禅と「自閉症」(自閉症の言語世界)
禅と「自閉症」なんて一見何の関係も無いと思われるかもしれません。
しかし、禅の発想には「自閉」を理解する重大なヒントが隠されているのです。
ただし、ここで取り上げている「主観」と「客観」というテーマそのものが多分に主観的であることを、考慮して読まれることをお勧めします。
1、「自閉症者」の自己意識。
注意欠陥にせよ多動・寡動にせよ自閉にせよ、「自己と外界・自己と他己との関係性の異常」による障害というのは、(定義上)視覚・聴覚・触覚・前庭機能などが感覚器としての機能は正常なのに、それを知覚して脳内で処理する過程のどこかに歪みがあって認知上の障害を引き起こしているものです。
そもそも、生まれたばかりの赤ちゃんには、自己の意識があるだけです。感覚器官を通して外界の情報を知り運動器官を通じて経験を積んでいくにつれて、自己の身体には限りがあることを学びそれらの知覚を統合して、自己の外に厳然として゛ある"外界を知っていくのです。
その辺のところを『般若心経』に使われている言葉で説明してみます。
有名な色即是空・空即是色の少し後に「無 眼・耳・鼻・舌・身・意」「無 色・声・香・味・触・法」という表現で書かれているのが感覚器官とその知覚と意識のことです。ここに「無」とあるのは「ない」ということではありません。すべてのモノは誰の目にも全く同じに見えているわけではないという意味の「無」です。
視覚と同様に聴覚・嗅覚・味覚・身体感覚・意識のそれぞれが各人各様・十人十色で感覚・知覚は常に個人的で絶対・不変・普遍であることはありえないということです。たとえこれらの感覚器などに欠損がなくても「一人一人がそれぞれに固有で特殊な感覚世界の中で、意識を持って存在している」のです。
自閉症者の視覚と聴覚のバランスの悪さや視覚と運動の連合の悪さ、臭覚や味覚の異常は周知のところだと思います。これらは「自閉症」というと困った・変わった行動としてよくエピソードになるところです。
ここで注目すべきは「身=身体感覚」が並列に並んでいるところです。この感覚にも特記すべきものがあります。自閉症者は自分自身の内部的な身体感覚を、視覚的にとらえられた物の像と比較してフィードバックすることができないのです。自分の体がどの辺まで続いていて、自分の体の区切りがどこにあって、自分自身の身体の大きさはどれくらいかがわからない、ただ自分の体内の感覚があるだけです。たとえて言えば、この宇宙にたった一人の巨人がいてその巨人の体内が宇宙そのものだと想像してください。彼は何を見ても自分と比較することはできません、彼の外に何も無いから。自閉症者はちゃんと見えているけれどこれと同じ状態になっているのです。
だから、この空間の中で自分がどこに位置していて、他の物や人との位置関係はどうかなんていう普通ならごく自然に働く三次元的な空間知覚が持てないのです(これが機能しないと視覚はあくまでも二次元知覚に留まる)。自閉症者が自画像を正確に書けないのはこのためです。自分が感じている自分以外の自分など有り得ないのです。また、場所が変わることに不安を感じ、環境の変化に対応できずにパニックになるのもこの為です。
「意識」にしても、主観としての自己以外に客観的な自己を意識することができません。つまり、他人から見られている自己も、自分を見ている他人という意識もないのです。ということは、自分以外に「視点」を切り替えることができないということです。だから、他人の目にどう映っているか想像するなどとんでもない話です。
けれど、見えている他人が言葉や行動を通じて自分に係わってくるのは理解できます。自分の中に同じ様な動機や欲望や感情が無くて「人の心を思いやる」ことはできなくても、他人の反感を買わないように行動するように学習できます。もっとも、反感を買うという心の動きが読めるわけではなく、自分のしたことを人から非難されるのでやめてしまうと言った方が正確かもしれません。そして、「自分が一番ではない・完璧にできない・活躍できない」とわかると手を出さなくなるので、パニックは減っていくのです。
2、「自閉症」の言語世界。
一方、言語の発達の方はどうでしょうか。自己の感覚しかない生まれたばかりの赤ん坊はやがて、自分と同じ形をした一つの物体=人間に気づきます。その動作や発しているコトバをまねて始めて、生まれたてのヒトの赤ん坊は人間の子供になります。始めは自分の発声器官の発達に合わせながら音として模倣します。そして、その音には因果関係のある結果が伴うことに気づきます。例えば、お腹がすいた不快感をただ泣くことで表す以外に、「マンマ」と言えば良いということに。
また、親たちのする顔の表情を見て模倣するうちに、他人の顔の表情の裏に自分の気持ちと同じ感情があることを学んでいくのです。そして、共感し関わり合う存在としての他者との相互交渉(コミュニケーション)の為に「言語」と顔の表情や身振りという「非言語」的手段を獲得するのです。
ところが、外界の情報処理能力になんらかの異常をきたしている自閉症者の場合、
- 外界に全く注意が向かなかったり、
- 指示通りに注意を向けられなかったり、(指差しが理解できない、‥)
- 注意はできるけれど対象が限定されているか、注意の対象が客観的な価値の少ない不適切なものだったり、(固執、図と地の混乱、‥)
- 必要なモノに注意を向けられるけれど、その処理の仕方が一般的でなかったり、
するわけです。その為に、
- 全く意味の伴わない音声としての言語(いわゆるオウム返し)
- 主観的な意味しか持たない思考内語的な言語(独語)
- TPOに応じていない非社会的な言語(不適切な発言)
- 間違った反応を期待して発する反社会的言語(笑いや怒りの表情を期待して発する汚い言葉など)
を獲得してしまうのです。自閉症者は、外界や他者に係わりを持っていないわけではありません。ただ、その様式があまりにも特異なために健常者の理解の範疇を超えているだけなのです。
3、軽症者の苦悩。
上の1・2のような「社会的な認知にもとづく行動」と「言葉」の障害のためにコミュニケーションの手段を欠いたまま、自閉症者は社会に出て行かなければならないのです。
そして更に、アスペルガー症候群のような軽症者は、「まなざしをもって見つめている他者の心」に気がつき、自分という「十字架」を背負う苦しみが始まるのです。しかも、人と適切な相互交流ができない・対人関係の困難を持った「心」で他者の「心」を推測してしまうのです。こういう人にとって、自閉の程度が軽くて「他者の心」に気づいてしまうのは、文字通りの「失楽園」です。
「自分が生活する為にはこの人たちのやっているように行動して、一人前に認められなければならない。」と必要以上に気を使い、「ここではこうすべき、あそこはああいうところ」とマニュアル化して対処していこうとします。こうして、社会人になった振りを懸命に演じる生活が始まります。そして、このひとたちに自分はどう思われているだろう、「きっと悪者になっているに違いない。」「バカにしているに違いない。」「迷惑に違いない。」「笑っているに違いない。」と今度は過剰な自意識に悩むのです。
「他者」の「心」という禁断の木の実を食べてしまったばかりに「自閉状態」という楽園を追放されてしまった軽症者の苦労は、当事者以外には計り知れません。また、アスペルガー症候群自体あまりにも幅が広く、外観でそれと判る者から世間的には上手くやっている人までさまざまです。知的なレベルと障害の程度によって、抱えている問題も異なってきます。その中で、同じような症状を持ち同じような体験をしてきた"共感できる"人を探すのもまた、至難の技といえるでしょう。
しかし、社会に適応している人にまであたかも病人扱いするような診断を下すことに何の意味があるのか、なんて思わないで下さい。そもそも、これを「自閉症」と言うべきか「自閉的人格障害」とすべきなのかという研究者の議論がどのように決着しようとも、当事者にとっては何の意味もないことなのです。それが客観的な基準にかなっていようがいまいが、社会的な困難さを持って生まれた者にとって自分が「自閉症」だったと知ることが、人知れずしてきた苦労が認められたような救われた気持ちにさせてくれる『福音』になる、という事実は決して虚偽ではないのですから。そして、もう自分が無理に普通ぶって普通の人たちの領域で成功しようと強迫的な思いに囚われずに生活できる「喜び」を与えてくれるのですから。
4、禅と「自閉症」
話は、更に軽症の人に限定されてきますが、ここで、突拍子もなく「禅」の話です。
坐禅というのは別名「内観」と呼ばれるように外界からの刺激を一切排除した環境で徹底的に自己の心の在り方を見つめる瞑想法です。よく、精神修養と言われますが、けっして精神を鍛えるわけではありません。社会生活で積もってしまった心の中の余計なゴミを捨てて、赤ん坊のような素直な心に戻すものです。
(注)坐禅と言うと肉体を痛めつける難行苦行というイメージが強いようですが、本当は正反対に肉体を最高に楽な状態にさせて自己を開放しているのです。体を苦しめるものと見られているあの独特な足の組み方と姿勢は、「最も゛気"が良く通り、体と心を健康にする」方法なのです。
普通、坐禅をするというのは、
- 感情や欲望といった「外界に向かって行く心の動き」をストップさせて自分自身に向かわせ、
- 「他人の視線から見た社会的存在としての私」=肩書き・地位・名誉を捨て、
- そして、本来の自己を取り戻して"心"と"命"の洗濯をする 、
ものです。
しかし、始めからそんなことをする必要のない私の場合は、頭の中の誰かさんに思考停止命令を掛けて、お喋りを止めさせる修行をしていたことになります。そもそも、何を見ても自分しか見えず・何を喋っても自分のことしか言わない「自閉」の私にとって、坐禅はまさにお手の物です。始終頭の中でゴチャゴチャと喋りつづける「もう一人の私」の方にいつも注意が向かっているので、私にはピッタリだったのです。
(注)といっても、私は非言語性の自閉(そんなもの有るかどうかは別として、言葉を持つ自閉と解釈して下さい。)なので性に合っているのです。言語を獲得できずに、外界の単純な刺激を楽しんで「汽車の車窓から走って行く景色を眺めているのが好き」だとか、目の前に手のひらをひらひらさせたり、頭を壁にぶつけたりして「自己刺激」を楽しむタイプの自閉症の人には拷問でしょうけれど。
坐禅は、まず静かな環境で、部屋の明かりを暗くして行います。自宅でする時は早朝か深夜です。壁に向かって呼吸に意識を集中せよ! というのです。ところが、まず、足が痛い。考え事をしてしまう。食べ物が浮かんでくる。そして、音が気になる。静かだから普段の数倍も音が大きく聞こえます。しかも、体を動かせない。動くとキョウサクという棒でビシリとやられる。痛くは無いけど自尊心が傷つく。というように「精神集中」など程遠い。
でも、それは、できなくてあたりまえなのです。人の「意識」というのは常に何か対象を必要としているので、外界からの刺激を少なくしてもなお、意識は外に向かおうとします。もうここには、「他者との係わりの中にある、社会的な自分」などいません。坐禅すると同時にそんなものはもう捨ててしまっている。確かに、肩書きや地位や名誉は捨てられるけれど、自分自身の心の動きだけはどうにも止められないものです。
とはいえ、「心の動き」を止める必要などあるのでしょうか。止めたところで何になるのでしょう? いいや、そんなもの止めなくて良いのです。心は動いているものだから動くに任せて、ただそれに囚われなければ良いのです。それはちょうど、鏡のようなものです。何も映していないまっさらの鏡を見ることは誰にも出来ません。鏡が何も映さなくなったら、それはもう鏡ではないのだから。
それと同様に、「純真無垢な本来の自己」なんて何処にもないのです。この世にオギャーと生まれて以来、全く純粋の自分だけのオリジナルなものなどひとつもありはしない。誰かのしていることを真似て、逆に誰かに反発し、何かについて知り、感じ、思い、考えて生きてきたのです。誰にも染められない自分自身なんてものは初めから無かった。だから、人に対して何らかの感情を持ち、関わろうとする「そのまんまの自分」でいればいい。それこそが「本来の自分」だったのです。
すべて人は他人との関係で生きていくものです。他人との関係なしには生まれることさえ出来ないではありませんか。そして、たくさんの人の力を借りて育ってきました。自分自身を追いつづけた≪個≫はやがて破綻します。社会から逃げて逃げて逃げまくってもなお「社会的でないことはできない」のです。
その瞬間、私は初めて、自分が生きるためには「社会的に価値があると認められるような・他者」を模倣しなければならないこと、、「自分の心」の外にある「他者の心」を絶えず気にして、「どう見えているか」という視点を持たなければならないという自明の真理に辿り着いたのです。普通なら赤ん坊の時から会得しているはずの、他者の「心」を気づかって、「人に見られている自分を意識する」という《心》の働きを獲得したわけです。ちょうどサルトルが『存在と無』で自己を突き詰めて行った結果、「自分と同じように"まなざし"をもって見つめている他者」に行きついた様に。
と、ここは前回の話の続きです。私が軽症とはいえ主観的には「自閉」状態にありながら、客観的に「自閉」をみることができる中途半端な境界線の上に居られるのは、この禅の修業のお陰です。だから、自閉の子供たちの心の中に入りこんで行けるし、外からその子供たちを見てますます客観的に「自閉」を捉えることもできるのです。いや、「自閉的」な子供を持ったお陰でしょうか。
しかし結局のところ、「自閉」という群れない人種が提示する諸問題は、
- 人間が、「群れる動物」というのはどういうことなのか?
- 社会と個人とは、どのように折り合いをつけていくものなのか?
- 人と人の係わり合いを持てなくなったら、人は生きていけるのか?
という≪個≫と≪社会≫あるいは≪個≫と≪個≫との葛藤の問題に行きつくのではないでしょうか?
親御さんへの警告
「自閉症者」を餌食にするような【宗教】には、本当にご注意下さい。私は大学で哲学と宗教を学びました。また、思想としての仏教を正当に継承している最高の師匠に就いて修行をしました。だから、再び社会に戻って来れました。しかし、現在の寺院は人々の真の心のよりどころとはなっておらず、現代の社会を生きる者を苦悩から救済する技量も失っています。私と同じ様な傾向を持つ人が、その「人々の弱み」を知り尽くして甘い言葉で誘惑してくる集団のワナに掛かってしまう可能性は無いとは言えません。
ここは小乗仏教の国ではありません。小乗仏教の国は国家を挙げて信心しているので独り悟ることに社会性が認められています。しかし、大乗仏教では真に修行を極めた賢者は、菩薩となって社会に帰り、人々ともに苦悩しつつ社会の中でその行力を活かすものです。そこのところ、しっかりと見極めて下さい。
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