心に残る、というわけでもない。テレビから流れてくるような、平凡な歌声
だった。
ただ、その歌を聞いていると、ふっと肩の力が抜けたような感じにはなった。
彼女もそうだったようだ。それで、あれ? やだ、私、何をこんなに泣いてたん
だろう、ばっかみたい、って言って、そのまま身支度して帰ってしまった。催眠術
がとけてしまったような感じだった。でも僕も、その後は深く考えもしなかった。
あ、帰るのかって感じだ。なぜかその時はじめて、あの子が私に言いたいのなら、
愚痴を聞いてあげるのもいいかな、くらいの気持ちにはなれたんだけど。
彼女とは、それから何度か会ったけど、一言も不平は言わなくなった。
あなたとはセックスの相性は最高よね、なんて言って色っぽく抱かれてはさっさ
と帰って。
そうこうしているうちに別の男と結婚して、今は、連絡もしなくなってしまった。
何ていうか、煩わしい事がどうでもよくなるんだ、あの声を聞くと。
おそらく彼女もそういう気持ちだったんだろうと思う。
2
大卒女子の就職が難しかった時期に、桜町の一流企業に入社して。私は誇らしい
気持ちでいっぱいでした。
総合職の一期生でした。新しい仕事を切り開いていくのだから、けっして挫折し
まいと思って。だから、先輩の女子社員から苛められても、男性から馬鹿にされて
も、ここまで頑張ってきたんです。
並み大抵の苦労じゃありませんでした。同期で五人入ったけど、残りはみんな辞
めてしまいました。三人は一年以内に、残りの一人は私と一緒に頑張ってきたけど、
去年結婚と同時に退職しました。同じ営業の男性と結婚したんですが、もう働きた
くなかったみたい。旦那が退職を望んだって噂もありますけど。
そうして三十を前にした私は、いつのまにかお局になっていました。
おまけに若い女の子達って、キャリアがなくっても要領だけはいいんですね。私
は一期で、自分がしっかりしなくちゃと思っていたけれど、後輩たちにはそんな気
持ちなんてさらさらないんです。今度飲みに連れてってくださーい、とか、ゴルフ
教えてー、とか言ってはうまく仕事取ってくる。
許せなかったんです。女は売り物にしない。男性に負けないキャリアを積む、が
私のポリシーでしたから。
でも、後輩はどんどん仕事を取ってくる。私はその態度が気にいらなくていちゃ
もんつけるもんだから、だんだん疎んじられる。
わかりますか?
今まで積み重ねてきたものが、色あせてくる気持ちが。
若くないって、そんなに罪なんでしょうか。そろそろいい人がいるんじゃないの、
なんて部長も肩たたきに入ってきて。いるわけないじゃないですか。私は家に帰っ
てもいつも、資料を作ったりデータを集めたりの毎日だったんですから。
ビリリの声を聞いたのは、営業会議のとちゅうでした。
月はじめの、売り上げ目標を確認する会議で、私は営業成績が落ちていて、担当
替えになったんです。担当が変わったら、また一からやり直しで、ますます成績は
落ちます。だからもう一度、前の担当に戻してほしくて、私はいろいろ意見してい
ました。
聞こえたのは、男の人の声でした。
低くて、歌っているようなつぶやいているような。そうそう、お経を唱えている
ような声でした。
こんな会議の最中に不謹慎じゃないですか、と言おうと思ったけれど。みんな何
事もなかったような顔をしている。
どうして? と思ったけれど、それからなぜか、ああ、カラオケが歌いたいなあ、
と思って。そうしたらなぜか、自分が何を言いたいのか、私はぽっかり忘れてしまっ
たんです。
ちょうど頭の中に穴があいたみたいでした。そこの部分だけ、きれいに見えなく
なっていて。あとは、全部クリアなんですけどね。
でもなぜか、あせったり、それを探したりする気にもなれませんでした
あ、忘れちゃった。ま、いいや、って感じですね。
小さい頃から、何かをあきらめるのが嫌いな子供で、これが私の最初の妥協でし
た。気持ちよかったですよ、はじめて妥協したかと思うと、なぜか。
でも、一度妥協してしまえば、いくつ妥協しようとあとは一緒ですね。
結局、担当替えになって、私は今、前よりもずっと少ない扱いの仕事を細々とやっ
ています。
仕事ですか?
それが今は、けっこううまく行ってるんです。
私は取り引き先の間で、カラオケの女王と呼ばれていて、これでもけっこう人気
者なんですよ。
3
「ビリリの声」ってさ、エリートがかかる病気みたいなもんだと思ってたんだ。
だって、あれで肩の力が抜けましたってみんな言うじゃん。
私なんて最初っから力抜けっぱなしだったから、関係ないよって感じだったね。
学校の帰りに毎日、友達と繁華街を歩いていたの。学校帰りに行けるとこなんて
ここくらいなもんだからさ。夕方はいつも学生がいっぱい歩いてんだけど。みんな
の黒い髪がカラスみたいにうじゃうじゃ揺れてて。自分もここでカラスやってるか
と思うと、それがイヤでさ。
そいで高校中退して家出して、友達のアパートに居候したの。
ある日マクドナルドででもバイトしようと思って面接に行ったら、なんと断わら
れてしまったのよ。電話もないアパートだし、未成年だろ、しょうがないんだろう
けど、でも、やっぱショックだったね。
それからは友達と二人で、ずーっとテレクラ電話してた。援助交際ってやつよ。
だってマクドナルドにも断わられて、仕事なくってどうして生きていけるのよ、
やっぱどっかで援助してもらわなくっちゃね。
髪染めても化粧しても、やっぱり未成年ってバレちゃう。だからうざったい説教
だっていっぱいされたよ。でも、お金もらわなきゃいけないから、けっこうしおら
しくしてさ、参考書買うお金、使ってしまったの、とか言っちゃうの。子供はやば
いって断わる人もいたけど、大体うまく行ったね。
食事もおごってもらえたし、ホテルでシャワー浴びれたし、あと何年かは、こう
して生きられると思った。そりゃあ、脂ぎった嫌なやつもいたけど、そういう時は
マグロになっちゃうんだ。目、つぶってりゃ、なんとかなるって。そうしてるとか
えって素人っぽくって、喜ばれたりするんだ。
お金貰えないで逃げられたとか殴られたとか、あと、財布とられたなんていう話
も聞いたけど。私はとられるほどお金持ってなかったし。結局運がよかったんだろ
うね。ひどいめに逢った事って、これでも一度もなかったんだ。
私の場合はさ、やってる最中にね。鐘の音が聞こえたの。キンコンカーンって。
小学校の頃の、チャイムみたいだった。五時です。校庭で遊んでいるお友達は、
おうちに帰りましょうってやつ。
そう、小学校の頃を思い出したね。ちょっと懐かしかったけど、でも、それだけ。
私は何も変わらなかったよ。
だいたいあんなもの、意味なんて、ないんだよ、意味なんて、さ。
私はそれからもずっと、そんな暮らしを続けてた。
でもね、ある日、妊娠しちゃったんだ。でも堕ろすお金もなくって、おなかが大
きくなってもそのままだったら。何度か寝た事のある男が、自分の子供だって言い
張るの。
あんたの子供のわけないじゃん、私、誰とでも、なんだよ、って言ったけど、い
や、心当たりはある、絶対自分の子供だって言うの。
三十くらいの独身でさ、気が弱そうで、いい金づるだったんだけど。絶対って言
うからさ、まあ、あんたがそう思いたいなら思えばいいじゃん、って言ったら、そ
いつ、私と一緒に暮らしてくれるようになったの。
子供も生まれて、今、三ヶ月なの。うん、すっごく可愛いよぉ。
そいつはけっこうちゃんとしたサラリーマンでさ、私は毎日子供と一緒に家でご
ろごろしてる。もうお金にも困らないしさ、やっぱり、ちゃんと家があるっていい
よね。
そうそう。だから、ビリリの声ってさ、もしかしたら、ご利益くらいはあるかも
しんないよ。
4
「ビリリの声」の科学的根拠ですか?
これは大学で私が教えている学問とは、フィールドが異なりますが。私なりの意
見でよろしければお答えしましょう。
そう。あれは、単なる噂話です。
ビリリの話を聞いてから、何かの偶然で耳に入った音を聞くと、ビリリの声に聞
こえてしまう。そういう事だと思いますよ。
一人一人が聞いた声というのは様々です。男性の声、女性の声、音楽、物音、雷
のような音。
どれも、偶然、たまたま耳に入った音なんでしょう。
もともと現代はストレスの多い社会です。だから、何の音でも、たまたま聞こえ
ると「ビリリ」に結びつけたくなるのだと思います。
いつかはこういう声が聞こえてくる、と思っていると、何かの音が「ビリリの声」
としてその人の耳に入る。それでストレスから解放されると思い込んでいるわけで
すから、その思い込みだけでストレスは減少していく。結局それだけの事です。
そういう意味では、罪のないおとぎ話なんですが。
なかば宗教のようにこの噂に熱中している学生たちを見ていると、私も嘆かわし
くなってきます。
もっと大らかな気持ちで受けとめないと、自己を確立していく、大切な年齢の若
者たちが、こんなものにうつつを抜かしているようでは......
そこまで言って、教授は話を止めた。
おや?
どこからか、音楽が聞こえますね。
これはベートーベンの「第九」ですね。
いや、CDではないな、生の演奏だ。いやあ、素晴しい演奏ですね、。まさかう
ちの学生じゃないですよね。
いやあ、でも、本当にすごい。こんなに素晴しい「第九」は初めてです。
何て言うか、とても厳かな。
そう、この世の雑事など、すべて忘れてしまえるような。
心にこびりついた垢がぽろぽろと剥がれ落ちていって、今まで私が喋っていた事
など、宇宙の広大さに比べれば、とてもちっぽけな、取るに足らない物なのだと思
えてくるような。
本当に、私自身がそのまま洗い流されていくような、素晴しい音楽だ!
ねえ、そう思いませんか?
え? あなたには聞こえない?
そんなはずはない! こんなにはっきりと聞こえているのに!
いや。まさか、この、私が?
馬鹿な! そんなはずはない!
(続く)